地獄の始まり
《中央暦1926年3月上旬 東部国境近郊 帝国軍前線陣地》
極寒の冬が終わりを告げ、凍てついていた大地がぬかるみへと変わり始める季節。
重苦しい灰色の雲が垂れ込める東部国境の最前線で、一人の将官が泥まみれになりながら塹壕の中を歩き回っていた。
帝国軍東部方面軍の防衛司令官の一人、ベルター・デールモ大将である。
右目にモノクルをはめ、鋭く冷徹な眼光を放つ彼は、前線視察を日課とする現場主義の将軍であった。しかし、それは決して部下を温かく慰問するためではない。彼は防衛戦術の天才であると同時に、部下に対して妥協というものを一切許さない、極めて苛烈な指揮官であった。
「貴様! この対戦車壕の角度は何だ!」
デールモは、泥だらけの軍靴で掘りかけの斜面を蹴りつけ、陣地構築の責任者である大佐を怒鳴りつけた。
「傾斜が五度浅い! これでは敵の戦車の履帯が引っかからず、乗り越えられてしまうぞ! 機関銃陣地の射界も被っている! 兵士同士を撃ち合わせる気か!」
「はっ、申し訳ありません! しかし、泥で工兵の作業が遅れておりまして……」
「言い訳など聞いていない! 三時間以内に修正しろ! できないならば貴様をこの壕の底に埋めて、その上にコンクリートを流し込むぞ!!」
大佐が青ざめて敬礼し、作業班の元へ走っていくのを見送ると、デールモは忌々しげに舌打ちをした。
この時期の帝国軍の防衛ドクトリンは、世界でも群を抜いて先進的であった。敵をあえて引き込み、十字砲火で殲滅するためのU字型のキルゾーン。無数の対人・対戦車地雷を不規則に配置し、鉄条網と組み合わせた悪魔の園と呼ばれる複合障害帯。そして敵の砲撃をやり過ごすための逆斜面陣地。
だが、どれほど優れた戦術も、現場の兵士が完璧に構築しなければただの泥の穴である。
「閣下、通信部隊より暗号電報です」
副官が、震える手で一枚の用紙を差し出した。
「連邦領内の奥深くへ越境偵察に出ている、第二〇三航空魔導大隊のデグレチャフ少佐からの魔導通信です」
デールモはモノクルの位置を直し、その文面に目を通した。
『――敵将兵尋問により敵情把握。前線に展開する敵兵力、優に五〇〇万。後方支援部隊を含めれば総数七〇〇万に達する模様。付随する戦車およそ二万両、野砲および榴弾砲四万門。戦闘機は一万八〇〇〇機以上。地平線の彼方まで、赤い虫どもが蠢いている』
さらに、報告書の末尾には個人的な愚痴のような追記があった。
『追記:ローゼフシルト准将閣下より賜りました味のしない完全栄養食のおかげで、我が大隊は味覚の喪失と引き換えに、マイナスの極寒と泥の中でもかろうじて凍死を免れている。参謀本部へは軍糧食の抜本的な見直しを求める』
デールモは報告書を乱暴に折りたたみ、どんよりとした東の空を仰ぎ見た。
「五〇〇万の兵と、四万の砲門か。……帝国の地が、赤に濡れるな」
憂鬱に沈んだ低い声が漏れた。
この圧倒的な赤い津波を受け止める帝国軍の東部戦力は、兵員三〇〇万。機甲師団一二個。そして航空機は五〇〇〇機程度である。
兵力でも兵器の数でも、帝国は圧倒的な劣勢に立たされていた。
「閣下、放棄予定地域の住民の避難状況ですが……」
副官が恐る恐る尋ねる。
「九割方は完了しておりますが、残り一割が家財や土地に執着し、退去命令に応じようとしません」
「憲兵隊を動かせ」
デールモは冷酷に言い放った。
「家ごと焼き払ってでも、力ずくで西へ追い立てろ。連邦の蛮族どもに、帝国の臣民を慰み者にさせるわけにはいかん。一人の取りこぼしも許さんぞ」
周囲に集まっていた将校たちが息を呑む中、デールモは踵を返し、陣地に並ぶ泥まみれの兵士たちを鋭い目で見回した。
「よく聞け、帝国の防人たちよ!」
彼の声は、冷たい風を切り裂いて響き渡った。
「数日後、東から世界が終わるほどの蛮族の波が押し寄せてくる! 正面から受け止めれば、我々はすり潰されるだろう。ゆえに我々は後退する。だが、それは敗走ではない! 我が国の土地を対価にして、連邦の血を稼ぐための遅滞戦闘だ!」
デールモの目は、冷たい刃のように兵士たちを貫いた。
「敵に出血を強要し、陣地を捨てて西へ下がれ。だが、許可なき無断の後退は即座に銃殺とする! 貴様らの命は、私が最も有効に、最も高く使い潰してやる! 帝国の心臓を守るため、泥に塗れて死んでくれ!」
決して好かれる指揮官ではなかった。だが、その冷徹なまでの合理性と、自ら前線に立つ姿に、帝国軍人たちは熱狂ではなく、強烈な信頼と覚悟をもって敬礼で応えた。
◇
《中央暦1926年3月14日未明》
それは、この世の終わりを告げるような轟音であった。
東部国境線に沿って展開した、ルーシー連邦労農赤軍の四万門の野砲と榴弾砲が、一斉に火を噴いた。
大地が激しく波打ち、漆黒の夜空が砲炎によって真っ赤に染め上げられる。何百万発という砲弾が帝国軍の前線陣地に降り注ぎ、森をなぎ倒し、大地をクレーターの海に変えた。
この未曾有の大侵攻を指揮するのは、ルーシー連邦のカリメント・ヴィルシーロフ元帥である。
彼はかつての内戦で名を馳せた古参の騎兵将校であったが、近代的な機動戦や複雑な兵站への理解は極めて乏しかった。大粛清によって有能な将校が消え失せた連邦軍において、同志書記長への絶対的な忠誠心のみでその地位に座っていた無能な指揮官である。
「撃て! 撃ち続けろ! 帝国の小賢しい陣地など、我が連邦の無尽蔵の砲弾で完全に耕してしまえ!」
後方の安全な司令部で、ヴィルシーロフ元帥は高らかに笑っていた。
「砲撃が終われば、全軍前進だ! 労働者と農民の偉大なる力をもって、帝国の旧時代の遺物たちを海まで押し流せ!Ура!!」
午前六時。砲撃が止むと同時に、地平線を埋め尽くすほどの赤い軍勢が、一斉に越境を開始した。
「「「「「「「「Ураaaaaaaaaaaaaaa!!」」」」」」」
五〇〇万の兵士が、ただひたすらに前へ前へと突撃する。
彼らに随伴するのは二万両の戦車部隊である。その大半は装甲が紙のように薄い旧式の軽戦車であったが、中には避弾経始に優れた傾斜装甲と強力な主砲を持つ最新鋭の主力中戦車T-34や異常に装甲の厚い重戦車KV-1が二割ほど混ざっていた。さらに上空には、一万八〇〇〇機の連邦軍の戦闘機や襲撃機が、空を黒く塗りつぶすように飛び交っている。
「敵襲! 来ます!!」
砲撃と爆撃を逆斜面陣地の深い地下壕でやり過ごしていた帝国軍の兵士たちが、塹壕へと這い上がり、機関銃と対戦車砲の照準を合わせた。
「撃てェ!!」
地雷原と鉄条網に足をとられ、密集したままの連邦歩兵の群れに、帝国軍の機関銃の猛烈な火線が叩き込まれる。
最前列の兵士たちが麦の穂のように薙ぎ倒される。だが、連邦軍は止まらない。後続の兵士たちが、倒れた味方の死体を文字通り「肉の盾」「肉の橋」として踏み越え、さらなる叫び声を上げて突撃してくる。
「なんて数だ……撃っても撃っても減らないぞ!」
帝国兵の顔が恐怖で引き攣る。
連邦の戦車群が迫る。
帝国の高初速を誇る対戦車砲や、駆逐戦車、何故か対戦車に使用されている八八対空砲が火を噴いた。旧式の連邦戦車は次々と装甲を貫かれ、炎のスクラップと化していく。最新鋭の戦車には多少の苦戦を強いられたものの、帝国軍の熟練した砲手たちは履帯や砲塔の付け根を狙い撃ちにし、着実に被害を与えていった。
だが、それでも連邦軍の進撃は止まらなかった。
前線では、一メートルの前進と引き換えに、数百リットルの血が流されていた。文字通り、人の血と肉を対価にして、距離を買い取っているような狂気の沙汰がそこでは当たり前のように展開されていた。
「前線陣地、被害甚大! 敵の数が多すぎます! このままでは両翼を突破され、包囲されます!」
「デールモ閣下より下令! 『充分に出血は強いた。第二防衛線へ後退せよ』とのことです!」
帝国軍は、連邦軍を自陣に引きずり込んで莫大な犠牲を払わせると、敵が包囲網を完成させる直前に、煙幕を張って素早く陣地を放棄し、後方へと下がる。
そして、突出して陣形が間延びした連邦軍の側背に対し、温存していた機甲部隊が猛烈な横撃を加え、敵を分断し、すり潰してはまた下がる。
デールモ大将の指揮は、まさに火事場の消火活動のようであった。
連邦軍の巨大な津波がどこかで防衛線を突破しそうになると、彼は機甲部隊を絶妙なタイミングで火消しとして投入し、敵の勢いを殺しては柔軟に後退を繰り返した。
空においても同様であった。
五〇〇〇機の帝国空軍は、数で三倍以上勝る連邦空軍に対し、レーダー網と最新鋭の戦闘機を駆使して圧倒的なキルレシオを叩き出していたが、撃ち落としても撃ち落としても湧いてくる旧式機の群れに、パイロットたちは過労で限界に達しつつあった。
泥と雪、そして血に塗れた一ヶ月が経過した。
「素晴らしい! 帝国軍は我が方の勢いに恐れをなし、退却を続けているぞ!」
ヴィルシーロフ元帥は、地図の上で着実に西へと移動していく前線を見て、歓喜の声を上げていた。
その背後には、百万という連邦兵士の死体と、一万両を超える戦車の残骸が連なっているというのに、彼には、否、その上層部を含めた連邦首脳部は前進しているという事実しか見えていなかった。
帝国軍は、決して敗走していたわけではない。
彼らは連邦軍の補給線を間延びさせ、勢いを完全に殺すため、計画的に自国の領土を明け渡しながら下がっていたのだ。
そして四月中旬。
幾多の川を越え、数え切れないほどの味方の死体を踏み越えてきた連邦軍の先頭部隊は、ついに帝国軍が設定した「最終防衛ライン」の前面へと到達した。
北はティゲンホーフ*1。
中央にヴァルシャワ*2。
南にフラフク*3から、バルガチア山脈*4へと至る、欧州を分断する巨大な防衛線である。
とりわけ、連邦軍の最大戦力が殺到したのは、帝国の東の心臓部への入り口とも言える最重要目標ヴァルシャワの前面であった。
「見たか! ついにヴァルシャワを捉えたぞ!」
泥と血にまみれた連邦軍の兵士たちが、歓喜の声を上げる。
「帝国軍はもはや虫の息だ! このまま一気に首都まで駆け抜けるぞ!Ураaaaaaaaa!!」
数万の連邦軍先頭部隊が、勝利を確信してヴァルシャワの平原へと殺到した。
だが――
その時、連邦軍は気づいた。
今まで自分達が経験し、莫大な犠牲を払ってきた戦いは、地獄のまだ「序章」にすぎなかったのだということに。
ヴァルシャワ縦深陣地。
そこは、デールモ大将がこれまでの遅滞戦闘で稼いだ時間をすべて注ぎ込み、構築したコンクリートと鋼鉄の要塞地帯であった。
突如として、ヴァルシャワの要塞から、これまでの野砲とは次元の違う、大地を揺るがす重低音が轟いた。
鉄道網を利用して密かに配置されていた、口径八〇センチや六〇、四〇五を超える超重砲や、無数の重砲群が、着弾観測機の誘導を受けて完璧な一斉射撃を放ったのである。
さらに、上空には極寒の偵察任務とモスコー襲撃から帰還し、味のしない栄養食に対する怒りを極限まで溜め込んでいた第二〇三航空魔導大隊をはじめとする、帝国軍の精鋭魔導部隊が展開していた。
「地獄へようこそ、赤い虫ども」
デールモ大将が望遠鏡越しに冷酷に呟いた瞬間。
ヴァルシャワ縦深陣地に接触した連邦軍の先頭部隊数万人は、重機関銃の濃密な十字砲火と、超重砲の破滅的な同時着弾、そして魔導士たちの飽和攻撃による閃光に飲み込まれ――文字通り、一瞬にして蒸発した。
地上に出現した地獄は、ここからが本番であった。
今回は短めです。
まあ本番はルーシー本土に入って連邦が覚醒してからですからね。