冷酷死霊術師とわがまま女神のリスタート 〜殺し合いの因縁を超えた先の、あまりにも短い幸福〜   作:えびふぉねら

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70話 ラナスオルという存在

 シードは一瞬視線を窓の外に向け、ラナスの景色を見渡した。

 生命は新しい息吹で満たされ、数百年前の破壊の痕跡はそこにはない。

 

 それでも、彼の心には時折、かつての空虚が顔を覗かせていた。

 力を追い求め、孤独と虚無しか抱けなかった人間の頃。異形に堕ち、命を終わらせることに意味を見出していた神としての日々――。

 

 だが、今はともに時間を過ごし、答えを探す存在が隣にいる。

 彼女の微笑みが、少しずつ、ゆっくりとその隙間を埋めていく。

 

 シードはラナスオルに向き直り、落ち着いた声で言葉を続けた。

 

「……それにしても、僕に料理を任せるとは。あなたもついに神としての役割を忘れ、まるで『甘えん坊の同居人』になりつつあるようですね?」

 

 軽やかに皮肉を交えた声には、以前には決して見せなかった柔らかさが感じられる。

 料理については、人間の頃から孤独に生き続けた彼にとっては造作もないことだ。

 

「ふふ。甘えん坊、か」

 

 ラナスオルは小さく笑い、顔を寄せた。微かな吐息がシードの頬を掠める。

 

「君が一緒にいてくれるまで、私はこうして……誰かに甘えたことなどなかった……。こんなにも、心が落ち着くものなのだな」

 

 甘く囁く声には、かつて敵対した時の冷たい威厳はどこにもない。

 

 そして、突然――

 

 ラナスオルはすっと背伸びをし、シードの頬にそっと唇を寄せた。

 触れたのはほんの一瞬。

 

 まるで花びらが触れたかのような、儚くも確かな温もり。

 

「ふふ、油断したなシード。君らしくもない」

 

 くすくすといたずらっぽく微笑む彼女の表情には、人間のラナスオルの無邪気さが垣間見えた。

 戦場において、常に冷静で隙を見せない彼に不意の一撃を加えられたことが、どうやらかなり嬉しかったようだ。

 

 シードは一瞬動きを止めた。しかし、即座に表情を取り戻し、銀の瞳を細める。

 その沈黙に驚きと困惑が微かに滲んでいたが、すぐに冷たく沈んでいった。

 

「……甘え方を覚えたかと思えば、今度はこうした『遊び』ですか」

 

 彼は肩をすくめ、ため息をついた。

 その声音はいつも通り冷静で感情を読み取りづらい。しかし、彼女を否定するような素振りは見せない。

 

「あなたがこの数百年でどんどん人間らしくなっていくのは、僕の影響だとでも言いたいのですか?」

 

 シードの問いかけに、ラナスオルはふわりと微笑んで首を傾げる。

 

「さあ、どうだろう? 君がかつて見た『二人の私』は、君が言っていた通り、きっと私が長い間押し殺してきた『本当の私』の姿だったのだろうな」

 

 彼女は窓の外を見やり、再生された世界の光景をそっと見つめる。

 穏やかな風が吹き込み、ラナスオルの白髪とシードの銀髪が絹糸のように揺れた。

 

 温かく差し込む窓辺の光が、二人の影を優しく包む。

 

 シードは少し間を置き、言葉を慎重に選ぶようにゆっくりと口を開いた。

 

「……たとえ、かつての二人のあなたが本当の姿だったとしても、今こうしているあなたが偽りだというわけではありません」

 

 その言葉には、自分を救った幻のラナスオルと、ともに過ごした人間のラナスオルの記憶が重なっている。

 

 彼女たちがどちらも本物であったように、今ここにいる女神ラナスオルも確かに存在し――すべてが、彼の中で一つに繋がっている。

 

「そうか……私は変わったが、君の方は相変わらず無愛想だな。本当に人間だったかも疑わしい」

 

 ラナスオルはくすっと笑い、軽口を叩いた。

 その笑顔には、もう千年前の戦いの狂気も、使命に縛られた神の悲壮感もなかった。

 ただ、隣にいる彼と穏やかな時間を分かち合うことを楽しんでいる、一人の「わがままな女神」。

 

「まあ、人間らしい君だろうが、そうでなかろうが……どちらでもいいさ」

 

 彼女はそっとシードの胸に顔を埋めた。

 

 迷いもためらいもない。シードの内に宿る異形の神性も、彼の過去も、今のラナスオルにとっては受け入れるべき存在の一部なのだから。

 

 彼の中の二人のラナスオルの力に耳を澄ませるように。

 そして彼を、ラナスで生まれたただひとつの命として寄り添うように。

 

 シードは、彼女が身を預けてくるのを拒まなかった。

 彼は彼女の肩にそっと手を置き、指先でラナスオルの柔らかい白髪を優しく掬った。

 彼女はシードの心音を確かめながら、その心地よさに瞼を閉じる。

 

 窓の外では、小さな鳥たちがさえずり、精霊たちが淡い光をたなびかせながら舞っていた。まるで、二柱の神を祝福しているかのようだった。

 

 シードの銀の瞳は外の景色を捉えながら、何か遠くの思い出に触れるように揺れている。

 

「……僕もまた、かつて人間だったとは思えないほど変わり果てた。しかし……だからこそ、あなたがどのような姿であっても、それが本当かどうかなど大した問題ではないのかもしれません」

 

 彼は冷静な声で言葉を紡ぎ、確かな意志を宿してラナスオルを見つめた。

 

「……ですが、あなたが答えを見つけたいのなら――そして、それが『人としての自分』を探ることだというのなら――僕は隣にいるべきなのでしょう」

 

 その言葉は約束ではない。

 ともに歩むという、神でありながら人としての選択。「彼が選んだ道」だ。

 

 ラナスオルは彼の胸に顔を埋めたまま静かに微笑む。

 寄り添う温もりが、二人の孤独な永遠を少しずつ溶かしていく――。

 

「君は、この先もずっと私を信じてくれるのか……」

 

 ラナスオルのか細い囁きが融けゆくように、部屋の中にしっとりと響いた。

 

 彼女の頬がシードの胸に押し当てられたまま、肩が震える。

 その身を支えるように、彼は何も言わずじっと立ち尽くしている。

 

「私は君の中の彼女たちの記憶に触れて、君が苦しんだのを見た……すべて私のせいなのに、それでも、こんな私を……」

 

 声が詰まり、ぽたぽたと落ちる涙が彼の黒衣を濡らしていく。

 

 シードは彼女の震える声を黙って聞きながら、静かに瞼を伏せた。

 彼女の涙に沈黙で応え、言葉を噛み締める。

 そして彼自身も、胸の奥に渦巻くものの重みを測るように。

 

(信じる……か)

 

 彼の脳裏に二人のラナスオルの面影が再び浮かぶ。

 命を捨てて救おうとした幻の彼女と、限りある命を尽くして愛を示してくれた人間の彼女。

 

 そして、今ここにいる――

 涙を流して自分の罪を悔い、彼の記憶と現実、すべてを受け入れてそこに立つ「ラナスオル」。

 同じ存在であり、それぞれに異なる選択をしてきた彼女たち。

 

 三人の姿が重なり合い、一つになって彼の心に染み込んでいく。

 

「……信じる、という言葉を使った覚えはありません」

 

 シードの声は冷たく張り詰めていたが、言葉の端に僅かな優しさが滲んでいるのにラナスオルは気づいていた。

 

「ですが――」

 

 シードは視線を逸らし、深く息をついてから言葉を続けた。

 

「あなたが今こうしている姿こそ、他の誰でもない『ラナスオル』という存在です」

 

 シードは再び彼女を見つめ、穏やかに言葉を紡ぐ。

 

「……過去に何があったとしても、それはあなたの一部でしかない。だからこそ、今のあなたを否定する理由はどこにもない」

 

 それを聞いたラナスオルははっと息を呑んだ。

 

 彼の受容の言葉で、長い間自らを縛り続けていた「使命」や「罪」が、少しだけ軽くなったような気がしたのだ。

 

「ふふ、ありがとう……」

 

 彼女の目元にはまだ涙が残っていたが、唇には柔らかな笑みが浮かぶ。

 その笑顔は、積み重ねた時の中で、彼女自身がようやく一歩を踏み出したことを示しているようだった。

 

「君は隣にいてくれると言った。だから私はそれを愛で返そう」

 

 彼女は、言い慣れないその言葉を口にしながら、少し照れたようにシードを見上げた。

 

「私もまだ『愛』というものを完全に理解はできていないが……ね」

 

 その言葉に重なるように、彼女の手がそっとシードの手の上に触れる。

 神としてではなく、一人の女性としての温かな肌の温もりが彼の指先を包み込んでいく。

 

 シードは無意識にその感触を確かめるように、指を僅かに動かした。

 温もりが彼の手のひらに広がっていく。いつからか冷え切っていた身体の一部が、じんわりと温かさを思い出していくように。

 

(愛……)

 

 その言葉は、まだ彼の中に明確な答えとして形を持たない。

 

 しかし、この瞬間、彼は確かに「守りたい」と思った。

 それが「愛」かどうかなどどうでもよかった。ただ、この手の中の温もりを失いたくないという感情が、確かにそこにあった。

 

 シードは静かに視線を落とし、軽く息をつく。

 

「……『愛』という言葉を使うのなら、それもまた探る価値があるかもしれません」

 

 そう言いながら彼は軽く肩をすくめ、僅かに皮肉めいた口調を加えた。

 

「――ですが、あなたが感傷的になるたびに僕が付き合わされるのでは、さすがに面倒ですね」

 

 言葉はあくまで冷ややかなものだが、その声音は冗談めいていて、彼なりの無意識の照れ隠しだったのかもしれない。

 

 ラナスオルは一瞬目を瞬かせ、そしてふっと笑みをこぼした。

 それは、長い孤独をともに歩んできた二人の間に生まれた、確かな絆の兆しだった。

 

 愛の意味も、答えの行方も、まだ分からないまま。

 

 それでも、二人は確かに一歩ずつ進んでいく。

 長い永遠の中で、きっといつか本当の答えを見つけるために。

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