「何やらまた、たいそう嬉しそうだな」
お屋敷の廊下を歩いていますと、次道からそう声をかけられました。
あれから、絲子はいつもブーツを履くようになっていました。靴下も何足か買ってもらっています。革がだんだんと足になじんで柔らかくなっていくのや、重たくも柔らかい足音がなんとも嬉しいのでした。
絲子がうなずくと、次道は鼻で息をつきました。
「そうだろうな、桂木の次期当主からの下さり物だ、光栄に思うがいい。だが勘違いするな」
扇子で手の平を叩いて続けます。
「それは貴様の働きに与えられたものだ。貴様自身にではない。そこのところが分かっているのか気になってな」
かかとで踏みしめるような足音を立て、次道が目の前に来ました。
「ところで。これがヒナカタのやり方だと開き直られたなら、どうとも言えんのだがな。どうも貴様の行動には腑に落ちんものが多い。たとえば……急に遺品を借りだしたり、時折、足を妙に引きずるような歩き方をしていたりな」
冷たい手で心臓をなでられたような気がしました。けれど、どうにか表情には出さずに済ませられたはずです。
それにしても、次道はなぜそんなことを知っているのでしょう。お屋敷では普段その歩き方をしていないつもりでしたが、無意識に出てしまったのでしょうか。
次道の顔が絲子の顔に近づきました。
「におうのだな、貴様はどうも。と言うか、実際臭うぞ、その着物。煙草の臭いがな」
「五位さまの煙草やと思います。史乃さんも吸うみたいですし」
なんとかそう言ったのですが、次道は首を横に振りました。
「煙草には詳しくないが。兄上のフィガロはもっと品のある香りがした、そのようないがらっぽい臭いでなくな」
何も言えずに視線をそらしましたが、次道は貫くような目でこちらを見ていました。
どう言おうか考えていたとき、足音がしました。とっとっとっ、と、時計のような高く落ち着いた足音。
「これはおそろいで、何のお話でございます?」
小梅が礼をした後そう言いました。微笑んで続けます。
「でもそうでございますね、お年も近くていらっしゃいますもの。毎日会ってらっしゃいますし、仲良くもおなりでございましょうね」
次道は顔をしかめます。
「杉本、よせ。なぜ私がこのような者と」
小梅は手で口元を隠しながら小さく笑いました。
「いえいえ、よいのでございます。お若いうちは色々おありでございますよ。なんと言っても、お二人ともこんな美男美女ですもの」
「何の話だそれは。それより聞きたいのだがな――」
煙草の臭いについて次道が言うと、小梅は困った顔で首をかしげました。
「それはですね、大変申し上げにくいことなのですが……失礼いたしまして、お耳を拝借」
目礼して、次道の耳元でささやきます。息が耳元や首筋をくすぐる距離、唇が耳に、胸が肩につきそうな距離で。
「はしたないとは存じますが、わたくし少々煙草をたしなんでおりまして。その臭いではないかと、ですから――」
「分かった、ああ分かった、もう、いい」
目を見開いた、なんだかこわばった顔で次道が後ずさりました。妙な間の後、大きく咳払いをしてから言います。
「話は分かった。杉本はできる限り喫煙を控えるように。後は、構わん」
言い終えるとすぐ、早足で去っていきました。
その姿が見えなくなってから、小梅は腰に両手を当てます。んべ、と舌を出してみせた後で言いました。
「伯爵令嬢なめんな、っつー話でございます」
その日の夜。絲子は小梅の部屋を訪ねました。
椅子をすすめられたのですが、寝台に座った小梅の隣に腰掛けました。長いこと黙って、足をぶらぶらさせて、どうなさったんです、と小梅に促されて、それからやっと言いました。
「あの、
小梅は何も言わず目を瞬かせて、それからようやく理解したように聞きました。
「やめるって、史乃さんのふりを、でございますか」
何も言わずうなずきました。
「なんでまた急に」
うつむいて、絲子は何も言いませんでした。
分かったのです。絲子は市雄に、史乃としてではなく見て欲しいのだと。どういう形であれ、自分として見て欲しいのだと。
うつむいたまま、つぶやくように言います。
「今までのこと、ちゃんと話そう思います……ちゃんと、謝ろうと。あ、あの、うめさんのことは言わん
小梅は身じろぎもしませんでしたが、やがて口を開きました。
「事情は存じませんけれど。お辛う、ございますよ」
小さく首を横に振ります。
「
小梅が絲子の腕をつかみました。
「そうしたらもう、お屋敷にいられなくなるかもしれません。きっとお暇を出されます、そしたらもう、五位さまとはお会いできないでしょう。それでも、よろしいので」
絲子は小さくうなずきました。今のままでいるより、誰にとってもいいと思いました。自分にとっても、たとえ最後にでも自分として見てもらえるなら。
真っすぐに目を見て小梅が言います。
「いつ、お言いになるおつもりで」
「今度、五位さまと次道さまと海に出かけます。それが終わった後に、もう一度だけ史乃さんのふりしようと、思います。五位さまと二人だけで。それが終わった後……言います」
最後にもう一度、本当の史乃と市雄を会わせてあげるべきかとも思いましたが。本当のことを言う前にそうすると、今までの史乃が偽者であったことが市雄にばれてしまうはずです。せめて、本当のことは自分から言いたいと絲子は思いました。その後でもしも市雄が求めたなら、本当の史乃を呼ぼうと決めました。
小梅は何か考えるように黙り、それから絲子を抱き締めました。
「その時が……きっと、お別れかと存じます。どうかお達者で。……こいさんに、幸が多くございますように」
絲子はうなずいて目をつむり、小梅の胸に頭を預けました。
砂浜の向こうで波がゆっくりと寄せ、同じ速さで返しています。洗うような優しい音がしていました。
絲子は市雄と並んで、海辺で木のベンチに座っていました。少し離れた所で次道が立っています。
空も海も、洗われたように澄んだ青い色をしていました。雲は白く光り、小川に流した笹舟のように、目に見える速さで流れています。市雄が持ってくれた日傘の、白いレースが風に揺れていました。それでも、寒さはありませんでした。もう、桜の咲き始めた頃でした。
何も言わず海を見ていました。本当のことを言う日のことを考えると、何も言えませんでした。
横を見ると、市雄も海の方を見ていました。次道が一緒だからでしょうか。いつもなら絲子が、史乃が喋らずにいると気づかわしげに話しかけてくるのでしたが、今日はなんだか無口でした。けれど、それはそれで好ましいもののように思えて、絲子はそっと市雄の肩に頭を預けてみるのでした。
市雄はなんだか曖昧に笑って、絲子の頭をなでました。
次道は波に向かって砂を蹴っていましたが、やがて絲子の方へ大股に歩いてきました。
「どうなさったのです、お二人とも。せっかく遠出してきたというのに、なんとも大人しいではありませんか」
腕を組んで絲子と市雄を眺めます。
「それにしても、こうして見るとまるで兄妹ですな。いっそ私も、ねえさまとお呼びするのはやめにしますかな」
「言葉が過ぎるぞ」
市雄はそう言うと立ち上がりました。けれどそれ以上何か言おうとはせず、絲子の方へと手を差し伸べました。
「少し歩きましょうか」
三人で波打ち際に沿って歩きました。波の音に混じって、砂を踏む柔らかな足音がしました。
次道が波に向かって砂を蹴りました。寄せて来る波が強く、靴を濡らしそうになって、次道は片足で小さく跳びのきました。
絲子も、少しだけ波の方へと近づきました。ブーツの下の砂に濡れた柔らかさを感じました。寄せてきた波が靴底を洗い、泡立つような音を立てて引いていきました。次の波はもっと強かったので、打ち寄せる前に裾を片手でつまんで後ずさりました。そうして、波が寄せて返して砂に染み込む、そのさまをずっと見ていました。
次道が珍しく笑って言いました。
「ねえさまは海がお好きのようですな。やはり山の方のお生まれだと、こうした景色が珍しいのですか」
うなずきかけて絲子は動きを止めました。絲子は確かに山の生まれでしたが、史乃がどうであるかは知りませんでした。
何も言わずにいると、市雄が笑いました。
「お前も案外に物覚えが悪いな。以前聞いただろう、史乃さんは海のそば、品川の生まれだ。そうでしたね」
顔を向ける市雄を見て、絲子は小さく息をついてうなずきました。
それから市雄はじっと水平線の方を見つめていましたが、不意に言いました。
「二人とも、一つ競走でもしますか。そら」
手を叩いて走り出します。絲子はそれを追って走り、送れて次道も走り出すのでした。かなりの速さで走る市雄の背中を追って、絲子は裾を持ち上げ、全速力で走るのでした。