ソウル・ラバー・ソウル   作:木下望太郎

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四話  帝都にて、お出かけの日に

 

 石畳の通りを二人は歩いていきます。温かくなってきたとはいえ、まだ桜には早い季節でした。緩く吹く風がひどく冷たいものに思えました。

 

 両側に並んだ商店は、見慣れた和風の建物もあれば洋風の造りもあり、また灰色のビルヂングもあるといった様子でした。建物の高さも色も商う物も様々でした。

 それは絲子の知る街並みとはかけ離れたものでした。もっと似たような色をした似たような高さの似たような建物が並ぶ町しか、帝都に来るまでは見たことがありませんでした。もっとも、それとてよく知っているわけでもありません。

 そもそも、家が並んで立っているところすら見慣れてはいません。お隣の家まで行くには田の間の道を通り池の端を回り、山の木々の間を縫う小道を通ってやっと着く。絲子が祖母と住んでいた生方村はそんな所でした。のどかに見えて田舎の一日は短く、お隣の家へ行って帰ると、それだけでもう半日が過ぎているのでした。

 

 そこへいくと帝都の時はとても長いようでした。何か買い物などありましても、その辺をちょっと歩くだけで用事が済むのでした。決して一日仕事などではないのです。そんなに時間が余って帝都の人たちはどうしているのか、絲子はよく分かりませんでした。

 分からないと言えば、それほど長い日があるのにどうして皆急ぎ足なのか、それも分かりませんでした。帝都の道にはいつも足音が満ちています。革靴の硬い音、草履の端を引きずる音。人力車の車輪が石畳にがたがたと揺れる音。

 

 そんな中を小梅と歩いていきます。絲子は着物の上から黒の羽織を着て、かっ、こっ、からっ、こっ、と桐下駄の音を立てて歩いています。その黒塗りの細い下駄はよそ行きとして里から履いてきたものですが、硬い石畳の道を歩くにはあまり向かないものでした。

 

 小梅は前掛を外し、洋装の上から黒いインバネスのコートを羽織っています。こっ、こっ、こっ、と、革靴の硬い音を立てて歩いていきます。

 その音はなんとも歩き慣れた風というか、お屋敷にあった大時計の振り子のような音でした。聞き慣れないけれど心地よい音で、小梅と歩くときはいつもその音に耳を澄ませていました。そして川の流れのような人波の中を、小梅の背中を見失わないようについていくのでした。そのすらりとした背中から、硬く滑らかな靴音から取り残されてしまうと、どこにも帰ることができないような気がして。

 

 しばらく歩いた後、お目当てのお店に着きました。全体を白く塗った洋風の木造建築は、以前にも二人で来たことがある喫茶店(ミルクホール)、白花亭でした。

 

 

 生クリームというものは本当に、とろけるように美味しいものでした。

 ふわふわとしたスポンジの上に乗った、もっとふわふわとしたクリームをほんの少し、フォークの先ですくい取ってそっと舌に乗せます。しゅるりと溶けて、じわっ、と甘味が舌に染みこみます。

 

「それにしても絲子さん、ほんっとに美味しそうに食べますのね」

 珈琲をすすった後、小梅がそう言って笑いました。

 フォークを口に入れたまま、絲子はとろけるような顔でうなずきました。

 

 小梅は手を伸ばし、ゆっくりと絲子の頭をなでました。白く優しく柔らかく、冷たくて心地のよい手でした。

「絲子さんのお婿さんになる方はお幸せでございましょうね。美味しそうに食べる女は美人さんだって昔っから決まってますもの」

 

 聞いたことのない話に、絲子は小首をかしげます。

 小梅は言います。

「うちのおっかさんがね、そう言ってましたの。幸せそうな顔で笑えりゃどんな女だって美人だし、ちっとのことでそんな顔ができる女は心が美人だって」

 背筋を伸ばし、胸を叩いて続けます。

「ンだから、絲子さんが大美人だっつう話は、このうめ姉さんが請け負いますわ。お婿さんが幸せ者っつうのもね」

 少し顔が熱くなるのを感じて、絲子は指を組んでうつむきました。

 

 それはたぶん、生まれて初めて容姿をほめられたからでもありましたけれど。それ以上に、あることを想像してしまったからでした。幸せ者のお婿さんというものに、市雄のことを想像してしまったのです。史乃を呼んだ後に目覚めたときの、あの幸せそうな顔で自分のそばにいる市雄を。

 

 だから、小梅が「ところで五位さまって」と話し出したとき、肩が跳ねるように震えてしまいました。

 華族の嫡男に与えられる従五位の位を持っておりますので、市雄は使用人からそう呼ばれていました。その呼び名は、一般に華族の嫡男を指すものでもありました。

 

 小梅は気にしたふうもなく続けます。

「今はあのとおりご機嫌もよろしいんですがね。その前はいろいろ大変でございましたわ。ずいぶん塞ぎ込まれて、お部屋から出ようともなさいませんでしたし」

 そういえば今も、市雄が屋敷から出たのを見たことがありませんでした。

「大学の方もずーっとお休みで、っつかそれは今もお休みですけど。まぁ元々、華族身分で優先して入れるとこに滑り込んだって感じでございましたし。それでもま、ご機嫌よろしくなられたのも絲子さんがいらっしゃってからですわ。わたくしどもとしましても、本っ当ありがたいことでございます」

 

 小梅は頭を下げるのでしたが、絲子は首を横に振りました。

「それは……うちの、お陰やないです。うちなんぞは何でもなくて|(なんちゃでのうて)、ぜぇんぶあの人が、史乃さんが帰ってきたから(けん)やと思います」

 

 それはたとえばお豆腐を買って帰るときに、鍋に入れても鉢にいれてもいいようなものでした。大事なのはお豆腐であって、器などは何でも構わないのでした。

 この日本のうち、遥か北国にも南の果ての島にも優れた霊媒がいる、と祖母からは聞いています。市雄はそうした人たちを求めてうまくいかなかったようですけれど、それはただめぐり合わせが悪く、ちゃんとした人に出会わなかったというだけでしょう。絲子ぐらいの人はいくらもいるのです。いくらでも替えのきく器なのです。

 

 そう思うと胸の中が軋みます。ひびが入るような感覚を覚えます。そうして自然、うつむいてしまうのです。

 

「いぃーえ」

 小梅はゆっくりと、しかし強く首を横に振りました。

「だったとしても、それをなさって下すったのは絲子さんでございます。絲子さんがあの方を呼んだ、絲子さんが五位さまのお望みを叶えたんでございます。そいつぁもう、どうなろーと終生変わらねぇ話でございます」

 

 気がつけば、絲子は口を開けていました。頬が熱くなっていました。胸に小さく響く鼓動の一打ち一打ちに、温かいものを感じました。

 

 小梅は息をつきました。慈しむような表情をしていました。

「お好きなんですのね」

 絲子は小さくうなずいて、その後で、小梅が何を言ったのか気づきました。

 

 小梅は楽しげに微笑みました。

「お好きでいらっしゃいますのね、五位さまのこと」

 

 絲子は何度か魚みたいに口を開けましたが、言葉は何も出てきませんでした。息もなんだかできていませんでした。その後で力いっぱい、体全体を使って首を横に振りました。何度も何度も振りました。

 

 小梅は歯を見せて、小さく声を上げて笑います。

「見てりゃあ分かります、バレっバレでございます。そりゃもうとっくの昔にバレバレ済みでございますよ。まぁまぁまぁ、結構なことじゃござンせんか」

 三味線を弾くような手まねで、ベベン、と唸って語りました。

「ア、(こい)という字をくだいてみればッ、ベンベン。(いと)し、糸しと言う心。サァ、(こい)に焦がれて鳴く(せみ)よりも、ア、鳴かぬ蛍が、身を焦がすゥ……ベベン、ってね。もぅ、お可愛らしいこと、いじらしいこと」

 手を伸ばし、絲子の頭をくしゃくしゃになで回します。

 

 その手が引っ込められた後、絲子は口を開け閉めしながら両手を前に上げました。その手は何か言いたげに動いていましたが、何を言いたいのかは自分でも分かりませんでした。

 

「誰にも言っちゃだめ、って? えぇえぇえぇ、そいつぁしっかり分かってますって。百も合点(がってん)、二百も承知! うめ姉さんを信用しちゃって下さいまし」

 胸を叩く小梅を見ながら、自分はそう言いたかったのか、と気づいて。それでようやく落ち着いてきました。

 

 そうして、思い出してしまうのです。

どっちにしろ(どっちゃせ)何にも(なんちゃ)ならん。何にも(なんちゃ)ならんわ、うちじゃ」

 望みを叶えたのは自分でも、市雄が望んでいるのは自分ではないと。自分はただの器なのだと。

 

「……お可哀相に」

 小梅は言って、手を伸ばしました。その指が掌が、絲子の頭をゆっくりとなでます。

 

 自然と絲子は目をつむっていました。やがてその指が下へ移り、耳を、頬を、首筋をなでました。冷たくて柔らかい、吸いつくような指でした。

 

 そうだ、と言って小梅は笑います。

「これから絲子さんのこと、こいさん、って呼びますわ。上方の方じゃお嬢さまのことをいとはん、末のお嬢さんをこいとさん、こいさんって呼ぶんだそうでございます」

 そして人差し指を一つずつ立てます。

「五位さまと、こいさん。ね、可愛らしいでございましょ」

絲子が何も言わずにいると、小梅は言いました。

「五位さまもちっとは周りをご覧になったらよろしいのに、あの方だけじゃなしに。……ほんとに、ばかな方」

 ため息をついて続けます。

「だいたいあの方とはもう、この世で結ばれるなんてありえませんのにね」

 

 そう聞いたとき、絲子は胸に一つ鼓動を感じたのです。体の芯を揺るがす鼓動を。

 

 

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