ソウル・ラバー・ソウル   作:木下望太郎

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三話  侍女、そして敵するもの

 

 そうして、今。

 やがてするりと吸われるように、自分の心が体へと戻りました。

 

 絲子の体は目をつむっていたようでした。口が何かに当たっているのに気づきました。それは温もりがあってわずかに柔らかく、厚みのあるものでした。

 

 大きな手が絲子の頭をなで、もう片方の手がきつく背中に回されていました。それで市雄に抱かれていることも、自分が何に口づけているかも分かったのです。

 思わず身をすくませ、唇を離しましたが。もう少し、ほんの少しだけこのまま、史乃のままでいるふりをしようと思いました。

 

「先生……お戻り、ですか。これは失敬」

 なのに市雄は気づいて、絲子の体を引き離すのです。絲子を軽く抱き上げて立たせると自分も立ち上がり、微笑んで深く頭を下げます。

「本当にありがとうございました。お疲れでしょう、どうぞ、お部屋でごゆるりと」

 

 絲子も小さく頭を下げます。笑う余裕も、そんな気もありませんでしたが。

 道具を木箱に入れ、辺りに散らした紙吹雪を拾おうとしたところで市雄が言います。

「先生、そのようなことはうちの者に任せてお休み下さい。焼却すればよろしいのでしたね」

 

 絲子は何も言わずうなずきました。それから、様々な言いたいことが胸に渦巻いて、何をどう言うべきかも分からなくて、

「何日か、休みが要りますけど……あの方、何度(なんべん)も呼んだんで、だいぶ呼びやすうなってます。こう、道筋ができたいうか。だから(やけん)、今度はもっと儀式(おしき)も短くなります。それに、少しは長く呼んどれる、思います」

 そんな説明だけをして、うつむきながら部屋を後にしたのでした。

 

 

 

 

 貸し与えられた自室のドアを開くと、若い女性の声がしました。

 

「お帰りなさいまし、おっ疲れ様でございました!」

 歳の頃は二十六、七。(ほうき)を手にした、ゆったりとした黒の洋装に白の洋前掛(エプロン)を着けた女中さん。髪を後ろでお団子にまとめ、軽く波打った前髪を顔の両側に垂らした綺麗な女性。絲子の世話係となった桂木家の女中、杉本 小梅(こうめ)でした。

 

 小梅は箒を放り出して駆け寄ります。笑って、絲子の髪をくしゃくしゃとなで、祭具の木箱をひったくるように取ると近くの長椅子に置いて。戸口に立ったままの絲子を引っ張り込んでドアを閉めて。

「さぞお疲れでございましょ、さぁさぁさ、どーぞどーぞごゆるりとしちゃって下さいまし」

 

 後ろから背中を押して、絲子を長椅子に座らせて。絨毯の上に転がした箒を拾って。ドアの方へ大股に歩くと立ち止まり、小首を傾げて尋ねます。

「お飲み物でもお持ちいたしましょ、いつものでよろしゅうございますか?」

「……うめさん」

「はい?」

 絲子は小梅を見上げて笑い、ようやく言いました。

「ただいま」

 小梅も同じ表情で応えます。

「おっ帰りなさいまし」

 

 

 

 

 小梅が早足でお茶を淹れに行っている間に、絲子は白装束を着替えました。里から持ってきた、紺の(かすり)の着物でした。

 息をついて寝台に腰を下ろします。ばねの利いた寝台は絲子の体を大きく揺らしました。とても大きな寝台でした。絲子なら三人は横になれそうな、寝ているだけでもったいない気分になる寝台でした。そして、その大きな寝台が入っている部屋は当然、もっと大きいのでした。市雄の部屋よりは手狭ですけども、座敷かと思うぐらいの広さがあります。その中に、寝台と書き物机と、長椅子とテーブルに椅子二脚があります。家具にはそれぞれ、市雄の部屋のものと似た、植物のつるのような意匠が彫り込まれていました。

 

 窓の外には何の畑かと思うような広さの庭園が広がり、小さな噴水も見えます。まだ花は咲いておりませんが、桜の木が離れのそばに並んで植わっていました。

煉瓦作りの塀の向こうにはコンクリート造りの二階建て程のビルヂングが並び、ぽつぽつと瓦葺きの民家や商店が建っています。お屋敷から離れるほどそうした民家は多いようでした。それらの向こうには川が横に走り、その先にはまた家並みが続いていました。

 ビルヂングは見慣れないものでしたので、それらの民家を見ているとほっとする、と言いたいところでしたが、実際には違いました。あまりにその数が多く、里から山を越えて町へ出たときですら見たこともないほど多く、まるで虫か何かの群れのようで、目まいを覚えるのでした。

 

 視線を部屋の内へ戻し、息をついて寝台に寝転がりました。手を肩の辺りに投げ出して、足を寝台の端からぶらぶらさせるのでした。えらいとこに来たなぁ(のう)と、いつもながらそう思うのでした。

 

 ノックの音がゆっくり三度響き、失礼いたします、と言いながら小梅が入ってきます。テーブルに茶托に乗せた湯飲みを二つ置きました。

 湯飲みの中は昆布茶でした。お屋敷に来て間もない頃、紅茶を飲もうとしない絲子に、小梅が聞いてきたのです。何かお好みのお飲み物は、と。それで、遠慮すべきところをうっかりと言ってしまったのでした。両手で数えられるほどしか飲んだことはありませんが、好物だったのです。

 礼を言って長椅子に座りました。両手で湯飲みを持って音を立ててすすり、塩辛い旨みを味わって小さく息をつきます。

 小梅も向かいの椅子に座り、もう一つの湯飲みを取りました。これも絲子がお屋敷に来た頃頼んだことでした。自分一人だけお茶をいただくのがなんだか申し訳なかったのです。

 

 昆布茶をすすった後で、小梅が小さく身を乗り出します。

「いかがなもんでございました、今日のお調子は」

「うん、まあまあ慣れてきたから(けん)――」

 そこまで言って、市雄の首に口づけていたこと、膝の上で抱かれていたことを思い出して、うつむきました。

「――普通、でした」

 

 そのとき、ドアを叩く音がしました。鋭く速い三度のノック。その後に、市雄より年若い男の声がしました。

「私だ、入るぞ」

 

 入ってきたのは、黒の詰襟を着た十五、六歳くらいの少年でした。眼鏡をかけ、髪は短めで年の割に背は高く、細い眉と鋭い目つきをした人でした。体に貼りつけたようにぴっちりと着こなした学生服は彼の真っすぐな姿勢のせいか、まるで軍服のようにも見えました。市雄の弟、桂木 次道(つぐみち)氏です。

 

 小梅は即座に席を立ち、礼をしました。

「お帰りなさいまし。今日はお早いようですけれど、学校はどうなさったのでございます?」

 絲子の向かいの椅子に音を立てて座りながら、次道は答えました。

「早引きしたさ、家の者の病気見舞いと称してな。不自然ではなかろう。なにせ、兄上がおいたわしいことになっておられるのは周知の事実だ」

 

 制服のポケットから扇子を取り出すと、音を立てて何度か手の平を打ちました。絲子を見て鼻息をつきます。

「このような、妙な者を連れ込んでいるのも早晩知れよう。さて――」

 次道は手を組み、膝の上に肘を乗せ身を乗り出しました。それは市雄と似たしぐさでしたが、背を丸めるというよりは、真っすぐ前に倒す形で身を乗り出していました。

 その突き刺してくるような眼差しが苦手で、絲子は目をそらしました。

「――今日の分だ、2二銀。さあ」

 言って、促すようにあごをしゃくります。

 

 うなずき、うつむき、絲子は小さく唱えます。かんだりしんそんけんごんこん、と、先ほども唱えていた言葉を。

 しばらく唱えた後声を止め、目だけ上げてつぶやきました。

「6五桂」

 次道は、ふむ、とうなって、胸ポケットから出した手帳に万年筆を走らせます。また扇子を持ち、中空を見つめながらぴしゃりぴしゃりと手を打ちます。何か二、三手帳に書き留めると、音を立てて手帳を閉じました。

 一日一手ずつ、絲子と次道はこの妙な将棋を指しているのでした。

 

 

 

 

 ――屋敷に来て三日目、次道が言ったのです。本当に霊媒師だというならお祖父様を呼んでみせろ、お祖父様は私に言いたいことがあったはずだ、と。そこで絲子は、二年前に亡くなられた桂木兄弟の祖父、幸利卿を自分の身に降ろしたのですが。

 卿は、絲子の小さな体に入った卿は次道を見て、片眉をわずかに上げました。何も語らず、懐手でしばし瞑目した後、

「7三桂」

 それだけ言いました。次の瞬間には、卿はもうそこにおりませんでした。

 次の日、次道はもう一度卿を呼ぶよう絲子に言いました。卿が来ると次道は言いました。

「5一金」

 卿は片眉を上げ、胸をかいた後言いました。

「3七香成」

 少し考え、次道が答えます。

「4三銀」

声をかぶせるように素早く、つばを飛ばして卿が言います。

「同飛」

 

 やがてひとしきり指した後、絲子の意識が戻ってきたとき。次道は絲子に向かい、背筋を伸ばしたままわずかに頭を下げました。

「なるほど、あながち嘘でもない。信じられないが間違いもない、今の手筋、確かにお祖父様のものだ」

 

 しばらく後で市雄に聞いたところ、卿は亡くなられる二日前、次道と将棋を指していたそうです。具合が悪くなり、中途で置いていたそれを、絲子の呼んだ卿はあやまたず再開させたのでした。その盤は指しかけたままで、今も亡き卿の部屋に置かれてあるそうです。無論、盤も駒もなく将棋を指すことは、慣れた者ならそう難しいことでもありません。

 

 その話をした際に市雄はこうも言いました。――お祖父様は、僕には「強くなれ、弱くはないがお前は柔い。強くあれ」なんておっしゃったんですがね。弟には「それで良い。言うことはない」とおっしゃいました。昔の方だ、一度そうおっしゃったからには、また会ったとて何もおっしゃりたくないんでしょう――

 

 それ以降、この不思議な将棋は続けられているのです。絲子の体に負担がかからないようほんのわずかな時間で、一日一手ずつ――

 

 

 

 

 息をつくと、次道は椅子にもたれかかりました。足を組み、絲子を真っすぐに見ます。

「しかし、疑うわけではないが。本当の本当に霊媒などできるとして、だ。貴様は大したたわけだな」

 足を組んだまま身を乗り出し、扇子の先で絲子を指します。

「考えてもみろ。たとえば将棋にしろ、死んだ名人はいくらでもいるだろう。それだけではない、文においては清少納言や紫式部、西行法師に和泉式部。武にあっては楠正成、織田信長。思想で言うなら空海、一休、それどころか釈迦に基督(キリスト)。まあ武の者は無理か知らんが……それらの者一人でも呼んでみろ、それを続けるだけで一生食うには困るまい」

 

 絲子は目をそらし、笑った形に顔を歪めました。

「……やってみたことはないですけど、多分いかんと思います……あんまり昔の人は。それにうちのばあちゃん()おったけん、頼まれもせんのに知らん人降ろしたらいかんって」

 

 次道は鼻で息をつきました。音を立てて扇子を広げ、二、三度煽ぎます。

「つまらんな」

 それだけ言うと、靴を絨毯に打ちつけるように立ち上がって出ていきました。

 

 ドアの閉まる音の後。絲子は胸の奥から長く息を吐き、ずり落ちるように椅子にもたれました。

 小梅が笑って頭を下げます。

「おっ疲れさまでございました」

 

 絲子は小さく笑ってうなずきました。

 小梅は後ろに回ると頭をなで、肩をもんできました。

「まぁまぁまぁ、お可哀相に、本当にお疲れで。何てったってあの方……苦手でございましょ?」

「や、そんな、苦手いうわけやなくて(のうて)……」

 口にしかけた言い訳は、小梅がくすぐってきたせいで途中から声になりませんでした。

 身をよじって絲子もくすぐり返し、ひとしきり笑い合った後で小梅が言います。

「まあその、何というかあれですけれど。お疲れ様と申しますか気分転換と申しますか。ちょいとお出かけいたしません?」

 

 

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