ソウル・ラバー・ソウル   作:木下望太郎

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五話  渇く

 

 その夜、真っ暗な部屋の中で。寝台で横になりながら、絲子は眠れませんでした。暗闇の中で目を開いていました。

 鼓動が高いのです。鎮まらないのです。(たか)ぶるのです。

市雄の、五位さまの顔ばかり浮かぶのです。史乃を呼んだ後、絲子を抱き止めた腕の力強さや胸の温かさばかり蘇えるのです。

 

 絲子の心が戻ってくるまでの間、史乃が絲子の体に入っている間、二人は何を話しているのでしょうか。二人はどうしているのでしょうか。笑い合っているでしょう。見つめ合っているでしょう。抱き締め合っているでしょう、絲子が帰ってくるまで。

 

 そう考えたとき、あることを思い出して。突き刺すような痛みを胸に、殴られたような衝撃を頭に感じました。

 ごく当たり前のこと、自分でも分かっていること。五位さまが笑いかけるのも見つめるのも、抱き締めるのも、自分ではないということを。

 

 気づけば、布団を握り締めていました。引き裂くような力を込めて握っていました。

 

 今日の昼に史乃へ体を明け渡した後、目覚めたときのことを思い出しました。絲子は口づけていたのです、五位さまの首筋に。史乃は口づけていたのです。

 そう考えて、絲子は体を丸めました。横を向き、胎児のように丸くなりました。そうして布団を抱き締めました。潰すように抱き締めました。呼吸が速くなっていました。

 何をしているのでしょう、何をしているのでしょう。絲子の知らないところで史乃は、五位さまは。史乃が口づけて、史乃を抱き締めて、それから? 

 

 男の人のなさりたいことは、子を()すための営みについては、知らないではありませんでした。

 これまでにも、亡き愛する人を呼んでほしいという方はいくらもありました。そして、亡くなった方の写真や遺品を見ると、絲子はその方の生前の姿を見ることができるのでした。どんなことを言ってどう振舞ったのか。それは夜のことについても。

 

 といって、その営みを実際にしたことはありません。亡き愛する人を呼んで欲しいという人たちにも、そうすることを求められたことはありません。おそらく今度もないでしょう。それはもちろん、そのことが真っ当な求めでないからであり、絲子が器としてあまりに小さいからでもありました。

 

 けれど絲子は思うのです。生前の史乃に、五位さまはその営みを求めただろうかと。

 

 絲子は布団を抱き締めました。呼吸が速くなっていました。抱いた布団の端を、引き裂くように噛み締めていました。

 五位さまの手はあれほど温かかったのに、あれほど近くにいたのに。抱き締めていたのは、絲子ではないのでした。

 

 跳ね起きるように体を起こしました。抱いていた布団に手を叩きつけました。呼吸が速くなっていたのに気づきました。吸っても吸っても空気が足りませんでした。

 暗闇の部屋で、ただ肩を上下させていました。目を見開いたままだったことに気づいて、瞬きをします。焼きつくように痛んだ目から、涙がこぼれました。

喉がひどく渇いていました。噛みついていた布団の端は、生温かく濡れていました。

 

 

 

 

 夜が明けて、絲子は屋敷の食堂にいました。市雄の部屋よりも一回り広く、庭に面した大きな窓から気持ちよく朝の日が入る部屋でした。それでも、屋敷に来た頃など市雄は「手狭で申し訳ありません、本邸ならもう少し広いのですが……そちらまでご足労いただくのも失礼と思いまして」と言ったものでした。

 

 染み一つないテーブルクロスのかかった長机の端で、絲子は両手で湯飲みを持って玄米茶をすすっていました。

 ため息をつきます。

 昨夜は明け方に少ししか眠れませんでした。ずっと同じことばかり考えていたのです。

 

「お早いですね、先生」

 だから、市雄にそう声をかけられたときは、飛び上がるように肩をすくめてしまいました。

 座ったままそちらを向いて、いや、体だけ向けて顔はうつむけて、小さく頭を下げました。何も言えませんでした。顔など見られませんでした。

 

「おや……失敬、先生そのままで。お(ぐし)がお乱れですよ」

 そんなときに絲子の頭へ手を伸ばされたものですから、また身をすくませてしまいました。首根っこを押さえられた猫の子のように体を固くしていました。

 市雄は洋装の内ポケットから櫛を取り出すと、絲子の髪をとかしました。もう片方の手で軽く髪を押さえて。なでるように何度も、そっと。その手に体温を感じて、思い出すのでした。胸の内に火のつくような気持ち、頭の中が焦げつくような気持ちを。渇くような気持ちを。

 

 不意に、次道の声がしました。

「兄上……たわけたことをなされますな」

 市雄は手を止めて笑いかけました。

「おはよう。たわけとは、また大層なあいさつだな」

 次道は扇子を手に打ちつけます。

「まるで小姓か、さもなくば理髪師のごときなさりよう。世が世なら宗州天辺(そうしゅうあまのべ)十七万石の世継ぎであった者の、なさることとも思われませんな」

 

 市雄はわずかに表情を固くして笑いました。

「小姓とは、また大時代じゃないか。だいたいお前は分かってない、世が世にあらず、余の世にあらず。藩主だのお大名だのずっと昔のことだ」

 はっきりと顔を固くして次道が答えます。

「だったとしても御家は御家。そのような者に馴れ馴れしくなさいますな」

 絲子をかばうように、市雄が半歩前へ出ます。

「そのようなとは何だ。先生に失礼だろう」

 一言ずつ扇子を打ち鳴らしながら次道が答えます。

「平民・女・加えて胡乱(うろん)! そもそも席を同じくすべきではないのですよ、その先生とは。私に言わせれば、その異能なくば桂木の門をくぐるべきですらない」

「なんだと――」

 こわばった顔で市雄が口を開きかけたとき。

 

「あ、の……ごめん、なさい」

 絲子はどうにか、胸の底からそう言葉を絞り出しました。

 市雄はとたんに表情を崩し、押さえるように手を向けました。

「いえ、先生は何も。謝るべきは弟の方で、ああその、そもそも人の権利や価値というものはですね、生まれなどでは――」

絲子は小首を曲げて頭を下げました。

「ごめんなさい。今度から、ちゃんとしてきますけん。髪の毛」

 間を置いて次道が顔をしかめます。

「そういう問題では――」

 市雄が声を上げました。

「そうですな! いや先生、身だしなみはしっかりしていただかないと。なにせ当家は十七万石、格式も高いですからな。さあ、この話はいいだろう。飯だ飯だ!」

 

 手を叩くと隣室から女中らが現れ、テーブルに並べられたお椀にご飯や汁物をよそい始めました。元々桂木家の朝食は洋風でしたが、いかにも不器用に食べる絲子を見て市雄が変えさせたのです。

 

 

 そうして、周りに控えている女中をのぞけば三人きりの朝食は終わりました。

ご当主夫妻は本邸の方で暮らされており、こちらの離れには兄弟が暮らしているのみでした。史乃の死後に塞ぎ込んで後、市雄の部屋をこちらへ無理に移させ、お目付け役として次道も移ったのでした。小梅ら使用人も何人か住み込んでいる他、絲子の部屋もこちらにありました。

 

 今は三人とも食後の飲み物を飲んでいます。

 昨日の明け方前に思いついたこと、食事中もずっと考えていたことを言おうとして、言えずにただ茶をすすって。二杯目の昆布茶が空になったところで、絲子はようやく言いました。喉がすっかり渇いていました。

「あの……五位、さま。お願いがあります」

 

 市雄が珈琲を置き、言います。

「珍しいですね。いえいえ、良いんです、むしろ嬉しいのですよ。返しようもないご恩が少しでも返せるのでね。何です? 何か欲しいものでも、それとも給金が不足でしょうか」

 絲子は慌てて首を横へ振ります。お給金は十分な額を、それこそ見たこともない金額をもらって、ほとんどを祖母へと送っています。

「あの、史乃、さんの……写真や遺品とか他にあったら、お貸しいただきたいんですが」

 遺品一つ視ただけでは絲子も何もかも分かるわけではありません。断片的な姿しか見えないのです。

 手の届かないことではあるけれど、もっと知りたい。二人のことを、市雄のことを。だから見たい、そう思っていました。知ることのできるもので、知らないことがあるのが我慢できないと。

 

 なぜか、市雄はすぐに答えませんでした。何か考えている風でした。

「……なるほど、それらがあった方が彼女を呼ぶのに何か都合がよい、ということですか」

 絲子が何度もうなずくと、市雄はようやく表情を崩しました。

「そうですね、いくつかありますのでお見せしましょう。この後にでも部屋の方に――」

「その前に。私の部屋にも来ていただけましょうか、先生」

 言ったのは次道でした。手にしていた新聞を放り出し、茶をすすってから続けます。

「ねえさまからいただいた物があるのでね。私は兄上と違って学校がありますゆえ、早いほうがいい」

 ねえさま、とは史乃のことなのでしょうが。その言葉には皮肉な、侮蔑するような響きがこもっていました。

 

 

 

 

「珍しいこともある、そう思うたか? それともこうか、面倒なことになった、と」

 絲子は次道の部屋にいました。そこは市雄の部屋より狭く絲子の部屋より広いくらいの大きさでした。

 すぐに学校へ発つからでしょうか、カーテンが閉められ、隙間から光が差し込むだけの薄暗い部屋でした。家具は市雄の部屋ほど多くありませんが、同様に高級そうなものでした。ただ、背の低い箪笥の上に、大小の刀が掛けられた飾り台が載せられていました。

 

 次道は絲子に背を向け、書き物机の引き出しを探っています。

「あった、そら」

 取り出した小さめの額縁を絲子のそばの椅子に放ります。

 

 見れば、その中には油絵が収められていました。花瓶に生けられた様々な花を描いたもので、ごてごてと絵の具をぶ厚く塗りたくった、激しい筆づかいの絵でした。果たしてそれが上手いのか下手なのかは分かりませんでした。ただ不思議なことに、色とりどりであるはずの花々は、どれもひどく赤みがかった色で描かれていました。百合も薔薇も霞草も向日葵も夕日に照らされたように、むしろ間近で炎にさらされているように赤いのでした。

 

 目にした瞬間に何かを感じかけましたが、次道の声によってそれは途切れました。

「ねえさまが描いたものだそうだ。兄上に彼女と引き合わされたとき、贈ってきた」

「どんな、方やったんですか」

 絨毯にかかとを打ちつけるように、足音を立てて歩き回りながら次道は言います。

「美しいことは美しい女だった。ただ、モガというのか。当世風というか、薄っぺらな美しさだ。化粧臭くてかなわなんだよ。あれが義姉(あね)になるというのも、ぞっとしない話だ。まあ、どの道無理だったろうが」

 

 見上げた絲子の視線に気づいたように、次道は先を続けます。

「身分違いの(こい)というやつだ、桂木の家も認めてはおらん。芝居や講談なら美談で丸く収まるか心中でもするかだが、当家のお世継ぎはこのとおりだ。ねえさまは新進の絵描きだったとかだが、絵の腕もそのとおり。落書き同然だ」

 

 次道は小さく笑いました。

「私に言えるのはそのくらいだ、後は知らん。ただ――」

 靴音を高く響かせ、絲子の前で足を止めます。のぞきこむように絲子の目を見つめました。

「――妙なのだよ。貴様が屋敷にきてもうひと月だ。霊媒の補助とするなら、こうしたことをなぜ最初に聞かなかった? 貴様の行動には理が通っておらん」

 

 視線の重さに耐え切れずうつむいて、つばを飲んで。正直に謝ってしまおうかと思いながら、言いました。

「それはっ、最初は、そういうん知らんのがええんです。変にその人のこと知っとると、うちの頭が考えてしまう。うちの心が、体にしがみついてしまう。そしたら、その人の心が入ってこれんのです。そやけど、その人に慣れてきたら、その人に体を明け渡すんに慣れたら、よう知ってる方が呼びやすい。やけん、もし何度も(なんべんなし)同じ(おんなし)人呼ぶんやったらそうせえって、祖母からよう言いつかっとります」

 

 嘘でした。聞いたこともないし考えてもいない嘘が、胸の底からすらすらと出てきました。そんなことを堂々と言える自分に驚きました。今までは、嘘をつくよりもただ口ごもることの方が多かったのに。

 

「なるほど? 何ぞ企んでおるのかとも思ったが。まあいい、下がってよい」

 絵を抱きかかえ、絲子は深く頭を下げました。胸の奥から自然と息がこぼれました。ほんの少し、笑っていました。

 

 次道が小さく吹き出します。

「ほっとした、という顔だな」

 動きを止めた絲子を見て、次道は笑いました。

「冗談だ。しかし、貴様も笑うのだな。ヒナカタというものは、笑ってはならぬという掟でもあるのかと思っていたが。……下がってよい」

 急いで頭を下げ、部屋を出ました。

ドアを閉めた後でふと、次道の自然な笑顔も初めて見た、と思いました。

 

 

 

 

「やぁ、先生。弟が何か、失礼なことでも言いませんでしたか」

 向かいの椅子に座った市雄の言葉に、首を横に振っておきました。

 市雄は部屋のテーブルの上に、すでにいくつかの物を並べていました。

「史乃さんの遺品ということですが、私もそう多く持っているわけではありませんけれど。とりあえず、こちらを」

 テーブルにあったのは史乃の写った写真数枚。男物らしい、暗い青色のハンカチーフ。渋い赤色に小さく菱形の柄が散りばめられたネクタイ。古ぼけた小さな聖書。真っ赤な宝石をあしらった首飾り。

 

「聖書は史乃さんの物ですが、それと写真の他は私へ贈ってくれた物でして。遺品と言えるかどうか分かりませんが」

「この首飾りは?」

 市雄ははにかんだように笑いました。

「これは、ご家族の方から遺品として返されたのですが……以前私が贈った物で。紅玉(ルビー)……史乃さんの生まれ月の、誕生石なので」

 市雄の笑顔が、まるで少年のもののように見えて。絲子は、胸の奥をつねり上げられたように感じるのでした。

 

 ふと、気づいて言います。

「そう言えば、絵は。絵は、いただいとらんのですか」

 市雄は小さく口を開けました。わずかの間そうして、思い出したように笑います。

「絵、ですか。ああ、弟から聞かれたんですね、絵描きだったと。いや、彼女の画才は私も認めるところなのですけれど、絵描きとしての彼女を見ていたわけでもありませんので。特にいただいてはいないのですよ」

 幾分早口になって続けます。

「彼女が弟に贈った絵、ご覧になりましたか? 弟は酷評しますが、あれはなかなかのものですよ。西洋のですね、印象派の技法で描かれている……印象派はご存知で? 見たままの画像ではなく感じたままの姿を描くという絵のやり方なのですが、彼女はそちらの方が得手でしてね、むしろ心象的というか……ああ、少々持ち上げ過ぎましたね」

 そう言って笑う市雄を見て。絲子も、顔に力を込めて笑いました。

 

「しかし弟は、およそ芸術というものを解さない男でしてね。実に優秀なのですが、遊びがないというか不粋というか。……いや、不粋は言い過ぎました。とにかく、そこだけが心配ですよ」

 言いたくない、聞きたくもないと思いながら絲子は言いました。錆びた鋏のように、口がなかなか開きませんでした。

「あの……史乃さん、は、どんな方でした」

 

 市雄の笑顔が消えました。といって、怒る顔でなく沈む顔でもなく。ただ穏やかな、凪いだ水面のように穏やかな顔で、遠くを見る目をしていました。

「そうですね……とても、繊細な方です。強いふりをして、脆い方です。まるで貝の中身のようにね。モダンガールだとか自立した新しい女性だとか、そういう貝殻をかぶった脆い人」

 そこで唇を噛み、目線をうつむけました。膝の上で組んだ手を、強く握っていました。

「……僕が、貝殻になってあげたかった」

 貫かれたような痛みでした。その傷口に塩を塗りこまれたような熱さでした。

 

 市雄は顔を上げて笑いました。

「とはいえ、先生のおかげでまた会えましたのでね。何も言うことはありません」

 腰かけたまま、市雄は深く礼をしました。

「そんな……顔をお上げ下さい」

 取り残されたような気がして、本心からそう言いました。

 遺品をまとめて、帰ろうとしたときに市雄が言いました。

「そうだ、これもありました」

 机の引き出しから取り出したのは、煙草の箱でした。

「もう空ですけどね。彼女からもらったもので、捨てられなかったのです。そういえば、煙草も史乃さんから教わったんでしたっけ」

 そう言って懐かしそうに、空き箱を打ち返し打ち返し眺めるのでした。

 

 

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