冷酷死霊術師とわがまま女神のリスタート 〜殺し合いの因縁を超えた先の、あまりにも短い幸福〜 作:えびふぉねら
「くっ……どうしてここが!」
幻術の女神が驚愕の声を上げた。その声は怒りよりも恐怖に近い。
ラナスオルの創造の左手フェルジアが生み出した戒めの鎖は、死客の女神の四肢を容赦なく締め上げ続けていた。
無慈悲な束縛は骨が軋む程の音を立てる。
死客の顔は焦燥に塗りつぶされ、苦虫を噛み潰したかのように醜悪に歪む。
「妻の私には、夫の行動を監視する権利があってだな……」
ラナスオルは冷ややかな微笑みを浮かべながら、肩に留まる風の精霊を指で優しく撫でた。
仕草には余裕すら感じられるが、瞳の奥は鋭い眼光を湛え、静かな怒りが燃え沸る。
その皮肉めいた笑みと軽口に、幻術の女神は苛立ちを露わにする。
「お前たち夫婦は本当に不愉快だわ! だから神界は粛清しようとしているのに!」
女神が声を荒げた。
しかしそれも火に油。鎖の締め付けが一気に強まり、女神の妖艶な顔がさらに苦悶に歪んでいく。
「そうかもしれないな」
ラナスオルは左手を握り締めながら涼しい顔で答えた。
右手は微かに震え、シードを傷つけられた怒りと、何があっても彼を守るという決意が滲み出ている、
「……だが、少なくとも今この場での粛清は、どうやら失敗に終わったようだな」
その瞬間、創造の左手の輝きが眩い閃光となって広がった。
それは見るものすべてを憐れみと慈しみをもって赦す、女神の抱擁そのものだった。
光の鎖は捻れるように収縮し、フェルジアの浄化の光に包まれた幻術の女神の輪郭がぼやけ始める。
「ぁあああっ……!!」
叫び声を上げた顔の皮膚の表面に亀裂が走り、乾いた地層のようにぽろぽろと崩れ落ちていった。
幻術の女神は髪を振り乱しながら激しく身を捩るが、苦痛に歪んでいた表情が少しずつ穏やかになっていく。
やがて光の中でその身体は砕け散り、砂粒となって宙に消えていった。
そして代わりに空中に現れたのは――小さな蝶々だった。
「蝶々? ……僕の目が霞んでいるのでしょうか」
浄化の光に当てられ、僅かに体力を取り戻したシードが弱々しく呟いた。
額には汗が滲み、震える手が腹部の傷口を押さえている。
彼の銀色の瞳は、毒の侵蝕のせいでほとんど焦点を結んでいなかった。
「『君の目は確か』だよ、シード」
ラナスオルは蝶を指先でそっとつまみ上げ、ため息混じりに微笑んだ。
顔は笑ってはいたが、その笑みの奥には怒りの残滓がまだ色濃く漂っていた。
「この女には、これが相応しい罰さ」
彼女は紫色の瞳を細め、怒りと憐れみがないまぜになったような複雑な視線で蝶を見据えた。
「さて、この蝶々には神界への帰り道を教えてあげるとしよう。さもないと、次に私が相手をする時には、容赦しないだろうからね」
ラナスオルの指先から蝶がひらりと舞い上がった。
神界へ繋がる空間に僅かな裂け目が生じると、そのまま吸い込まれるように消えていった。
空間が閉じる瞬間、蝶の羽の鱗粉が空中に煌めいた。
それは怯えか、悔恨か、涙か――もはや知る由はない。
蝶になった彼女が美しさで人々を魅了することはあっても、幻術で誰かを惑わすことはもう二度とないだろう。
「次は君の番だ、シード」
ラナスオルはシードの傍に膝をつき、苦痛に歪む顔を覗き込んだ。
腹部の傷口と弱りきった銀の瞳を交互に見やり、指先が抑えきれない感情で震え出す。
怒りの余韻か、彼の無防備な姿を見た衝撃か――あるいはその両方か。
「あの女……到底許しがたい行為だが、こんな幻術に引っかかった君も、少しは反省が必要だな」
皮肉じみた声音の裏に拭えぬ心配を感じ取り、シードは言葉を返せなかった。
ラナスオルはシードの頭を膝に乗せると、創造の左手を彼の傷口に当て、ゆっくりと毒を浄化し始めた。
柔らかな光が滲み込み、体内を蝕んでいた邪悪な毒が少しずつ消滅していく。
「申し訳ありません……このようなことであなたの手を煩わせるとは」
シードの声はまだ弱々しく、謝罪の言葉すら呼吸のたびに掠れ、風に揺れる草の音に掻き消されてしまいそうだった。
「君らしくないな。どうして反撃しなかった?」
ラナスオルは毒の浄化を続けながら、真剣な眼差しで問いかけた。
言い訳などできなかった。
ただ、何が自分をためらわせたのか――彼自身、完全には理解できていなかった。
「なぜでしょう、僕にも……わからなかった……」
シードは僅かに眉を寄せ、息も絶え絶えに呟く。
(どうして……僕は……あの時、斬れなかった……?)
『妻の私を攻撃するのか? シード……?』
その声が偽物だと、頭では理解していた。
それでも彼は――斬れなかった。
胸の奥に絡みつくような何かが、無意識に彼の魔力の刃を鈍らせた。
剣を振るう手を拒んだのは自分自身だった。
(僕は……彼女を傷つけるのが怖かったのか?)
その時、神であるはずの彼を支配していたのは――喪失への拒絶。
彼の元から消えていった、かつての幻のラナスオルと人間のラナスオルの姿が記憶の淵に蘇る。
(また……彼女を失うのが……嫌だった……?)
ラナスオルの問いに明確な答えは掴めぬまま、やがて体内の毒素が薄れてくると、彼は彼女の腕の中で意識を手放すように瞼を閉じた。
――ラナスオルにはわかっていた。
彼の中で人として芽生え始めた「守りたい」という想い、「傷つけたくない」という優しさ。
そして――無意識の奥底で燻る「ラナスオルを失う恐怖」。
「見誤っていたのは、私の方だったかもしれないね」
ラナスオルは眠る彼の頭を抱き寄せ、微笑みを浮かべながら銀色の髪を優しく撫で続けた。
指先には怒りも悲しみも、そして壊れそうな彼の心を包み込もうとする、揺るぎない愛が込められていた。
ラナスオルはシードの身体を慎重に抱き上げる。
壊れ物を扱うかのように、傷一つ増やさぬよう細心の注意を払って。
そして、二人の帰る場所へとゆっくりと歩み始めた。
彼を二度と、幻に囚われさせないために。