優秀な彼女たちの転入は、元いたヴァルキューレ生たちにとって良いことばかりではなかったようで……。
これはとある3年生の物語。
「大人」の一歩手前でありながら、同時にまだ「子供」でもある少女の青春の一幕。
「正しさ」を持て余す彼女が、自分なりの答えを見つけるまでのダイアローグ。
「カルバノグの兎編」を読んでからずっと妄想していたことを文字にしてみました。
メインストーリーVol.4の更新が来る前に好き勝手書いとけの精神。
登場人物の外見を考えるのが苦手なので、読む際はお好きな容姿で脳内補完して下さい。
※本作はpixiv様https://www.pixiv.net/にて「春原万次郎」という名前でも投稿しております
季節の花も生え変わり、鳥の歌声もすっかり様子が変わった頃。
我がヴァルキューレ警察学校にも変化が訪れた。
「射撃やめ!」
「……すごっ。2秒で6発、全弾急所だ」
「さすがエリート様だな」
学園が閉鎖され、本校に転入することとなっった元SRT生たちの適正試験は、過去に類を見ないものだった。
「体力テストの結果見た?開校以来の最高記録バンバン更新されてたよ……」
「それより筆記だろ。全教科満点の奴が複数人居るってどうなってんだ。転入してまだ数日だぞ」
そんな体育館に集まった野次馬を、私は手を払って追い散らす。
「はいはい皆、持ち場に戻れー。非番の奴も他人のテスト結果を覗くのに貴重な余暇を使わないー。さぁ帰った帰った」
体育館に繋がるあらゆる扉から生徒が覗きに来る様子は、まるでモグラ叩きだ。
物言いたげな表情の後輩たちも、私の肩に掛かった「臨時監督官」のタスキを見て、しぶしぶ引き上げていく。
もの分かりが良くて助かるよ。
「いやぁ熱心な仕事ぶり、感心感心。生徒は皆、ナオを手本とすべしだね」
「後輩たちが見てるからサボれないだけですー。そっちも今日は休みじゃなかった?」
私の名を呼んだのは、同じ3年生で今年 警備局の局長になったクラスメイト。
今回の試験の現場責任者として呼ばれたのだろう。今朝から私のような臨時監督官に指示を飛ばしている姿を何度か見かけた。
うぅ……。昔は私が勉強教えてあげたりもしたのに、今じゃ立派になって……。涙がちょちょぎれるぜ……。
「確かに休みだったけど仕事の方が大事だからね。それに優秀な人材が大量に入ってくれるのは有り難いことだし。我が校の向上に繋がるんだから気にならないよ」
「それは見上げた精神だ」
立派になりすぎです。
やめてください。隙あらばサボってやろうとか考えていた自分が恥ずかしくなるでしょうが。
そんな私を他所に、彼女は会場を振り向く。
「そう言えば見た?ナオが入学時に出してた射撃の最高記録も抜かれてたよ。あの時は今後10年は更新されないだろうって言われてたけど」
「テスト結果を覗く者は、例え局長サマと言えど取り締まらねばなるまいて」
からかうような口振りに、私も軽口で返す。
「良いの良いの。どうせ局員選定で後から確認するんだし」
と向こうも余裕の表情だ。
そんな話をすることしばらく、各々の職務に戻る直前に、彼女が急に声を落として訊いてきた。
「気づいてる?今年はとんでもないことになりそうだよ」
「……そうだね」
お互い分かっているのだろう、今回の試験結果が暗示する功罪を。
◆
数週間後の新学期、持ち場である刑事局のデスクでコーヒーを淹れていると、泣きついてくる影があった。
「ナ〜オ〜先〜輩〜〜!!」
泣き声の主は私のデスクを勢い余って通り過ぎ、ついでに書類やらコーヒーやらを吹き飛ばしていく。
ああ……さっき仕上げたばかりの報告書が……。
「はぁ……はぁ……ナ、ナオ先輩!これ見ましたか!?」
ついにデスクの前に立った少女は、頭にマグカップを乗せ、ヴァルキューレの白い制服にコーヒーの染みを作りながら、そんなことは意にも介さない様子で握りしめていた紙を叩きつけた。
どうやらどこかに張り出してあったもののようで、四隅にセロハンテープの跡がある。そこには「警備局の人事移動に関する告知」というゴシック体の見出しが。
「警備局員の見直しについてだよね。知ってるよ。モモトークの連絡用アカウントからもメッセージ来てたし。あとマチコ、掲示物を勝手に持って来ちゃダメだよ?」
「それは……すみません……」
私がマチコと呼んだ1年生はハッとした顔で謝った後、再び憤懣やる方ないといった様子で言葉を続けた。
「一旦その件は置いておいて……問題はこっちですよ!見て下さい!『SRT特殊学園の生徒の転入に伴い、既に警備局に在籍している者、また警備局への移籍が決まっていた者について、一部を他部署への移籍とする。対象者は以下の通り――』ですって!!信じられます!?!?」
彼女が憤慨するのも無理はない。
警備局は本校きっての花形部署。
かく言うマチコも入学時から警備局志望だったが受理されず、ここ刑事局で成果を出して今学期やっと移籍が認められたのだ。
そしてこれだけ息を荒げているということは……。
告知の対象者リストの中にはやはりと言うべきか、マチコの名前が入っていた。
「うぅ……やっと掴んだ警備局が……。夢だった部署への移動が……」
普段は明るい後輩のしょげた姿に何と声を掛けて良いか分からず他の局員に助けを求めるも、揃って申し訳なさそうに目を逸らされてしまう。
くそっ、自力でこの状況をどうにかしろと?
試験会場で話していた「とんでもないこと」とは正にこのことだ。
キヴォトス全土でもトップレベルの精鋭が集うSRTの生徒がヴァルキューレに転入するとなれば、実力から言って人気のポストは全て彼女らが占めることになる。
希望の部署を目指して今までコツコツ頑張ってきたヴァルキューレの生徒にとって、彼女たちは自分たちの夢を横取りしていく略奪者でしかない。
さらに転入生が成果を出せば、実力に裏打ちされた「真っ当な」待遇の差は如実に現れることだろう。
そのためしばらくは両者を引き離し、ほとぼりが冷めるまでトラブルを避けたいところなのだが……。
更ににとんでもないことに――
「おはようございます!本日付けでSRTより警備局への配属となりました、2年生の函柳(はこやなぎ)ミユキです。よろしくお願いします!」
――ウチの局にも転入生が来るのだ。
「なっ……えっ……なっ……???」
言葉を失うマチコを尻目に、襟を直して彼女に向き合う。
「初めましてミユキ。ようこそ刑事局 組織犯罪対策部へ。私は部長を任されてる3年の安波(やすなみ)ナオ。どうぞよろしく」
そういって差し出した右手を、ミユキは力強く握りしめた。
なるほど、これは中々に鍛えてある。おまけにタコの感じからして射撃も相当こなしていそうだ。
即戦力の予感と胸に、彼女に職場を案内していく。
すまないマチコ。どうにか自力で立ち直ってくれ……。
「ウチの部では組織犯罪――言ってしまえばヘルメット団やスケバン関連の犯罪を取り締まってるんだ」
おそらく事前に調べて来ているのだろう。ミユキは事実を再確認するような様子で頷いている。
そんな調子だったので、あっという間にオフィスを一周し、一通りの説明を終えてしまった。
「……そしてこっちが2年生のデスク。基本的に捜査は同学年でツーマンセルを組んで行うんだけど、貴女はどうしようかな」
偶数で綺麗に並んだ机を見て、少し考えていると。
「先輩!私まだ紹介して貰ってませんよ!!」
さっきまでの涙声が嘘のような大声に振り返ると、この数分で逞しくも立ち直った後輩がデスクの前で仁王立ちしていた。
「……あっちは1年生のデスク。そして彼女がーー」
「1年の火鳥(かとり)マチコです!SRTだか何だか知りませんが、ココでは私の方が先輩なんですからね!!」
あまり大きくない身体を少しでも大きく見せようと、背を反らしている努力がいじらしい。
「はい!若輩の身ですが、ご指導頂けると幸いです。よろしくお願いしますマチコ先輩!」
さすが元SRT。対応が大人だ。
私がそう感心したのも束の間、ミユキがとんでもないことを口走る。
「折角ですし、私とツーマンセルを組んで頂けませんか?」
これには私もマチコも驚いた。
急に何を言ってるんだコイツは。
この後輩から発される敵愾心に気づいていないのか?
だが、はたと気づく。
警備局に移籍予定だったマチコもまた、現状ペアを組む相手が居ないということに。
いやいや流石にそれはダメだ。
マチコを仇敵なんかと組ませて暴力沙汰にでもなったらどうする?捜査一課がウチにガサ入れなんて、クロノスあたりが黙ってない。
だが、そんな私の考えと裏腹に、当事者同士で合意形成は進んでいった。
「……面白い!良いでしょう!私がバッチリ手本を見せてやりますよ!!」
「ありがとうございます!流石先輩、頼りになります」
「はっはっは!良いですね!じゃあまずはコーヒーでも淹れて貰いましょうか!新入りはまずこれをするのがウチの伝統ですよ!!」
「了解!」
うーん、これで問題が起きたら私の責任だろうなぁ。面倒だ。
年を取ると責任や抱えるトラブルばかり多くなっていけない。
そういうものから逃げ回って生きてきた筈なのに、人生とはままならないものらしい。
どうしたものか。問題が起こるのは確定しているが、何がどうなるのか分からない。
少し考えてはみたものの答えが出ないので、思考を一度停止させる。
まぁ本人たちが乗り気だしこれで良っか。代案も特に思い付かないし。
一旦これで試してみて、ダメそうだったら引き離して別のメンバーを当てがおう。
こうして自分を納得させると、まずは様子を見ることにしたのだった。
◆
そして一週間後、持ち場である刑事局のデスクで朝のコーヒーを淹れていると、泣きついてくる影があった。
「ナ〜オ〜先〜輩〜〜!!」
なんだか既視感のある光景だったので、取り敢えず書類とマグカップを押さえておく。
泣き声の主は私のデスクを勢い余って通り過ぎ、ついでに書類やらコーヒーやらを吹き飛ばし……ていくことはなかったものの、慣性を制御出来ないで横にすっ飛んでいく。
「……大丈夫?」
覗き込むと、床に仰向けで大の字を描いているマチコが親指を立てて無事を証明していた。
まずは一安心。
「……それはそうと、聞いて下さいよ!あのミユキって新入り!」
一拍置いて跳ね起きたマチコは、すっ転ぶ前の勢いそのままに、早口でまくし立てた。
「あの新入りったら、初日でコーヒーの淹れ方マスターして、二日目に書類手続きすっかり覚えて、三日目に過去のデータをプロファイリングとかして、四日目に追跡中だったホシの居場所を特定して、五日目にそいつを取り調べて拠点を吐かせて、六日目に拠点を制圧しに行って、七日目に休み取って今ビーチでBBQしてるんですよ!?!?!?」
「それは……とんでもない大型新人だ」
やはり想像以上の実力だった。
報告書を読む限り、特に現場に出てからの活躍が目覚ましい。
情報の収集、統合、活用は見事だし、荒事の適正は言うに及ばない。
生活態度も真面目だし、天は二物も与えることがよく分かる。
その一方で、ここ数日の勤務態度を見て私も思うところがあった。
彼女を端的に表現するなら、まさしく「正義の執行人」と言った感じだ。
常に公正で、決して驕らず、職務に忠実。
それ自体は良いのだが、自分と同様のストイックさを他人にも求める傾向にある。これが数少ない欠点だろうか。
縁故主義やお役所仕事的な業務体制が幅を利かせるヴァルキューレにおいて、そういう態度は周囲との不和を生みかねない。彼女自身の人あたりの良さによって今は何とかなっているが、今後どうなるかは未知数だ。
実際、私も生活安全局に急ぎで対応して貰いたい事案があったので、向こうの知り合いに優先的に処理してくれるようお願いしようとしたら、ミユキに止められてしまった。なんでもそういうのは「正しくない」らしい。
割と重要かつ締め切りの近い案件だったので、当時の私はこの石頭をどうしてやろうかと思ったものだ。
もっとも正規の手続きをすっ飛ばそうとしたのは事実だし、それが規則を軽んじることになると言えばその通りなのだが。
そんな訳で、私は素直にミユキを高く買えないでいた。
そして彼女に思うところがあるのには、もう一つ理由が。
「うぅ……先輩としての威厳が……。私だって初星を挙げるまで2ヶ月掛かったのに……」
そう、先週より更に萎んでいる気がするマチコだ。
今でこそシナシナになっているが、彼女も1年生の中では上位に位置する実力者なのだ。それを鼻に掛けてバカ騒ぎするのが玉に瑕だが、期待のホープとして特に目を掛けて指導したつもりだし、初めて手柄を立てた時は我がことの様に喜びもした。
「うぅ……でも新入りの手柄は私との共同成果ってことになってるんですよね……私何もしてないのに……。これで内申点が上がってあわよくば警備局に……なーんて……へへっ……」
そう自嘲気味にボヤく瞳には光がない。
私だって人間だ。可愛い後輩をこんな風にされて何も思わない筈がない。
「よし、取り敢えずマチコは今日休みなさい。これは部長命令ね」
どう収拾をつければ良いのかは分からないが、このままじゃいけないことは分かる。
ここは基本に立ち返って、事情聴取といこうじゃないか。
「少し出掛けてくる。何かあったら連絡ちょうだい」
「うぅ……先輩、どこへ……?」
「現場」
それだけ言って、出勤ボードのマグネットを「外出中」に取り替えると、私はオフィスを後にした。
◆
「……Darlin’ Can’t You See〜♪ふふんふふんふんふ〜ん♪」
慰みに歌を口ずさんでみるが、あまり気分は晴れない。
そんな私の内面とは裏腹に、ビーチは憎らしいほど賑わっていた。
シーズンではなかったものの、この盛況っぷりは恵まれた気候と元気な太陽のおかげげだろうか。
誰かが持って来たラジカセから流行りの曲が流れ、揺れる華やかなパレオと共に白い砂浜に彩りを添えている。
思い思いに海を楽しむ歓声に混じって銃声が聞こえたので寄ってみると、スイカ撃ち大会が開かれていた。
キヴォトス名物スイカ撃ち――スイカ割りを棒でなく銃で行う定番イベント。目隠しはせず、代わりに銃の有効射程ギリギリくらいの場所にスイカを置く。今回は拳銃でやっているようで、射撃位置から50mほど離れた台の上にスイカが設置されていた。
「ないっしょ〜っ!」
「良い一射だったよ〜」
「いや手ブレ酷すぎた〜」
「次こそ当たるって〜」
なかなかの盛り上がりを見せる集団の隅に、見知った顔を見つけた。ミユキだ。
「分かったかい?銃は腕じゃなくて全身で支えるんだ」
「え〜どんな感じ?」
「本当は何かに依託すると良いんだけどね。そう……アゴは引いて……余計な力は入れずに……そう、良い感じ……力を抜いて……」
水着の少女に覆い被さるようにして、手取り足取りコーチングしていくミユキ。
ラッシュガードを羽織ってはいるものの、鍛え上げられた身体に水が滴る様は、オフの日の砕けた口調と相まって危険な色香を放っている。
「腰を意識して……照準は水平に……そのまま……引き金を絞って……」
ミユキに導かれるまま、少女は銃を構える。
乾いた発砲音とほぼ同時に、スイカから数メートル横の砂が弾けた。
「うーん、惜しかったね」
「ねぇ〜教官の囁き声のせいで全然集中できなかったぁ〜」
そう言って、からかうようにミユキをポカポカ叩く水着少女。
二人の周囲にキラキラとエフェクトが掛かって見えるのは水滴の反射だろうか?
「……こほん。充実した余暇を過ごしているようで何より」
私が軽く咳払いしてやると、二人ともまさか見られているとは思っていなかったようで、驚きの表情を浮かべてこちらを振り向いた。
「部長!?」
「……わ、私、ちょっと飲み物取ってくるね」
言うが早いか、すごすごとその場を後にする少女。
すれ違いざまに私のことをチラチラ見ていたが、自分の向かっている屋台に「焼きそば専門」と書いてあるのは見えているのだろうか。
「……部長もやりますか?スイカ撃ち」
気まずい空気を何とかしようとしてか、持っていた拳銃を差し出してくるミユキ。
「せっかくの休日なのにお邪魔して悪いね」
そう言いつつ、拳銃を受け取る。
9mm弾を使用する一般的なオートマチックピストル。スライドを少しだけ引いて薬室に弾が入っているのを確認し、構える。
身体の力を抜き、左手はポケットに。これで右手に集中できる。
照準はあくまで目安なので、照門と照星を合わせた後は、カンで微調整。
息を吐き切り、少し吸って、止める。
手のブレが止まる瞬間を待って、指を絞る。
銃声
スイカの上部が弾け、中の水分が血しぶきの様に飛び出した。
「おぉ!お見事!流石ですね」
パチパチと拍手をしてくれているミユキに銃を返す。
目線で「貴女はやらないの?」と訊くと、苦々しそうな笑顔が返ってきた。
「こういう曲芸、苦手なんですよね。SRTでも射撃訓練はしたんですが、もっと手っ取り早い方法があるので」
そう言うと、ミユキは近くのパラソルに立て掛けてあった自動小銃と弾倉を手に取った。
「勝手に使っちゃって良いの?」
「さっき仲良くなった人の物なんで大丈夫です。5発までなら撃って良いって言われてますし」
弾倉の頭からチラリと覗くライフル弾の先頭には、初期ロットを表すグリーンのペイントが付いていた。
新品も新品の良い弾薬だ。
ミユキはそれをライフルに挿入すると、コッキングレバーを引いて装填、構えて1秒足らずで3発撃った。
間を置かず、3度スイカが弾ける。
「ひゅ〜、やるねぇ」
私も彼女から銃をもぎ取ると、構えて1秒足らずで3発撃つ。
既に拳銃弾1発とライフル弾3発を受けて小さく砕けていたスイカは、新たにライフル弾3発を受けて粉々になった。
うーん、少しスッとした。
「ごめん、6発使っちゃったね。友達に謝っておいて」
憮然とした表情で自動小銃を受け取るミユキ。
しかし我を取り戻すと、すこし困った顔をしながらクーラーボックスまで歩いて行き、ドリンクを2本取り出して戻ってきた。
薄く透明なプラスチックのカップに青い液体がなみなみと注がれ、カップと同じ素材の蓋が付いている。刺さったストローの赤色が良いアクセントだ。
「ビーチの売店で売っていた『ノンアルコールカクテル』です。正しいことではありませんが、今は休暇中ですし。それに多分、今の私たちにはこれが必要なので」
ありがたく頂くと、一口飲んで喉が熱くなるような感覚。次いで、理性が剥がれていくような火照り。
なるほど、どうやらその売店とやらは名前以上の商品を提供しているらしい。
こんな時、取り締まる側に居るのは便利だ。
私はストローごと蓋を外すと、更にもう一口、カップの液体を飲み込んだ。
◆
「だ〜か〜ら〜、怒ってるなら理由を教えてくれって言ってるんですぅ〜」
「うるせぇ〜!後輩ならそれぐらい察しろバ〜カ!」
夕暮れのビーチに二人の酔っ払いが居た。
酔っ払いは粉々になったスイカを更に撃ち、他の人のスイカも撃ち、最終的に標的も弾も無くなって、今は浜に座って海に向かって砂を投げていた。
「察せないから聞いてるんです〜。てかそういうのパワハラですよ〜?」
「うっせ〜!な〜にがパワハラじゃ〜い!そこまで言うなら教えてやろうじゃあないの!」
酔っ払いAは足元に落ちていたガラス瓶を海に投げようとして、少し考えた後パラソル脇に置いてから、改めて砂を握って投げた。
「SRTの奴らがウチに来たことでぇ〜!色んなシワ寄せが来てるんだよぉ〜!なまじ有能だから文句も言えねぇしよぉ〜!私も可愛がってる後輩に警備局行って欲しいよぉ〜!!」
それを聞いた酔っ払いBは、足元の貝を水切りのフォームで投げようとして、少し考えてから波打ち際に置いてくると、改めて砂を握って投げた。
「知るかぁ〜!廃校も転入も私たちにはどうしようもないことでしょうがぁ〜!大体なんだヴァルキューレのゆるみっぷりはぁ!銃の手入れは適当!座ってばかりで運動しない!そのくせ間食でカロリーだけは摂取する!こんなので私たち精鋭に勝てるわけないでしょう!!勤務態度もひどい!気付いてましたぁ!?昼間のスイカ撃ちしてた少女ぉ、この辺の海警ですからねぇ!?それも勤務時間中のぉ!!」
「…………それホント?」
「ホントですぅ〜!制服着てませんでしたけどぉ、話の最中に聞き出しましたぁ」
それを聞いて急に酔いが醒め始める酔っ払いA。
あの生徒、身内だったのか……。
ウチの学校に態度の悪い生徒が一定数居るというのは把握していたが、まさか職務時間に制服も着ないで遊んでいるヤツが居るとは。
だから制服を着た私を見て、あんなに挙動不審になってたのか。
驚きの余り、なんだか急に冷静になってきた……。
そんな私に反して、ミユキは依然言葉続ける。
「資料整理してて知りましたよぉ〜?先輩ぃ、昔は模範生として表彰もされてたらしいですねぇ?それがどうしてこんな感じにぃ……」
「や、やかましいわ!昔のことはほっとけ!」
まだ少し熱が残る頭で、なんとか誤魔化す。
こっちはこっちで色々あるんだよ。色々。
私も負けじと言い返す。
「……そういうそっちはどうなんだ!周りの歩調を乱して!なんでそこまでして正義を求める!?その『正義』とやらは『生きやすさ』より大事なものなのか!?」
ここで誓っておくと、私はミユキを揺さぶってやろうだとかそんな腹積りは一切なく、ただ切り返してやろうという一心で、咄嗟に口を衝いて出たのが今の言葉だったのだ。
そして私はてっきり、それを聞いたミユキが怒るなり蔑むなりすると思っていた。
彼女の正義を非難しようとしたのだから、それが当然の反応だと考えていた。
しかし、ミユキがそのどれでもない反応を示したので、私はその豹変ぶりと同時に戸惑うことになったのだ。
どこかむくれたような口ぶりでミユキは呟いた。
「……そんなの私だって分かりませんよ」
やけに波音が耳に付いた。
彼女は今まで見たことがないほど悲しそうな顔をしていた。
「……私だって自分の正義が幼稚なことは分かってます。色んな正しさがある中で、周りと上手く合わせるのが大人なんでしょう」
母親とはぐれてしまった子供が手に持った人形を握りしめるようにして、彼女は言う。
「でも、幼稚な願いだったとしても、私はヴァルキューレに正義のヒーローであって欲しいんです。それが正しいからとかじゃなくて、私がそう望んでるから、そうあって欲しいんです。少なくとも、私がヴァルキューレの局員である内は」
「…………それは、どうして?」
少しでも否定のニュアンスが入ってしまうとミユキの中の少女の部分が心を閉ざしてしまう気がして、私はなるべく優しい声になるよう注意を払って尋ねた。
彼女はしばらく逡巡していたが、やがておずおずと口を開いた。
「……SRTは特殊部隊です。機密保持や報復防止のために、一部の例外を除いて隊員が表に出ることはありません。どれだけ頑張っても、市民の皆さんから直接感謝されることはないんです」
「……」
ミユキはもう砂を投げてはいなかった。ただ漠然と、陽が沈みかけてオレンジ色に染まる海を見つめていた。
気がつくと、彼女の弱気な表情はいつもの大人びた顔つきの中に溶けていた。
それはまるで黄昏と宵闇が混じった頭上に広がる空のようで、海鳥の声と波音だけが響く浜辺で、私は彼女の独白に近い吐露を聞いていた。
「……でもそれで良いと思ってました。SRTは影の存在として、秘密裏にキヴォトスの平和を守るのが任務。市民の皆さんに余計な心配を掛けずに事態を収拾できるなら、それが一番ですから」
彼女の顔に影が差しているのは西陽のせいだけではないだろう。
そのやりきれない表情に、何か掛ける言葉を探すも気の利いた台詞が見つからず、結局黙って相槌を打つに留まる。
「……だからこそ、治安維持の両輪として背中を預けているつもりだったヴァルキューレの堕落っぷりは許せませんでした。私たちが日陰にいた分、市民の方々の称賛を一身に浴びる組織であって欲しかったんです」
そう語り、目を閉じて、大きく一呼吸するミユキ。
それは身体中の何かを吐き出して、代わりに空気で一杯にしようとしているかのようだった。
再び目を開けた時、その姿は見慣れたいつものミユキだった。
「……そう、表舞台で!市民の皆さんに見られる立場でありながら!私たちが腐敗した企業や学園に対処する中、彼女たちはそれを助長する環境を野放しにしている!!」
彼女の声はどんどん力強さを増していき、最後にはほとんど雄叫びに近くなっていた。
「だから私が変えるんです!このヴァルキューレをより良い形に!それによって在校生の夢が破れようと知ったことか!私たちの仕事は市民の皆さんが安心して夢を見られる社会を創ること!!そのために奉仕するのが私たちなんだ!!公僕ならそれくらい覚悟しておけ!!!」
言い終わると、彼女は全エネルギー出し切ったのか急に仰向けに倒れると、寝息を立て始めた。
「うぅ……私が……やらないと……」
浜辺は嵐が過ぎ去った後のように、再び落ち着きを取り戻した。
遠くの水平線に陽が沈み、最後の一瞬 明るく波間を照らした後、夜の闇が訪れる。
初対面の時の大人な印象から一転、彼女の内心を知った今、私はそこに幼さと表裏一体の愚直な正義の心を感じていた。
自分の信じる理想を疑わず、逆境にあっても決して流されず、ひたすら前を向いて突き進む生き方。
思い返せば、彼女がスイカ撃ちをしていたのも、不真面目な海警に遊びを通じて射撃の訓練を施すためだったのかも知れない。
私はミユキに誤魔化した「色々」について思いを馳せる。
かつて模範生となり、ミユキ同様に正義を証明しようとした、あるヴァルキューレの少女のことを。
入学当初から、彼女は努力をし続けた。
正しい心と正しい方法で、正しい事を成そうと夢見ていたからだ。
そこに深い考えなどなく、絵本の中の楽園のように皆が笑顔でいられる世界が正義の先に存在するのだと、馬鹿みたいに信じていたのだ。
そう信じて生きるのは苦しかったが、正しい人はそれに耐え切って正しさを証明するのだと自分に言い聞かせていた。
……しかし、少女はある時ふと疲れてしまった。
周囲に疎まれながら肩肘張って生き続けることの、孤独と疲労に押し潰されてしまったのだ。
そうして立ち止まってみると、怖いほど視界が鮮明になって、少女はごくごく単純な事実に気が付いた。
自分には正義を成し遂げる器など無かったのだ、ということに。
だからキャリアの座を器のある級友に譲って、彼女は志を捨てた。
魚が空を飛ぼうと夢見るのは滑稽だ。
翼もなければ息をすることすらままならないのに。
きっとそんな無謀な魚はすぐに死に絶える。
そういうことは、資質のある者がやるべきだ。
夢見がちな少女は「大人」になって消えてしまった。
消えてしまったはずなのに、こんなにも心が苦しいのは、ミユキの姿を見て心が揺さぶられる度、砕けた夢の欠片が刺さってしまうからだろう。
……つまり、周囲との不和だの後輩だの色々理由を挙げてはいたが、結局のところ私がミユキに腹を立てていた一番の理由は、私自身にあったのかも知れない。
急に現れた新入りが、私には出来なかったことをやろうとしているから。
私の中の少女は消えた。
生きるのに邪魔だったから追いやった。
その判断がなければ私は今、生きていただろうか?――否。
だから、そのこと自体は間違いではなかった。
ならば、次だ。
そうして生き延びた大人がすべきは何か?
――それは、子供の夢を叶えてやることだろう。
そしてそのためには
「……正しいだけじゃ、ダメなんだよな」
ミユキの言うことは正しい。
能力のある者が実力を発揮し、健全な学校を作り、秩序立ってキヴォトスの平和を守る。
これは一面的には正しいが、マチコや私がそうであるように、ヴァルキューレ生の不満を招くだろう。
急な変化は大きな反発を招く。
大切なのは皆が納得することだ。
ミユキとマチコ、両者が納得できる着地点を探すこと。それが私の仕事だろう。
今の私に実現可能な範囲で、より満足度の高い結論……。
色んな正しさがある中で、周りに上手く合わせるスマートな結論……。
しばらく考えて、あるアイデアを思い付いた。
これならやれるかも知れない。
「へくちっ!……むにゃ……マチコ先輩……冷房かけすぎです……」
そんなタイミングで、ミユキのくしゃみが私を現実に引き戻す。
辺りはすっかり暗くなり、気温も下がって肌寒くなっている。
そろそろ戻ろうか。
ミユキを起こすのは忍びないので彼女を背負い、パラソルを左手に、さっき投げなかったガラス瓶を右手に持つ。
……しまった。クーラーボックスを持つのが先だったか。
一度パラソルを置いて、ガラス瓶をクーラーボックスに仕舞おうとした時、聞き覚えのある声が私を呼んだ。
「ナ〜オ〜先〜輩〜!探しましたよ〜!!」
そう手を振りながら駆け寄ってくるマチコは、ひとまず元気そうだった。
昼間のをまだ引きずってないか心配だったがその必要はなかったようだ。
「心傷の私から先輩を奪ってデートだなんて、とんだ悪女ですよこの女」
「人のことそんなに悪く言わないの」
この調子なら大丈夫そうだ。
ミユキに毒づくマチコをたしなめながら、クーラーボックスを持つよう促す。
「とりあえず氷も溶けてるでしょうし、向こうの排水溝にでも流して来ますね。……あれ、だいぶ重いですねコレ」
「中のドリンク、飲んだら少し軽くなるかもよ」
「え!良いんですか!じゃあお言葉に甘えて……」
揉み手して中のドリンクを口にしたマチコは、勢いよくカクテルを噴き出した。
「せ、先輩!これお酒入ってますよ!!」
◆
あれから一ヵ月ほど経ち、持ち場である刑事局のデスクで朝のコーヒーを淹れていると、馴染み深い声がした。
「ナ〜オ〜先〜輩〜〜!!」
なんだか既視感のある光景だったので、取り敢えず書類とマグカップを押さえておく。
声の主は私のデスクを勢い余って通り過ぎ……ることなく、今度はしっかり私の前で静止した。
どうやらちゃんと成長しているようだ。
「はぁ……はぁ……ナ、ナオ先輩!これ見ましたか!?」
デスクの前のマチコは、興奮のあまり息を切らして握りしめていた紙を叩きつけた。
どうやらどこかに張り出してあったもののようで、四隅にセロハンテープの跡がある。
前言撤回。やっぱり成長してないかも。
「掲示物を勝手に持って来ちゃダメって前にも言ったよね?」
「す、すみません……」
マチコは一瞬神妙な面持ちで謝った後、すぐさま先程までの勢いを取り戻して言葉を続けた。
「一旦その件は置いておいて……問題はこっちですよ!見て下さい!」
言われた通りプリントに目をやると、そこには『特別指導員制度の試行ついて』の文字。
「『複数名の生徒からの要望により、SRTからの転入生を各部署で特別指導員として採用し、射撃・尋問・情報分析などを一般生徒に指導する制度を試験的に導入する。それに伴い、警備局を主とする人事異動を行う』……ねぇ」
要するに、警備局に集中していた転入生を他の部署にも配属し、その配属先でSRTの技を他の生徒に教え込ませる、ということだ。
これなら各部署のポストにヴァルキューレ生が入る余地が生まれるし、転入生たちの精鋭としての知識や視点をヴァルキューレ全体に広げることもできる。
「警備局の採用枠空いたんだ。良かったね」
「それだけじゃないんですよ!」
そう言って二枚目の紙を突き付けてくるマチコ。
こいつ二枚も剥がしてきたのか。
説教は後にするとして、差し出された書面を確認すると、「警備局の人事異動に関する告知」とタイトルが書かれていた。
今回の特別指導員制度によって空きが出たことにより、人員補充がなされるのだろう。
読み進めると、転属者リストの中に「火鳥マチコ」の名前が。
「見て下さい!この間の手柄が認められて、再び警備局への配属が決まったんです!!」
「おお、それはおめでとう」
「この間の手柄」というのはビーチでの一件だ。
休日だったのにも関わらず浜で禁制品のアルコール飲料を発見したマチコ局員は、店の関係者を全員逮捕。取り調べ中に店がとある犯罪組織の資金源であったことが判明し、そこから芋蔓式に構成員を検挙して、ついに組織を壊滅させるに至ったのである。
いやぁ、近年稀に見る大手柄だ。
こんな功績を挙げるのは私的な理由で禁制品を見過ごすような悪い局員ではなく、夜の浜辺に先輩を探しに来るような心優しい局員こそ相応しい。
ミユキの方に視線をやると、何とも言えない表情で苦笑いしていた。
オフだったとは言えお前は私と同じ悪い局員なんだからな。この件はお互い内密に。
あれからミユキと話す回数が増えた。
あの夕暮れ時のやり取りに関しては、私からも彼女からも口にすることがないので、お互いにどこまで覚えているのか明らかになっていない。
だがあの一件以降、とっつきやすくなったのは確かだ。
話してみるとプライベートのミユキは割と話の分かる人物で、今回の特別指導員制度を認可させるにあたってSRT仕込みのグレーなアドバイスを貰うこともあった。
反面、職務中のバカ真面目っぷりは相変わらずだが。
まぁそれも彼女なりの筋の通し方なのだろう。
「うおおお!やりましたぁー!!」
両手を挙げて喜びを表現しているマチコを見ながら、私の口角もつい上がってしまう。
これからヴァルキューレに起こる変化によって、キヴォトス全土の人々が笑顔になれるかは分からない。
度重なる人員移動や生徒が生徒を指導するとう新たな試みによって大混乱が起きるかも知れないし、刑事局で優秀だった生徒が警備局でも同じように優秀だとは限らないかも知れない。
もちろん、全てが上手くいって、優秀な局員たちによる平和な未来が実現するかも知れない。
だから、変化の向こう側にいる人がどんな顔をしているのか、私には分からない。
しかし、そういうキヴォトス全土にまたがる笑顔は、正義のヒーローが守るものだろう。
だから私は、私に出来ることをする。
私の手の届く範囲にいる人を笑顔にする。
その結果として、この世界のどこかにいる誰かを笑顔に出来たなら……。
……それは私が、正義のヒーローに少し近づけた、ということになるんじゃないだろうか。
将来どこかの誰かを笑顔にするだろう後輩2人を見ながら、私はそんなことを考えていた。
◆
夜の帷を月明かりが切り裂く浜辺で、私は海を眺めてました。
満月の今日は、波打つ水面がいつもよりキラキラと輝いています。
その様子が無限に広がる宝石箱のように綺麗なので、仕事に疲れた日はこうして眺めに来るのです。
今日は大変でした。
人事異動で警備局から優秀な人材が引き抜かれるので、その穴を埋めるのにウチの部署はてんやわんや。
朝から防衛室や関係各所とミーティング。
数を補うために民間の警備会社を利用しようだとか、質を補うために休みを減らして訓練させようだとか、色んな意見が飛び交って全然まとまりません。
そんな日でも街では事件が起こるので、会議の舵を取りながら警備計画を確認し、部下の報告書に目を通して、持ち込まれる書類にサインしていると、気がつけばお昼休憩すら取る時間はありませんでした。
明日も朝6時から報告会かぁ。
帰ったら資料作らないと……。
これも全てナオちゃんが言い出した特別指導員制度のせいです。
もっとも、かく言う私もそれを分かっていて企画書に承認印を押したのですが。
そんなことを考えていたら、噂をすれば影というのは本当のようで、後ろから呼ぶ声がしました。
「局長サマはこんな時間でもパトロールですか。精が出ますなぁ」
声の主は私と同じ3年生で、今は刑事局の部長をやっているクラスメイト。
同時に、私の憧れの存在でもあります。
「最近ここのイルカたちから凶悪犯罪の通報を受けてね。夜も眠れないって言うから見回りをしてるんだ」
彼女の軽口に私も軽口で返します。
今回も上手く言えて良かった。
どうにか対等に話したくて、彼女の真似をして覚えた話し方。
入学してからずっと成績優秀で、模範生にも選ばれて、誰よりも正義感に溢れていたナオちゃん。
私に数学や、拳銃の撃ち方や、何より正義について教えてくれた人。
ある時 急に雰囲気が変わってものぐさな振る舞いが増えたけれど、根っこの部分が変わってないのは分かっていました。
だから最近、久しぶりに一生懸命駆け回っている姿を見られて、とっても嬉しかったです。
「それは結構なことで」
「そっちは何しに来たの?何か悩みごと?」
「いや、むしろ達成感に浸りに」
と言うのは、特別指導員制度の試験導入に漕ぎ着けたことでしょう。
それとも、後輩を何とか警備局に入れようとあれこれ考えてたことの方でしょうか。
あるいはその両方でしょうか。
「明日は日曜日だからねぇ〜っ。幸せもひとしおですよ」
そう言って伸びをするナオちゃん。
「よかったら今からカラオケでも行く?出世祝いで奢るよ?」
「折角の申し出だけど明日も仕事だから……」
こんな時、自分の頑丈さが憎くなります。
幸か不幸か、私に出来るのは頑張ることだけ。
今日で9徹目だけれど普段通り動けているのが、私が局長に選ばれた理由でしょう。
「すまじきものは宮仕え、とはこのことか……」
まるで化け物かのようにこちらを見てくるナオちゃん。
私だって何もなければこんなに働けてはいません。
心に正義の炎が燃えているからこそです。
そしてこの炎の火種は、ナオちゃんから貰ったもの。
内心ではこんな話し方をしている気弱な私が、頑張れるようになった切っ掛けです。
気恥ずかしいから教えてはあげませんが。
「辛いこと聞いちゃったね……。ごめんね……」
「そんな反応されると逆に辛い!」
私の勤務スケジュールを聞いて、急にしおらしくなるのはやめて欲しいです。
「……」
「……」
しばらく気まずい沈黙が流れました。
私は何か気兼ねしない話題を探して考えを巡らせましたが、浮かんでくるのは仕事の話ばかり。
沈黙を破ったのは、力強い水音でした。
バシャッという軽快な音は、波音を突き抜けて私たちの耳に届きます。
視線を向けると、1羽のトビウオが水面から飛び出したところでした。
黒いビロードの海を蹴って。
星の欠片を滴らせながら。
荒鷲のように宙を舞う姿は何とも神秘的で、美しいものでした。
そんな姿に見惚れていると、ナオちゃんがポツリと言いました。
「……なんでトビウオは魚なのに飛ぶんだろうね」
その発言が意味するところを、私は計りかねました。
ふと疑問に思っただけかのような口ぶりでしたが、ナオちゃんのやけに神妙な顔つきを見ると、それだけではないような気もします。
確かに言われてみれば不思議です。
エラで呼吸する魚という生き物でありながら、あえて空中に出る理由は何なのでしょう。
真っ当に考えれば、敵から逃げるためだとかエサを捕まえるためだとか、そんなところな気がします。
しかし、今 目の前で宙に身を踊らせる魚の美しさを見ていると、そんな野暮な答えは似合わないような気がしました。
だから、私は感じたままに答えることにしました。
「……月を目指しているからじゃないかな」
雲間から覗く月の光が、まるで天からの道標のように闇を除けて地上に降り注いでいました。
わざわざ生きやすい海の中から出て、宙に身を置くのは並大抵のことではないはずです。
それなのにトビウオがそうするのは、遥か頭上に輝く月に魅入られているからではないでしょうか。
「……月は狂気を司るって言うもんね」
「狂うくらいじゃないと月には届かないよ」
魚と月。
その間にあるのは大気という厚い壁です。
息をすることもままならず、圧力の違いによって身体は張り裂けそうになるはずです。
そんな壁に挑もうなんて魚は他にいないでしょう。
もしかしたら他の魚にバカにされたりするのかも知れません。
当のトビウオ自身ですら、自分の無謀さを自覚していたりするのかも知れません。
それでもなお飛び続けるのは、月に焦がれるどうしようもないほどの熱意ゆえでしょう。
ふと振り返ると、ナオちゃんが眩しいものでも見るように手で顔を遮りながらこちらを向いていました。
「……何?」
「いや、流石だなって思って……」
よく分かりませんが、いつものナオちゃんに戻ったようで何よりです。
ふと腕時計に目をやると、すっかり日付も変わっていました。
つまり、あと5時間で報告会の資料を仕上げる必要があるということです。
「……そろそろ帰ろうかな」
「じゃあ私も。局長サマ、護衛はお任せ下さい……!」
すっかり普段のペースになったナオちゃんの手を借りて、私は立ち上がります。
夜の海では、トビウオが月に届くほど高く、空に向かって飛んでいました。
〈終〉