お堂の真ん中で小梅が言いました。
「じゃあですね、今日は――」
その前に座った絲子は、さえぎるように手を挙げます。
「煙草、吸う練習してみたい、です」
小梅は手をあごに当てて、考えるようにうなってから言いました。
「それは別に、先生の体に合わないから遠慮しますー、ってのでいいんじゃありません?」
絲子はおかっぱの髪を揺らして首を横に振りました。
吸わずにやり過ごすのがなんだか気に入りませんでした。史乃は吸っていたのですから。それに、以前の儀式をのぞいていた小梅によれば、史乃は絲子の体に入っていても吸おうとしたのでしたから。そんな史乃に、絲子はなるのですから。
うつむいて、それから真っすぐに小梅の目を見上げて言います。
「お願い。お願い、します」
小梅は腰に手を当てて息をつきました。
「分かりました、分っかりましたよ。よございます、フィガロなんてこじゃれたもんは持ってませんけどね、安物のゴールデンバットでよろしけりゃ」
小梅はポケットから煙草の紙箱とマッチを取り出しました。
「別に、このために持って来てんじゃねぇですよ? 私物でございまして……ああ、わたくしが吸うってのは内緒にしといて下さいましね」
小梅はお堂の隅に転がっていた瓦を拾ってきて下に置きました。灰皿にするのでしょう。
紙箱を振って煙草の頭を箱から出し、口にくわえて引っ張り出しました。慣れた手つきでマッチを擦ります。音を立てて燃え上がった火が、小梅の顔をほんのわずか橙色に照らしました。煙草に火が移るとマッチの火を振り消し、瓦の上に捨てます。そして、白い煙をゆっくりと吐くのでした。煙草を、赤い唇の端にくわえたまま。
その一連の動作はよどみがなく、流れるようで、とても美しく思えるのでした。
「さ、一服どうぞ」
小梅が差し出した煙草を手に取り、口の端にくわえました。差し出された火におそるおそる先をつけます。それでも、なかなか火はつきませんでした。
「火にくっつけてですね、息を吸うんでございます。胸からじゃなく、口でね」
そう言われたときにはマッチの火が消え、煙草にはつかないままでした。
あらあらあら。口の端に煙草をくわえたまま小梅は笑います。絲子の後ろへ回ると、ふわりと肩を抱いてきました。絲子の頬のすぐそばに、小梅の頬がありました。小梅の肌の温度と、くわえた煙草の煙を感じました。
白く長い指が絲子の口から煙草を抜き取ります。わずかに口へ触れた指先は、絲子の唇よりも滑らかでした。反対側の手が小梅の口から煙草を取り、絲子の口の前へと差し出します。白い巻紙の吸い口に、うっすらと紅のついた煙草でした。
「それでね、くわえてゆるゆる息を吸って……胸の内に吸うんじゃなく、口先でね。それで、口の中で煙を遊ばせて、ぷかぁ、と吐く。
絲子はそれをくわえると、ゆっくりと息を吸いました。口の中に、形のない熱いものが滑り込んできます。ゆっくりと息を吐くと、口から煙が昇り、格子戸から差し込む光の中ですぐに消えました。
煙草を口から離し、唇に触れてみました。指先はかすかに、紅の色に染まっていました。
それからも絲子の練習は続きました。小梅に頼んで煙草とマッチを買ってもらい、自分でも煙草を吸ってみたり、遺品を何度も視ました。その中の聖書にも目を通しました。
何日か経ち、どうにか煙草にも慣れてきた頃。お堂の端に積み上げられた木材の上で、絲子は小梅と並んで腰かけていました。それぞれ煙草をくゆらせては、昇って消える煙を目で追っていました。
「
煙草をくわえたまま小梅が振り向きます。
深く息を吸い、煙を吐き出してから絲子は尋ねました。
「うめさんは、何でうちを
「お嫌で?」
絲子は煙草をくわえたまま、首を横へ振りました。煙草の先から灰が飛び落ちました。
「そうやない、嬉しいけど。お屋敷で働っきょるのに、お屋敷の人にばれたら困るやろ、そう
煙草を口から離し、小梅を見ました。頭を下げます。
「――もう、ここまででええ。ありがとう、ございました」
小梅は小さく礼を返しました。
「お気遣いまことに痛み入ります。けど、結構ですわ」
くわえた煙草の先を上げ、胸を張って続けます。
「せっかくですもの、行けるとこまではお供いたします。どーぞどーぞ、うめ姉さんをどんと頼りにしちゃって下さいまし」
「……なんで」
小梅は首をかしげました。
絲子はもう一度言いました。
「なんで、そんなにしてくれるんですか」
小梅は黙って横を向きました。くわえた煙草が音を立てて焦げ、短くなります。大きく煙を吐くと瓦に吸殻を押しつけ、新しい煙草に火をつけました。
「……誰にも内緒にして下さいますかね」
絲子がうなずくと小梅もうなずき返しました。
「こいさん、ご両親は?」
急な質問に驚きながらも答えました。
「母さんは、うちが四つのときに病で。父さんは……覚えとらんし知らんけど、どこぞでおります」
母のことはよく覚えていません。死後、祖母に降ろしてもらって会ったことがありましたが、何を話したかも思い出せません。父は母の生前に家を出たと聞きました。父の置いていった物を見ても何も視えませんので、生きてはいるのでしょう。
小梅は小さくうなずくと、絲子の目をのぞきこんで言いました。
「こいさん。わたくしのおとっつぁんがね、伯爵さまだ、って言ったら信じて下さいます?」
はくしゃく、という音を聞いて、すぐには伯爵という意味が出てきませんでした。
爵位は上から公、候、伯、子、男。桂木家は子爵で、伯爵はまだ一つ上。その意味を理解した後、絲子の口から煙草がこぼれ落ちました。
慌てて拾い、火を消しながら尋ねます。
「それって、どういう」
寂しげに笑いながら小梅が言います。
「嘘じゃございません。不肖わたくし杉本小梅、どこの誰たぁ申しませんが、正真正銘伯爵さまの娘でございます」
歯を見せて笑い、続けました。
「ま、だからってご令嬢ってんじゃねぇんですがね。言ってみりゃあれです、ご
それから小梅は語りました。
「ざっと申しますけどね。わたくしのおっかさんは、伯爵家で働く女中でしたの。わたくしみてーな客間女中じゃなくてですね、どっちかってぇと下女って感じの。それがどうお目がねにかなったもんだか、伯爵さまのお手つきになっちまいましてね。えぇえぇえぇ、妻子も妾もある伯爵さまのね。でまぁ、もう家には置いとけねぇけど妾にして囲っとくか、って話だったんですけども、やっぱり下女なんぞを妾ってのはどうだ、ってなりましてね。おっかさん、ちっと金持たされて追ん出されて、その後で腹が膨れてきやがりまして。おぎゃあと生まれたのがこの美人さんでございます。その名も花の杉本小梅、立てば
小梅は煙草をにじり消してため息をつきます。
「ンでまぁ、おっかさんがおっ死んでからは親戚の家で養女になりましてね、今に至るってわけで。……えぇと、言いたいこと分かります?」
自分が小梅だったらどう思うだろう、と考えました。互いに顔も知らないだろう伯爵の父、追い出された母、死んでしまった母。絲子にもほとんど両親の記憶がないので、想像するのは難しかったのですが。
顔を上げて言いました。
「……うめさん、何ていうか……華族の人、嫌い?」
小梅は小さくうなずきました。
「別に伯爵家に入れてくれとか、そんなこと言う気はねーんですがね。もうちっと伯爵さまの方から、おっかさんに何かしてやれたんじゃねーかって思いますとね。ま、だからこんな仕事についてるし、こいさんに手ぇ貸してあげたいんですわ。華族さまからせいぜいお給金ふんだくってやろうって。ンで、できるんなら何ぞ引っかき回してやろうかって」
目を伏せて息をついた小梅の顔からは、表情が消えていました。
「もしも、もしもですけれど。こいさんが、おっかさんの続きをやってくれたら……痛快だろうな、って思っちまうんです。おっかさんが伯爵さまとできなかったことを」
続き。それはつまり、一緒になるということ。市雄と、絲子が?
小梅は打ち消すように手を振って笑います。
「あ、ああ別に、そうしてもらわなきゃって訳じゃなくて。もしも、もしもそうなったらって思うと楽しいなぁ、っつう話でございます」
その言葉は絲子の耳に入りましたけれど、意味としてとらえられませんでした。
一緒になる。市雄と絲子が。
そのことばかり、その光景ばかりが、頭に浮かんでいました。