冷酷死霊術師とわがまま女神のリスタート 〜殺し合いの因縁を超えた先の、あまりにも短い幸福〜 作:えびふぉねら
「あら、また元カノの話?」
ラナスオルは少しだけ不機嫌そうに口を尖らせた。
それでも、みずみずしい唇の端には小さな笑みが浮かんでいる。
彼の冷徹な心を掻き乱そうとするかのような、挑発的な眼差しだ。
彼女が「元カノ」と言うたびに、かつてのラナスオルの姿が脳裏を掠める。
今、目の前にいる彼女は、かつて彼の命を救い、消えたラナスオルと同じ年齢の姿をしていた。
懐かしさを感じるのは当然だった。
しかし、それを口にするたび、彼女は決まって拗ねたような態度を取る。
「いくら私があなたの元カノにそっくりだからって、あんまりそんなことばかり言ってると……こうしちゃうんだぞ〜!」
突然、彼女はシードに飛びかかりソファへ押し倒した。
小柄な身体とはいえ、油断していた彼は思わず身を沈めた。
ラナスオルは、長い白髪がかかった彼の肩を押さえつけ、満足げに微笑む。
「うふふ、私の勝ち!」
「君という人は……」
シードは僅かに眉をひそめたが、抵抗することもなく、深い息をついて目を閉じた。
こうした突拍子もない彼女の行動には、もう慣れたはずだった。
かつての「ラナスオル」とは異なる存在であると理解している。
しかし、近くで感じる彼女の体温、柔らかな髪の香り。
それらが伝わるたび、何も感じていないはずの彼の心が微かに軋む。
彼はそれを意識の隅に押しやり、淡々と応じた。
「……君は本当に、人間らしさを極めているようですね。『元カノ』という言葉を選ぶあたり、その無邪気さはどこまで計算されたものなのか」
僅かに皮肉を交えたつもりだったが、彼は自分の声にどこか揺らぎが潜んでいるような気がした。
彼女の影響を受けているのだろうか。
それとも、彼女の言葉が思いのほか胸に響いてしまったのか。
ラナスオルは不満げに頬を膨らませ、じっと彼を睨む。
「人間らしい、じゃなくて、私は最初から人間よ。まったく、変な神様なんだから」
愛らしくも、呆れ半分といった声音だが、その表情には威圧感はなく、長年連れ添った家族のような和やかな温かさが漂っていた。
彼の近くで過ごし、積み重ねた時間の重みが確かにそこにあった。
――それでも、彼女の記憶は戻らなかった。
「……あなたとここで過ごしても、結局私の記憶は戻らなかった」
少しだけ落ち着いた口調。
紫色の瞳が、どこか遠くを見つめるように揺れる。
そして、すぐに笑顔を浮かべた。
「でも、もうそんなことどうでもいいじゃない。こうしているだけで、私はすごく幸せなの」
彼女の表情に迷いはなかった。
記憶を失い、自分が何者だったのかも分からないまま、それでも彼女は「今」を選び、生きようとしている。
シードには、その強さが少しだけ眩しく思えた。
「……ううん、あなたのことも、幸せだって言わせてみせる!」
「幸せ」――その言葉は、シードにとってあまりに遠い概念だった。
それを求めたこともなければ、与えられる資格もないと思っていた。
それなのに、目の前の彼女は当たり前のようにそれを口にする。
「ふふ、神様を満足させられる人間になれたら、間違いなく神話に載っちゃうね!」
ラナスオルは彼の上から降り、満足そうに胸を張って立ち上がる。
彼女の表情は晴れやかで、彼の迷いなどまるで気づいていないようだった。
シードはゆっくりと身体を起こし、彼女の姿を見上げながら静かに口を開く。
「記憶が戻らなかったことを『どうでもいい』と言い切るその潔さには、感心するしかない。ですが……君が幸せだと言うのなら、それを否定する理由は僕にはない」
――否定をしない。それは彼ができる唯一の許容。
彼はラナスオルの無邪気な笑顔を見つめ、僅かに感情を滲ませた声で続ける。
「……『僕を幸せだと言わせる』か。挑戦的な発言ですが、君なら本当にそれを成し遂げる可能性があるのかもしれません」
彼は立ち上がり、少し距離を置いて彼女の方を振り返る。
彼の冷徹な表情は変わらない。
しかし、銀色の瞳の奥にはほんの僅かに柔らかな光が揺れていた。
「君の言う『幸せ』というものが、どれ程のものか見せてもらいましょう。その先に僕が何を見つけるか……それも、君の手腕にかかっているでしょう」
彼の言葉に頷いたラナスオルは軽くため息を漏らし、肩をすくめながら微笑む。
「さあ、あなたの難しいお話はもう終わり。ご飯が冷めちゃう」
ラナスオルは明るく笑い、食卓を指差した。
その笑顔はあまりにも純粋で温かくて――
そして、彼にとって少しだけ残酷だった。
シードは石のテーブルに目を向けた。
湯気を立てるシーフードドリア。その隣には、彼のために用意されたラナスオルの手作りプリンが待っている。
無言のまま椅子に腰を下ろし、ゆっくりとスプーンを手に取った。