ソウル・ラバー・ソウル   作:木下望太郎

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九話  煙草

 

 お堂の真ん中で小梅が言いました。

「じゃあですね、今日は――」

 その前に座った絲子は、さえぎるように手を挙げます。

「煙草、吸う練習してみたい、です」

 小梅は手をあごに当てて、考えるようにうなってから言いました。

「それは別に、先生の体に合わないから遠慮しますー、ってのでいいんじゃありません?」

 

 絲子はおかっぱの髪を揺らして首を横に振りました。

 吸わずにやり過ごすのがなんだか気に入りませんでした。史乃は吸っていたのですから。それに、以前の儀式をのぞいていた小梅によれば、史乃は絲子の体に入っていても吸おうとしたのでしたから。そんな史乃に、絲子はなるのですから。

 うつむいて、それから真っすぐに小梅の目を見上げて言います。

「お願い。お願い、します」

 

 小梅は腰に手を当てて息をつきました。

「分かりました、分っかりましたよ。よございます、フィガロなんてこじゃれたもんは持ってませんけどね、安物のゴールデンバットでよろしけりゃ」

 小梅はポケットから煙草の紙箱とマッチを取り出しました。

「別に、このために持って来てんじゃねぇですよ? 私物でございまして……ああ、わたくしが吸うってのは内緒にしといて下さいましね」

 

 小梅はお堂の隅に転がっていた瓦を拾ってきて下に置きました。灰皿にするのでしょう。

 紙箱を振って煙草の頭を箱から出し、口にくわえて引っ張り出しました。慣れた手つきでマッチを擦ります。音を立てて燃え上がった火が、小梅の顔をほんのわずか橙色に照らしました。煙草に火が移るとマッチの火を振り消し、瓦の上に捨てます。そして、白い煙をゆっくりと吐くのでした。煙草を、赤い唇の端にくわえたまま。

その一連の動作はよどみがなく、流れるようで、とても美しく思えるのでした。

 

「さ、一服どうぞ」

 小梅が差し出した煙草を手に取り、口の端にくわえました。差し出された火におそるおそる先をつけます。それでも、なかなか火はつきませんでした。

「火にくっつけてですね、息を吸うんでございます。胸からじゃなく、口でね」

 そう言われたときにはマッチの火が消え、煙草にはつかないままでした。

 

 あらあらあら。口の端に煙草をくわえたまま小梅は笑います。絲子の後ろへ回ると、ふわりと肩を抱いてきました。絲子の頬のすぐそばに、小梅の頬がありました。小梅の肌の温度と、くわえた煙草の煙を感じました。

 白く長い指が絲子の口から煙草を抜き取ります。わずかに口へ触れた指先は、絲子の唇よりも滑らかでした。反対側の手が小梅の口から煙草を取り、絲子の口の前へと差し出します。白い巻紙の吸い口に、うっすらと紅のついた煙草でした。

 

「それでね、くわえてゆるゆる息を吸って……胸の内に吸うんじゃなく、口先でね。それで、口の中で煙を遊ばせて、ぷかぁ、と吐く。煙管(キセル)煙草と同じ……つって、分かりませんかね」

 

 絲子はそれをくわえると、ゆっくりと息を吸いました。口の中に、形のない熱いものが滑り込んできます。ゆっくりと息を吐くと、口から煙が昇り、格子戸から差し込む光の中ですぐに消えました。

 煙草を口から離し、唇に触れてみました。指先はかすかに、紅の色に染まっていました。

 

 

 

 

 それからも絲子の練習は続きました。小梅に頼んで煙草とマッチを買ってもらい、自分でも煙草を吸ってみたり、遺品を何度も視ました。その中の聖書にも目を通しました。

 何日か経ち、どうにか煙草にも慣れてきた頃。お堂の端に積み上げられた木材の上で、絲子は小梅と並んで腰かけていました。それぞれ煙草をくゆらせては、昇って消える煙を目で追っていました。

 

あのねぇ(あんのぅ)、うめさん」

 煙草をくわえたまま小梅が振り向きます。

 深く息を吸い、煙を吐き出してから絲子は尋ねました。

「うめさんは、何でうちを手伝(てつど)うてくれるんです」

「お嫌で?」

 

 絲子は煙草をくわえたまま、首を横へ振りました。煙草の先から灰が飛び落ちました。

「そうやない、嬉しいけど。お屋敷で働っきょるのに、お屋敷の人にばれたら困るやろ、そうだから(そやけん)――」

 煙草を口から離し、小梅を見ました。頭を下げます。

「――もう、ここまででええ。ありがとう、ございました」

 

 小梅は小さく礼を返しました。

「お気遣いまことに痛み入ります。けど、結構ですわ」

 くわえた煙草の先を上げ、胸を張って続けます。

「せっかくですもの、行けるとこまではお供いたします。どーぞどーぞ、うめ姉さんをどんと頼りにしちゃって下さいまし」

「……なんで」

 小梅は首をかしげました。

 絲子はもう一度言いました。

「なんで、そんなにしてくれるんですか」

 

 小梅は黙って横を向きました。くわえた煙草が音を立てて焦げ、短くなります。大きく煙を吐くと瓦に吸殻を押しつけ、新しい煙草に火をつけました。

「……誰にも内緒にして下さいますかね」

 絲子がうなずくと小梅もうなずき返しました。

「こいさん、ご両親は?」

 急な質問に驚きながらも答えました。

「母さんは、うちが四つのときに病で。父さんは……覚えとらんし知らんけど、どこぞでおります」

 

 母のことはよく覚えていません。死後、祖母に降ろしてもらって会ったことがありましたが、何を話したかも思い出せません。父は母の生前に家を出たと聞きました。父の置いていった物を見ても何も視えませんので、生きてはいるのでしょう。

 

 小梅は小さくうなずくと、絲子の目をのぞきこんで言いました。

「こいさん。わたくしのおとっつぁんがね、伯爵さまだ、って言ったら信じて下さいます?」

 はくしゃく、という音を聞いて、すぐには伯爵という意味が出てきませんでした。

 爵位は上から公、候、伯、子、男。桂木家は子爵で、伯爵はまだ一つ上。その意味を理解した後、絲子の口から煙草がこぼれ落ちました。

 

 慌てて拾い、火を消しながら尋ねます。

「それって、どういう」

 寂しげに笑いながら小梅が言います。

「嘘じゃございません。不肖わたくし杉本小梅、どこの誰たぁ申しませんが、正真正銘伯爵さまの娘でございます」

 歯を見せて笑い、続けました。

「ま、だからってご令嬢ってんじゃねぇんですがね。言ってみりゃあれです、ご落胤(らくいん)ってやつでございます」

 

 それから小梅は語りました。

「ざっと申しますけどね。わたくしのおっかさんは、伯爵家で働く女中でしたの。わたくしみてーな客間女中じゃなくてですね、どっちかってぇと下女って感じの。それがどうお目がねにかなったもんだか、伯爵さまのお手つきになっちまいましてね。えぇえぇえぇ、妻子も妾もある伯爵さまのね。でまぁ、もう家には置いとけねぇけど妾にして囲っとくか、って話だったんですけども、やっぱり下女なんぞを妾ってのはどうだ、ってなりましてね。おっかさん、ちっと金持たされて追ん出されて、その後で腹が膨れてきやがりまして。おぎゃあと生まれたのがこの美人さんでございます。その名も花の杉本小梅、立てば芍薬(しゃくやく)座れば牡丹(ぼたん)、口さえ閉じてりゃ百合(ゆり)の花ってね」

 

 小梅は煙草をにじり消してため息をつきます。

「ンでまぁ、おっかさんがおっ死んでからは親戚の家で養女になりましてね、今に至るってわけで。……えぇと、言いたいこと分かります?」

 

 自分が小梅だったらどう思うだろう、と考えました。互いに顔も知らないだろう伯爵の父、追い出された母、死んでしまった母。絲子にもほとんど両親の記憶がないので、想像するのは難しかったのですが。

 

 顔を上げて言いました。

「……うめさん、何ていうか……華族の人、嫌い?」

 

 小梅は小さくうなずきました。

「別に伯爵家に入れてくれとか、そんなこと言う気はねーんですがね。もうちっと伯爵さまの方から、おっかさんに何かしてやれたんじゃねーかって思いますとね。ま、だからこんな仕事についてるし、こいさんに手ぇ貸してあげたいんですわ。華族さまからせいぜいお給金ふんだくってやろうって。ンで、できるんなら何ぞ引っかき回してやろうかって」

 目を伏せて息をついた小梅の顔からは、表情が消えていました。

「もしも、もしもですけれど。こいさんが、おっかさんの続きをやってくれたら……痛快だろうな、って思っちまうんです。おっかさんが伯爵さまとできなかったことを」

 

 続き。それはつまり、一緒になるということ。市雄と、絲子が?

 小梅は打ち消すように手を振って笑います。

「あ、ああ別に、そうしてもらわなきゃって訳じゃなくて。もしも、もしもそうなったらって思うと楽しいなぁ、っつう話でございます」

 その言葉は絲子の耳に入りましたけれど、意味としてとらえられませんでした。

一緒になる。市雄と絲子が。

 そのことばかり、その光景ばかりが、頭に浮かんでいました。

 

 

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