冷酷死霊術師とわがまま女神のリスタート 〜殺し合いの因縁を超えた先の、あまりにも短い幸福〜 作:えびふぉねら
『私がいる限り、彼の命を終わらせたりしない――』
――突如響いた、凛とした声。
異質でありながら、どこか懐かしい。
シードの内側から聞こえた誰とも知れぬその声が、一瞬、荒れ果てた大地を支配した。
ラナスオルの動きが止まる。
硬直したように息を呑み、震える瞳を見開いた。
「い、今のは……? フェルジア……? いや、私……? 違う! そんな……」
己の中へ響いた声。しかし、それは確かに彼女のものではない。
ラナスオルは頭を押さえ、必死に否定するように首を振って後ずさる。
紫の瞳に浮かぶのは、明確な恐れと困惑。
「私にはもう……彼をどうすることも……できないのか……」
足元が崩れ落ちるような感覚に襲われ、彼女は膝をついた。
ひび割れた大地に両手をつき、力なく俯く。その姿は神の威厳を失い、ただ迷える者にすぎなかった。
破壊と創造を司る神でありながら、自らの力が拒絶される。
その現実に追い詰められ、彼女は一つの真実を突きつけられていた。
「人としての終わりも、神としての終わりも、示すことができない……。彼の中にある、あまりにも強大な『ラナスオル』の力……私にはどうにもできない……。あれが『愛』だというのか……?」
乾いた喉から絞り出された言葉は、自問というより嘆きに近かった。
神であるはずの自分が、何一つ決定できないという現実。
抗えない無力感が彼女の肩を押し潰す。
シードは、そんな彼女を静かに見下ろしていた。
(……何度、こうして膝をつかせればいいのか)
その思いは、ため息のように胸の奥を掠める。
冷徹な瞳の奥には、憐みのような微かな迷いが揺らめいていた。
しかし、それも一瞬のこと。彼は鋭く表情を引き締めた。
すべきことは、ただ事実を突きつけること。それだけだ。
「……あなたの言う通りです、ラナスオル」
彼は一歩前に進み、跪く彼女のすぐ傍で立ち止まる。
「僕の中にある『ラナスオル』の力――それは、あなた自身には理解できないものかもしれない。幻の彼女が、僕に託したもの……それが『愛』であったのなら、なおさらです」
シードはふと視線を上げた。
荒れ果てた世界。終わらぬ戦いが刻んだ、痛ましい傷跡。
その犠牲を目に焼き付けるかのように遠くを見渡す。
そして再びラナスオルへと視線を戻した。
「……ラナスオル。あなたが神としての終わりを示せないのであれば、僕がその役割を引き受けてもいい」
そう告げた瞬間、彼の周囲に漂っていた異形の魔力が静かに収束を始める。
戦うことに意味はない、殺し合う必要はないとでも言うように、その力を手放していく。
「僕は、あなたが使命に縛られた存在であることを理解している。そして、あなたがその使命の中で揺らぎを抱えながらも、こうして僕に向き合ったことも」
シードは膝を折り、ラナスオルに目線を合わせた。
揺れる銀髪の奥、無感情に見えた銀の瞳に宿るのは、かつてのような冷徹さだけではない。
「……あなたの使命がこの世界を守ることにあるのなら、僕をラナスから追放するという選択肢もあるはずです」
鋭い矛先のような声が彼女の心を貫く。
「たとえ僕を浄化できなくても、この地から排除すれば、少なくともラナスの再生を妨げることはなくなる」
シードは、ただ淡々と事実を並べている。だが、それは彼自身にとっても、決して容易な決断ではなかった。
彼は自らが君臨した日本を捨て、力の極致へと至るために故郷であるラナスへと戻ってきた。
しかし、いざここに立ち女神と対峙した今、彼の中にほんの僅かな迷いが生まれていた。
それはまるで救いを求めるかのような――微かな逡巡。
「……それが、あなた自身にとっての『答え』ではありませんか?」
シードの銀の瞳が、迷いに揺れるラナスオルの瞳をまっすぐに射抜く。
ラナスオルは神として、答えを出さなければならない。
だが、どうしても決断ができない。
――彼を追放することが、正しいのか。
だが、もはや何が正しく、何が間違っているのか。神であるはずの彼女にはわからなくなっていた。
シードの存在は、その絶対性をも揺るがせる。
「……」
彼をラナスから追放する。つまり、別の次元へと放逐すること。
それは、ラナスオルの神としての権能をもってすれば、決して不可能ではない。
シード自身がそれを拒まなければ、容易に実行できるはずだった。
「君を、追放……」
ラナスオルの震える声が静寂の中にぽつりと落ちる。
指先は荒れた大地に食い込むほど強く握られている。
しかし、紫色の瞳にはもはや決意の光などなく、疲弊と絶望で曇っていた。
「だが、もう何もかも遅い……」
力なく零れた言葉とともに、彼女の肩が揺れる。
「この世界はもう……私が守るべきはずの多くの命が消えてしまった……。私は使命を果たそうとして、また全てを失った。神でありながら、何一つ守ることができなかった……」
紫の瞳がゆっくり伏せられ、焦点を失ったまま荒れ果てた大地を彷徨う。
干上がった海、死に絶えた精霊の残骸、砕けた大地――すべてが、彼女の破壊の力とシードの異形の魔力の衝突で失われたものだった。
これが、彼女の使命の果て――。
「『愛』とはなんなのだ……」
誰ともなく呟かれた問いは、自身への問い詰めであり、魂の叫びのようだった。
理解できないことへの焦燥。使命を超えた存在への畏れ。
そして、幻のラナスオルがシードに遺したものへの恐怖。
ラナスオルの胸の奥で、神としての理と人としての感情が交錯する。
だが、その答えは見つからない。
「教えてくれ……」
掠れた声が落ちる。
「君なら知っているのだろう? 神の力ですら抗えない、君を異形に変えた……人間の……愛の力とはなんなのだ……?」
シードの中に宿る幻のラナスオルの力を感じ取り、彼女は僅かに身をすくませる。
その姿を畏れの目で見つめながら。
しばしの沈黙が二人の間に落ちた。
やがて彼は、深く冷たい声で答え始める。
「……愛、ですか」
その言葉を繰り返す声に、微かに複雑な感情が滲む。
視線を伏せると、一瞬、遠い記憶が蘇る。
あの時、あの世界で――自分の手を握り締めてきた温かな手の感触。
冷たく、孤独だったはずの自分に確かに触れたもの。
「幻の彼女が言った『愛』……それは、僕の理解を超えたものでした」
シードの瞳が、ゆっくりとラナスオルを捉える。
「彼女は、神としての力を捨て、人としての生き方を選び、命を捨ててまで僕を救った。それが『愛』だと言うのなら――」
彼は一瞬言葉を切り、続けた。
「――それは、自己犠牲そのものだ」
ラナスオルの胸に重い痛みが走る。
「彼女は僕に神の力を押し付け、その呪いを負わせた。それが本当に『愛』だったのかどうか、僕には今でも分からない。ただ一つ言えるのは――」
銀の瞳がラナスオルを射抜く。言葉の刃を突き立てるように。
「――愛とは、理屈では説明できないものだということです」
ラナスオルの瞬きが止まる。
「理解できない、抗えない。そして、僕をこのような存在に変えた力。それが『愛』だと言うのなら、あなたの問いに答えるのは僕ではなく、あなた自身なのかもしれません」
シードはもう答えを探すことを諦めていた。
しかし、その諦念の中に僅かな希望があったことを、本人すら気づいていなかった。
そして最後に、一瞬の沈黙を置いて低い声で締めくくる。
「……ラナスオル、あなたがその答えを見つけられないのであれば、それはあなたが『神』であることに縛られているからでしょう。人として愛を理解するには、あなたの神性があまりにも純粋すぎる」
それは救いの言葉であり、さらなる絶望の宣告のようでもあった。
ラナスオルは息を呑み、震える手で胸を押さえた。
(神である限り、人の愛は理解できない。愛を知ろうとしなければ、彼を救うことはできない……)
神であるがゆえに愛を知らず、愛を知らぬがゆえに彼を救えない。
その残酷な矛盾に、女神の心はひび割れていく。
それでも、答えを出さなければならない。
それが、神としての――否、一人の存在としての責務なのだから。