ソウル・ラバー・ソウル   作:木下望太郎

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十二話  別れの前

 

「何やらまた、たいそう嬉しそうだな」

 お屋敷の廊下を歩いていますと、次道からそう声をかけられました。

 

 あれから、絲子はいつもブーツを履くようになっていました。靴下も何足か買ってもらっています。革がだんだんと足になじんで柔らかくなっていくのや、重たくも柔らかい足音がなんとも嬉しいのでした。

 

 絲子がうなずくと、次道は鼻で息をつきました。

「そうだろうな、桂木の次期当主からの下さり物だ、光栄に思うがいい。だが勘違いするな」

 扇子で手の平を叩いて続けます。

「それは貴様の働きに与えられたものだ。貴様自身にではない。そこのところが分かっているのか気になってな」

 かかとで踏みしめるような足音を立て、次道が目の前に来ました。

「ところで。これがヒナカタのやり方だと開き直られたなら、どうとも言えんのだがな。どうも貴様の行動には腑に落ちんものが多い。たとえば……急に遺品を借りだしたり、時折、足を妙に引きずるような歩き方をしていたりな」

 

 冷たい手で心臓をなでられたような気がしました。けれど、どうにか表情には出さずに済ませられたはずです。

 それにしても、次道はなぜそんなことを知っているのでしょう。お屋敷では普段その歩き方をしていないつもりでしたが、無意識に出てしまったのでしょうか。

 

 次道の顔が絲子の顔に近づきました。

「におうのだな、貴様はどうも。と言うか、実際臭うぞ、その着物。煙草の臭いがな」

「五位さまの煙草やと思います。史乃さんも吸うみたいですし」

 なんとかそう言ったのですが、次道は首を横に振りました。

「煙草には詳しくないが。兄上のフィガロはもっと品のある香りがした、そのようないがらっぽい臭いでなくな」

 

 何も言えずに視線をそらしましたが、次道は貫くような目でこちらを見ていました。

 どう言おうか考えていたとき、足音がしました。とっとっとっ、と、時計のような高く落ち着いた足音。

「これはおそろいで、何のお話でございます?」

 小梅が礼をした後そう言いました。微笑んで続けます。

「でもそうでございますね、お年も近くていらっしゃいますもの。毎日会ってらっしゃいますし、仲良くもおなりでございましょうね」

 

 次道は顔をしかめます。

「杉本、よせ。なぜ私がこのような者と」

 小梅は手で口元を隠しながら小さく笑いました。

「いえいえ、よいのでございます。お若いうちは色々おありでございますよ。なんと言っても、お二人ともこんな美男美女ですもの」

「何の話だそれは。それより聞きたいのだがな――」

 

 煙草の臭いについて次道が言うと、小梅は困った顔で首をかしげました。

「それはですね、大変申し上げにくいことなのですが……失礼いたしまして、お耳を拝借」

 目礼して、次道の耳元でささやきます。息が耳元や首筋をくすぐる距離、唇が耳に、胸が肩につきそうな距離で。

「はしたないとは存じますが、わたくし少々煙草をたしなんでおりまして。その臭いではないかと、ですから――」

「分かった、ああ分かった、もう、いい」

 目を見開いた、なんだかこわばった顔で次道が後ずさりました。妙な間の後、大きく咳払いをしてから言います。

「話は分かった。杉本はできる限り喫煙を控えるように。後は、構わん」

 言い終えるとすぐ、早足で去っていきました。

 

 その姿が見えなくなってから、小梅は腰に両手を当てます。んべ、と舌を出してみせた後で言いました。

「伯爵令嬢なめんな、っつー話でございます」

 

 

 

 その日の夜。絲子は小梅の部屋を訪ねました。

 椅子をすすめられたのですが、寝台に座った小梅の隣に腰掛けました。長いこと黙って、足をぶらぶらさせて、どうなさったんです、と小梅に促されて、それからやっと言いました。

「あの、()。うち、もうやめようと思うん」

 

 小梅は何も言わず目を瞬かせて、それからようやく理解したように聞きました。

「やめるって、史乃さんのふりを、でございますか」

 何も言わずうなずきました。

「なんでまた急に」

 

 うつむいて、絲子は何も言いませんでした。

 分かったのです。絲子は市雄に、史乃としてではなく見て欲しいのだと。どういう形であれ、自分として見て欲しいのだと。

 

 うつむいたまま、つぶやくように言います。

「今までのこと、ちゃんと話そう思います……ちゃんと、謝ろうと。あ、あの、うめさんのことは言わんから(けに)、大丈夫、です」

 

 小梅は身じろぎもしませんでしたが、やがて口を開きました。

「事情は存じませんけれど。お辛う、ございますよ」

 小さく首を横に振ります。

構わない(かんまん)何も(なんちゃ)

 

 小梅が絲子の腕をつかみました。

「そうしたらもう、お屋敷にいられなくなるかもしれません。きっとお暇を出されます、そしたらもう、五位さまとはお会いできないでしょう。それでも、よろしいので」

 絲子は小さくうなずきました。今のままでいるより、誰にとってもいいと思いました。自分にとっても、たとえ最後にでも自分として見てもらえるなら。

 

 真っすぐに目を見て小梅が言います。

「いつ、お言いになるおつもりで」

「今度、五位さまと次道さまと海に出かけます。それが終わった後に、もう一度だけ史乃さんのふりしようと、思います。五位さまと二人だけで。それが終わった後……言います」

 最後にもう一度、本当の史乃と市雄を会わせてあげるべきかとも思いましたが。本当のことを言う前にそうすると、今までの史乃が偽者であったことが市雄にばれてしまうはずです。せめて、本当のことは自分から言いたいと絲子は思いました。その後でもしも市雄が求めたなら、本当の史乃を呼ぼうと決めました。

 

 小梅は何か考えるように黙り、それから絲子を抱き締めました。

「その時が……きっと、お別れかと存じます。どうかお達者で。……こいさんに、幸が多くございますように」

 絲子はうなずいて目をつむり、小梅の胸に頭を預けました。

 

 

 

 砂浜の向こうで波がゆっくりと寄せ、同じ速さで返しています。洗うような優しい音がしていました。

 絲子は市雄と並んで、海辺で木のベンチに座っていました。少し離れた所で次道が立っています。

 

 空も海も、洗われたように澄んだ青い色をしていました。雲は白く光り、小川に流した笹舟のように、目に見える速さで流れています。市雄が持ってくれた日傘の、白いレースが風に揺れていました。それでも、寒さはありませんでした。もう、桜の咲き始めた頃でした。

 何も言わず海を見ていました。本当のことを言う日のことを考えると、何も言えませんでした。

 

 横を見ると、市雄も海の方を見ていました。次道が一緒だからでしょうか。いつもなら絲子が、史乃が喋らずにいると気づかわしげに話しかけてくるのでしたが、今日はなんだか無口でした。けれど、それはそれで好ましいもののように思えて、絲子はそっと市雄の肩に頭を預けてみるのでした。

 市雄はなんだか曖昧に笑って、絲子の頭をなでました。

 

 次道は波に向かって砂を蹴っていましたが、やがて絲子の方へ大股に歩いてきました。

「どうなさったのです、お二人とも。せっかく遠出してきたというのに、なんとも大人しいではありませんか」

 腕を組んで絲子と市雄を眺めます。

「それにしても、こうして見るとまるで兄妹ですな。いっそ私も、ねえさまとお呼びするのはやめにしますかな」

「言葉が過ぎるぞ」

 市雄はそう言うと立ち上がりました。けれどそれ以上何か言おうとはせず、絲子の方へと手を差し伸べました。

「少し歩きましょうか」

 

 三人で波打ち際に沿って歩きました。波の音に混じって、砂を踏む柔らかな足音がしました。

 次道が波に向かって砂を蹴りました。寄せて来る波が強く、靴を濡らしそうになって、次道は片足で小さく跳びのきました。

 絲子も、少しだけ波の方へと近づきました。ブーツの下の砂に濡れた柔らかさを感じました。寄せてきた波が靴底を洗い、泡立つような音を立てて引いていきました。次の波はもっと強かったので、打ち寄せる前に裾を片手でつまんで後ずさりました。そうして、波が寄せて返して砂に染み込む、そのさまをずっと見ていました。

 次道が珍しく笑って言いました。

「ねえさまは海がお好きのようですな。やはり山の方のお生まれだと、こうした景色が珍しいのですか」

 うなずきかけて絲子は動きを止めました。絲子は確かに山の生まれでしたが、史乃がどうであるかは知りませんでした。

 

 何も言わずにいると、市雄が笑いました。

「お前も案外に物覚えが悪いな。以前聞いただろう、史乃さんは海のそば、品川の生まれだ。そうでしたね」

 顔を向ける市雄を見て、絲子は小さく息をついてうなずきました。

 

それから市雄はじっと水平線の方を見つめていましたが、不意に言いました。

「二人とも、一つ競走でもしますか。そら」

 手を叩いて走り出します。絲子はそれを追って走り、送れて次道も走り出すのでした。かなりの速さで走る市雄の背中を追って、絲子は裾を持ち上げ、全速力で走るのでした。

 

 

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