ソウル・ラバー・ソウル   作:木下望太郎

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十一話  ラバー・ソウル

 

 絲子はお堂の隅で材木に腰かけ、何度目かのため息をつきました。

 小梅は少し離れた所に立ち、腰に手を当てて言いました。

「どーなさったんです、練習なさらないんで? ずいぶんとまた元気ないみたいですけれど」

 

 また息をついて、絲子はじっと黙っていました。

「どーしたんですってば、こいさん。何かお悩みで」

 絲子は黙って、うつむいていました。

 

 史乃のふりをして、愛されたつもりになっている自分。そのために市雄をだましている自分。自分の好きな人の気持ちも、おそらくはその人が好きな人のことも、踏みにじっているような自分。それに、他人を演じ切ることもできてはいない自分。

 そんな自分があまりに小さく感じられて。そのことを、口に出して聞いてもらうだけの価値すらも、自分にはない気がして。

 

 まるで、自分の体が縮んでいくような感覚がありました。どんどんどんどん小さくなって、そのまま消えてしまいたいとさえ思いました。

 

 そのとき。不意に柔らかいものが、絲子の鼻をつまんでいました。

「こりゃっ、こいさん!」

 小梅の白い指が鼻をつまんでいました。小梅はその指を前後左右に動かしながら言いました。

「どーしたって聞いてますでしょうに、言って下さらなきゃ分かりませんわ。それに、せっかくわたくしがいるんですもの。泣き言でも何でも言ってみりゃ、言っただけ楽ンなるかもでございましょ」

 小梅は鼻から指を離すと、絲子の頭をぐしゃぐしゃとなでました。

 鼻をさすり、髪を直してから絲子は話出しました。少しずつではありましたけれど、悩んでいること全部を。

 

 口元に手を当ててひとしきりうなった後、小梅は言います。

「なるほどねぇ。でもですね、わたくしは構わねぇと思いますよ。どうあがいたって死んだお人と一緒になんてなれませんもの。お気になさらずお続けなさいまし」

 

 そうだろうか、と絲子は思いましたが。そう言う前に小梅が続けて言いました。

「次道さまが怪しんでるってのは、そうでございますね……うめ姉さんの方で、ごまかせるだけごまかしてみますわ」

 絲子の背中を叩いて言います。

「ま、そういうこって。お気になさいませんよう。今日はもうケーキでも食って帰りましょう、ね」

 

 促されて立ったところで、小梅が手を一つ叩きました。

「そうだ。そういや史乃さんて基督(キリスト)教徒でしたわね」

 遺品には確か、使い古された様子の聖書がありました。

うなずくと、小梅は歯を見せて笑いました。

「確かですね、基督(キリスト)教じゃ懺悔ってのがあるらしいんですわ。神さまの前で罪を告白して許してもらうってのが。で、ですね」

 お堂の奥の、ひび割れた木の仏像を示して続けます。

「だましてるみたいで気がとがめるってんでしたら、それやってみません? 仏さんの御前でぶちまけて、許してもらったってことにするんです」

 仏さまと基督(キリスト)教の神はまったく違うもののような気はしましたが、やってみることにしました。

 

 仏像の前で手を合わせ、目をつむって、今までしてきたことを小さくつぶやきます。

 そしてこうつぶやきました。大好きな人をだましてきました、と。それでも好きなのです、と。愛されたいのです、と。

 息をつき、目を開けると、横で小梅も目を閉じ、手を合わせていました。しばらくそうしていた後、ようやく小梅は目を開けました。

 

「うめさんは何をざんげしよったんですか」

 小梅は口を開け、その後で笑いました。

「こいさんと同じことですわ。なんせ一緒にやってきましたしね」

 口元にだけ笑みを残して言います。

「大事な人たちをだましてごめんなさい、って」

 

 

 

 絲子は、帝都の人波の中を歩いていました。

 小梅と一緒ではありませんでした。いつも前を行っていた、時計の振り子のような足音はそばにありませんでしたが。今日は別の足音が隣にありました。

 

 たっ。とっ。たっ。とっ。という、一歩一歩が間延びしたように長い、優しげな足音。背の高い市雄の歩く音でした。革靴にしては不思議に静かな足音でしたけれども、絲子にははっきりと聞こえるのでした。

 

 かっ、こっ、からっ、こっ、と、絲子の桐下駄の音が、その音に重なって聞こえました。たっ。かっ、こっ。とっ。からっ、こっ。たっ。

 

 混じり合うその音がなんとも心地よくて、なんだか雲の上を歩くような気持ちでした。けれど、すぐに気づきました。史乃として外出するのが初めてなので考えていませんでしたが、その足音は史乃のものではありませんでした。

 かっ、かららっ、こっ、からららっ、と、引きずる音を立てて歩きます。

 

 市雄が振り向きます。

「ついてこられますか、もう少しゆっくり歩きましょうか」

 差し出された手を取りながら、絲子は唇をわずかに尖らせました。

 

 市雄が笑います。

「おや、どうしたんです? 久しぶりの外出だというのに、ご機嫌斜めのご様子」

「知りませんわ」

 そっぽを向いたのは、史乃としてではありませんでした。

 

 絲子は史乃としてここにいて、市雄はそこへ手を差し伸べました。それでも絲子はこう思うのです。市雄が手を差し伸べたのはここにいる絲子ではなく、どこにもいない史乃にだと。腰をくねらせて歩く真似をする子供ではなく、艶めかしく歩く女にだと。それが市雄の望みだと。

 

 そのとき突然に、下駄の鼻緒がちぎれました。前のめりに転びかけた絲子を、市雄の大きな手が支えます。

「大丈夫ですか」

「ええ」

 とは言ったものの、鼻緒は完全に切れてしまっています。どうしたものか考えていますと、市雄がしゃがみ込んで背を向け、両手を絲子の方へ伸ばしてみせました。

「さあ、どうぞ」

 

 胸の内ににじんでくる温かいものを感じて、それから慌ててそっぽを向いて見せました。

「まあ、ずいぶん紳士らしいなさりようですこと。えぇえぇ、こんな子供に間借りしておりますもの、それでいっとう丁重な扱いでしょうよ」

 市雄は笑います。

「全くそのとおりでしょうね。大丈夫ですよ、恥ずかしがることはありません。今のあなたをおぶっていても、仲のよい兄妹にしか見えませんよ」

 

 兄妹にしか見えない。その言葉に頭の半分から熱が抜けていくのを感じましたが。頭のもう半分は変わらず熱を帯びていました。なぜだか顔はますます熱くなっていました。

 

 史乃なら、史乃ならどう言うか慌て考えます。顔をそむけたまま早口に言いました。

「それじゃあ、せいぜいお腰を痛めないようお気をつけあそばせ。あたくしよりずいぶん年上ですものね。ね……お兄、さま」

 

 口に出すと、なんだか震えるような心持ちがしました。心の輪郭が柔らかく震えるのでした。

 お陰で、言ったきり背中に乗るのを忘れていました。促されてようやくその背に乗ります。裾が開いて、お世辞にも行儀のいい格好ではありませんでしたけれども。

 

 それでも、脚を取った腕の堅さや、絲子の体を乗せたその腰のどっしりとした感覚。それに、絲子が胸をつけたその背中の温かさ、広さ。

 

「さあ、行こうか。可愛い妹よ」

 市雄が立ち上がり、絲子は体勢を崩しました。市雄の肩に首に、反射的にしがみつきました。

 温かくて温かくて、胸が苦しくて。顔に当たる後ろ髪がくすぐったくて、市雄の匂いがして。

「お兄さま……」

「なんです?」

 

 歩く市雄の首筋に顔を預け、両の手足で締めつけるようにしがみつきました。

後に続けたかったのはもっと別の言葉だったのですけれど、どうにかつぶやけたのはこの言葉でした。

 

お兄さま、と。

 

 しばらくその背に揺られながら、ますますゆっくりになった足音をうっとりと聞いていましたが。やがて市雄がとても残念なことを言いました。

「やあ、よかった。ご覧なさい、あそこでなら直してもらえるでしょう」

 指差した先に立ち並ぶ店の一つに靴屋がありました。

 早足になる市雄を恨めしく思いましたが、急がなくてもじきについてしまう距離でした。

 

 紳士用の革靴やブーツの他、婦人用や子供用の靴、下駄や草履の並ぶ店先で、市雄は絲子をおぶったまま言いました。

「すまないが、この修繕を頼みたい」

 

 手にしていた下駄を店主へ渡した後、間を置いてつけくわえました。

「それと。私に乗っかっている淑女(レディ)の、おみ足に合う靴を見繕ってくれたまえ。モダンで似合うものをね」

 驚いて何も言えずにいると、市雄が背中越しに振り向きました。

「贈り物ですよ」

 

 お互いの息がかかりそうなほど近くに市雄の顔があったので、とてもそのままでいられず、絲子は目をそらしました。

「あら、お優しいのね。けれど、それはあたくしへですの? 結局……この先生への、では」

 

 最後の方は声が震えていました。言葉のとおりだったらいいと思いました。

「そうですね。あなたと、それに六車先生へ」

 

 何も言えませんでした。聞き間違いではないと心の中で確認して、史乃ならどう言うか考えて、やっと言えました。

「ずいぶん先生を敬ってらっしゃいますこと。どうぞどうぞ、先生にお礼でも贈り物でもたくさんなさって、破産なさればよろしいんですわ」

 

 そっぽを向いて言った後で、そうなったら愉快だな、と思い、背筋が粟立つのを感じました。

 市雄は小さく息をつきます。

「なるほど、名案です」

 

 革靴やらブーツやら、足に合うものを店主がいくつか並べてみせました。

「贈り物ですもの、市雄さんが選んでおあげなさいな」

 絲子がそう言うと、市雄は靴を手にとって見比べました。

「これにしましょうか」

 手にしてみせたのは編み上げのブーツでした。焦げ茶色をした革でできていて、すねの中ほどまでを覆う長さです。底が厚くかかとが少し高い、いかにも洋風のブーツでした。

 

「それは先生のお気に入りそうなものですの?」

 ええ、と市雄はうなずきました。

「それに、これはラバーソウルになっていますしね。靴底がゴム製で柔らかいので、歩きやすいのですよ。僕の靴もそうですが」

 興味のないふりをしたまま、じゃあそれになさったら、と言いました。

 

 店先で椅子に腰かけて、市雄の方へ足を差し出しました。市雄はその足を手に取り、ゆっくりと、具合を確かめるようにしながらブーツへ差し入れました。爪先が底に触れ、やがてかかとまでぴったりと収まります。もう片足も入れ、靴紐を蝶結びにしました。

 立って何歩か歩いてみます。革がまだ固いせいで動きにくかったのですが、靴が地面を踏む感覚は下駄と比べものにならないほど柔らかく、絨毯の上を歩いているみたいでした。

 

 修繕された下駄を受け取り、市雄が代金を支払った後店を出ました。

 市雄の歩調に合わせて大股に歩いてみます。

 

 たっ。とっ。たっ。とっ。と、同じ足音が聞こえました。お揃いの、柔らかくて優しい足音。

 

 そのときになって絲子は思い出しました。確か史乃は左右高さの違う靴を履いていたはずです。そうしておくべきだったかとも考えかけて、やはりこのままでいいと思いました。市雄からの、絲子への贈り物でもあるのですから。

 

「いかがですか」

「ありがとう、ございます。とても……気に入りました」

 絲子は、そう答えました。

 

 

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