ソウル・ラバー・ソウル   作:木下望太郎

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八話  謀(たばか)り、続ける

 

 小梅の部屋は絲子や市雄と同じ離れの、北側の隅にありました。絲子がそこに入るのは初めてでした。絲子の部屋よりも小さく、控えめな寝台と大人しい衣装棚と、つつましい書き物机と自己主張のない椅子がありました。

 今その部屋にはカーテンが引かれていました。隙間から漏れ入る光のせいでそこは少しだけ明るく、ほどよく薄暗く、何か動物の巣の中みたいな感じがしました。

 

 小梅は祭具の木箱を隅の方に置き、絲子を寝台へ座らせました。

 寝台は絲子の部屋にあるものほど柔らかく沈まず、わずかにたわむぐらいの固さで絲子を支えました。ありがたい固さだと思いました。さっきから肩にも頭にも、背骨にもなんだか力が入らなかったので。自分の部屋のような柔らかい寝台に座ると、そのまま崩れ落ちてしまいそうだったので。

 

 小梅はポケットからちり紙を出し、絲子の鼻をつまむようにして当てました。

「ほら、ちーん、ってなさって。んー、って」

 言いながら、鼻に力を入れる変な顔をしてみせます。

 そんな扱いを不服に思いながらも、絲子は少しだけ笑いました。変な顔をして、鼻をかんで、全部出しました。

 

 小梅は拭い取ったちり紙をくずかごへ放り入れました。それから机の上の急須を取り、湯飲みに中身をついで差し出します。

「どうぞ」

 そのお茶は苦く、冷めていました。

 隣に小梅が腰かけ、寝台が揺れました。

 

 小梅は目をそらして、耳の後ろをかきながら言います。

「どうなさったんで、なんて言いましたけどもね。本当は……大体のとこは、大体のとこは分かっちまってんでございます」

 絲子の方に向き直り、深く頭を下げました。

「その、申し訳ございません。実はさっきの、こっそりとのぞき見しておりました。それに以前にも、儀式を少ぅしのぞいたことがございます。失礼な真似をいたしました」

 そこで頭を上げ、真っすぐに絲子を見ます。

「小梅が心配しておりましたこと。なさっておしまいになった、のですね」

 

 絲子はその目を見返し、目をそらし、視線を伏せ、それからうなずきました。

「……うん」

 小梅は黙って、ずいぶん長いこと黙って、それから口を開きました。

「お好き、なんですのね」

 絲子はうなずきませんでした。何も言わず身じろぎもせず、ただじっとしていました。

 小梅は微笑みました。

「ほんとに、お好きなんですのね」

 

 絲子は歯を噛みしめました。膝の上に置いた手が白装束を握り締めて、震えていました。

 喉の奥から、歯の隙間からうめくような声が漏れ出ました。息を吸い込むと、鼻をすすり上げる音がしました。かんだはずの鼻水が湧き出ていました。

 もう一度息を吸い込みます。しゃっくりのような音が喉から上がりました。涙が溢れそうに溜まっていました。

 あと一度息を吸い込んだら、止まらないほど泣いてしまう。そう思ったとき。

 

 小梅が突然、声を上げました。

「よっしゃ!」

同時に、平手で絲子の背中を叩きます。

あまりに強く叩かれたので、絲子は前のめりになりながらむせてしまいました。

 

 小梅が絲子の手を強く握りました。

「もう一度やりましょう、こいさん」

「え?」

「もう一度、いえ、一度と言わずやるんでございます。史乃さんのふりを」

 気がつけば、涙は止まっていました。小梅の手は強く、絲子は握られた手を痛く、熱く感じました。

 

 

 その日から、奇妙な練習は始まりました。

 二人は毎日のように連れ立って出かけ、人けのない町外れのお堂に行くようになりました。参る人も管理する人もない、境内一面にも屋根瓦の隙間からも草が伸びている廃寺です。

 

 数日経ったその日も、二人はその中にいました。奥にひびの入った木の仏像が置かれた、十畳ほどの広さがあるお堂でした。出入り口の格子戸から入る昼の光に、ほこりが白く光りながら舞っていました。

 お堂の真ん中、光と影の間に小梅が立っています。

 

「はい、じゃあ史乃さん、こちらまで歩いて下さいまし」

 隅の方、影の中にいた絲子は、そちらまでゆっくりと歩いていきます。史乃になったつもりで、市雄を愛し愛された女性のつもりで、静々と。

 小梅はすぐに二度、叱るように強く手を叩きました。

「はいダメ、やめやめやめー。違います違います、そーじゃありませんって。遺品だかなんだかでご覧になってません? あの方、歩くときはもっと特徴がございます。こんな感じに」

 小梅は絲子の方へと歩いてきます。片足をほんのわずかに引きずるような、体重が片方にかかっているかのような、腰をくねらせる妙な歩き方。

 

「足、悪かったんですか。その、人」

 絲子が言うと、小梅は首を横へ振りました。

「五位さまが連れていらしたとき、ご本人に聞いたことあるんですがね。や、階段とか手伝った方がいいかと思って。したら足は悪くないってんですけど、何てったと思います?」

 両手を腰にあて、息をついて続けました。

「同じ種類の靴でですね、左右の足で高さが違うのを履いてるんですって。何でまたそんなことすんのか聞いたら『そうした方が紳士方が喜びますの。歩き方が艶めかしいって』ですって。なんつーか……あきれたっつーか、ねぇ?」

 

 絲子は口を開けていました。あきれたからではありません。驚いたのでした。歩き方だとか靴だとかで、そんな風に男の人の目を気にする発想があるなんて考えたこともありませんでした。

 

 小梅は続けます。

「わたくしが見た限りじゃ、一事が万事そんな感じと言うか。なんつーか、(かぶ)いたっつーか実際(かたむ)いてるっつーか」

「うめさん、その人嫌いなん?」

 小梅は絲子の目を見て、それからお堂の天井を見ながら言いました。

「嫌い、ってのとはちっと違うと申しますか……まあ、気持ちは分かるかな、と。こいさんはどうでございます?」

 

 絲子は曖昧に笑って首を振りました。

 好きだとか嫌いだとか、そういう感覚ではくくれない気がしたのです。なにせ、自分がこれからなろうとする人でしたので。ただ、うらやましいと思うのは確かでした。

 

「あの方の歩き方は、こう。こいさん、後に続いて下さいな」

 前を行く小梅の背中や腰は波のように柔らかく動いていました。ひっそりと輝く白い首筋、薄くて丸い肩、すらりと伸びた背筋。片腕で軽々抱けそうな細い腰、丘のように柔らかな丸みを帯びた尻。格子戸から差し込む、四角く区切られた光がその上をなめるように這い回ります。ごく地味な黒い服の上に不思議な光沢を与えながら。

 

 絲子は歩くことも忘れて、口を開けて見ていました。ほんの少しだけ胸の奥に、腹の底に熱を感じて、これが艶めかしいということなのだな、と思いました。

 

「何してらっしゃいますの、さ、続いて」

 我に返り、小梅を真似て歩きます。意識して片足に体重をかけ、腰をくねらせます。同じ動きをしているはずなのに、何かが違うと感じました。後ろから見ると、きっと猫や蛇みたいな動きになっていると思いました。

 ぎしりぃ、ぎッ、ぎしりぃ、ぎッ、と、古い床の軋む音を立てながら、小梅の後をぐるぐると歩き続けました。

 

 

 

 

 数日後。絲子はお屋敷の中でその歩き方をしていました。市雄の部屋で。

「史乃さん、先日は何と言うか、残念でしたね。どうも先生の具合がよろしくなかったようで」

 

 大きな窓からいっぱいに差し込む光の中、絲子はカーテンの端を指先でなぞりながら歩いていました。微笑みます。

「仕方ありませんわ。あたくし、もうこんな身の上ですもの。あ……貴方に、会えるだけで、とても」

 口ごもってうつむいて、すぐに顔を上げて付け足します。

「そう、だからその、先生を責めないであげて下さいな」

 もしできるなら、今言った言葉を引っ込めたい。言った後すぐにそう思いました。

 いつもなら、絲子はこんなことを言ったりしません。思うことすらしないかも知れません。あるいは史乃のふりをしているから、心の中までそのふりをしているから思ったのかも知れない、そう思いました。

 

 市雄はうなずきます。

「もちろんですよ。しかし、先生には少し無理をさせてしまったかも知れませんね。あれから日もそう経っていないのに」

 胸の中ににじむものを感じながら、絲子は唇を尖らせてみせました。

「あら、市雄さまはあたくしに会いたくないようですわね? ああ先生の体調が心配だな、だから今日は史乃さんに会わない口実ができたぞ、こりゃあ良かった良かった、って?」

 そっぽを向いて続けます。

「ええどうぞどうぞ、あたくしめにはお構いなく。あのお嬢さんをせいぜいお大事になさいな」

 

 市雄は笑いました。

「あんな小さなお嬢さんに焼きもちですか、淑女(レディ)? 大丈夫ですよ、僕が大事にしたいのはあなたです」

 

 頭の中を金槌で殴られた気がしました。大事なものを、叩かれて踏みにじられて粉々にされた気がしました。

 それでも、絲子は笑えたのです。史乃として。

「当然でしょう。貴方を飼い馴らせるのはあたくしだけですわ、ねぇ? 紳士で、やせっぽちで、寂しがりやのライオンさん」

 あの歩き方で歩み寄り、市雄の首筋を、そっ、となでました。

 

 市雄の目がわずかに動きました。それから複雑そうな顔で笑います。

「飼い馴らす、ですか。……ああそうそう、先生のことですが。ご病気というわけでもなさそうでしたが、どうしたんでしょうね。お疲れなのでしょうかね」

 

 不意に話題を変えられて嫌な素振りをしてみせます。市雄から離れ、鼻でため息をつきました。

「そんなの知りません。女の子にも色々ありますわ……貴方には分からないことでしょうよ」

 

 考えていた様子の市雄が、何かに納得した様子で手を打ちました。

「なるほど、先生もそのお年頃でしたね。そういう日は……赤飯にするんでしたかね?」

 顔から指先までいっぺんに熱くなるのを感じて。

「……ばか」

 思い切り、市雄の肩を叩きました。絲子として、史乃として。

 

 市雄は本当に痛そうに、歯をむいて肩を押さえていました。

「これは、大変失敬。そうだ、どうです? これで機嫌を直してもらえませんか、先生のお体に悪いことをしてね」

 

 内ポケットから革張りのシガレットケースを出し、紙巻煙草を差し出しました。

 もちろん吸ったことなどありませんが、史乃なら断るとも思えませんでした。

「思ったよりは、気のつくお人でしたのね」

 煙草を唇の真ん中にくわえて、市雄の差し出すマッチの火に先を当てて。なかなか火がつかずに、煙草がなんだか震えて。やっと火がついて、安心して。大きく息を吸い込みました。

 

 盛大な音を立て、煙草をふっ飛ばしながら、絲子はむせ返りました。

 

 

 肺の中で煤が渦巻くような感覚を覚えながら部屋に帰り着きました。

 ドアを開けるなり、お屋敷にある鳩時計の鳩みたいに小梅が飛び出してきました。

「おっ帰りなさいまし! いかがでございました」

 

 絲子はまた咳をしました。

「初めはうまいこといってた(いっきょった)けど……後は、ちょっと。なんとか、戻ってきたふりはしたけど」

 言って、吐くような音を立てて息をつきます。煙草の煙がまだ肺と舌に残っている感じでした。

 

「あー……」

 小梅は何度かうなずき、絲子を部屋に入れるとドアを閉めました。首をかしげて優しく笑います。

「というか、ですね。とっても、でれっでれに、だるっだるに、甘ったるいやりとりでございましたね」

 

 絲子の顔が引きつって固まります。

 小梅はまた笑って、小さく頭を下げました。

「しぃっかりと、見守らせていただきました」

 何をどう言っていいか分からず口を開けていた絲子を、小梅が抱き締めました。

「何ていうかもう! 恥ずかしいやらうらやましいやら。ほんとにもう、うらやましゅうございます!」

 そう言って絲子を抱き締めるのでした。それはもう本当に、頭も腹も締めつけるように、痛いぐらいに抱き締めるのでした。

 

 

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