ソウル・ラバー・ソウル   作:木下望太郎

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七話  謀(たばか)りながら恋をして

 

 しばらく経った日。絲子は白装束を着て市雄の部屋にいました。香を焚き、市雄が用意してくれた畳敷きの台に正座します。

「先生、お願いいたします」

「務めさせていただきます」

 

 椅子に腰かけたまま頭を下げる市雄へと礼を返すと、小さく咳をしました。手にした金輪を打ち鳴らし、剣鈴を振るいます。

 胸を反らせ、強く短く息を吸い、腹の底から声を上げます。

「『エェ、東に伏しつつ拝み申す、西に伏しつつ畏み申す』」

 そこで手にした紙吹雪を散らし、金輪を鳴らします。

 さらに言葉を続けましたが、それはいつものやり方と少し違いました。鈴を鳴らすところと金輪を鳴らすところが反対でしたし、紙吹雪を散らすところも違いました。唱える言葉もところどころ変えていましたし、その音程も力の入れ方も、わずかに調子を外していました。焚いてある香も、いつも使っているものと普通の線香とを混ぜて使っていました。

 

「『ソレ、東へ仰ぐは地の冠(かむり)、畏み畏み申しまする。比良坂(ひらさか)、岩屋戸、開かせ給いて――』」

 気づいたのです、小梅が言っていたこと、心配していたことに。

 

「『ソレ、西へ抱くは浮き蓮台(はちす)、拝み拝んで申しまする。府君の御裁き止まらせ給うて――』」

 何かするつもりで、そのために史乃のことを見るつもりで、遺品を集めたのではないかということ。

 

「『がんだり・しんぞん・げんごんこん、がんたり・じんそん・げんごんこん――』」

 それをするつもりで、一回だけやってみるつもりで、調子を外した言葉を唱えていました。

 

「『がんだりしんぞんげんごんこん、がんたりじんそんげんこんごん――』」

 調子を外しているとはいえ、それでもいつものような感覚はありました。体の内側で心が輪郭を持っていく感覚。心が体の輪郭からはがれ、揺らぎながら肉体の内側に固まって、寒天のように柔らかく震える感覚。

「『がん・たりじんそんげんごん、こん、がん、たり、じんそんげんこんごん――』」

 心を滑り出させてしまわないように、言葉の調子を大きく外します。

 

 間違った言葉を唱えながら思います。本当にやるのかと。やっていいのかと、できるのかと。

 鼓動が強く響き、心と体に強く響き、揺らいでいた意識が元へ戻り始めます。

「『がんだり、じん、そ……』」

 言葉を止め、息ができないかのように口を開け閉めし、目を閉じて台の上で倒れます。

「先生!」

 抱くように体で支えてかかえ起こそうとする、市雄の体温を感じながら、ゆっくりと目を開けました。

 

「……あぁ、また、お会いできましたのね……いち、市雄、さん」

 幾分声を低くして、そんな風に絲子は言ったのです。

「ええ、お帰りなさい」

 そう言って市雄は笑ったのです。

 

 市雄はいつも穏やかな人です、気さくな人です。だから笑った顔も、絲子は何度も見ています。なのにそのときの顔は、今までに見たどの笑顔とも違っていました。温かみが、嬉しさがにじんでいるような表情だったのです。

 強い光を目に受けたように、絲子の目に涙がにじみました。目をつむると、まぶたの端からこぼれ落ちました。それは市雄の後ろにある窓からの光のせいだけではありませんでした。目を閉じても、まぶた越しに温かさを感じるようでした。

 

 その一方で、針で突かれたような痛みを胸に感じるのでした。

 市雄は絲子を抱き締めました。体格に差があるので、絲子の頭を胸に押しつけるような形でした。息苦しくて、温かくてむしろ熱くて、胸板の堅さと厚みが感じられて。市雄の匂いがして。

 動けませんでした。心臓が膨れ上がったような気がして、耳の奥にも頭の中に鼓動が響き渡って、何も考えられませんでした。ただ、ずうっとこうしていたいと思ったのです。

 

 だから、市雄が身を離して、何か言ったときも聞き取れなかったのです。

「――乃さん、史乃さん。どうしたんです、泣いたりして」

「え?」

 慌てて涙を拭いて、目を伏せました。

「どうかなさったんですか。……先生に初めて呼んでいただいた、あのときだって。泣いてなんかいなかったのに」

「あ……その」

 絲子は何か言おうとして、目をそらしたまま口ごもりました。それから気づきます。それは史乃のやり方ではないと。

 

 目を上げて、震えそうな頬に力を入れて、笑ってみました。

「……あたくし、ね。不思議な気持ちなんです……なんだか、あなたと初めてお会いしたみたいな、そんな気がして。初めてお会いしたときみたいに、とても、どきどきしていますの。胸が、ぎぅっ、としていますの……」

 そうして。そうして、そっと市雄の胸にもたれかかるのでした。遺品から読み取った光景のように。そのゆっくりとした動きの中で、絲子の胸は壊れそうでした。頭の中も沸騰しているみたいに熱く騒いでいました。

 

 その頭を市雄はなでます。

「初めてお会いしたとき……懐かしいですね、覚えてらっしゃいますか」

 それとおぼしき光景は読み取っていましたが、もしかしたら違うかも知れませんでした。それに、これ以上史乃として話せるかどうかも分かりませんでした。

「もちろんですけど。お恥ずかしい」

 

 市雄は笑います。

「恥ずかしいなんてことはないでしょう、記念すべき瞬間だ。さあ、あれはどんなときでしたっけね」

 舌がこわばるのを感じながら、絲子はつばを飲み込みました。市雄から顔をそむけます。

「……お恥ずかしい。だって、あたくし……あのとき、少し、酔っていましたもの」

「少し? 酔っていた?」

 

 のぞき込んでくる市雄の顔が、恐ろしいもののように思えました。鼓動はなおも強くなり、そのくせ頭の中は、首筋は冷たくなるのでした。

 市雄は小さく声を上げて笑いました。

「少しなんてもんじゃありませんでしたよ、あれは! いやいやなるほど、新しい時代の女性は違うな、と思いましたね。実際大した大虎でしたよ、あなたは」

 

 胸の底から長い息をついて、それから絲子は笑いました。怒ったように、市雄の胸を軽くぶってみせました。

「まったく、道端で酔いつぶれた女性なんて初めて見ましたよ。具合でも悪いのかと近づいたら酒の匂いがするんですからね」

 絲子はそっぽを向いてみせます。

「少し、少しですわ。少ぅし酒場(カフェー)で飲み過ぎましたの」

 もちろん絲子は酔ったことも、酒を飲んだこともありませんでしたけれども。

 

「ええ、絵描き仲間や文人らとの集まりだったそうですね。酔った女性を放っていくなんて、その人たちの中に紳士はおられないようですが。ありがたいことですよ、僕にとっては」

 そうして、笑みを消して続けるのです。

「本当に、ありがたいことです」

 それは以前、史乃のことを話したときと同じ表情でした。いささかも揺るぎそうにない穏やかな顔でした。

 

 絲子は何も言えませんでした。何も心に浮かびませんでした。激しかった鼓動もいつの間にか聞こえなくなっていました。頭にこもった熱もどこかへ行っていました。

「それにもう一つ。今こうして会えるのはほら、そのお嬢さんの、六車先生のおかげですからね。そのことにも感謝しています。それに僕は、――史乃さん?」

 市雄がいぶかしげに絲子を見ました。

 

「史乃さん、どうしました? 聞こえていますか、史乃さん」

 絲子は何も答えられませんでした。肩を揺さぶられるまま、人形のように首を揺らしていました。

「五位、さま……」

「……先生? ……お戻りになられたんですか、先生」

 不意に目が覚めたように、絲子は身を震わせました。

 

 市雄は肩に手を置いたまま、心配げに顔を寄せました。それでも。その表情にわずか、こわばったものを、苦すぎるお茶を飲んだときのような様子を感じました。

「急なお戻りで……大丈夫ですか、何やら、ぼうっとされたご様子ですが」

 身を引いて、肩から市雄の手を外しました。深くうつむきます。

「……少し、体調が、良うないみたいで」

 

 木箱に押し込めるように祭具を片づけ、香を消し、散らばった紙吹雪もそのままにドアへ急ぎました。

 深く、顔を見ないように見えないように深く頭を下げました。ごめんなさい、とは言えませんでした。

 ドアを開け、体を滑り込ませました。

 閉じたドアの向こうから市雄の声がしましたが。振り切るように廊下を走りました。幾分くたびれた絨毯の敷かれた廊下は、ぱたぱたと間抜けな足音がしました。

 

 木箱を抱いて、足元にじっと目をやったまま走り続けます。

 どうしてあんなことをしたのだろうと、そればかり思いました。だますようなことを。それに、そうして分かったのは結局、自分は見られていないということでした。

 木箱を抱き締めました。腕が角に当たって痛みましたが、それでもなお力を込めました。

 

 部屋の方へと走っていましたが、市雄が様子を見に来たらどうしようかと思いました。会ってまともに話ができるとも思えませんでしたし、会いたくありませんでした。

 どこか市雄の来ない、誰とも会わないで済む場所でいたいと思いましたが、それがどこなのかは分かりませんでした。お屋敷の外に出ればいいのかも知れませんが、一人で外出したこともなく、出たなら帰ってこられる気がしませんでした。

 足元を見つめたまま、ただ走っていました。やがて裾に足を引っかけて、つんのめって。箱を放り出して転びました。絨毯の上で体を起こしました。打った膝を押さえる力もありませんでした。膝よりも顔が、目の辺りが熱くてなりませんでした。

 

 木箱を拾って、鼻をすすり上げて歩きました。どこをどう歩いたか、やがて廊下の行き止まりに来ていました。中庭に面した、天井から床近くまである大きな窓が続く廊下でした。温かくまぶしい光が目に入り、涙がにじみました。次の瞬間にはもう、涙があふれていました。止めようとしても止まりませんでした。中庭にあった、噴水にでもなってしまった気がしました。

 

 人に見とがめられないよう、大きなカーテンにくるまりました。頭から足元までをすっぽりと包むカーテンは日に照らされて温かく、自分だけの小さな部屋のようで、あるいは繭のようでした。

 カーテンを強く握りながら、崩れるようにしゃがみ込みました。膝頭へ巻きつけたカーテンに、目を押しつけて泣いていました。

 

 どれほどそうしていたでしょうか。ようやく涙が止まりかけた頃、足音が廊下を近づいてくるのが聞こえました。絨毯の上で、いつもよりくぐもって聞こえる高く軽い足音。

「つっかまえたっ!」

 声と同時、その人の手がカーテンの上から絲子をつかみました。

 

カーテンをはぎ取った小梅が絲子の顔を見て、困ったように笑いました。

「あー……その。どうなさったんで、というか、お取り込み中でございましたかね」

 その顔を見て、また涙が出てきました。

小梅は何度か目を瞬かせ、絲子を見つめ、周りに目をやりました。それから身をかがめ、指で絲子の涙を拭いました。その指は細く長く冷たく、魚みたいにしなやかで力強く、泡立てた石けんみたいに優しくなめらかでした。

 

 拭われても拭われても涙は湧いてきましたが、少しずつ量が減ってきているようでした。あれほどに流れていた涙が止まってきているというのも、なんだか不思議に思われました。

 鼻をすすっていると、小梅が顔を寄せてささやきました。

「何と申しますかね、(おっ)きなみの虫さん。ここじゃあなんですんで、うめ姉さんの部屋にちょいと遊びにいらっしゃいません?」

 頭をなでる小梅の手が、とても大きく感じられました。

 

 

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