「ん……」
最初に感じたのは、身体の重さだった。
まぶたを開く。
ぼんやりとした視界の向こうに広がっていたのは、見慣れない白い天井だった。
視線を少し動かせば、白いカーテン。規則正しく並ぶ照明。どこか遠くから聞こえてくる、機械の電子音。
そして、鼻をくすぐる清潔な匂い。――病院。
そう理解するまでに、少し時間がかかった。
「……ここ、は……?」
声に出してみる。自分の声なのに、ひどく掠れていた。
右腕に違和感がある。見れば、手の甲から伸びた透明な管が、点滴の袋へと繋がっている。
そこでようやく、身体のあちこちに残る鈍い痛みに気づいた。
上半身を起こそうと、ベッドに手をつく。
「つっ……!」
鋭い痛みが走り、思わず顔をしかめる。
その痛みが、途切れていた記憶を引きずり出した。
落下する身体。デルタイーグル。ブルーノ。
そして――海。
「……そうだ。僕……」
そこまで呟いたところで、綴はふと気づいた。
自分のいる病室に、もう一つの呼吸音がある。
規則正しく、静かな寝息。綴はゆっくりと首を横へ向けた。
「……え?」
そこにいたのは、ブルーノだった。
ベッドの脇で椅子に座ったまま眠っている。
いや――よく見れば、その頭は綴の膝元に乗っていた。
「……ブルーノ?」
呼びかけても、返事はない。
どうやら、よほど疲れていたらしい。
その寝顔を見つめながら、綴はしばらく何も言えなかった。
――生きている。
自分も。そして、ブルーノも。
その事実を確かめるように、綴は小さく息を吐いた。
けれど、安堵した途端に新たな疑問が浮かんでくる。
自分たちは、どうして病院にいるのだろう。
海に落ちた。そこまでは覚えている。
だが、その後の記憶がない。綴はベッド脇へ視線を向けた。
小さなテーブルの上に、ナースコールのボタンが置かれている。
「……これ、押していいのかな」
少し迷った末、綴は左手を伸ばした。
指先でボタンを押す。
ほどなくして、廊下から足音が近づいてきた。
そして、二回のノック。
「失礼します」
扉が開き、白衣を着た医師が病室へ入ってくる。
「お目覚めになりましたか」
「あの……ここは?」
綴は身体を起こそうとする。
「無理に動かないでください」
医師がすぐに制した。
「かなり強い衝撃を受けています。まだ身体は回復途中ですよ」
「……僕たちは、どうしてここに?」
その問いに、医師は一瞬だけ言葉を選ぶように黙った。
「海上で発見されたんです。あなたと、そちらの男性を」
「海上……」
綴の脳裏に、あの時の光景が蘇る。
落下するデルタイーグル。迫り来る海面。そして――白い飛沫。
「……そうだったんだ」
自分が生きていることが、急に現実味を帯びてくる。
そのときだった。
「……ん……」
膝元から、小さな声がした。
「……あれ?」
ブルーノがゆっくりと顔を上げる。
まだ眠気の残った目で周囲を見回し、やがて綴と目が合った。
「……綴?」
「ブルーノ……!」
ブルーノはしばらく呆然としていたが、綴の姿を確認すると、ほっとしたように笑った。
「よかった……目を覚ましたんだね」
「それはこっちの台詞よ。ずっと僕の膝を枕にして寝てたでしょう」
「えっ?」
自分の置かれている状況に気づいたブルーノが、慌てて身体を起こす。
その様子を見て、綴は思わず小さく笑った。
「さて、失礼しますよ」
医師がベッドの脇まで歩み寄る。
綴はその姿を見上げながら、頭の中に浮かんだ疑問を一つずつ整理していった。
アーククレイドルの落下。海への墜落。そして、目を覚ましたこの病院。
分からないことが多すぎる。
「お医者様、質問しても?」
「どうぞ、遠慮なく」
医師が穏やかに頷く。
綴は一度だけ息を整え、最も気になっていたことを口にした。
「アーククレイドル降下の影響で、ネオドミノシティのモーメントは使えなくなっていたはずですよね。けど、この病院は正常に機能している……ここはどこの病院で、誰が僕達を発見して、僕は何日くらい寝ていたのか教えてくださる?」
矢継ぎ早の質問にも、医師は慌てることなく答えた。
「ここはシティの郊外の病院です。海上に浮かんでいた貴方達を治安維持局の方が見つけて救助し、モーメントを使わない特殊車両でここまで搬送しました」
「治安維持局……」
綴は小さく呟いた。
どうやら、アーククレイドルの影響が及んでいない地域では、最低限のインフラが維持されているらしい。
それなら、この病院が機能していることにも納得がいく。
「湯上さんは三日程眠っていましたね」
「三日……」
思った以上の時間が過ぎていた。
綴が驚きを隠せずにいると、医師は続ける。
「骨折21箇所。全治3ヶ月で、1ヶ月間は絶対安静です」
「……21箇所」
改めて自分の身体を意識すると、包帯や固定具の存在が急に重く感じられた。
あれだけの高さから海へ落ちたのだ。
むしろ、生きていること自体が奇跡なのかもしれない。
「なるほど……」
綴は一度頷き、それから隣にいるブルーノへ視線を向けた。
「ブルーノはどうして無事なの?」
「それが不思議でしてね……」
医師もブルーノへ目を向ける。
「レントゲンを撮っても骨折している箇所が見当たらないんですよ。彼の話によれば、お二方は高所から落ちたというのに」
「え?」
ブルーノが気まずそうに笑う。
綴も思わず彼の身体を見た。
確かに、ブルーノには目立った怪我がない。
あれほどの落下だったというのに。
「あはは、ボク、頑丈だから……」
いつもの調子で誤魔化すブルーノ。
医師は釈然としない様子ながらも、それ以上は追及しなかった。
綴も何も言わない。―言えるはずがない。
本当のことを話せば、ブルーノが人間を模して造られたロボットであることが知られてしまう。
幸い、外見上はどこにも機械だと分かる破損はないらしい。
それだけでも、不幸中の幸いだった。
綴はブルーノを見つめる。
彼は笑っている。けれど、その笑顔の奥にあるものを――綴だけは知っていた。
そんな綴の視線に気づいたのか、ブルーノが小さく首を傾げる。
「……どうしたの?」
「ううん。なんでもないわ」
二人のやり取りを見ていた医師が、穏やかに微笑んだ。
「では、今日はここまでにしましょう。湯上さん、まだ身体を起こすのは控えてください。痛みが強くなったり、気分が悪くなったりしたら、すぐにナースコールを」
「はい。ありがとうございます」
医師は点滴の状態を確認し、カルテへいくつか記入する。
「それでは、私はこれで失礼します。何かあれば遠慮なく呼んでください」
「わかりました」
医師が一礼し、病室の扉へ向かう。扉が開き、廊下の明るい光が差し込む。
そして――扉が静かに閉じられた。
病室に、二人だけの静けさが戻ってくる。
先ほどまで聞こえていた廊下の足音も、次第に遠ざかっていった。
綴は天井を見上げる。白い天井。点滴の雫が落ちる、規則正しい音。
その静寂が、かえって現実を意識させた。
自分たちは生き残った。
けれど――
「……ブルーノ」
「うん?」
綴はゆっくりと彼へ視線を向ける。
「聞きたいことがあるの」
ブルーノの表情から、ほんの少しだけ笑みが消えた。
「……ボクも、綴に話したいことがあるよ」
二人の視線が重なる。
海へ落ちる直前から途切れていた時間。
そして、まだ誰にも語っていない秘密。
静かな病室の中で――二人の会話が始まった。
「まず……アスピッピはどうなったの?」
綴が最初に尋ねたのは、あの落下の直前まで自分たちを支えていた存在のことだった。
「力を使い果たしたと言っていたけれど……。まさか、消滅したりしていないわよね?」
「ああ、それなら心配しなくていいよ。ほら」
ブルーノはそう言うと、傍らに置いていたバッグへ手を伸ばした。
取り出したのは、綴のデッキケース。
中からデッキを取り出し、その一枚を抜き取る。《地縛神 Aslla piscu》。
ブルーノはそのカードを、病室に備え付けられた机の上へそっと置いた。
「アスピッピ。綴が起きたよ」
『……意識が戻ってなによりだ』
カードのイラストが、淡く揺らめいた。
次の瞬間。そこから黒い影がふわりと抜け出す。
現れたのは、掌に収まるほど小さくなった黒いハチドリだった。
ぱた、ぱた、と小さな翼を羽搏かせながら、綴の前を飛ぶ。
「アスピッピ!」
綴の顔に、安堵の笑みが浮かんだ。
「良かった……!」
アスピッピは綴の左手へ降り立つ。
すると綴は、待っていたとばかりにその小さな身体を指先で撫で回した。
「本当に良かった……!」
『ええい、そう感激するな!』
アスピッピが翼をばたつかせる。
『我の力不足で貴様はその怪我を負ったのだぞ。恨み言の一つでも言わんか!』
「いいえ」
綴は首を横に振った。
「貴方がいてくれたから助けられた場面は、何度となくあったわ。僕達が今生きていることもそう。本当にありがとう!」
『……』
アスピッピは一瞬、言葉を失ったように黙り込む。
やがて、そっぽを向くように顔を背けた。
『どういたしまして、と言っておこう』
「ふふっ」
『だが、今の我の力はわずかに回復した程度だ』
そう言って、小さな翼を胸を張るように広げる。
『みかんかコロッケを疾く捧げよ!』
「人の負の感情じゃなくて、ごはんがいいんだね」
ブルーノは思わず笑った。
「すっかりかわいくなっちゃって」
『かわいくなどない!かわいくなどないぞ!マイナスのエネルギーを取り込むことは、あの忌々しい赤き竜に禁じられているからでしかないのだ!』
「はいはい」
『そのような目で見るな!』
綴の指先から逃れるように、アスピッピが宙へ浮かぶ。
だが、その声には以前ほどの力はなかった。
それでも、綴が無事に目を覚ましたことを確かめると、どこか安心したように小さく息を吐く。
『……もういいだろう』
アスピッピは二人を交互に見た。
『二人きりで話したいこともあろう。我は再び眠る』
「あ……」
綴が呼び止めるより早く、アスピッピはカードへ向かって飛んでいく。
最後にほんの少しだけ振り返り――
『……無茶はするなよ、綴』
それだけを残して、黒いハチドリはイラストの中へと潜り込んだ。
カードは、何事もなかったかのように静かになった。
「……ありがとう、アスピッピ」
綴が小さく呟く。
そして病室には、再び二人だけの静寂が戻ってきた。
ブルーノが、静かに綴を見る。
綴もまた、彼へ視線を向ける。
――今度こそ。
二人だけで話す時間が始まろうとしていた。
「それじゃあ、次の質問よ」
綴は天井を見つめたまま、静かに息を吐いた。
まだ身体を動かすたびに痛みが走る。
けれど、それ以上に気になっていることがあった。
「アーククレイドルは、どうなったの?」
ブルーノは少しだけ目を伏せ、それから端末を手に取った。
「消滅したよ。ほら……」
身体を起こせない綴の目の前へ、端末の画面を向ける。
そこに映し出されたのは、ネオドミノシティの上空だった。
そこに、アーククレイドルの姿はない。
ただ、どこまでも広がる青い空だけが映っている。
「……それなら」
綴の胸に、ほんの少しだけ安堵が灯った。
「遊星が勝ったのね……」
「うん」
ブルーノは頷いた。
「僕は病院の人伝に聞いたけど、間違いないよ」
そして、少しだけ言葉を詰まらせる。
「Z-ONEは……アーククレイドルを消滅させるために……」
「残っていた命を使い果たした。そうね?」
「ああ」
ブルーノは短く答えた。
その声には、喜びだけではない何かが混じっていた。
「それとね……」
ブルーノは自分の胸元へ手を当てる。
「僕の身体のメモリ部分に、最期のメッセージが届いている」
「最期の……?」
綴が顔を向ける。
ブルーノは少し迷ったあと、その言葉を伝えた。
「『私は不動遊星に希望を見ました。アンチノミー、貴方の役割は終わりです。好きに生きなさい。それと、湯上綴について、ですが……人の可能性という点では評価しますが、希望というには自爆は無謀すぎる試みです。希望を語るなら、自分の身を顧みることですね』……って」
「……」
綴は言葉を失った。
「最期に僕へのメッセージまで?自分の命が尽きるって時に……」
Z-ONEは最後まで、綴の行動を「希望」と認めなかった。
それでも――その言葉の中には、確かに綴を見ていた者にしか語れないものがあった。
「希望じゃないって否定していたけれど……感じるものはあったんだと思うよ」
端末の画面には、変わらない青空が映っている。
もう、そこにアーククレイドルはない。Z-ONEも、いない。
「彼の最期を看取ることが出来なかったのは残念だけど……」
ブルーノは画面から目を離し、遠くを見るように呟いた。
「最後に希望を抱けて逝けたなら、よかった……」
一筋の涙が、ブルーノの頬を伝った。
それは、綴が知るブルーノの涙とは少し違っていた。
友として。同志として。そして――アンチノミーとして。
長い時間を共に歩み、同じ未来を見つめてきた男の最期を知ったことで、胸の奥に押し込めていた感情が、静かに溢れ出していた。
ブルーノは涙を拭おうとはしなかった。
ただ、消えたアーククレイドルのあった空を、静かに見つめ続けていた。
「……」
綴は何も言わなかった――言えなかった。
窓の外へ視線を向けたまま、静かに涙を流すブルーノ。
その横顔を、綴はしばらく見つめていた。
Z-ONEを失った悲しみ。長い年月を共に過ごした、アンチノミーとしての想い。
今のブルーノに、軽々しく言葉をかけることはできなかった。
やがて、ブルーノがゆっくりと振り返る。
その表情には、先ほどまでの悲しみとは違う色があった。
少しだけ厳しい。まっすぐに、綴を見つめている。
「ボクも聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「な、なにかしら?」
綴がわずかに身構える。
ブルーノは一度息を吸うと、意を決したように口を開いた。
「どうしてZ-ONEとの闘いに《自爆スイッチ》を使ったんだい?」
「……」
「《ヒロイック・ギフト》でお膳立てまでして……」
ブルーノの声が、少しずつ強くなる。
「テイルに『生きろ』って言われたのに。無茶が過ぎると、ボクも思っていたんだよ」
その言葉に、綴は視線を逸らした。
「それは、ですね……」
言い訳を考えるように、しばし沈黙する。
「Z-ONEほどのデュエリストなら、地縛神を使った戦術は突破してくると思って。奥の手として思いついたというか……」
「《自爆スイッチ》の枠に、他のカードの採用を検討できたはずだよね?」
「だって……」
綴は少し頬を膨らませる。
「時械神相手に、まともな戦闘は通らないじゃない。それをすり抜けて効果ダメージを与えるにしたって、なんらかの方法で回復されたら僕のリソースがなくなって、負けが近づいちゃうわ……」
そして、困ったように笑う。
「だったら、予想外の一手を入れた方がいいかなーって……」
「……自分にも大ダメージが及ぶ可能性は考えたかい?」
「えーっと……はい」
綴は視線を泳がせた。
「けど、多分死にはしないから大丈夫だと思ってぇ……」
「よくないよ!」
病室に、ブルーノの声が響いた。
綴がびくりと肩を震わせる。
「大好きな人が死ぬかと思って、ボクがどれだけ肝を冷やしたと思う!」
ブルーノは思わず身を乗り出していた。
普段の穏やかな彼からは想像できないほど、真剣な表情。
「その骨折、一部は《自爆スイッチ》のせいだろう?」
「……」
綴は、完全に固まった。聞き間違い――ではない。
今、ブルーノは確かに、そう言った。
「……え?」
頬が、じわりと熱くなる。
「……だ、大好き……?」
口からこぼれた声が、自分でも分かるほど上ずった。
ブルーノが目を瞬かせる。
「えっ?」
「……ねえ、今……『大好きな人』って言った?」
「…………」
ブルーノの顔が、みるみる赤くなる。
「……あ」
完全に失言だった。
「……いや、その……」
さっきまであれほど強く叱っていたブルーノが、今度は露骨に狼狽している。
「ち、違うんだ。そういう意味じゃなくて……いや、そういう意味でもあるんだけど……!」
「ど、どういう意味よそれぇ……!」
綴の顔がさらに赤くなる。
思わず布団を胸元まで引き上げ、顔の半分を隠してしまう。
「そ、それじゃあ……その……」
布団の陰から、上目遣いにブルーノを見る。
「僕のこと……大好き、なの?」
「………………」
「……答えて?」
病室が、妙に静かだった。
点滴の雫が落ちる音だけが、二人の間に響いている。
そしてブルーノは、観念したように、視線を逸らした。
「……うん」
ブルーノは、静かに頷いた。
「キミが、あの宇宙空間でボクが死ぬ未来を知っていて、それを回避するために奔走していたのは知っている。けれど、ボクが謎のD・ホイーラーとして活動していた時にも、キミは心強い存在で、一緒にいて嬉しい人だったんだ」
ブルーノは、これまでの時間を一つずつ思い出すように言葉を紡いでいく。
「一人だったボクに対して、みかんを食べたり、デュエルしたり、猫のぬいぐるみをくれたり……」
その口元に、懐かしそうな笑みが浮かんだ。
「その時間は、とても楽しかったよ。それに、キミが困難に立ち向かう姿を見て、ボクは希望を感じたんだ」
「お、オーケー」
綴は頬を赤くしながら、妙に早口になった。
「遊星に対する親愛と同じくらいの『大好き』、ね?あなたがよく『大好きブルーノちゃん』とか、おふざけで言っているから、それで『大好き』なんて言葉が出たのね?」
必死に理屈をつけようとする綴を見て、ブルーノは苦笑する。
綴は答えるまでに、ほんの少しだけ時間を置いた。
そして――
「半分は、そういう意味もあるけど――」
そこで一度、言葉を切った。
「半分は違うよ」
「……え?」
「ボクの全てを知りながら、親身に接してくれたキミと……ずっと一緒にいたいと思ったんだ」
綴の頬が、また少し熱くなる。
「そして、キミが今回のような無茶をしたせいで、ますます目を離したくなくなった。守りたいって思ったんだ」
「……」
「けど、キミは遊星のことを愛しているから、言葉にするのは控えようと思っていたのに……」
「遊星には、WRGPで負けた時にフラれちゃったから、それはいいのよ」
綴は少しだけ苦笑した。
「アキさんには、チャンスがあれば掻っ攫うなんて言ったけど。あれは激励だったのだし……」
そこまで言って、綴は一度言葉を止めた。
そして――恐る恐るブルーノを見る。
「それで……」
心臓が、妙に大きく鳴っている気がした。
「さっきの『大好き』は……僕と付き合いたいって意味で、いいのかしら?」
「……ああ」
ブルーノの返事は、今度は迷わなかった。
綴はしばらく黙り込む。頬は赤いまま。
けれど、やがて何かを決意したように口を開いた。
「いい?」
「うん」
「まず、ボクは男の子よ」
「それは知ってるよ」
「そして……キス以上のことをするとなれば、かなり大胆なことをするわよ」
綴は恥ずかしそうに視線を逸らしながらも、言葉だけははっきりと続ける。
「欲望や誘惑に囚われない心を持つことが大事なのは分かっている。けど、お互いを大切にして、幸せにするためなら……僕は、自分の気持ちを我慢するつもりもないわ」
そして、もう一度ブルーノを見る。
「そんな僕でも、いいの?」
ブルーノは少しも迷わなかった。
「そんなキミでも、ボクは愛せるって言えるよ」
「……」
その言葉が、胸の奥へ静かに染み込んでいく。
けれど、綴にはもう一つだけ確かめたいことがあった。
「……テイルを亡くして傷心中の僕に、同情しているとかはない?」
「ないとは言わないけど……」
ブルーノは困ったように笑った。
「骨折していなければ、抱きしめて慈しみたいって気持ちは、同情とは違うんじゃないかな」
「……」
「ただ、テイルがいたらなんて言うだろう、とは思ったけど」
その名前を聞いた瞬間、綴の表情が柔らかくなる。
「……馬鹿みたいに笑って、盛大に祝福してくれるわよ」
目を閉じれば、あの明るい笑顔が浮かぶ。
「テイルは僕にとって、お兄さんみたいな存在だったし。僕が幸せなら、きっと喜んでくれるから」
その言葉を聞いたブルーノは、少しだけ安心したように息を吐いた。
「今の言葉は……」
ブルーノの声が、わずかに震える。
「ボクの『大好き』って気持ちを、受け入れてくれる……ってことでいいのかな?」
「……ええ。僕も、あなたが大好きよ。ブルーノ」
その名前を、ゆっくりと口にする。
「穏やかで、真剣で、献身的で、優しいあなたを愛してる」
「……」
今度はブルーノが言葉を失った。
「……それじゃあ」
しばらくして、ようやく口を開く。
「ボク達、両想いってことになるのかな」
「……ええ、そうね」
綴は小さく頷いた。
途端に、今まで平気だったはずのことが急に恥ずかしくなってくる。
「……なんか、恥ずかしくなってきちゃった」
「ボクも……」
二人とも、同時に視線を逸らした。
病室には、気まずいような、くすぐったいような沈黙が落ちる。
けれど、その沈黙は決して嫌なものではなかった。
窓から差し込む光の中で、二人はようやく、自分たちの想いが同じ場所へ辿り着いたことを実感していた。
――だが。
「愛に現を抜かすか、アンチノミー。破滅の未来を避けられたとはいえ、浮かれすぎているのではないか?」
突然、病室に第三者の声が響いた。
「あなたは……!」
「アポリア!生きていたんだね!」
驚きに目を見開く綴と、思わず声を上げるブルーノ。
二人の視線の先。
そこには、見慣れた巨体が堂々と立っていた。
「アーククレイドルの消滅後、私は少年……龍亞と龍可の家で居候の身となった。あの二人の強い希望でな。そして不動遊星が空いている時間で私を修理したおかげで、空間転移も容易く行えるようになったというわけだ」
淡々と語るアポリア。
その姿を見つめながら、ブルーノはようやく状況を理解したように首を傾げた。
「どうしてこの場所がわかったんだい?」
「私がイリアステルの三皇帝として分割された時に、一時期治安維持局の長官を務めていたことを忘れたか?彼らの全ての動きなど手に取るようにわかる。お前達がこの病院に搬送されたこともな」
「……なるほど」
ブルーノは納得したように頷く。
しかし、綴の中には別の疑問が浮かんでいた。
「……待って」
嫌な予感がした。先ほどまでの会話を思い返す。
ブルーノの告白。自分の返事。
そして――
「アポリア、あなたいつから僕達の会話を聞いてたの?」
病室に、妙な沈黙が落ちた。
アポリアは一切の動揺を見せることなく、答えた。
「『あなたが大好きよ、ブルーノ』、からだ。それがなんだ?」
「………………」
綴の顔が、一瞬で赤く染まった。
隣ではブルーノも固まっている。
「アポリア……」
しばしの沈黙のあと、ブルーノが額に手を当てる。
「空気を読んで黙っていてくれたんだろうけど……人に聞かれているのは恥ずかしいよ……」
その声には、安堵と照れが入り混じっていた。
アポリアはそんな二人を交互に見つめる。
「……そうか」
それだけ呟くと、何事もなかったかのように腕を組んだ。
だが、その沈黙がかえって二人の羞恥心を刺激する。
「……もう、やだ……」
綴は布団を少しだけ引き上げ、赤くなった顔を隠した。
先ほどまで二人だけのものだったはずの想いは――いつの間にか、しっかり第三者の耳にも届いていた。
「羞恥が勝るか……愛する者を失う前は、私にもそんな甘い時間があったな」
ふと、アポリアの声から力が抜けた。
ほんの一瞬だけ。
そこにあったのは、かつて愛する者―――エウレアと過ごした時間を思い出す、一人の人間のような表情だった。
だが、それもすぐに消える。
「本題に入るぞ」
その声音には、再び揺るぎない決意が宿っていた。
「私はこれまで、歴史改竄を行い、多くの犠牲を出してきた。この身の修理が完了した今、私は世界を廻る。贖いのため。そして、Z-ONEが託した未来のために――影から世界を守るつもりだ。今度は、人間を排除するのではない。人間を――生かす方法で」
その言葉を聞き、綴は小さく息を吐いた。
かつて世界を救うために、人類そのものを切り捨てようとした男。
その男が今、自らの罪を背負いながら、正反対の道を歩もうとしている。
「……恋愛にかまけているんじゃなくて、ちゃんと世界のために動けってことだね」
「その通りだ。そして、湯上綴」
「……なに?」
名を呼ばれ、綴は顔を上げた。
アポリアの視線が、まっすぐに綴を射抜く。
「いずれ、お前は死ぬ」
あまりにも率直な言葉だった。
「老衰ならばまだいい。だが、お前が無茶をして死んでしまえば――アンチノミーに後悔と絶望を残すことになる」
「…………」
「愛する者を失った絶望は、相当に堪えるぞ」
その言葉には、経験した者にしか持てない重みがあった。
愛してくれる者を失い、愛する者を失い。仲間を失った。
そして、自らもまた世界の破滅へと身を投じた。
だからこそ、アポリアは知っている。
大切な者を失った後に残るものが、どれほど深い痛みになるのかを。
「ゆめ忘れるな。その身はもはや――一人だけのものではないということを」
「……わかったわ」
綴は胸元に手を添えた。
「忠告、ありがとう」
「ふん。今後の身の振り方を考えておけ」
アポリアは踵を返した。
「では、私は行く。治安維持局の牛尾哲には、湯上綴が目覚めたことを伝えておいた。近いうちに見舞いが来ることになるだろう」
「牛尾さんが……?」
「愛を睦み合っている最中に邪魔をされぬよう、精々気を付けることだ」
「「…………」」
再び、病室に気まずい沈黙が落ちた。
綴とブルーノの顔が、同時に赤くなる。
「さらばだ」
そんな二人を意に介すことなく、アポリアの身体が淡い光に包まれた。
次の瞬間。その巨体は、空間そのものに溶け込むようにして消えた。
残された病室には、再び二人きりの静寂が戻ってくる。
けれど今度の沈黙は、先ほどまでとは少し違っていた。
綴は胸に手を当てる。――もう、自分一人の命ではない。
その言葉が、いつまでも心の奥に残っていた。
「いろんな人に『生きろ』って言われちゃったわ。もう僕、無茶できないわね」
アポリアが残していった言葉を思い返しながら、綴は苦笑した。
「そうだよ。まずは、その身体を治すところから始めないと」
ブルーノはそう言って、綴の包帯の巻かれた身体へ目を向ける。
「ボクも最後まで付き合うからさ。一緒に生きよう」
「……うん」
綴は小さく頷いた。
その言葉を交わしたあと、二人はしばらく何も言わなかった。
窓から差し込む光を眺めながら、ただ隣にいる。
それだけで、不思議と心が満たされていた。
――それから、二時間ほど経った頃。
病室の扉が二度、控えめに叩かれた。
「どうぞ」
綴が返事をすると、扉が開く。
「よう、失礼するぜ?思ったより元気そうだな」
入ってきたのは牛尾だった。
「牛尾さん!」
続いて姿を見せた人物を見て、綴は目を丸くする。
「生きていてよかった、綴!ブルーノ!」
「遊星、それに……アリア?」
二人の姿に驚く綴。
ブルーノもまた、意外そうに三人を見回した。
「まさか、こんなに来てくれるとは思わなかったよ」
「一安心、と言ったところかな」
アリアが微笑みながら、手にしていた袋を掲げる。
「お見舞いにみかんとアイスを買ってきたよ。好きな時に食べるといい」
「ありがとう、アリア。みかんはともかく、アイスまであるのね」
「病院で食べるアイスも、たまにはいいだろう?」
「ふふ、そうね」
思いがけない見舞いの品に、綴の表情が少し和らぐ。
しかし、そこで一つの疑問が浮かんだ。
「でも……牛尾さんはともかく、遊星とアリアまで来るとは思わなかったわ」
「ボクも同じだよ。来てくれたのは嬉しいけど……何か理由があるのかな?」
綴とブルーノに見つめられ、三人は顔を見合わせた。
やがて遊星が、静かに口を開く。
「俺から話そう」
そう言って、一歩前へ出る。
「俺はチーム5D'sの代表として来たんだ。みんなで来たら流石に迷惑だろう、とクロウが言ってな。一番仲のいい俺が適任だ、とアキにも勧められたんだ」
「そうだったのね」
綴は遊星を見つめる。
以前なら、その顔を見るだけで胸がざわついていたかもしれない。
けれど今は、隣にいるブルーノの存在が自然と意識に入ってくる。
遊星もそんな綴の表情を見て、何かを察したように、それ以上は語らなかった。
そして今度は、アリアが口を開く。
「私は……けじめをつけに来たんだ」
「けじめ……?」
綴が聞き返す。
アリアは一度だけ目を伏せ、それから真っ直ぐに綴を見た。
「綴、君を裏切ってZ-ONEの側についたこと。そして、『不動遊星』とその仲間が死ぬという予言を覆せなかったことにね」
「アリア……」
綴の表情から、先ほどまでの柔らかな笑みが消える。
アリアがどんな思いでここへ来たのか。
その言葉だけで十分に伝わった。
そんな二人のやり取りを見届けてから、牛尾がゆっくりと口を開いた。
「……で、俺は別の理由だ」
「別の理由?」
「ああ」
牛尾は少しだけ視線を落とした。
「俺は、テイルとの約束を果たしに来た」
その名前が出た瞬間、綴の胸がわずかに締めつけられる。
「『おれがいなくなったら、綴のことを一市民として守ってやれ』ってな」
「…………」
綴は何も言えなかった。
テイルが最後に残した約束。
それを今、牛尾が自分のところまで届けに来てくれた。
牛尾は照れ隠しのように鼻を鳴らす。
「だから来た。約束を破るわけにはいかねぇからな」
短い言葉だった。
けれど、その言葉の奥にあるものを、綴には痛いほど感じ取ることができた。
「……ありがとう、牛尾さん」
綴は静かに微笑んだ。
「テイルも、きっと喜んでるわ」
「ああ。俺もそう思ってる」
牛尾が短く頷く。
しばらくの間、誰も口を開かなかった。
テイルの名前が出たことで、病室に少しだけ寂しさが残る。
それを察したのか、アリアが持ってきた袋をベッド脇の机へ置いた。
「……そうだ。せっかく買ってきたんだから、みかんを食べようか」
「うん。ちょうど食べたかったの」
「じゃあ、剥かせてもらうよ」
「ありがとう、アリア」
アリアがみかんの皮を剥き始める。
その様子を眺めながら、綴がふと尋ねた。
「そういえば……みんな、これからどうするの?」
「これから?」
「アーククレイドルも消えて、Z-ONEもいなくなって……未来は変わったんでしょう?」
「ああ」
遊星が頷く。
「少なくとも、俺たちが知っていた未来とは違うものになった」
「じゃあ、これから先のことは誰にもわからない?……僕はあなた達の将来も観測してるけど、必ずしもそうはならないのよね?」
「そういうことになるな」
「……なんだか、変な感じね」
綴は窓の外へ目を向けた。
「ずっと未来を変えるために戦ってきたのに、いざ変わってみると、その先に何があるのかわからないなんて」
「でも、それでいいんじゃないかな」
ブルーノが穏やかに言った。
「未来が決まっていないからこそ、自分たちで選べるんだと思う」
「……そっか」
綴は小さく笑った。
「それなら、僕もこれからどうするか考えないとね」
「まずは怪我を治すことだ」
遊星が即座に言った。
「うっ……」
「それは本当にそうだな」
牛尾も頷く。
「お前、今までどれだけ無茶したと思ってんだ。これからの人生を考える前に、まず三ヶ月は大人しくしてろ」
「三ヶ月……」
綴が露骨に嫌そうな顔をする。
「長いわね……」
「当たり前だ。21ヶ所も骨折してんだぞ」
「でも、僕は元気よ?」
「元気な奴は病院のベッドに縛り付けられてねぇよ」
「縛られてはいないわよ」
「そういう問題じゃねぇ!」
牛尾のツッコミに、アリアが思わず吹き出した。
遊星もわずかに口元を緩める。
綴は少しむくれながら、隣のブルーノを見る。
「……ブルーノも、そう思う?」
「うん」
「即答!?」
「だって、本当に心配なんだ」
ブルーノは苦笑する。
「今回だって、ボクがどれだけ怖かったか……」
「……ごめん」
綴が素直に謝ると、ブルーノは少し驚いた顔をした。
「珍しいね。綴がそんなに素直に謝るなんて」
「僕だって反省くらいするわよ」
「それなら安心した」
ブルーノが笑う。
そのやり取りを見ていた遊星が、ふと口を開いた。
「……二人とも、仲がいいな」
「え?」
綴が振り返る。
「まあ……色々あったからね」
ブルーノが少し照れながら答える。
「色々、ねぇ」
牛尾が意味ありげに二人を見た。
「……なにかしら?」
「いや、別に」
「絶対何か言いたそうだね」
「言ってねぇよ」
「顔に出てるわよ、牛尾さん」
綴が笑う。
そんな二人の様子を見て、アリアも穏やかに微笑んだ。
「……でも、本当に良かった」
「何が?」
「こうして二人とも生きていてくれたこと」
その言葉に、綴とブルーノは顔を見合わせる。
「……うん」
「ボクもそう思うよ」
短い返事だった。
けれど、それだけで十分だった。
アリアは剥き終えたみかんを綴へ差し出す。
「はい。どうぞ」
「ありがとう」
綴が一房受け取る。
口に入れると、爽やかな甘さが広がった。
「……おいしい」
「それならよかった」
「ブルーノも食べる?」
「うん」
綴が一房つまみ、ブルーノへ差し出す。
「はい」
「……え?」
「食べないの?」
「いや、その……」
ブルーノの顔が少し赤くなる。
牛尾が横から呆れた声を出した。
「お前ら、俺たちがいるの忘れてねぇか?」
「……あっ」
「……ごめんなさい」
綴とブルーノが同時に気まずそうに視線を逸らす。
アリアはくすくすと笑った。
「ふふ……まあ、いいんじゃないかな」
「何がだよ」
「二人が幸せそうなら、それで」
その言葉に、綴は少しだけ照れながら笑った。
「……うん」
病室の窓から差し込む光は、いつの間にか少し高くなっていた。
戦いは終わった。
失ったものは、決して戻らない。
それでも今、こうして仲間たちと笑っていられる。
そして、その隣には――一緒に生きると約束した人がいる。
綴はもう一度、みかんを口に運んだ。
今度こそ、自分の未来を自分で選ぶために。
というわけでアーククレイドル編終了です。
今まで読んでいただいた読者の皆様に感謝を。
しかしおかしいな。遊星√を進もうとしていたはずが、ブルーノ√でノーマルENDを迎えてしまいました。キャラクターが作者の想像を超えて動いてしまったいい例です。
タイトルを使って一捻り入れたかったのですが、そこは作者の力量不足ですね。
それでは、次回があればまた読んでいただければ幸いです。お疲れさまでした。