ソウル・ラバー・ソウル   作:木下望太郎

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二話  少女が来た日のことと、彼と恋人の今と

 

 ――絲子は漂いながら思い返していました。ひと月ほど前、初めて桂木のお屋敷に来たときのことを。

 

 お屋敷からの迎えに連れられ、四国の山奥、生方(うぶかた)村の田舎から汽車に乗り船に乗りまた汽車を乗り継ぎ、街の人ごみに戸惑い。

 花の帝都は道坂区、その中心の蕪矢(かぶらや)町、桂木卿のお屋敷にたどり着いて。見上げるような門をくぐって、田んぼができそうなほど広い庭を通って、お城のように大きなお屋敷に通されて。世が世なら桂木家はお殿様だったと聞いていたので、なるほどなあと思って。

 

 通された部屋では、洋装を着た綺麗な女中さんがお茶を出してくれて。飲んだことのない、華やかな香りのするお茶で、紅茶というものなのだろうなあと思いながらも、茶碗の下に置かれた皿の使い方が分からず結局飲まずじまいで。

 

 しばらくして案内されたのが、市雄の部屋でした。その部屋は昼だというのにカーテンを閉め切られ、電灯が灯されていました。

 

 部屋の中で、今日と同じ椅子に市雄は座っていました。背中を丸め、両膝に肘を乗せ、組んだ手の上にあごを乗せていました。片足をひどく揺するせいで肩も頭も、荒く波打った髪も震えていました。閉め切っているせいでそう見えたのかもしれませんが、頬がこけ、顔色は暗く、目の下には隈ができていました。

 

 市雄は目だけを上げて、にらむように絲子を見ました。そして何も言わず、テーブルを挟んだ向かいの椅子を示しました。

 

 けれど絲子は椅子に座るのも忘れ、口を開けてその人を見ていました。若い男性、ことに洋装の紳士を間近に見る機会など、田舎ではありませんでしたので。旅の途中では道に迷わぬようにするのが精いっぱいで、辺りをよく見る余裕もありませんでしたので。

 軽く縮れた、男性にしては長い髪が、何かで絵を見たことのある外国の動物、ライオンのたてがみに見えました。絲子の知っているライオンはこんなに痩せてはいませんでしたけれども。

 

 灰色の洋装を着た、痩せっぽちで、疲れて、傷ついた独りぼっちのライオン。そんなふうに、市雄のことを思ったのです――

 

 

 

 

 そうして、今。

 市雄は言いました。

「飲み物でも持ってこさせましょうか。それとも、何か食べたいものはありますか」

「お構いなく。でもそうですわね、せっかくですから」

 

 史乃は写真を置くと、白装束の裾をつまんで大股に歩きました。片足をわずかに引きずる、腰をくねらせるような歩き方でした。市雄の胸の前で立ち止まり、見上げて言いました。

「フィガロ、まだお吸いでして?」

 市雄は苦笑します。

「煙草は……どうでしょうね、先生のお体では」

 史乃は唇をわずかに尖らせます。

「お吸いですの? お吸いではありませんの?」

 

 また苦笑いして、市雄は革張りのシガレットケースを取り出しました。そしてマッチ箱と、吸い口に金紙の巻かれた埃及(エジプト)煙草を渡してやるのでした。

 史乃は小さな唇の端にフィガロをくわえると、慣れた手つきで火をつけました。マッチの火を振って消すと、息を小さく吸い、煙をふかしました。

 市雄ももう一本フィガロを取ると、口にくわえて身をかがめました。

 史乃は、煙草をくわえたまま背伸びをしました。

 

 二本の煙草の先がくっつくと、市雄はゆっくり息を吸いました。ひそやかな音を立てて、市雄の煙草に火が移ります。

 二人一緒に、天井へ向け煙を吐きます。それから、けほ、と史乃がむせました。

「やっぱり、煙草は得意じゃないようですわね。このお嬢さん」

 

 

 

 

 ――市雄はやっぱり何も言わず、絲子にもう一度椅子を示しました。ほんのわずか眉毛が動いて、足を揺するのが速まっていました。

座ったとき、市雄から煙草の匂いがするのに気がつきました。

 

 姿勢を変えず、手をあごから離して市雄は話し出しました。足の揺れはまだ小さく続いていました。

「ようこそ……おいで下さいました。はるばるご足労いただきまして。ヒナカタ、の六車先生ですね」

 

 絲子は何も言わず、手を膝に乗せて深くおじぎをしました。何と言えばいいかも分からなかったのです。

 

 市雄は絲子の顔を、頭から爪先までを、何度も見て言いました。

「お若いとは聞いておりましたが……なるほど、ずいぶんお若い」

 絲子はうつむいていました。何を言えばいいか分かりませんでした。ただ、膝の上の手を拳に握っておりました。

 

「ああ、失敬。申し遅れました、私は桂木市雄。使いの者から聞いておいででしょうが――」

 内ポケットから出した写真を、軽く叩きつけるように音を立ててテーブルに置きます。写真には、市雄と一緒に背の高い女性が写っていました。

「この女性、秋津史乃さんを呼んでいただきたい。私の妻になるはずだった女性です。……おできになりますか」

 

 絲子がじっと写真を見ていると、市雄は強くため息をつきました。

「おできにならないなら、おっしゃってくれれば結構。責めはいたしませんよ、慣れています……あなたのような方をほうぼうからお呼びしましたのでね」

 どうあれ、あなたで最後にするつもりですが。足を揺すりながら、独り言のようにそう言いました。

 

 絲子は写真を見たままつぶやきます。

「この、女の人……煙草、吸われるんです、ね。珍しい(めずらっしゃ)

 市雄の足踏みが止まりました。写真に写っている史乃は笑って立っているだけで、煙草を手にしてすらいませんでした。

 

「亡くなられたんが、九ヶ月前。おうちの火事で」

 市雄が見ているのに気づいて、絲子はうつむきました。しばらく黙った後、息を吸い込んでからゆっくりと話します。

 

「あの、うち、視えますから(けん)、そういうん。死んどる人のことは、なんとなく。……生きとる人のことは、何にも(なんちゃ)分からんのに」

 またしばらく黙った後、顔を上げました。檜皮色の瞳で真っすぐに市雄を見ました。

「もう、始めてもええですか」――

 

 

 そうして、今。

 ガラスの灰皿で煙草を消した後、市雄は後ろから史乃を抱きかかえました。まるで人形のように抱えたまま椅子に座ります。史乃の頭は、市雄の首の辺りにもたれかかりました。市雄は史乃のくわえた煙草をそっと抜き取ると、灰皿に押しつけました。

 

 史乃は言います。

「この小さな体、あなたにはとっても便利でしょうこと。子供をあやすほどの手間で、何でもお好きになされるんですもの。あたくしのわがままに手を焼くこともありませんでしょうからね」

 市雄は笑いました。

「とんでもない。と、言っておきましょう」

 

 膝の上で身をよじらせ、史乃は市雄を見上げました。

「でも、あたくしにも少しは便利ですわ。こんなふうに抱き上げられるのも愉快ですもの。お人形さんのように子供のように、あなたに全部を預けてしまうのも」

 市雄の胸に頬を寄せ、目をつむりました。それから背を伸ばして、首筋にそっと口づけたのでした。その、小さな唇で。

 

 

 

 

 ――初めて呼ぶ人のための儀式だったので、かなり時間はかかりましたが。絲子はしっかりと、写真の女性を呼びました。心がつるりと押し出され、その辺りをぼうっとたゆたいます。

 

 どれほど経ってか、絲子の意識が戻ってきたとき。何やら目をつむったまま、温かで大きな、万力のようなものに締めつけられている感覚がしました。その万力は硬くはなく、しかし堅い力がこもっていて、煙草の匂いがしました。それはかぎ慣れない、なんだか心臓の据わりがよくない気がしてくる、落ち着かない匂いでした。けれど、決して悪い匂いではありませんでした。

 

「もう、どこへも行かないで下さいますか」

 不意にそんな声が聞こえて、絲子は身を震わせました。その声は耳からも聞こえましたが、胸にも響いてきた気がしました。自分を締めつけているものから、響きが伝わってきたのです。

 目を開けるとすぐそこに、互いの息がかかるような距離に、市雄の顔がありました。それが一心に、絲子を見つめているのです。

 

 ほんの何秒か息をするのを忘れた後。思わず絲子は飛びのきました。ですが、市雄の腕が絲子を抱き締めていたので、下がることはできませんでした。代わりに市雄が引っ張られ、絲子の方へ倒れかかりました。

 

 市雄と絲子の顔がすれ違い、頬と頬とが触れ合ったまま、市雄が言いました。

「っと……失敬、もしや……先生で」

 ほんのかすかな声で、はい、と返事をすると。

 弾かれたように市雄は飛びのき、深く勢いよく頭を下げました。

「これは、失礼いたしました。いえ――」

 絨毯に膝をついて手をついて、額をこすりつけるように、いや叩きつけるように頭を下げました。

「――非礼の数々、まことに申しわけございませんでした! 先生のお力、正に私の求めたとおりのものです!」

 

「あ……や、あの……」

 どうしていいか分からず、何か言いたげに手を伸ばすと。跳ね上がるように顔を上げた市雄がその手を握り、何度も上下に振るいました。そのたびに、絲子の頭はがくがくと揺さぶられました。

「ありがとうございます、感謝いたします! 確かに、確かに彼女でした! 僕は、僕はもう一度史乃さんと会えた!」

 

 立ち上がり、もう一度頭を下げた後、市雄は手を離しました。入口のドアを開け、廊下へ声を上げます。

「誰か! 誰か先生にお茶を、菓子をお持ちしてくれたまえ! すぐにだ!」

 

 その声を遠くに聞きながら、絲子は自分の手を見つめていました。強く握られて赤くなったそれをとても熱く感じました。けれど自分の額と、頬と、耳たぶと、割れるように鳴る胸の中を、もっと熱く感じたのです――

 

 

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