冷酷死霊術師とわがまま女神のリスタート 〜殺し合いの因縁を超えた先の、あまりにも短い幸福〜   作:えびふぉねら

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111話 甘美な毒

 ある日、シードは緩やかな丘の草の上に身を横たえ、眼下に広がる人間の街を見下ろしていた。

 ラナスオルに特に行き先を告げずに出かける時は、大抵はこうして長閑に人々の暮らしを眺めている。

 

 耳を澄ますと、風に乗って遠くから子どもたちの笑い声が聞こえる。

 街には人々の営みがあり、そこには彼の統治が及ばない自由が確かに息づいていた。

 

(なるほど。あのような小さな雑貨店が集会場になり得るのか)

 

 目を凝らし、些細な出来事すら興味深く観察する。

 井戸端で語らう人々、精霊へ祈る老夫婦、休息する冒険者たち――そのどれもがシードには遠く、手の届かないものに思えた。

 

 それでも、この何気ない日常を守ることが、ラナスの神としての彼の存在理由だと信じていた。

 

 しかし、長い白髪が視界を掠めた瞬間、彼の安息は打ち砕かれた。

 

「……ラナスオル? あなたがなぜここに?」

 

 上体を起こすと、紫色の瞳が柔らかな光を湛えて彼を覗き込んでいた。

 彼女は髪を掻き上げながら無邪気な笑みを浮かべ、まるでここまで散歩でもしてきたかのような軽やかさで佇んでいた。

 

「君を追いかけてきたのさ。まったく、私に黙ってどこへ行こうというのかね?」

 

 不機嫌に言い放ちながらも、彼女はシードの隣にふわりと身を横たえた。

 軽く頬を膨らませる仕草すら彼には愛おしく映った。

 

(いつもの彼女だ……)

 

 そう思ったが――どこか違和感があった。

 

「ここは人間の目がある可能性が高い。それに、その姿では目立ちすぎるのではないですか」

 

 冷静に諭すシードの声には、僅かな警戒の色が混じる。

 しかし、彼女は気にするそぶりもなく、優雅に微笑みながら軽く首を振った。

 

「大丈夫さ。この場所なら、誰にも見られることはないだろう?」

 

 そう言うと彼の身体に手を回し、そっと寄り添う。

 

「シード……」

 

 甘く優しい声。心がほぐれるように耳に溶けていく。

 美しい白髪からほんのり漂う芳しい香り。

 滑らかな細腕からいつもの彼女と変わらない温もりが伝わり、その心地良さにシードはほんの少し瞼を閉じた。

 

「……」

 

 だが――彼女の名を呼ぼうとした次の瞬間、鋭い痛みが腹部を貫いた。

 

「……っ!?」

 

 激しい鈍痛が全身を駆け巡り、咄嗟に突き放そうとした手が空を切った。

 刻まれた傷から体内に焼けるような熱が広がり、眩暈が襲いかかる。

 

(……これは……まさか……)

 

 瞬時に毒だと悟ったが、魔力で即座に浄化することもできない程の速効性と侵蝕性を兼ね備えた猛毒だった。

 

 腹部に手を当てた指先に、生暖かい血の感触が伝わった。

 必死に身体を起こそうとするも、毒のせいで力が入らず、意識も朦朧とする。

 

 そして、揺らぐ視界に映ったのは、捻れるような笑みを浮かべるラナスオルの姿だった。

 

 彼は反射的に異形の魔力を解放しようとするが――

 

「妻の私を攻撃するのか? シード……?」

 

 そのままの表情で彼女は低く囁いた。

 紫の瞳に宿るはずの慈愛の色は消え失せ、代わりに狂気じみた悪意が爛々と輝く。

 

 その声も、漂う気配も確かにラナスオルのものだった。

 だが、彼女が彼に毒を盛るなど考えられるはずがない。

 

「……あなたは、誰ですか」

 

 掠れた声で問いかけながら、シードはかろうじて上体を起こす。

 しかし、胸の内に微かな躊躇が生まれる。

 

 この姿が、たとえ偽物だと理解していても――彼女を斬る覚悟が持てない。

 

「妻の顔を見てまだ疑うのかね? それとも……偽りだと分かっていても、私を斬ることができないのか?」

 

 彼女が囁くたびに、シードの指先が震える。

 この指に異形の魔力を灯せば、すぐにでもこの存在を滅ぼせるはずだった。

 

 しかし、腕が動かない。

 

 ――動かないのではない。動かせなかった。

  

 ラナスオルと過ごした年月、彼女のいたずらな笑顔、彼女が作った焦げたプリンの味。

 手を伸ばせばいつでも触れられた温もり――

 

(僕は……何を迷っている?)

 

 かつての彼ならば、なんのためらいもなく刃を振るったであろう。

 

 しかし――彼の心に少しずつ芽生えた人間性は、今や強烈な枷となって迷いを生み出していた。

 

 答えが出る前に、毒はじわじわと意識を侵していく。

 魔力を練る力も抜け、身体が鉛のように重くなっていく。

 もはや動くことも考えることもままならない。

 

 視界が霞んでいく中、ラナスオルの顔をした「何か」がなおも冷たく嘲笑っていた。

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