冷酷死霊術師とわがまま女神のリスタート 〜殺し合いの因縁を超えた先の、あまりにも短い幸福〜   作:えびふぉねら

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66話 神の涙、人の涙

 シードの言葉が深い静寂に溶ける中、ラナスオルの頬を一筋の涙が伝った。

 

 一瞬、彼女はそれが何なのか分からなかった。

 頬を撫でる微かな温もりを、震える指でそっとなぞる。

 

 ――不意に、心が揺らぐ。

 

「……涙?」

 

 ラナスオルは呆然と呟いた。自分自身のものかどうかも分からないほど細く、遠い声。

 曇った視界の向こうで、荒れ果てた大地がぼやけていく。

 

「なぜ今こんなものが……? なぜ、こんなに胸が苦しくなる……」

 

 問いかけながら、彼女の紫の瞳は空を仰いでいた。

 そこに広がるのは、果てしない灰色。今や舞い踊っていた精霊たちは墜ち、希望の欠片すら映していない。

 

 だが――

 

 頬を伝う涙だけが、止めどなく流れ続ける。

 

「幻の私は、自分を犠牲にしてまで、君を生かそうとした……」

 

 胸の奥が締めつけられるように痛む。言葉を口にするたび、大地が光に濡れた。

 

 使命のためにシードを殺した自分。

 愛のためにシードを生かした幻の自分。

 

 同じ存在であるはずの二つの意志の乖離が、耐えがたい矛盾となって彼女の心を蝕む。

 

「命をかけて何かを守りたい気持ちは同じはずなのに……」

 

 だが、選んだ道は異なった。

 

 幻のラナスオルは、神ではなく「人」として愛を抱き、シードを救うことを選んだ。

 対して彼女は、神としての使命を貫き、シードを討つことを選んだ。

 

 その違いは何だったのか。どちらが正しかったのか。

 

「私のやり方は……間違っていたのか……」

 

 ラナスオルは拳を固く握り締めた。

 砕けた大地の破片を掴み、それが掌に食い込んで血が滲む。

 

 傷つくことで、神としての自分を確かめるようにただ握り続ける。

 

「君を殺すべきでは……なかった……?」

 

 声が涙に掠れる。

 

「私は……君を……『愛』さねばならなかったのか……この世界の、一つの尊い命として……」

 

 途切れ途切れに紡がれる言葉とともに、彼女の中で使命が崩れ落ちていく。

 堪えきれない思いが胸の奥から掻き出される。

 

 その姿を、シードは静かに見つめていた。

 冷たい銀の瞳に僅かな感情の揺らぎが浮かんでは消え、すぐに静謐な無表情へと戻る。

 それでも、彼の目は一瞬たりとも彼女の涙から離れなかった。

 

 沈黙が二人に流れる。

 長く深い沈黙――まるで世界の時が止まったかのようだった。

 

 やがて、シードは深く息を吐き、低い声で答えた。

 

「……ラナスオル」

 

 冷たく呼ぶ声に、ほんの少し柔らかな響きを乗せる。

 

「あなたが間違っていたのかどうか、それを判断するのは僕ではありません。そして、幻の彼女が望んだのは、ただ僕を生かすことだけではなく……」

 

 一瞬、彼は目を伏せた。瞳が遠い記憶を辿る。

 

「……僕自身に、愛というものを理解させることだったのでしょう」

 

 幻のラナスオルの微笑みが脳裏に浮かんだ。

 しかし同時に、彼女の想いに応えられなかった痛みが胸を刺す。

 

「ですが、ラナスオル。僕がその答えを見つけることができなかったとしても、それが即ち、あなたの選択そのものが間違いだったというわけではありません」

 

 彼は大地に目を向ける。そして荒れ果てた世界をなぞるように視線を動かした。

 すべてが、彼らの選択の果てに生じた現実だ。

 

「……あなたはこの世界を守るために僕を殺すことを選び、幻の彼女は生かすことを選んだ。それぞれの行動には、それぞれの意味があったのです」

 

 シードはゆっくり膝をつき、ラナスオルと同じ高さで静かに囁く。

 

「……あなたが、今この瞬間に何を選ぶのか」

 

 銀の瞳が、揺るぎない意志を宿して彼女を見つめる。

 

「それが、本当の意味での愛に基づく選択であるのなら……僕もそれを見届けましょう」

 

 冷たくも真摯な言葉に、ラナスオルの涙は尽きることなく流れ落ちた。

 彼女は嗚咽を噛み殺しながら、震える手を胸に押し当てる。

 

 愛とは何か。自分にそれを知ることができるのか。

 神である自分に、その答えを見つけられるのか――。

 

 灰色の空の下、ラナスオルの涙はなおも静かに降り続けた。

 

「シード……」

 

 呟きながら、ラナスオルは震える足取りで立ち上がる。

 膝の感覚が失われかけていたが、身体に力を込め、崩れそうな自分を奮い立たせるように、一歩、また一歩と踏み出した。

 

 乱れた白髪が微かな風になびき、引き裂かれたドレスも気にとめず、引きずるようにゆっくりと。

 

 今、彼女の全ては目の前に立つ男――シードへと向けられていた。

 

 彼の佇まいは彫像のように冷ややかだった。

 ラナスオルは彼に触れようとそっと手を伸ばす。ためらいながらも、その指には確かな決意が宿る。

 

 シードは彼女の行動を拒まなかった。

 その手が自分に触れることを許し、冷静に受け入れるようにじっと見守っていた。

 

 彼女はまるで壊れ物を繊細に包み込むような優しさで彼の手を取る――

 

 ――その瞬間。

 

「……っ!?」

 

 眩い光が彼女の内側を満たした。

 

(記憶が……流れ込んでくる……!?)

 

 それは奔流のような鮮烈な映像。

 激しく容赦なく、彼女の意識を絡め取り、強引に飲み込むほどの強い記憶。

 断片的な映像が、押し寄せる波のようにラナスオルを圧倒する。

 

 ――それは彼女が知るはずのない、もう一人の「ラナスオル」の記憶。

 

「これは……!」

 

 彼女の脳裏に差し込んだのは、幻の世界――「日本」での情景。

 

 病に伏すシードに寄り添い、彼の冷たい手を包む彼女。

 彼が苦しみに喘ぐたび、自らを顧みず創造の左手フェルジアの力で懸命に癒やそうとする。

 

 彼の命が尽きかけたその時――

 

『君を……人として愛せて……よかっ……た……』

 

 微笑む幻のラナスオルは、恐れも迷いもなく、自らの神性を彼へと捧げた。

 その身体は光の粒となり、シードの命を繋ぐ炎へと変わっていく。

 

 そして――もう一つの記憶。

 

 居城の一室で、穏やかに微笑む人間のラナスオル。

 彼女は短い生涯を懸けて、ただ一人の人間として、シードの側に寄り添い続けた。

 

『うふふ……よかった……』

 

 そう言いながら、満ち足りた笑顔を浮かべ旅立っていった人間の彼女。

 その声はあまりにも安らかだった。

 まるで、彼と生きたことそのものが幸福であると信じているかのように――。

 

 彼女は愛する者の命が続く限り、自らの短命すら惜しまなかった。

 

 幻と人間。

 ――二つの記憶が、ラナスオルの胸を貫いた。

 

「っ……うぅっ……!!」

 

 紫の瞳から溢れる涙は止まらない。

 理由も分からない――ただ、涙が溢れ出る。

 喉の奥が詰まり、息が乱れ、彼女は震える手で口元を覆ったが、嗚咽を塞ぐことはできなかった。

 

(私は……私……は……っ!!)

 

 その姿を見た瞬間、シードの銀の瞳が僅かに揺れる。

 幻のラナスオルの笑顔、人間の彼女の温もり。彼の胸の奥にも断片的な記憶が蘇り、かつての情景が微かに心を叩いていた。

 

 だが、彼は表情を変えず、それを振り払うように目を細めた。

 

「……その涙は、神としてのものですか。それとも――」

 

 一瞬言葉を切り、シードは彼女の紫の瞳をまっすぐに見据える。

 

「――『人』としての感情ですか?」

 

 その言葉は突き刺さるように鋭く響いた。

 それはラナスオルだけでなく、シード自身の胸も深く切り裂いていくようだった。

 

 彼は目を伏せ、かつての記憶に思いを馳せるかのように沈黙した。

 幻のラナスオルが自らの命を捧げた瞬間、人間のラナスオルが笑顔で寄り添った日々――そのどれもが、今も彼の中に消えない影を残していた。

 

「……幻の彼女は、神でありながら人としての道を選んだ。そして、居城で共に過ごした彼女もまた、人としての愛を示してくれた」

 

 静かに告げながらも、その言葉を紡ぐたびにシードの胸に鈍い痛みが広がる。

 彼は再び顔を上げ、ラナスオルの涙に濡れた顔を見つめた。

 

「……僕はそのどちらにも応えられなかった。彼女たちの愛を理解することすらできなかった……」

 

 シードの声は冷静でありながら、答えのない苦しみの中でもがいているようだった。

 ラナスオルが流す涙が何を意味するのか。それを問う資格は彼にはない。

 

 彼自身、心の奥底で「愛」の残響に縛られていることを否応なく理解していた。

 

「ラナスオル……あなたがその涙を流した理由が何であれ、その感情が何を意味するのかは、僕ではなく、あなた自身が知るべきことです」

 

 銀の瞳が、複雑な思いと深い闇の静けさを宿したまま揺れる。

 

「……もしあなたが、それを『愛』だと思うのなら、その感情が神としての使命とどう相容れないのか――それを考えることが、あなた自身の選ぶべき道なのではありませんか」

 

 シードはそれ以上言葉を紡がなかった。

 彼は動かず静かにそこに立ち尽くす。まるで彼女が答えを見つけるまで待ち続けるかのように。

 

 ラナスオルの涙は止まらず、胸の奥で何かが崩れ――そして、新たに生まれつつあった。

 

 使命か、愛か。神としての存在か、一人の人間としての存在か。

 その答えが、今、彼女の中で形を成そうとしていた。

 

 そして――

 

 彼女の心に湧き上がる衝動が、叫びとなって溢れ出ようとしていた。

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