それから数日が経ちました。
バルコニーに面した廊下で、次道は小梅と話していました。あのときと同じく、日は暖かく、風の優しい日でした。
「絲子さんは、まだ、でございますか」
窓の方を見たまま次道は答えます。
「病院からの話では大きな外傷はないが、まだ目を覚ましておらんそうだ。下に植わっていた桜の木に当たらねば、そのまま死んでいたらしいがな」
ため息をついて、小梅の顔を見ます。
「……うまくいったと言えば、うまくいったがな。まかり間違えば人死にが出ていた、いや、出るかもしれん。これで、よかったのか」
小梅は首を傾げて微笑みました。
「あら、おかしなことを。
「何の話を――」
表情を変えず、小梅は言いました。
「戦に、人死にはつきものにございましょう。それに、あの方はご自分から落ちたのです。皆が見たように」
「……大した
また窓の外に目をやりながら、次道は言います。
「兄上はねえさまの折と同じ、いや、よほどひどいご様子だ。今度はもう、ねえさまにもあの娘にも、会おうなどとは望むまいよ。二度も己のせいで死のうとされてはな。……お前の、理想の状態だ」
息をついて続けます。
「しかし、あの娘をうまく焚きつけたな。どうやった」
小梅は口元だけで笑いました。
「
小梅に顔を向けて、目をそらして次道が聞きます。
「一つ聞かせよ。兄上などのどこがよいのだ」
小梅は小さく目を見開いて、ふふ、と声を立てて笑います。白い滑らかな手で、次道のあごをなでました。
ほんの一瞬、うっとりとした次道は、すぐにその手を払いました。
「お可愛らしいこと」
小梅は満足したような顔で続けました。
「市雄さまは、お優しくて、お顔もきれいで、でもどこか頭のネジ落っことしたみたいな方で。とても弱くて、世間知らずで。それに、とっても頼りなくって」
「そんなことは聞いていない、お前はなぜ――」
小梅はうっとりと、幸せそうに笑うのでした。
「だから、とっても好きなんでございますの。お可愛らしい」
「……そうか」
憮然とした顔で、次道は顔をそむけました。
「ですけれど、あの方にわたくし一人支えて生きていける力なんてございませんでしょうから。お約束のこと、どうかよろしくお願いいたします」
先のものと今回の醜聞、またそれらにより屋敷にこもり切っている状態。それらを理由に市雄の廃嫡、及び次道を次期当主とすることを提案すること。そうして、隠棲した市雄に十分な額の生活費を与えることを提案すること。またいずれ、小梅の父方に当たる伯爵家へ桂木家から交渉し、小梅に何がしかの援助をさせること。
「まず大丈夫だろうが確実ではない。それに時間もかかる。それでもよいのか」
小梅は赤い唇の端を持ち上げました。
「待つのは得意でございます。
胸の奥に刺すようなものを感じながら、次道は言いました。
「果報者よ、兄上は」
小梅は、じいっと次道を見つめました。どこか、慈しむような目でした。
何だ、そう聞こうとしたときには。白く柔い腕が次道の腰を、頭の後ろを絡め取っていました。そして、赤い唇が唇を。動く濡れたものがその中を。
離されて少し経って、ようやく思い出したように呼吸をしました。小梅を真っすぐに見られませんでした。
「……煙草を吸う女子は、好かん……お前のは、苦い」
口元を手で隠して小梅は笑います。
「あらあらあら、他の方のを知ってらっしゃるみたいな口ぶりで」
舌打ちをして、迷って、それから、小梅の手を取ります。そこに目を落としたまま、言いました。
「お前には、感謝しておる。お前が策を話してくれなければ、桂木家は兄上のものだった」
顔を上げて続けます。
「私は桂木の当主となる。そしてそれを足場に、いずれはこの国の政を動かしてみせる。必ずな」
小梅は笑い、次道の頭をなでました。
「ご武運を、お若いおさむらいさま」
それからもう一度、次道を抱き締めます。
込み上げるものを感じて、次道は小梅を強く抱きました。
「兄上を……頼む。それと。それと……その
言って、また抱き締めるのでした。
小梅は柔らかく次道の頬をなで、額に口づけて、それから言いました。
「それでは。わたくし、おなごのいくさに参ります」
礼をして去っていく小梅の背中を見て、その時計の振り子のような足音を聞いて。
「武運を」
そう、次道はつぶやくのでした。
小梅は市雄の部屋の前で、静かにドアをノックしました。中から返事はありませんが、鍵はかかっていませんでした。細くドアを開きます。
部屋の中はカーテンが閉め切られていました。辺りには倒された箪笥、散らばった衣服、ひっくり返ったテーブル、叩き壊された椅子、破られた本、靴跡のついた枕。様々な物が散乱していました。
その中でただ一つ残った椅子、いつもの場所に置かれた椅子に、市雄は座っているのでした。髪を乱し、背を丸め、膝を抱えるかのように身を縮めて。組んだ手の上にあごを乗せ、人差し指の爪をかんで、足を揺すって。
中に入ると、小梅はわざとほんの少し音を立ててドアを閉めました。
市雄の目が小梅を見上げました。表情のない、生気のない顔でした。
小梅はうなずき、微笑みました。スカートの裾を持ち上げて物の間を縫い、足音を立てずに市雄の近くへ行きました。
「大丈夫、大丈夫でございます」
そっとその背中に手を置き、ゆっくりゆっくりとなでました。
「市雄さまは何も悪くありませんわ、わたくし見ておりましたもの」
市雄の目が震えるように動きました。きつく目をつむります。
「僕は。僕は……」
小梅は背中を緩く二度叩き、その手で頭をなでます。片手で市雄の手を取り、耳元でささやきます。
「大丈夫、大丈夫でございますとも。だってうめ姉さんがついておりますもの。さ、お楽になさって、何もお考えにならないで。よろしいのですそれで、何もかもよろしゅうございます」
市雄が小さくうなずくのが見えました。まるで泣き虫な子供のようでした。
小梅は煙草をくわえ、火をつけます。そうして、後ろから市雄を抱きました。
市雄の目が煙草の方へ動きます。
小梅は煙草を取ると、市雄の唇にくわえさせました。
震えながら、ゆっくりと深呼吸をするように、市雄は煙草を吹かしました。
微笑み、市雄のそばを離れました。すがるように顔を上げた市雄へ、口元に人差し指を立てて見せます。それから、足音を立てずにドアの所へ行きました。ドアを小さく開け、外に誰もいないのを見てから閉めます。
後ろ手に錠を下ろす、その音が部屋に響きました。
絲子が目を開けると、灰色の天井が目に入りました。辺りを見回します。どうやら、寝台で寝ていたようでした。病院でしょうか、全体的に灰色がかった白い部屋でした。窓にカーテンはかかっていませんでしたが、全体が白い擦りガラスで、部屋の中にはぼやけたような光が入ってきていました。
さっきまで、夢を見ていました。温かい海の中に浮かんでいる夢でした。曇ったときの朝焼けのような、鈍い金色をした海です。その場所では、空も一面を同じ色の雲に覆われていました。
そこで誰かと会ったような気がします。うまく思い出せませんが、それは史乃だったのかも知れません。何を話したかも思い出せません。もしかしたら、何も話さなかったのかも知れません。
寝台の上に身を起こしました。何日も寝ていたのでしょうか、体が錆びついたみたいに動きにくく思われました。寝台の端に腰かけ、床へ下りました。足に力が入らず、膝が曲がりそうになりましたが、ちゃんと立つことができました。
見ると、寝台のそばにある台の上に絲子の服が重ねられています。その横には祭具などの持ち物が置かれ、台の下にはブーツ、下駄と草履が並べられています。
肌寒さを感じて着物を羽織りました。それから、煙草とマッチを取りました。ブーツを履こうかと考えて、やはり裸足のまま、ぺたぺたと足音を立てて窓の方へ行きます。
窓を開けると、温かい風が吹き込んできました。外には帝都の変わらぬ街並みが広がっていました。どこからか、桜の花びらが舞い込んできました。
マッチを擦り、煙草に火をつけました。煙草に火が移ってすぐ、マッチの火は吹き込む風に消えてしまいました。
大きく息を吸います。煙草の火がちりちりと音を上げました。煙を吐いて、何度か瞬いて、煙草を外へ放りました。
それから、少しだけ泣きました。
(了)