ソウル・ラバー・ソウル   作:木下望太郎

13 / 14
十三話  最後に謀(たばか)る、はずの日

 

 数日後のよく晴れた日に、絲子は市雄の部屋に呼ばれました。いつもどおり、史乃を降ろすためです。

 抱えた祭具の木箱が重く感じられました。もう歩き慣れた、絨毯敷きの廊下がひどく長いものに思えました。ブーツも今日は重く、一歩一歩に妙な力がいるように思いました。

 

 歩みを止め、息をつきました。

 今日が最後の史乃のふりでした。これが終われば、今日の夜にでも全部言ってしまおうと思いました。

 史乃のふりをしていたこと、けれど最初の何回かは間違いなく史乃を降ろしていたこと。絲子が市雄を好きだということ。史乃よりもきっと、好きだということ。

 

 またため息が出ました。いっそ言わずにいてしまおうかとも考えました。

それでも思うのです、今のままでいいわけがないと。

 

 爪先で二度床を蹴り、ブーツの具合を直します。うなずき、大股に歩き出します。強い足音を立てて。

 ノックして部屋に入ると、市雄は椅子に座っていました。初めて会ったときにも座っていた椅子です。その前にはテーブルを挟んで絲子の座る台が置かれていました。

「やあ、先生」

 市雄はなんだか疲れた様子で、小さく笑いました。初めて会ったときにも似た、寂しげな顔に見えました。

 絲子も同じ表情で笑いました。それで思ったのです、ああ、自分は寂しがっているのだな、と。

 

 一礼して、ブーツを脱いで台に正座しました。テーブルの上に祭具を、剣鈴に金輪、五色の紙吹雪を並べ、香に火をつけます。立ち昇る香の白い煙が、不意に揺れました。

見ると、窓の一つが開け放たれていました。ゆるゆると吹く風は心地よく、レースのカーテンを光の中に音も無くはためかせていました。

 

「よろしくお願いいたします」

「務めさせていただきます」

 ――がんだり・じんそん・げんごんこん――いつものとおり、本来の調子から外した儀式を終え、史乃を降ろしたふりをしました。足を崩し、台に腰かけます。

「あら、市雄さま。今日は次道さん、一緒じゃありませんの」

 

 笑いかけても市雄は返事をしませんでした。初めて会ったときのように背を丸め、膝の上に肘を置いて、指を組んだ上にあごを乗せていました。

「どうしたんですの、難しい顔なさって。何かお悩みで」

 

 目をつむって黙って、しばらくしてやっと市雄は口を開きました。

「ええ。聞いていただけますか」

「もちろん。ただ、聞いたからってお力になれるか分かりかねますけどね」

 市雄は首を横に振りました。

「聞いて、答えていただくだけで十分ですよ。先生」

 絲子は笑いかけて、顔の動きが止まりました。それでも笑いました。

「先生、って。失礼だこと、よっぽどあのお嬢さんのことを気にして――」

「そのようなことは聞いていませんよ。先生」

 穏やかでしたが、あまりに平坦な声でした。

 

 表情を変えず、同じ声で市雄は言います。

「この間の海は楽しかったですね」

「先生ではありませんけれど。よろしいわ、ご冗談につき合ってさしあげます。ええ、楽しかったです」

 そっぽを向いて答えながら、頭の中に鼓動が響いていました。なぜ、市雄はそのことを知ったのだろう。なぜ、こんな聞き方をするのだろう。それになぜ、自分はまだ史乃のふりをするのだろう。もう、言ってしまおうと決めていたのに。

 

「競走をしましたけれど、三人ともよく走りましたね。先生もいつもの、史乃さんの歩き方をせずに」

 絲子は唇を尖らせてみせました。

「それは、歩くときはああいう癖もありますけれど。走るとなると別ですわ。それに、あの癖だってわざわざやっていることですもの」

 市雄はゆっくりと首を横に振りました。

「そうですね、彼女はそう言っていました。私以外の人には。けれど彼女は、本当は足が悪いのですよ。幼い頃の病でね、片足が上げにくいのだそうです。歩くにはさほど支障がないが、走ることはできません」

 

 絲子の目を見て続けます。

「それを彼女は、男性の目を引くためにやっていると称したのですよ。実際に、靴の高さを変えてそのように見せる癖までつけてね。彼女らしい強がりか、いや、絵描きとしての自分のためですかね。女性である上に片足が不自由となれば、妙な目で見る輩も多いでしょうから」

 

 あごがかすかに震え、歯が鳴ったのを感じながら絲子は言いました。

「けれど、けれどあたくし、先生に間借りしておりますもの。このお嬢さんの体なら走ることだってできますわ」

 市雄はゆっくりとうなずきます。

「ええ、そうかも知れませんね。ところで先生、お生まれはどちらでしたかな」

 海で次道に聞かれたことを思い出して答えました。

「先生の生まれは知りませんけども、どこか田舎の方でしたかしら。あたくしは帝都生まれです、品川――」

 そこまで言って、絲子の口が止まりました。

 

 市雄はうなずきます。

「ええ。お察しのとおり、史乃さんは帝都の生まれではありません。品川ではないのです、江ノ島……鎌倉の方と言えば分かりますか、その近くです」

 

 市雄は立ち上がり、ゆっくりと部屋を歩き回りました。その足音は普段の優しいものではなく、一歩一歩を床に押しつけるような、重い置物を置くような音を立てていました。

「あなたにブーツを贈って数日経った頃です。次道が私に言ったのですよ、先生は史乃さんを乗り移らせているのではない、そのふりをしているだけだと。私は笑いました。初めてお会いしたとき、先生は間違いなく史乃さんだったのですから。それに次道が呼んでいただいたお祖父さま、そちらも間違いなかったはずですから」

 

 絲子はわずかに、口を開け閉めしていました。わきの下に流れる汗を感じました。

 

「ですが次道は言うのです、おそらく何かの思惑があって、先生は途中から史乃さんのふりをしているのだと。怪しい行動もあるし、何より……史乃さんのしぐさや煙草を吸うのを練習しているのを見た、と」

 

 金槌で殴られたような気がしました。目に見える部屋の中が一瞬色を失い、揺らいだように思えました。

 

「それで、次道からの入れ知恵でね。海であのようなことを聞いたのですよ。……私としても、そのような疑いがあるならはっきりさせておきたかった。信じるために……でしたが」

 足を止め、市雄は小さくかぶりを振りました。顔を上げ、真っすぐに絲子の目を見つめます。

「先生、なぜこのようなことをなさったのです。あなたのお力は本物だった、なのになぜ。訳がおありですか、おっしゃって下さい。よからぬ企みがあったのですか、おっしゃって下さい。あるいは賃金にご不満がお有りでしょうか、何か言い訳はないのですか。おっしゃって、下さい」

 

 絲子は何も言えず、何か言おうと思いながらも何も言えず、首を何度も横に振りました。あごが震え、奥歯が音を立てていました。

 違う、と思いました。言いたかったのは、言ってしまいたかったのはこんな風にではないと。全部謝ってしまって、自分から謝ってしまって、それから言いたかったのだと。

 

 五位さまが、好きです、と。

 

 それだけは真実なのです、別の人の気持ちでも他人のふりでもないのです。こんな風に問い詰められたいことではないのです。その気持ちさえも責められてしまいそうで、何もかも嘘に飲み込まれてしまいそうで、絲子はただ、首を横に振るのでした。

 

 市雄は深く息をつき、また歩き出しました。

「……いいでしょう。最後に質問します、私と史乃さんだけが分かることです。私が最後に史乃さんから贈られたものは何ですか。私が先生に頼んで、最初に史乃さんを呼んでいただいたとき、私たちが話したことは何ですか」

 

 その言葉の意味さえも頭に入らないまま、絲子は歯を噛みしめていました。両手を震えるほど握っていました。額が、頬が耳が、鼻が目が頭の中が、熱くなっていました。

 史乃になりたい、と思いました。儀式のときにすら、史乃のふりをしているときにすら考えなかったほど強く、史乃になりたいと思いました。

 

 もう絲子として愛されることはありませんから。妹のような存在としてすら見られることはありませんから。たばかっていたとあっては、それも子爵家の方を。せめて正直に話せば、と思っていたことも、もうあり得なくなりました。

 史乃になりたい、と思ったのです。史乃を降ろすのでも、そのふりをするのでもなく。絲子などやめてしまいたいと思いました。史乃の器にしか見てもらえない絲子など。

 

 史乃ならよかった。絲子でなくて、史乃ならよかった。

 

 市雄は部屋の洋箪笥の奥から小さめの額縁を取り出しました。

「答えられないようですからお教えしましょう。最後にいただいたのは、彼女が描いた絵です。この絵……添えられていた題は『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』……聖書の一節です、『主よ主よ何ゆえ、汝は我を見捨て給うか』」

 

 手渡されたその絵は、次道に見せてもらった赤い絵とは似つかぬものでした。その絵は黒かったのです、暗いのではなく、闇が染みついたように黒かったのです。

 

 描かれているのは花でした。あの赤い絵と同じように、花瓶に生けられた様々な花の絵でした。ただそれは黒いのです、闇の中に花が見えているのではなく、闇そのものが(こご)って花の形を取っているような、わずかに色づいて花のふりをしているような、そんな絵でした。

 

 その絵の花は歪んでいました、歪(いびつ)な花びらに茎、それらの大きさすらも不自然でした。以前の絵にもまして激しい、叩きつけ練り上げたような筆遣いでした。いえ、筆遣いですらありませんでした。よく見れば、盛り上がるほどに塗られた絵の具の所々に、不思議な紋様がついているのです。故意につけたのではないだろう、ほんの小さな紋様や、そのかすれた跡が。

 

 それは指の跡でした。指紋や掌の紋様、それが所々にくっきりとついているのでした。史乃は絵筆でなく、自らの手で指でこの絵を描き、絵の具を塗りつけたのでした。

 

 そしてなおもよく見れば、どの花も泣いているのでした。目を凝らさねば分からぬほど、爪の先に絵の具をつけて切り裂くように描いたとしか思えぬほど細く、赤黒い涙を垂らしているのでした。

 

 絲子の全身に、鼓動が強く打ち響きました。まるで心臓が二つになってしまったように。

 

 市雄は言います。

「……亡くなる前の史乃さんにね、私は言ったのですよ。もう、あなたとお会いすることはできない、と。愛している、誰よりも愛していますが、もう会えないと」

 

 鼓動はなおも響き続けました。頭の奥、胸の中で、何かがちぎれた感触を覚えました。

 

「桂木家の方で、問題になってしまったのですよ。次期当主と訳の分からぬ平民の女がつき合うなどと、許されることではないと。無論私は反対しましたが、どうなるものでもありませんでした。家の者から話がゆくよりはと、私は自分で伝えたのです。史乃さんは大いに驚き、悲しみ、怒りました。私同様に、いえ、私よりもずっと、ずっと。泣き、叫び、酒を飲み、暴れ、家中の物を壊して」

 

 呼吸が荒くなるのを感じました。目の奥が熱くなるのを感じました。

 

「それ以上どうしてあげることもできず、私は別れました。その後、何がしかの金を持っていった家の者が、史乃さんからこの絵を預かったのです。そのときの史乃さんはほとんど酔い潰れていて、家に置かれていた彼女の絵は全て切り裂かれていたそうです」

 

 絲子は歯を噛みしめました。奥歯の軋む音がしました。握った手の爪は掌に刺さっていました。

 

「それから程なく、彼女は亡くなりました。火の不始末による火事、おそらくは酒に酔って、ということになっていますが――」

 市雄はうつむき、手を握り締め、目を強くつむって続けました。

「きっと、自ら命を絶ったのです……基督(キリスト)教徒としての大罪を犯してまで……いえ、だからこそかも知れません。お前が、桂木市雄がしたのはそれほどのことだ、と」

 

 絲子は息を吸い込みました。冷たい空気が喉に染みとおり、熱い吐息となって吹き出ました。

 

 それから長いこと黙って、市雄は言いました。弱い、小さな声でした。

「だから私は、先生のような方を探したのです。彼女に謝るために、彼女を呼ぶことのできる方を」

 

 絲子はもう一度息を吸いました。そして、それを吐き出したときには。

 

「先生……? どうしたんです」

 

 泣いていました。目に、鼻に、顔にどうしようもなく力がこもって、涙と鼻水を流していました。

 そして。その瞬間、絲子は感じたのです。史乃の絵から流れ出してくるものを。油絵の具のように黒くぬめる感情を。それが頭の奥、胸の中、背骨の芯に流れ込むのを。

 

 ――視えたのです、史乃が黒く染まった手で、真っ黒な絵の具を塗りたくるのが。

 暗い部屋でした、西日もとうに差さなくなっていました。炭の残り火のような赤暗い日がわずかに差すばかりの部屋で、史乃はその絵を描いていました。顔にも服にも黒い絵の具が散っていました。その顔には何の表情もなく、大きく見開かれた目は絵と同じ色をしていました。何か小さくつぶやいているのが聞こえました。

 そして感じたのです、油絵の具の冷たく粘りつく感触を。

 

 気づけば、史乃の姿はありませんでした。目の前にあの黒い絵がありました。絲子の指が別の生き物のように動き、あの絵を描いているのでした。その指には絲子の感覚がありましたけれど、見慣れた自分の指ではありませんでした。形の整った爪のある、大人の長い指。それが握り潰すような力強さで、化粧をするような丁寧さで、あの絵を描いているのでした。

 

 つぶやく声が聞こえました。はっきりと聞こえました、それは絲子の口がつぶやいているのでした――

「『主よ、あなたにお出来にならないことはありません、どうぞこの杯をわたしから取り除けて下さい……どうか御心のままに』」

 

「先生……? どうしたのです、先生」

 つぶやくように言う市雄を見て、絲子は泣くような顔で微笑みました。

「市雄さま。『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです、ここを離れないで、どうか目を覚ましていて』」

「どうしたのです先生、一体何を――」

 頬に残る涙をそのままに、立ち上がりました。

「『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』。主よ主よ、何ゆえお見捨てですの」

「史乃、さん……?」

「どうしたんです、市雄さま」

 絲子は首をかしげて微笑みます。足をわずかに引きずり、市雄の方へ歩みました。

 市雄は後ずさります。

「史乃さん、そんな、あなたは――」

 絲子はさらに歩み、市雄は後ずさります。やがてその動きが止まりました。市雄のかかとが、窓際の壁へ突き当たったのです。

 

 こわばった表情で市雄は言います。

「あなたとは、先生のお力でお会いしたはず、おそらく最初の何度かは。私のしたことは謝りようもないが……あなたは許すとおっしゃった」

 

 絲子は笑って、悲しく笑って、首を横にふりました。

「そういうことではありません、そういうことを責めるのではありませんの。あたくしはただおそばにいたいだけです、市雄さま……五位さま」

 

 市雄の目が見開かれました。

 さらに一歩、絲子は市雄の方へ歩みます。足を引きずらずに。

 

 流れ込んできた史乃の気持ちは、そのまま絲子の気持ちでもありました。そして思ったのです。ずっとそばにいたいのに、史乃でも、絲子でもできないというのなら。一体誰ならよいというのだろう、と。

 

 市雄は窓際を後ずさります。

 絲子は歩み寄り、とろけてしまったかのように濡れた目で見上げるのでした。史乃の気持ちか、遺品の聖書を読んだ絲子の記憶か、その一節が頭に浮かびました。基督を捕らえさせる裏切り者の言葉。

「『私が口づけをするのがその人です、その人を捕まえて、しっかりと引いていくのです』。……ずぅっと、おそばに」

 

 風にはためくカーテンの中、それをまとうようにしながら、市雄の頬に手を伸ばしました。なんだか冷たい、でも手になじむような気持ちのよい肌でした。そっと背伸びをし、その口に唇を重ねようとしました。

「やめてくれ!」

 市雄の手が、強く絲子の体を押しのけました。

 

 揺れるカーテンの前で、絲子はよろめきました。

 考えるような間を置いて。カーテンの中へ、絲子の細い体は吸い込まれていきました。その、開け放たれていた窓の中へ。

 そして、うっすらと笑ったのです。

「主よ、主よ。あなたがお見捨てなら、あたくしも。……あたくしを」

 

 凍りついたような市雄の顔、騒ぎを聞いてか、部屋に駆け込んできた小梅ら使用人の顔。それらがカーテンと、天井を向いた自分の足の間から見えました。そのまま風を切る音がして、何かに当たる衝撃と、何かが折れる感触がしました。

 

 風は、日差しは暖かかったのです。なぜだか、桜の花びらが舞うのが見えた気がしました。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。