冷酷死霊術師とわがまま女神のリスタート 〜殺し合いの因縁を超えた先の、あまりにも短い幸福〜   作:えびふぉねら

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80話 禁じられた愛と神々への叛逆

 その異変は突然訪れた。何の前触れもなく、静かに。

 

 静寂に潜む異質な気配。最初は誰も気づかなかった。

 ラナスオル自身でさえ、それが自分を蝕むものであることに気づいた時には、すでに手遅れだった。

 

「うう……シード……」

 

 微かな呻き声が居城の一室に弱々しく響いた。

 

 荘厳な天蓋付きのベッドに横たわる彼女の全身に、くすんだ紫色の紋様がじわじわと浮かび上がる。

 

 それはただの模様ではなかった。

 おぞましく禍々しい呪詛の力が、彼女の神性を絡め取るように侵食していた。

 まるで血管を這う毒のように脈打ち、枝分かれしながら神の肉体の深層へと入り込んでいく。

 

 病などではない。これは古来より存在する、神界の定めた懲罰。

 神が本来の道から外れた時、自らを戒める「律法の呪い」とも呼ぶべきものだ。

 

 ラナスオルは朦朧とした意識の中で、自らの運命を悟っていた。

 

「これは……神の呪い……やはり……いつかはこうなると思っていたが……ごほっ!」

 

 咳き込むたびに血が零れ、彼女の身体は激しく震えた。

 深紅が白いシーツを染めていく。

 震える指で胸を押さえ、彼の名を呼びながら掠れる声で呟いた。

 

「私は……罪を犯した……」

 

 涙と血に濡れた顔を上げ、シードを見つめる瞳には痛み、恐怖、後悔、そしてひたむきな愛が宿っていた。

 

「神々の掟を……被造物――人間を私情で愛してはならないという禁忌を破った……」

 

 シードの傍らで、彼女は苦悶に顔を歪めながらすべてを曝け出すように語った。

 

 神でありながら愛を知り、禁忌を犯したことへの報い。それが彼女の命を削る呪いの正体。

 

 しかしラナスオルは、それを知りながらも彼を愛した。

 どれほどの代償を伴うかを承知の上で。

 

 シードはその告白を聞き、ただ黙って立ち尽くしていた。

 銀の瞳は無表情だが、世界そのものを睨みつけるような鋭さを宿し、拳は固く握り締められていた。

 

「神々の掟……」

 

 低く、凍てつくような声が室内に響いた。

 彼女の手を取り、血に染まった指先をそっと握る。

 不気味に浮かぶ紋様に視線を落とし、なぞるように触れた。

 

 だが、神の呪はいかなる魔術も神術も寄せ付けず、容赦なく彼女の皮膚の奥へと侵食していく。

 

「そんなものが存在するのなら、最初から破られるべき掟だったのでしょう」

 

 シードは冷静に告げた。

 表情は冷たいまま――だが、内側に燃える怒りは、許されざる意志として瞳に滾る。

 

「……あなたがこの掟を破ったのは、ただの愚かさや過ちではない。僕に対する『愛』とやらのためだと言いましたね」

 

 彼はゆっくりと手を離し、血に濡れた指先を慎重に置いた。

 そして、銀の瞳でラナスオルの顔を見つめ、一歩後ろに下がった。

 

「……ですが、その結果がこれですか」

 

 拳が再び握り締められる。

 

(なぜこの呪いを受け入れた? なぜ、こうなることを最初から僕に言わなかった?)

 

 言葉には出さなかったが、シードの胸中には彼女への怒りと悲しみ、そして自分への苛立ちが渦巻いていた。

 

 守るべき者の異変に気づけなかった自分。

 数百年も前から、この罰を受ける覚悟を、彼女の苦しみを――何も知らなかった。

 

「神という存在がそれほどまでに束縛される運命を背負っているというのなら――」

 

 シードの声が低く沈んだ。

 冷酷で鋭利な、異形の神の決意が青い光となって瞳に宿る。

 

「――その掟を作り上げた『神々』とやらを、全て僕が打ち砕けばいい」

 

 部屋の空気すら凍りつくような、圧倒的な魔力の片鱗が彼の周囲に漂い始めた。

 まるで神の理不尽に抗う異端の存在が、世界を塗り替えるべく目覚めたかのように。

 

「ラナスオル、あなたを救う方法はまだ残されているはずです。……たとえ、それがどんなに非効率的な手段であっても」

 

 シードは亡魂のように佇みながら、ラナスオルの瞳を見据えた。

 そこに宿るのは、すべての神を斬り伏せてでも、彼女を救う――冷たい異形の決意。

 

「黙っていて……すまなかった。君に余計な心配をかけたくなかった」

 

 震える声が、ラナスオルの乾いた唇から漏れた。

 自分が滅ぶことよりも、彼を危険に晒したくないという想い。それがすべてだった。

 

「君は、今すぐラナスから立ち去るんだ……かつて君がいた、幻の……日本の世界へ。まもなく……神界の神々がここへ現れる……私を裁くために……」

 

 吐息のような声に血が混じり、口元から滴る。

 彼女の言葉は生命力を削るように痛ましく響いた。

 紋様は鼓動に合わせて脈動し、皮膚を裂きながら赤い雫がシーツを濡らしていく。

 

 血の匂いが空気を染める。

 それでもラナスオルは、霞む意識の中で必死にシードを見つめていた。

 紫の瞳には、彼を守ろうとする一心しかなかった。

 

「君を見つければ……彼らは……君を『無』へと葬り去ろうとするだろう……。裁かれるべきは私だけだ……。くっ……!」

 

 か細い指が震えながらシードの衣の裾を掴む。

 祈るように、哀願するように。

 耐え難い痛みが襲うたび、彼女の身体は小さく跳ね、溢れる血が枕元に滲んだ。

 

 彼を守るためなら、命すら惜しくない。

 神の掟に背いた罰であっても、彼女は受け入れる覚悟だった。

 

 ――だが、シードは動かなかった。

 

 冷徹な眼差しのまま、その場に立ち尽くしていた。

 銀の瞳には無慈悲な鋭さと、燃え滾る怒りと決意の炎を湛える。

 

「……ラナスオル、あなたは何か勘違いをしている」

 

 その声は、静かな雷鳴のように響いた。

 普段の彼からは感じられない、底知れぬ激しさを孕んでいるようだった。

 

 シードは彼女の手をそっと取り上げた。

 裂けた皮膚を伝う血を拭おうともせず、紋様を指先でなぞるように見つめた。

 痛みすら自分のものとして受け入れるかのように。

 

「僕は『無』を知っている。そこに宿る恐怖も、静寂も、絶望も。そして――無から戻った唯一の存在だ」

 

 彼の声は、凍りつく無そのもののように冷たかった。

 

 その言葉には、誰にも触れ得ぬ重みがあった。すべてを失った者だけが知る、終わりのない闇だ。

 

 シードは紋様を見つめ、一瞬だけ目を伏せた。

 

 脳裏に蘇るのは、存在を消され、無限の虚無に沈んでいた記憶。

 音も光もない闇の中、彼を引き戻したのは幻のラナスオルの愛だった。

 

 幻の世界で命を捧げて彼を救ったもう一人のラナスオル。

 その記憶が、今の彼を形作っていた。

 

 彼は、目の前の彼女のためにもう一度立ち上がる。

 今度は、彼が彼女を救う番だった。

 

「裁きに現れるという『神々』とやら……彼らがどういう存在であろうと、僕が恐れるものではない」

 

 シードの黒衣が、風もない空間で揺れた。

 決闘を前にした騎士のように心を固め、ベッドを離れる。

 

「……もし彼らがこの地に降り立つならば、僕が全て迎え撃つ。そして、誰一人としてあなたに触れさせはしない」

 

 彼の周囲に濃密な魔力が集まり始めた。異形の神が放つ圧倒的な「拒絶の意思」。

 世界すらたじろぐ異質な力。

 

 青白く燃え上がる魔力の火が、彼の手のひらから立ち昇る。

 今はまだ、彼の意志で統御されている――千年の呪い。

 

「ラナスオル、あなたを守るのは愛ではなく、僕自身の選択です。それを理解しておいてください」

 

 神々へ突きつける宣告のように声を響かせ、魔力を握り締めた。

 指の間から青白い炎が漏れ出し、たなびくように宙に溶けていく。

 

 神界への叛逆という選択。

 愛を理解しきれぬ彼にとって、これは彼なりの「愛」の形だったのかもしれない。

 彼女のために戦うことを、彼は「感情」ではなく「意志」として選び取ったのだ。

 

「シード……ありがとう……私は、君を信じる……」

 

 ベッドに伏したラナスオルが、掠れた声で呟いた。

 涙と血に濡れた頬を僅かに緩め、最後の力を振り絞って微笑む。

 

 その笑顔は儚く、今にも消えてしまいそうだった。

 だが、彼への揺るぎない信頼が確かに込められていた。

 

 シードは振り返らなかった。

 彼女の声に胸を締めつけられながらも、ただ前を見据えていた。

 

 銀の瞳に一点の迷いもない。その先に待つのは神々。全知全能を名乗る存在。

 彼らがもたらす裁きが、今この地に降り立とうとしていた。

 

 窓の外、空が灰がかり揺らぎ始める。

 遠く、神々の気配が降り立つ予兆のように、精霊たちの叫びのような音が響いていた。

 

 かつて孤独に閉ざされていた異形の神。

 今はただ、たった一人の女神のために――

 冷酷に、迫り来る敵を迎え撃つ決意だけが燃え続けていた。

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