冷酷死霊術師とわがまま女神のリスタート 〜殺し合いの因縁を超えた先の、あまりにも短い幸福〜 作:えびふぉねら
――キィィィィィ――!!
果ての大地に響き渡るそれは、音を超えた異形の絶叫だった。
魂に直接突き刺さるような禍々しい波動が、耳にする者すべてをすくませる。
蒼炎の呪われた輪を頭上に戴く、青白い巨鳥が天を覆っていた。
長い尾羽が大地を撫でるたびに地面は焼けただれ、生命の痕跡は露と消える。翼を振るえば熱風が吹き荒れ、海は干涸びて砂漠へと変わる。
精霊たちの悲鳴すら青白い炎に焼き尽くされ、世界は死の静寂に沈んでいった。
その災厄の中心に佇むのは、もはや「彼」ではなかった。
かつて「銀灰の守護者シード」と呼ばれた男。
ラナスの女神、ラナスオルの夫――だった者。
異形の力に完全に呑まれた彼は、理性を喰い潰され、呪いそのものへと堕していた。かつての面影は微塵もなく、意思さえもない。
ただ征く道すべてを、生きとし生けるものすべてを、冷たい青の炎で灰燼に帰すのみ。
もはや誰の声も届かない。愛した者の声でさえ彼の耳には届かず、虚ろな咆哮が返ってくるだけだ。
「くぅっ……!」
強大な魔力を纏った風圧が、ラナスオルを地に叩きつけた。身を守るフェルジアの防護が砕け散り、青い火花が皮膚を焦がす。
焼ける痛みが全身を襲い、擦り切れた指先から滴る血が焦げた土に黒く滲んだ。
熱気が肺を締め付け、息を整ええることもままならず、喉の奥に血の味が広がる。
身体を癒そうと創造の光を放つも、傷から滲む呪いが魔力を阻むように包み込み、四散してしまう。
「っ……なんなの……こいつ……!」
隣で呻くのは、暴食の女神グレナシア。
彼女の黒いドレスは無惨に裂け、白い肌に呪いの炎が刻んだ赤黒い傷が疼いている。苛立ちと恐怖に震えながらも、真紅の瞳は目の前の異形を見据えていた。
「答えなさいよ、女神ラナスオル!」
グレナシアの叫びが響く。
「こいつが本当にあなたの夫だって言うの!? この、救いようのない呪いが……!」
神界の最高神ですら恐れる存在。神を超越した災厄。
それが、シードと呼ばれた男の成れの果てだった。
「……彼は、もう……戻れない……」
ラナスオルは絶望を噛み締めるように答えた。
身体が凍てつくように動かず、掠れた声で呟くのが精一杯だった。
視界が熱に揺らぐ。彼はもういない。愛した人は、どこにもいない。
「……あっはは……何よそれ……無茶苦茶だわ……」
グレナシアは血に濡れた唇を歪め、乾いた笑いを漏らす。笑うしかなかった。
神々を喰らい、何度も死を見つめてきた彼女でさえ、この理不尽さに呆れと嘲りしか浮かばない。
「これがあなたたちの言う『愛』の形? あっははは……バッカみたい……本当に……なんてこと……なんてことをしてくれたのよ……ッッ!!」
怒りと絶望を込めた拳が大地を叩き、土が血と混ざって飛び散った。
――その時、異形が視線を落とした。
蒼炎に燃える双眸が二人を捉える。意思を持たない、ただ焼き尽くすためだけの、冷たく空虚な光を湛えた瞳。
青白い火の粉を撒き散らしながら、殺戮の化身がゆっくりと降下してきた。
「……ラナスオル、逃げるわよ」
グレナシアの声が低く響く。
だが、ラナスオルは動けない。紫色の瞳が昏く絶望に染まり、彫像のように立ち尽くしている。
目の前の怪物が、かつてのシードと重なっていた。
あの冷たい銀色の瞳、冷徹な声が狂気の下に埋もれている、彼はまだあの中にいる――。
「しっかりしなさいよ!!」
グレナシアが手を引く。
「ここで死ぬ気!? 冗談じゃないわ!」
「……っ!」
その言葉で、ラナスオルは我に返る。
「……これでも喰らいなさい!」
言うや否や、グレナシアの両手に漆黒の魔力が渦巻き、黒炎が立ち昇る。
それを巨鳥の頭部めがけて投げつけると、黒い煙が煙幕のように広がり、異形の視界を覆った。
――攻撃ではない、ほんの僅かなめくらましだ。
「……」
ラナスオルは歯を食いしばり、グレナシアの手を握る。ドレスに忍ばせた風の精霊を解き放つと、二人の身体は風と化し、空を駆けるようにして灼熱の地を離れた。
果ての大地が瞬く間に遠ざかる。振り返ると、遥か向こうで蒼炎が咆哮を上げていた。
* * *
二人は居城へと逃げ込んでいた。静謐な城内に響くのは、二人の血と土に汚れた靴音だけだ。
ラナスオルは執務室の奥へ足を踏み入れる。
彼女は血塗れの手で書架を乱暴に押しのけ、分厚い書物の間から漆塗りの箱を引きずり出した。
薄暗い部屋に埃が舞い。グレナシアが不満げに目を細めながら箱を見やる。
その中に眠るのは――「神殺しの剣」。
ただの神を斬る凶器ではない。理を断ち、魂すら滅ぼす呪詛が刻まれた短剣。刃は鈍く光り、見る者を呪うかのように冷たく脈打っている。
「……本当に使うつもり?」
グレナシアが険しい表情でラナスオルを見つめる。
神界の下っ端の神如きには扱えぬ代物だが、ラナスオルが使えば確実に凶器になりうることはわかっている。
だからこそ、グレナシアの声に苛立ちと微かな怯えが混じる。
「……もう、手段を選んでいる場合ではない」
ラナスオルは血に濡れた手で剣を握り締める。冷たい刃の感触が擦り切れた傷の痛みを忘れさせた。
かつてシードを滅ぼしかけた武器。
――これを使えば、彼は完全に消滅する。魂ごと現世から抹消され、二度と蘇ることはない。
「行くぞ、グレナシア」
「ふん……」
グレナシアはため息をつき、嘲るような目を向ける。
「いいわ、付き合ってあげる。あなたの夫の始末は、あなたがつけなさい」
* * *
――キィィィィィ……!!
戦場へ戻った二人を、甲高い死の咆哮が迎えた。
青白い呪いの巨鳥が空を覆い、その羽ばたきで大地の最後の緑が燃え尽きていく。焦げた土が風に舞い、海は沸騰していった。
創造の左手フェルジアの再生の力さえ及ばない、圧倒的破壊。このままでは、世界は完全に死に絶えるだろう。
火の粉が激しく降り注ぐ中、シードの蒼炎の瞳が二人を捉えた。
その瞬間、冷たく青白い異形が猛然と襲いかかる。
「グレナシア!!」
ラナスオルが叫ぶ。
「分かってるわよ!!」
グレナシアは躊躇なく跳躍する。華奢な身体に黒炎を纏い、獲物を喰らう獣のようにシードへ飛びかかった。
「くぅぅっ……!」
だが、彼にとってその抵抗は虫けらの如しだった。熱風が彼女の肌を焦がし、黒いドレスが千切れ飛ぶ。
それでもグレナシアは怯まず、焼けただれた腕を振り上げ、黒炎を巨鳥の片翼に絡みつかせる。炎が羽を焼き、シードの軌道が僅かに乱れた。
その隙を突き、ラナスオルは飛び上がる。神殺しの剣を握る手に血と汗を滲ませながら。
「……シード」
最後に彼の名を呼ぶ。だが、反応はない。目の前の異形が、かつての優しい夫と重なり、刹那のためらいで腕が震えた。
それでも彼女は剣を振り上げ、渾身の力を込めて――
シードの喉元へ突き立てた。刃が冷たい身体を貫き、青白い血が迸る。
――キィィィィィ!!!
魂を震わせる灼熱の絶叫がこだまする。巨鳥の身体が激しく痙攣し、蒼炎が乱舞した。
刃から溢れる血が弾け、飛び散った火の粉で海が煮え立ち、精霊たちが灰と消えてく。
「く……!」
振り解こうと暴れるシードの首に、ラナスオルは必死にしがみつく。耳をつんざく巨鳥の鳴き声の中、血が滲むほど剣を握り締め、刃をさらに深く押し込んだ。
爪が剥がれ、手の皮が裂けても、彼女は決して手を離さない。
彼は翼を震わせ、なおももがき苦しんだ。
だが、次第に抵抗する力が弱まり、脚の爪がひび割れ、その隙間から白い煙が立ち昇る。
長い尾羽が千切れて宙を舞い、全身の青白い羽は火の粉となって剥がれ落ちていく。
ついには戴きの輪が砕け、狂気が霧散していくのをラナスオルとグレナシアは呆然と眺めていた。
やがて、地に堕ちた彼の体がゆっくりと縮んでいく。
呪いが産んだ巨鳥の姿は幻が晴れるように解け、そこに現れたのは――元の姿のシードだった。
「シード……!」
ラナスオルは自分のぼろぼろの身体を顧みず駆け寄った。
倒れ込んだ彼の傍に跪き、支えようと手を伸ばす。銀髪は血と炎に塗れ、彼女の腕の中で蒼白い顔が横たわった。
短剣を喉に突き立てたまま、彼はラナスオルを見つめた。銀色の瞳が何かを語るように薄らと瞬く。唇が微かに動き、言葉を紡ごうとする。
ラナスオルは耳を近づけた。
――だが、喉から洩れたのは掠れた息だけだった。
そのままシードの身体が青白い光に包まれ、塵となって崩れ去る。
ラナスオルは必死に手を伸ばし彼を掴もうとするが、指の間を青白い灰がするりと零れ落ちていく。
「あぁっ……うっ……!」
彼の最後の瞳が何を伝えたかったのか。最期の想いが何だったのか。ラナスオルには分からなかった。
「シード……っ!!」
叫んでも、答えはない。何も残らない。
彼の存在は魂ごと完全に消滅したのだから。
ラナスオルは跪いたまま泣き崩れた。
手のひらに残るのは、僅かな青白い灰――彼の最後の残骸。それを握り締めたまま、彼女は微動だにできなかった。
やがて風が灰を掠め取るように舞い、静寂が訪れた。
「……終わったの?」
グレナシアの声が虚ろに響く。彼女もまた満身創痍だった。
漆黒のドレスは焼け焦げ、剥き出しの肌に刻まれた無数の傷から血が滲む。
「……そう、終わったのね」
小さく嘲るように笑い、血に濡れた唇で言葉を紡ぐ。
「なのに、どうしてそんな顔をしてるの?」
――どうして、こんなにも寒いのだろう。
ラナスオルは目を閉じた。ただの身体の冷えとは違う、内側から凍てつく冷気が彼女を蝕む。まるで魂が凍りつくような寒さだ。
指先が妙に痛む。いや――痛みではない。感覚がないのだ。
彼女は震える手を開き、見下ろす。
そこには――青白く染まった指先があった。
「ぁ、あ……」
その瞬間、喉から引き攣った音が漏れる。
それはシードを蝕んだ呪いの色。否――呪いそのものだった。
青白い亀裂が血管のように皮膚を這い、ゆっくりと広がっていく。
「い……や……」
手のひらから手首へ、手首から腕へと――まるで生き物のように彼女を侵食していく。
「……ねえ、ラナスオル……?」
グレナシアが珍しく怯えた声で囁く。紅い瞳がラナスオルの変化を捉え、恐怖に揺れた。
「あなた……まさか……」
ラナスオルは震える手で胸に触れる。
心臓の鼓動が異様に静かで、まるでそこに冷たい塊があるだけのようだ。
それを自覚した瞬間、己の存在が塗り替えられていくような感覚に陥る。
「……」
言葉にならない。だが、理解してしまった。呪いは消えていなかった。
シードが滅びても、それは終わらない。彼が生み出した、一万年を超えて歪んだ愛。
――呪いは「愛する者」へと受け継がれる。
呆然と自らの手を見つめる。青白い模様がじわじわと広がり、指先が小刻みに震える。侵食されるのを自覚しながら、抗う術はない。
「どうして……私が……」
彼女は理解していた。呪いはシードの死で次の器を求め、彼を討った最も近しい存在――彼女を選んだ。それが「愛する者」の証だとでも言うかのように。
「……ねえ……冗談でしょ?」
グレナシアが一歩後ずさる。笑おうとする唇が震え、声が掠れる。
「だって、それじゃあ……」
「……私は……」
ラナスオルは亡霊のようにゆらりと顔を上げた。紫色の瞳が鈍く輝く青へと染まり、神々しい光を失う。呪いそのものの色を湛えて、彼女はただ叫ぶ。
「……いや……シード……私は……っ……!!」
その言葉とともに、背後で青白い炎がぼうっと灯った。
それは戦場の残り火ではない。彼女自身が生み出した炎――彼女を侵食する呪いの証だ。
――これが終焉の始まりだった。
神をも滅ぼす呪い。それを愛する者が受け継ぐというなら。
シードが愛ゆえに滅んだように、今度はラナスオルが――。
「……ぁ、あ……!」
嗚咽とも、呪詛とも取れぬ声が無意識に漏れ、彼女は喉を押さえつけた。
冷たい炎が内側から溢れ出し、青白い光が蛇のように全身の皮膚をのたうつ。
背中が裂けるように痛んだかと思うと、ついには漆黒の翼が血と肉を散らして生え広がった。
「っ……が……ぁぁ……!!」
痛みと熱に焼かれ、ラナスオルは歪んだ叫びを上げた。青白い炎が地を走り、焼けただれた大地を再び覆い尽くす。
「呪われた地……ラナス……」
グレナシアが、恐怖に震えた瞳でラナスオルを見つめながら呟いた。
それはもはや神ではない。「ラナスオル」ですらない。
理性が溶けていく。視界が青く染まり、自我が呪いに呑まれる。
この呪いは意思を許さない――シードがそうだったように。
「……は、ぁ……」
彼女は震えながら天を仰ぐ。この世界にもう神はいない。救いはない。
もし誰かが彼女を討てるなら、それはどれほどの救済だろうか。
――だが、もう遅い。呪いは継がれたのだ。
「……しーど……助ケ……テ……」
彼の名を呼ぶが声が虚空に溶ける。答えはない。
青白い光が全身を喰らい尽くし、ラナスオルだった存在は消える。
そこに立つのは異形の女神――新たな災厄。
そして――
世界はゆっくりと燃え始めた。