冷酷死霊術師とわがまま女神のリスタート 〜殺し合いの因縁を超えた先の、あまりにも短い幸福〜 作:えびふぉねら
シードは、ラナスオルの恥じらう姿を目の当たりにし、一瞬思考が途切れた。
心の奥で不確定な何かが、理性に波打つように押し寄せる。
彼女の姿は、普段とはまるで別人のようだった。
威厳を纏い、誇り高い女神であるはずの彼女が、今は肩をすぼめ、ひたむきに気持ちを差し出している。
その姿は美しく――どこか壊れそうに儚かった。
紫の瞳はまっすぐに彼を見つめ、その奥には不安と期待が絡み合い、濁りのない感情が渦巻いている。
それでもラナスオルは逃げなかった。
返ってくるかもしれない冷たい言葉、拒絶の可能性――それらを覚悟の上で、ただ彼の答えを待っていた。
シードはその視線を正面から受け止めた。
「……曖昧な理由と言うが、それが感情というものでしょう。理屈では説明できない、効率的でもない……それでも、あなたにとってそれが理由であるなら、否定はできない」
かつてなら切り捨てていたであろう情緒に、今の彼は耳を傾けていた。
数百年をかけて積み重ねられた彼女の一途な想い。それを受け止めるたび、彼の中で何かが揺らいでいく。
それが何なのかはまだ掴めない。だが、確かにそこにあった。
彼は、いつもなら遮断していたはずの感情が静かに胸を打つのを感じていた。
「あなたは神としての使命を全うしながらも、こうして人間らしい感情を持つことを選んだ。僕にとって理解し難い部分もありますが……」
そこまで言うと、彼は僅かに息をついた。
彼女の言葉と気持ちに向き合うことに、自分の価値観との葛藤を感じていた。
それでも、彼女がどれだけ長い時間をかけて自分に寄り添おうとしてきたかを思うと、無視することはできなかった。
「……あなたが変わろうとした努力は認めます。それが僕に向けられたものなら、なおさら」
その一言に、ラナスオルの肩が微かに震えた。
正直な気持ちでぶつかった先に返ってきた彼の言葉――それが、どれほど彼女の心を軽くしたことだろう。
視線を落としていた彼女は、すぐに顔を上げた。紫の瞳には安堵と、なお拭いきれない不安が交錯している。
だが、勇気を持って再び向き合い、彼の言葉をしっかりと受け止めた。
「……そうだ。君のために変わりたいと思った。君に認められたい、君に好かれたい、そう思ったんだ……」
消え入るような声は、まるで永遠に閉ざされていた氷が陽光に溶けるように柔らかい。
シードは、彼女の言葉を意識の奥で反芻していた。
彼女がどれだけの覚悟でこの言葉を口にしているか――震えと微かな呼吸の間にひしひしと伝わってくる。
「そう、ですか……ですが、『かわいい』という言葉を僕に求めるのはどうかと思います。僕がそういった感情を表に出すことを、あなたも期待しているとは思えませんが?」
一見、冷たい返事のように聞こえた。だが、それは彼なりの「やり方」であり、照れ隠しでもあった。
皮肉めいた返しの奥に潜むのは決して嘲笑ではなく、感情を揺らがせている証拠だった。
「そ、それは……人間の男性が好きな女性に『かわいい』と言っていたから……君にも言って欲しかったんだ。期待してない、とは言わない……」
ラナスオルはぎこちなく視線を逸らし、頬を赤く染めながら小さく呟いた。
神であるはずの彼女が、こんなにも不器用で愛おしい存在に見えることが、シードにとってはまだ理解しきれないようだ。
だが、理解できないはずの「かわいさ」という概念が、彼の中で微かに輪郭を持ち始めていた。
「でも、君が私の努力を認めてくれたことは嬉しい。それで、君の気持ちは……その……どうなのかね? 私ではダメか? ダメなところは直すから、聞かせてほしい……」
ラナスオルは眉尻を下げ、不安そうな表情でシードを見つめる。
壊れそうな声だったが、その言葉にはしっかりとした芯があった。
拒絶されても構わない――それでも、今この瞬間にすべてをぶつけたい。そんな覚悟が宿っているようだった。
シードは、その瞳から目を逸らすことができなかった。
彼女の強さと儚さ――どちらも彼女そのものであり、今の彼にとって目を背けてはならない現実。
銀の瞳に映るのは、使命に縛られ、孤独と戦いながらも、自分のために変わろうとした女神の姿。
そして――今はただ、愛されたいと願う一人の女性の姿だった。
シードの胸に、得体の知れない痛みが疼く。
(僕は……この「感情」をどうすればいい……?)
彼は戸惑いながらも、答えを出すことはできなかった。
ただ、ラナスオルの存在が自分の中で何かを変え始めていることだけは、否定しようがなかった。
彼女のたおやかな佇まいには、数え切れない感情の糸が複雑に絡み合っている。
不安、期待、喜び、恐れ、そして――長い年月の果てに辿り着いた決意。
彼はその姿を銀色の瞳に映しながら、沈黙の中で自身の心の揺らぎを探っていた。
理性と論理で構築された思考に投じられた、ラナスオルの人間的な感情。
それは、かつて彼が否定し、理解しようともしなかったものだ。
冷徹な神としての在り方。人の心を捨てた異形の存在としての千年。
そのすべてを崩しかねないこの「揺らぎ」は、決して不快ではない。むしろ心地良ささえあったかもしれない。
やがて、シードはゆっくりと口を開く。
「……ラナスオル、あなたは自分を過小評価しすぎです」
低く穏やかな声が響いた。
その声音はいつもの冷たさを残しつつも、言葉の端々に潜むのは、ラナスオルの努力を見過ごしてきた自責と、今それに気づけたことへの安堵のようなもの。
「あなたに『ダメ』なところがあると思いますか? 世界を守り続ける神でありながら、自らの力を磨き、誰かのために変わろうとした。その姿勢は、誰にでも真似できるものではない」
シードの言葉に、ラナスオルの心臓が小さく跳ねた。
長い年月、ただ使命に従い、神としての責務を果たし続けてきた彼女。誰かに努力を認められることなどなかったのだろう。
想いを置き去りにしながらも「誰かのために」変わろうとした自分。そのすべてが、今この一言に救われていく。
シードは一拍置き、ラナスオルの紫の瞳を真っ直ぐに見つめながら続ける。
「……ですが、僕があなたに『かわいい』などという言葉を向けるには、まだ理解が追いついていないのも事実です」
その言葉は彼女にとって苦い現実のようだったが、傷つくものではなかった。
彼の真摯な姿勢を知るからこそ、それが否定ではないとすぐに分かったのだ。
彼は小さく息を吐き、視線を窓の外へと移した。
澄み渡る空と風に揺れる草木を眺めながら、自身に問いかける。
(『かわいい』……僕は、そんな感情を抱けるのか?)
かつて死霊術師だった頃の自分なら、感情は無意味で不要なものとして切り捨てていただろう。
だが、今は――
ラナスオルの笑顔や涙、時折見せる人間らしい仕草が、胸の奥に微かな痛みを残すのは、ただの錯覚なのだろうか。
「……あなたが僕に何を望むのか、それを受け入れるべきなのか。それを判断するには、僕自身がまだ『感情』を完全に理解していない」
窓の外に向けていた視線をゆっくりとラナスオルに戻す。
銀の瞳には未だ隠しきれない迷いの光が見える。
「……だから、今ここで答えを出すことはできません。ですが、あなたがその不安を抱えながらも僕に向き合おうとしていること、それだけは否定しません」
ラナスオルの瞳がまたたく。涙が浮かびそうになるのを、彼女はぎゅっと唇を噛み締めて堪えた。
彼の言葉は冷たいようでいて、彼女の存在をきちんと受け止めていたのだ。
それだけでも、彼女の胸の奥にあった重い不安が少しだけ溶けていく。
「ただ、今の僕に言えるのは……あなたの存在が、僕にとって特別なものになりつつあるのは確か、ということだけです」
その言葉を聞いた瞬間、ラナスオルの頬が一気に赤く染まった。
感情の爆発は、まるで彼女の世界が塗り替えられるように、あるいは花が咲き乱れる瞬間のように美しく輝く。
彼女は純粋で無垢な喜びの表情を浮かべ、照れたように視線を伏せて呟いた。
「……そ、そうか……。ふん、今日のところはこのぐらいで勘弁しておいてやろう」
ぶっきらぼうな言葉。だが、その内の驚きと興奮は誤魔化しようがない。
彼女はすっと立ち上がり、照れ隠しのようにそっぽを向いた。そのままくるりと踵を返し、扉へと歩みを進める。
(……特別、か)
自分で言ったその言葉の意味を考えながら、シードはそっと拳を握る。
胸の奥に広がる未知の感覚に揺さぶられ、ラナスオルの震える背中を見つめた。
「しかし、いずれまた君に問うから……それまでに君の好きなところをもっと言えるように……努力する……」
そう言い残し、ラナスオルはまるで逃げるように部屋を飛び出していった。
ぴしゃりと扉が閉められ、部屋に静寂が戻る。
シードはその背中を見送り、ふっと小さく息を漏らした。
「……努力する、ですか」
彼は呟き、再び窓の外へと視線を向けた。
眼下には果てしないラナスの風景が広がっている。答えの見えない永遠の旅路の中で、今ようやく芽吹いた「変化」。
「僕の方こそ、もう少し理解できるよう努力すべきなのかもしれませんね……」
ラナスオルは変わろうとし続けている。
そして――
凍てついた異形の神の心もまた、変わり始めているのだろうか。