冷酷死霊術師とわがまま女神のリスタート 〜殺し合いの因縁を超えた先の、あまりにも短い幸福〜 作:えびふぉねら
床に転がった銀色の刃は、冷たく鈍い光を放っていた。
目の前に横たわる彼の、残り僅かな命の光のように。
その刃の先をぼんやりと見つめるラナスオルの頬を、一筋の涙が静かに伝う。
胸を締めつけるような痛みが彼女を襲った。
それは神性が崩れる痛みなのか、心の痛みなのか。もう彼女にはどちらであろうとも関係なかった。
ラナスオルは、苦悶の表情を浮かべながらシードの手を握り締める。
彼の指先は冷え切っていて、生の温もりを欠片も感じさせなかった。
かつて世界を恐怖に陥れた死霊術師は今や眠るように静かで、触れれば簡単に壊れてしまいそうなほど繊細に思えた。
「……シード……」
その名前を呼ぶ声は震え、吐息が漏れただけのように掠れていた。
フェルジアの力が途切れ、シードの身体から再び体温が失われていくのを、彼女は見守ることしかできなかった。
あの時、彼の命を奪うことは当然だった。
あの世界ではそれが「使命」であり「正義」だった。
(違う……私は……)
『本当に人の選択だと言えるのですか?』
彼の言葉が突き刺さるように脳裏に蘇る。
(違う……!)
――人の選択でも、諦めなどでもない。
説明できない。
それが何かを問われたとしても、言葉にはならない。
ただ、助けたい。
この手を離したくない。
「私の行動には……もはや理由なんてないのだ……」
紫の瞳に涙を滲ませながら、彼女はその手を強く握り締める。
「この胸の奥に込み上げる感情だけが、私を突き動かしている……理屈では説明できないのだ……」
それは彼女が初めて――
神としてではなく、一人の女性として紡ぎ出す言葉。
「これが……きっと『愛』なのだろう……」
声が二人の間の静寂の中へと落ちていく。
ラナスオルは握る彼の手をそっと自らの頬へ寄せる。
もう、ほとんど温もりがない。
「私は君を愛している……ただ、それだけだ……」
静かな声が唇を震わせ、溢れ落ちた。
抗いがたい感情。それは言葉では語り尽くせないほど深く、そして切実だった。
理屈も、理由も、何もない。
彼が生きていてほしい。それだけだった。
その時、シードの瞳が僅かに開き、冷たく澄んだ銀灰色の瞳がラナスオルを捉えた。
弱々しくも、意識が戻ったことを伝えるようにその瞳が揺らめく。
「……ラナスオル……」
霧の中にいるような朧げな視界の中、彼は乾き切った声で言葉を紡いだ。
「それが……あなたが選んだ答えなのですか……?」
受け入れるのか、疑うのか。彼の瞳に揺れるのはそのどちらでもあった。
彼女がここまでして自分を救おうとする理由は彼にはわかっていたが、それでも納得はできなかった。
「……愛という感情……僕には……まだ分からない……」
それは彼の閉ざされた心に、微かな感情の機微としてだけ響く。
「だが、あなたが……その言葉に……何かを賭けるのなら……」
全身を襲う苦痛、悪寒、途切れかかる意識。
もはや呼吸すらおぼつかないが、その感覚を押し殺し言葉を紡ぐ。
「あなた自身を壊すようなことは……しないでくれ……」
ラナスオルはその言葉に顔を歪めた。震える左手から血が滴る。
シードのために、限界まで力を振り絞った彼女の身体は悲鳴を上げていた。
それでも、彼の手を離そうとはしなかった。
「君はまだ答えを見つけていない……君の返事も聞いていない……」
喉が詰まり、言葉が涙に押し流される。
「ずるいだろう……君だけが逃げるなんて……」
ラナスオルは崩れるように彼の身体に寄り添い、もう離すまいと両腕で抱きしめた。
「……ラナスオル……」
シードは微かな声で彼女を呼び、最後の力を振り絞るように囁いた。
「僕に生きろと言うのなら……あなた自身も……生きろ……」
そう告げると、シードの腕がほんの僅かに彼女の身体を抱き返す。
しかし、その力はすぐに抜け落ち、彼の瞳が静かに閉じられていく。
まるで、永遠の別れを告げるかのように。
「私も、生きる……?」
ラナスオルは涙に濡れた顔を上げた。
燃え尽きる寸前の炎のような、儚い希望が瞳の奥で揺れる。
「それが君の答え……?」
彼の最期の言葉が、彼女の心を強く揺さぶっていた。
迷いながらも、その言葉に答えを見出そうとする。
女神ではない自分が生きる意味。
幻である自分が生き続ける理由。
今までのすべては――
(そうだ、私は彼を救うために生まれた――)
紫色の瞳が輝く。
自らの存在が、ただそのためにあったのだとしたら。
迷う理由など、もうどこにもなかった。
ラナスオルはシードの頬に手を添え、ゆっくりと顔を近づける。
彼の肌は冷え始めている。しかし、まだ完全に消え去ってはいない。
この命がまだ僅かにでも残っているのなら――
白髪が静かに揺れ、彼の肩にかかる。
そのままためらいなく、彼の冷たい唇にそっと触れた。
その刹那――
神の力が解き放たれた。
圧倒的な神の生命力、破壊と創造――彼女の全てが、死にかけた命の器へと注ぎ込まれた。
彼の全身を駆け巡るのは、かつて感じたこともない、血液を躍り上がらせるほどの生命の熱。
それが光となり、身体の隅々まで満ち渡っていく。
冷たく凍えていた肉体が溶けるように温かくなり、止まりかけていた心臓が鼓動を取り戻す。
魔力の乱れは完全に消え去り、代わりに体内を満たしていくのは、彼女の力――否、彼女の「存在」そのものだった。
「ラナスオル……?」
シードの意識が戻り、呆然としたように彼女の名を呼んだ。
呼吸は整い、銀色の瞳は彼女の姿をはっきりと映し出す。
「シード……」
ラナスオルは微笑みながら、そっと彼の頬を撫でた。
「私は君の中で生き続けられれば……それで構わないよ……」
彼女の声は優しく、あまりにも穏やかだった。
光が収まり、シードの身体は完全に癒されていた。
彼女の力はすべて彼に託された。だが、彼が何か言おうとした瞬間、残された身体は神性を失い、静かに彼の胸元へと崩れ落ちた。