冷酷死霊術師とわがまま女神のリスタート 〜殺し合いの因縁を超えた先の、あまりにも短い幸福〜 作:えびふぉねら
村に戻った時、シードの耳に最初に届いたのは、またしても人々のざわめき。
むしろ、先程より状況は悪い。
猫を追いかけたうえ、何も持たずに帰って来たのだ、混乱を招くのも無理はない。
「猫が……いない……」「やはり生贄が足りなかったんだ……!」
生贄が消えたことに村人たちは戸惑い、怯えている。
本当に、彼が猫をたいらげたと思っているらしい。
長く擦り込まれた恐怖の記憶、死と呪い――それが、彼がこの地に残してしまった傷跡だった。
そんな重苦しい空気の中、シードは群衆の中央に立ち、高らかに告げた。
「あの子猫の生贄としての務めは、すでに果たされました」
その瞬間、全員の顔色が変わる。
恐怖に青ざめ両手を頬に当てる者、動揺し崩れ落ちる者。
この世の終わりのように天を仰ぐ者――
「おい! 早く来月の娘を連れて来い!」「あぁーっ……もう、おしまいだァ……次は我々が喰われるぅっっ!」
村人たちのあまりの勘違いぶりに、シードは呆れたようにため息をついた。
しかしそれは、自らの過ちが生んだ誤解の大きさに対する、重い自己嫌悪でもあった。
(僕が恐怖という名の神を、人々の心に植え付けてしまった)
だからこそ――「生きて」償わねばならない。
傷つけた者として。残った命を、これから生まれてくる命を。
奪った未来をこの手で守らねばならない。
銀色の瞳が、静かに人々を見渡した。
「ですから、もう二度と……生贄は必要ありません」
その宣告は、冷たい炎のように響き渡った。
だが、それはかつての粛清の青ではない。
柔らかな言葉の余韻が、雪解けのような静けさとなって村の中に広がっていく。
人々は互いに顔を見合わせた。
数百年続いてきた忌まわしい掟を、今まさに神が否定したのだ。
村長でさえ混乱し、この場をどう収めれば良いか考えあぐねている。
たとえ恐れられても、拒まれても――シードは「それでもいい」と心の中で呟いていた。
だが、そんな大人たちを掻き分けて、小さな少女が一人躍り出た。
目の前の神すら恐れない、純粋な眼差しを向けて。
群衆の混乱を吹き飛ばすように、一際元気な声で叫ぶ。
「シード様は悪い神様じゃないよ! 猫ちゃんを助けてくれたもん!」
村人たちの視線が少女に集まる。
その瞬間、彼女の足元からぴょこんと、灰色のふわふわ子猫が顔を出した。
――あの子猫だ。
どうやら、猫だけが通れる小さな獣道を使って彼を追いかけてきたらしい。
「にぁーん!」
子猫の高く澄んだ鳴き声が、不穏な村の空気を塗り替えていった。
灰色の毛を震わせ、ふわりと少女の足元に寄り添う。
まぎれもなく「生贄として差し出されたはずの命」。
だが、身体には傷一つない。猫は確かにここに生きている。
小さな命が、言葉を使わずに語った真実。
少女の声に続いて、ぽつり、ぽつりと村人たちが口を開き始めた。
「……猫を助けてくれた?」
「……食べたんじゃ……ない……?」
「銀灰の……守護者……様…………」
ぎこちない言葉とともに、誤解と迷信がじわじわ崩れ落ちていく。
最初は戸惑っていた人々も、やがて誰からともなく子猫のもとに集まり、そっと手を伸ばした。
「にーぁ!」
小さな肉球が指先に触れるたび、長年村を縛り付けていた恐怖の呪縛がほどけていくようだった。
村長は一歩前へ出ると息を吐き、深く頭を下げた。
「……我らが恐れたのは、あなた様の強大な力でした。しかし、今こうして目の前におられるのは……優しき神であり、赦す者……。どうか、我らもまた赦される機会を……」
シードはその言葉にすぐには返さず、代わりに小さく微笑んだ。
冷たく見えるその笑みの中に、僅かに安堵の色が差していた。
人々もそれにつられるように、少しずつ口元を緩めていく。
「赦す必要など、そもそもありません。僕がこの村を裁く権利もありませんから……ですが、共に未来を築くことはできます」
それが、彼が「人」として選んだ贖罪の形だった。
* * *
その日から、シードは村に留まり、復興作業に加わった。
子供たちと一緒に、畑に水を撒く。
ある時は倒壊しかけた家を修理し、家族のいない老人の話し相手となった。
神として世界を見下ろしていた男が、人々と肩を並べて汗を流していた。
「シード様、水汲みは任せて!」「あっ、猫ちゃんが逃げたー!」「にぁー!」
子猫と子供たちの声に囲まれて、彼の表情は少しずつ柔らかくなっていった。
村人たちも、あまりにも人間らしいシードの姿に最初こそ戸惑っていたものの、やがて彼の人となりを知り、恐れを和らげていった。
そして、生贄のために立てられた古い祠も――
「このままでは、また過ちを繰り返す。形から変えましょう」
村人たちの総意で、完全に取り壊されることが決まった。
代わりにそこへ建てられたのは、小さな石の祠。
飾られたのは、灰色の子猫を模した彫像と、周りを囲む娘たちの像。
今まで魔物の生贄となった村人の魂が安らかであるよう、祈りを込めて。
名もなき命が救われたこと。
そして、信じることで世界が変わったという記憶を、後の世に伝えるために。
* * *
陽が傾き、空が茜色に染まり始めた頃。
シードは静かに村の門をくぐった。
背中には一振りの工具袋。外套の裾には土の汚れが残っている。
「もう帰るの、シード様?」
後ろからかけられた少女の声に、彼は立ち止まり、振り返る。
目を細め、柔らかく微笑んで言った。
「ええ、まだ僕にできることが他にもあるはずですから」
灰色の子猫が「にゃっ」と短く鳴いて、彼の足元をちょこちょこと追いかけてくる。
シードは少しだけ苦笑してしゃがみ込み、その頭を優しく撫でた。
「また折を見て、様子を見に来ますよ。この村を君に任せても大丈夫そうですね……灰色の小さき守護者よ」
子猫はしっぽを立てて擦り寄り、了解とばかりに「にぁ!」と答えた。
「頼もしい返事だ……それでは」
彼はそう言って立ち上がると、歩き出す。
村人たちの声援と、小さな鳴き声が彼を送り出していった。
こうしてまた、贖罪の旅路に一つの希望が灯された。
彼が傷つけた世界は、少しずつ彼を「赦し」ていく。
「この手が……命を奪うためではなく、守るためにあるのだと……僕はようやく気づけた」
シードは村を振り返り、静かに目を伏せて自らの手のひらを重ねた。
「ラナスオル……あなたが隣にいてくれるから、僕は歩き直すことができる。あなたが守ってくれたこの命と、もうすぐ生まれてくる新しい命が、僕に『人』としての強さを与えてくれた」
風が彼の外套を揺らし、銀色の瞳が夕陽を映している。
その背には、決意と僅かな微笑みがあった。
「……これからも、あなたの世界を守り続けると誓おう。僕の心は、いつもあなたのそばにある」
赤く染まる空の下。
神の名を背負いながらも、今は人として歩む男が新たな贖いの道を進んでいった。