そうして私は、呪_師になる   作:みつじ

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序章
第一話:事の始まり


 いつからだったか──私は孤立するようになった。

 

 ……ああ、そうだ。始まりは小学校低学年のとき。

 

『ななこちゃんの近くにいたら、いつもこけちゃうしケガする! 誰かに足を引っ掛けられる!』

 

 近くにいた女の子が泣きじゃくりながらそう言い、周りも同調した。

 私は戸惑った。そんなことないって言いたかった。……でも、言えなかった。

 

 私には、見えていたから。

 

 子どもの顔ほどの大きさで、犬のようで猫のようなお化けが──友達の足首をさすり、にやにやと笑うのが。

 

 私は後ずさった。そして小さく『ごめん』と呟いてから逃げた。靴音を響かせながら、無我夢中で走ったのだ。

 

 私の周りには、あのお化けがずっといる。少しずつ大きくなっている。

 最初は動物のように見えたのに、日を追うごとに少しずつ姿を変えた。それらは、人とはとても形容しがたい容姿で、相変わらずにやにやし、私の周りをうろついている。 

 にやにやといっても、今やアイツの口は耳まで裂けている。うろつくといっても足はないし、頭のてっぺんと横腹から手が生えていて……。不気味で、まさしくお化けに相応しい風貌だった。

 

 そして、私は孤立した。お化けが周りに影響しないように避けて、気がつけばいつもひとり。

 そうして、中学生になったときのこと。

 

 ──さみしいなあ。

 

『……ななこちゃんには、アタシが、いるよ』

 

 心の中で呟けば、お化けが喋った。あちらから声をかけられたのは、その時が初めてだった。

 耳を塞ぎたくなるようなダミ声で、にたにたと裂けた口をより広げながら──、

 

 きっと、何かを企んでいる。

 

 

 … … …

 

 お化けは、本当にずっと私のそばにいた。

 私が無関心を決め込んでいても、急に物陰からべーっと舌を出しながら飛び出してくる。

 あまりの恐ろしさに、掠れた悲鳴を上げながら尻もちをついたこともあった。

 周りの人は不審そうな顔をしながら私を避けて歩く。たまに優しい人が声をかけてくれることもあったけど、お化けがすごい距離の近さでその人を睨む。

 

『来るな来るな来るな、だれだ、誰だ! お 前 は!!!』

 

 けたたましく叫ぶお化けの目が、顔の中でぐるんぐるんと回って、気がつけばソイツはひとつ目になっていた。

 私はまた悲鳴を上げそうになるのをぐっと堪えた。その人にはかろうじてお礼を言い、足早に立ち去る。

 お化けはまた、ふわふわと浮きながら着いてきた。

 

 お化けはきっと、楽しんでいるんだ。顔を真っ青にして、冷や汗をかいている私を面白がっているんだ。

 

 正直、気が狂いそうだった。

 

 一日、また一日と過ぎていく中で、アイツが顔を現さない日はない。

 私が周りと距離を取っていれば、アイツも他へ構うことはない。ただ私にちょっかいをかけて、ケタケタ笑っている。

 

 そして、親から買い物を頼まれ、夕暮れの中をひとりで歩いていたときだった。

 お化けはまた笑う。

 

『ななこちゃん、見て〜』

 

 その口をあまりに大きく開けるものだから、端がとうとう耳まで裂けた。

 

 思わず目を逸らした。下に映る影は、切れた端がだらんと反対側に落ち、もとは球体だったくせに三日月みたいだ。

 

 なんで? なんでこんなことに?

 

 どうして私だけがこんな目に──、

 

 

 

 

 

「すごいのに憑かれているね」

 

 ハッとした。

 

 振り返ると、いつの間にか人が立っていた。

 

「しかもずいぶん気に入られてる。等級としては、一級ってところだ」

 

 その人は淡々と話し、ゆっくりとこちらに近づいてくる。

 

 学ランにぼんたんズボンを着用し、とても背が高い男の人だった。

 髪は後ろでお団子に纏めており、額の真ん中で分けられた前髪が、長く頬へと垂れる。こちらへ近づいてくる度に、その一房が視線を切るように揺れて、目元に影を落としている。

 その切れ長の瞳は、何かを見透かすようだった。

 

「君は怯えてるし、この呪霊を使役してるってわけでもなさそうだね」

 

 柔和な声色も、静かな所作も、完璧に作り込まれた仮面のようで。笑顔の奥に、冷たさが見え隠れしている。

 そして私の傍に立ち、こちらを見る。目線は私から外れていた。そちらには、おぞましい姿をした奴がいるはずだ。

 ……この人、お化けが見えている…?

 

「……じゅ、れい?」

「そう、今君の側にいる……例えるならお化け、かな」

 

 不思議な男の人だった。

 お化けが見えているどころか少しも驚かず、怯えることもない。しかも、どこか楽しそうに口角を緩く持ち上げている。

 

「君が扱えないなら、無駄にしてしまうだけだろうし……私がもらってもいいかい?」

「お、お化けってあげられるものなんですか…?」

「そうだよ。私の場合は、だけど」

 

 ケタケタ笑うのが聞こえる。濁点がついてそうなその声で、笑っているのがお化けだとわかる。

 口なんてありもしないようなくせに、どうして声を出せるのか。

 

「少し離れていようか。怪我するよ」

 

 優しい声色で、そっと言ったのに。

 

 次の瞬間、目の前で繰り広げられる光景に、私は今度こそその場にへたりこんだ。

 

 男の人の背後に、闇より深い漆黒が広がる。そこから、別のお化けが顔を出したのだ。

 

「行け」

 

 そう、低く呟いた途端、それらは一直線に突っ込んでいく。そこでようやく私は、自分を付きまとっていたお化けを見た。

 

 やはり形は原型を留めていなかった。いつの間にか足が一本生えていて、新たに大きく口を開けている。

 

『邪 魔 す る な ぁ ! ! !』

 

 今までに聞いていた以上に濁声を張り上げる。ぐあっとさらに大きく口を開け、男の人が放ったお化けはひと飲みだった。

 舌打ちをした男の人はさらにお化けを追加した。さらには彼までもがお化けへ突っ込んでいく。

 

 アニメでしか見たことがない光景だった。繰り広げられる戦闘シーンに、私はぽかんと口を開ける。

 

 これは本当に現実? ただの夢であってくれ──、

 

 

 

 願いも虚しく、私の背後に気配がする。

 

『アタシはぁ、ななこちゃんといるの〜』

 

 今度は、私の背丈ほどの化け猫に姿を変え、お化けが頬ずりをしてくる。

 自分の喉に、掠れた声が張り付いた。

 

「……思っていた以上に面倒な相手だな」

 

 先ほどまであんなに動いていたのに、涼しい顔をした男の人は言う。

 

「まさか、戦いの最中に特級にまで進化するとは」

 

 呟かれる言葉に、私は理解が追いつかない。

 

「……君、何かソイツに憑かれる心当たりは?」

 

 そう聞かれても、私はただ首を横に振るしかできない。

 

 だって、それはある日突然だった。得体の知れないモノが自分の前に現れたんだ。

 そのときは今よりずっと小さかった。なのに次第にブクブクと大きくなっていく。今では私の背丈をゆうに越えているときもある。

 そしてある日を境に話し始めた。『ななこちゃん、会いたかったぁ』と繰り返すのだ。

 

 どうして私に会いたかったのか? 昔、私は何かしたのか?

 そうは考えたことはあったが、何も心当たりはない。そして今の今まで、ずっと一緒にいる。

 

 

 背後からべったりとくっつかれ、浅い呼吸を繰り返しながら私は必死に言う。

 

「助けてください…!」

 

 高校2年生の春──これが、自身を呪術師だという夏油さんとの出会いだった。

 

 

 … … …

 

 私に憑いているものは、夏油さん曰く"呪霊"と呼ばれるものらしい。

 恨みや後悔、恥辱など人から生まれた負の感情が具現し、意思を持った異形の存在だそうだ。

 

 

 ──夏油さんと出会ったあの日。彼が攻撃を止めれば、お化けは私の周囲をただうろつくだけになった。

 彼は「夏油傑」と名乗った。そして、私に憑いているものが呪霊だと簡単に説明し、明日の放課後の予定を聞いた。

 特に用事がなかったのでそう伝えた。すると、夏油さんは「高専に来てほしい」と言い、長ったらしい学校名を教えてくれた。

 だから私は学校の帰り道に、名前だけは聞いたことがあった場所へ赴いた。そこは確か、宗教学校だったはずだ。

 東京郊外の山の中にあり、そこの学生と交流がある人はあまり聞いたことがない。

 

 そびえ立つ階段を登り切ったころ、息が上がっていた。ふと前を見ると、雰囲気のある校門の前に夏油さんが立っていた。

 

「悪いね、ここまで来てもらって」

「いえ……」

 

 そして、"東京都立呪術高等専門学校"へ招待された。

 校舎を案内され、ある一室に入る。応接間のような部屋で、夏油さんに促された私はソファに座った。

 

 そこにはすでに知らない人がふたりいた。

 ひとりは、夏油さんに"悟"と呼ばれ、見たことないぐらいきれいな人だった。

 光を受けた銀髪が、きらりと揺れている。透き通るような白い肌。スッと通る鼻筋に乗った、丸くて小さめの黒いサングラス。その奥で、青い瞳がどこか冷たさを際立たせている。

 彼の整った顔は、どこか人間味が薄かった。

 その青い瞳に上から下まで見られ、思わず体が強張ってしまう。

 

「ハァ? お前こんなのに引いたわけ? ダッセー」

「悟、うるさいよ」

 

 目の前で今にも喧嘩を始めそうなふたりに、私は苦笑いを浮かべる。

 

 "こんなの"と呼ばれているのは、きっと私の周りをふわふわ漂っているお化けのことだろう。

 

「なぁ、先生どう思う? 傑の言うとおり特級っぽいけど、なんでコイツに憑いてんだろ」

 

 "悟"に"先生"と呼ばれた男性は、厚い胸板と広い肩幅が目を引く、がっしりとした体格だった。角ばった顎と短く刈り込まれた髪が、無骨さを際立たせている。

 その厳つい見た目とは裏腹に、視線はどこか穏やかだった。

 

「うーん……しかも、この子は襲われずに平然としているな」

 

 そう言って、先生は唸る。

 

 一夜明け、お化けは少し人型っぽくなっていた。

 今までよりも人間に近い表情をしていて、なんとなく目が合うような気がする。

 今までは目なんかあってないようなもので、瞳っぽいものが見えても、視線はありえない方向を向いていたのに……。

 

「ただの特級呪霊なら話は簡単だが……憑いてる理由がわからないのが厄介だな」

 

 こちらを見、困ったような顔をしている"先生"は思い出したように言う。

 

「急に来てもらってすまない。俺は夜蛾正道。この学校の教師で、コイツらの担任だ」

「はあ……よろしくお願いします。七瀬ななこです」

「急ばかりでなんだが……君はそれが視えているのか?」

 

 "それ"と言われて、思わずお化けを目で追った。それだけでどうやら返事となったようだ。

 

「恐らく、ただの呪霊憑きじゃない」

 

 夏油さんがそう言い、私の隣に座った。ふたりがけのソファの片方が深く沈み、私はそちらへ倒れ込みそうになる。

 

「昨日、任務の帰りに、七瀬さんの側にいるこの呪霊を発見したんだ。少し様子を見ていたら、七瀬さんが怯えてることに気付いた。だから祓うか、降伏させて貰おうと思った……が、」

 

 夏油さんは私の代わりに説明を始めた。

 

「この呪霊、戦いの最中に一級から特級に成り上がったんだ」

「成長しているということか?」

 

 夜蛾先生の問いに、夏油さんが頷く。

 

「長い時間をかけたり、強い呪力や負の感情を得たりしたときに成長することはあるだろう…ぐらいだと私は認識していた。それがたった数分の間に起こったんだ」

「たまたまそんときがそのタイミングだったんじゃなくて?」

「……七瀬さんは恐怖を抱いてただろうけど、特級に押し上げるほどでもなさそうだった」

 

 面倒くさそうな顔をした悟さんは簡潔な答えを出したけど、夏油さんは険しい顔をしたまま。

 

「七瀬さんからは確かに少しの呪力を感じるけど、絶対に足りない」

 

 そう言って、夏油さんはちらりとこちらを見る。

 みんなが言っていることは難しいけど……どうやら、あまり良くないことが起こってそうだ。

 

「七瀬さん、悪いが君に憑いている呪霊について、もう少し聞かせてもらう」

 

 促され、私はお化けとの出会いから今までの経緯を話した。

 

 ──視えるようになったのは、小学校低学年のとき。

 朝起きたら、なんとなく近くに気配があるような気がした。首を傾げながら学校に行って、授業を受けて、給食を食べる。

 そして5時間目、国語の授業を受けていた。私は先生に当てられ、教科書を読んでいた。

 変わり映えしない一日、その途中で──ぼと、と上から落ちてきた。ぷるぷる震えてから、ころんと転がった"それ"の目らしきものと視線が交わる。

 あまりのことに悲鳴も出なかった。

 

『……ななこちゃん?』

 

 先生に問われてハッとした。いつの間にか近くに寄ってきて、こちらを見る先生に変わった様子はない。

 私の手元も見えているはずなのに……これが、見えてないの?

 

『どうしたの? すごい汗!』

 

 そこで自分の額や背中にまでじっとりと汗をかいていることに気付いた。

 

『気分悪い? 保健室行こっか』

 

 促されるままに保健室についていった。

 

 "それ"はふよふよ浮いて、ついてきた。

 ベッドに寝かされた私のそばで、吹いてもない風になびくように漂っている。

 もこもこした毛があるようで、どこかつるりとして見えて、姿が定まっていない。

 そのときは丸っこい姿をしていた。少しずつ回転していたのか、目が見え、次は口らしきものが見えた。

 

『……どうぶつの、おばけ?』

 

 思わず口に出して問うと、それは目を三日月みたいに細めた。まるで微笑んでいるかのようだった。

 

 そしてお化けは、私に付きまとうようになった。

 

 私が何をしていても側にいる。基本的にただ浮いているだけだったが、友達が近くにいるときだけは別だった。

 友達に触れてみたり、足を引っ掛けたり……そのたびに彼らは不気味がり、泣いている。

 そして、それが私と一緒にいるときだけだと気付かれてしまった。

 

 私は、ひとりになった。

 

 お化けは変わらず私の側にいる。気がつけば少しずつ大きくなっていて、その容姿をどんどん不気味なものへと変化させていく。

 最初は小動物を連想させるような見た目だったのに、次第に口が裂けて、目が大きくぎょろぎょろとしてありえない方向を向き、信じられないところから手足が生えた。

 

 お化けが初めて喋ったのは、中学生のときだった。

 私の呟きに呼応するよう『ななこちゃんには、アタシが、いるよ』と言ったのを皮切りに、よく言葉を発するようになった。

 

 お化けは、いつも私を驚かせた。

 急に廊下の角から飛び出してきたり、その舌をベーっと出しながら上から落ちてきたり……まるでこちらの恐怖心を楽しむかのように、ケタケタ笑っていた。

 

 そして高校生になり、2年生へ進級した春。

 

「──夏油さんに会いました」

 

 説明が終わった頃、呪霊は私の目の前にふわりと浮かぶ。

 

『この人たち、だあれ〜? ななこちゃん、遊ぼうよぉ』

 

 せっかく人型だったのに、いつの間にか蛇のように伸びて、ぐるぐるトグロを巻いている。

 

「なんとまあ……難しい話だな」

 

 唸りながら夜蛾先生が言う。悩んでいるように見えた。

 

「別に、さっさと祓っちまえばいいじゃん。こんなのに憑いてる理由なんかどうでもよくない?」

「……悟になら、確かに祓えるかもしれない。でも問題の解決にはならないよ」

「はぁ? 呪霊がどっか行けば終わりだろ」

「ちょっとは考えてくれるかな。この特級呪霊が、七瀬さんといることで成長したっていうのが問題なんだ」

 

 夏油さんの言葉に、自分の心臓がどきっとした。

 

「話を聞く限り、この呪霊は四級……いや、それに満たない蝿頭(ようとう)だった可能性がある。それが今や話し、意思を持ち、七瀬さんに憑いている。こんな薄い負の感情と弱い呪力のみで、そんなことがあり得ると……悟はそう思うかい?」

「誘導尋問してんじゃねーよ」

 

 はぁ、と息をついた悟さんは、にっと口角を持ち上げた。

 

「じゃあ試したらいいじゃん。今から」

 

 その瞬間だった。

 

 今の今まで私の前で話していたのに、気が付けば姿を消していた。

 

「俺がコイツを祓おうとしたら、また強くなるのかどうか」

 

 お化けが『きゅう』と鳴いた。悟さんはそれの首元を掴んでいる。

 

「ちょっとは楽しませてくれ、よ!」

 

 

 

 ──ガシャン!!

 

 キラキラと舞うガラスの破片に、お化けが囲まれている。そこで、お化けが窓の方へ投げつけられたのだとようやくわかる。

 

 悟さんとお化けが、窓の外へ落ちていく。

 

「……えっ、え!?」

 

 私は焦りながら窓へ近寄った。

 割れたせいで突き出しているガラスに気をつけながら下を覗き込む。昨日の夕暮れに見たような、現実味のない戦闘シーンが繰り広げられていた。

 

「悟は喧嘩っ早くて困るよ」

 

 すぐ近くではぁ、と息をついたのは、いつの間にか私の隣に立っていた夏油さんだった。

 

「え、と……私、どうしたら…」

「今あの近くに寄るのは危険だと思うよ」

 

 じっと見られ、私はたじろいだ。彼は、有無を言わせない強い瞳を携えていたから。

 

「……七瀬さんは、あの呪霊が見えるようになる前、誰かの死に関わったことはないかい?」

「誰かの、死…?」

「そう、特に仲が良かったとか親しい人のほうが好ましいね」

 

 問われるがままに頭を悩ませるが、何も思い浮かばない。

 私の両親は健在だ。友達が不慮の事故に巻き込まれて……なんてこともなかったはず。

 それに、小さいときのことなんて全然覚えていなかった。特に小学校以前のことは。

 

「……そういうことは、なかったと思います」

「……じゃあ、()()な」

「違う?」

「ああ、こっちの話。あの呪霊の正体について考えていてね」

 

 そんなとき、隣から声がした。

 

「傑、お前はこのまま七瀬さんに付き添っててくれ。俺は下へ行って様子を見てくる。……ったく、悟のやついきなり始めやがって…」

 

 気が付けば、夜蛾先生も側に立っていた。そして窓から飛び降りていく。

 私はようやく()()()()驚いた。ここは一階なんて高さじゃないのに、先生は普通に地面に降り立っている。

 

 さっきの悟さんもそうだった。お化けを掴んで、投げて、あの窓から飛び出していた。

 

「……あの、」

「ん? 何か思い出した?」

「いえ……少し聞きたいことがあって」

「何?」

「ここは、本当に学校ですか? あなたたちは何なんですか? あんな、お化けと……その、戦えるなんて」

 

 夏油さんは少し考え込んでから、小さく笑う。

 

「ここまで巻き込んでしまったんだし、説明しないってのも無理があるな」

 

 髪がなびく程度の風が吹く。夏油さんの前髪がふわりと浮いて──と、ここで、彼の顔をようやく真正面から見たような気がした。

 

「私たちは呪術師だ。ここは呪術について学ぶ……そうだね、養成学校のようなところ」

「じゅじゅつし……」

「呪う術の師と書いて、呪術師。君に憑いている呪い──つまり呪霊を、呪術を用いて祓う人間のことだ。まあ……霊媒師とかのほうが馴染みがあるかもしれないね」

 

 学生服を着ているのに、同じくらいの年には見えないほど落ち着いている。そんな夏油さんから放たれるのは、同じ言葉じゃないみたいだ。

 

「君に憑いている呪霊を祓って、普通の生活に戻してあげたかったけど……もしかしたら、無理かもしれない」

「……え?」

「下を見て」

 

 言われるがままに下を向く。

 

『アタシはぁ! ななこちゃんと! 遊 ぶ の !! お前らなんかいらない!!!』

 

 お化けはまた叫んでいた。

 私には、いつもと変わらない光景に思えた。

 

「悟は……あの、呪霊と戦っている奴なんだけど、呪術師としては超一級なんだ。その悟とやりやって、あの呪霊はまだ祓われていない。これがどういうことかわかる?」

「……あのお化けが強い?」

「ご名答。しかも、君といて強くなった。これほどまでに」

 

 つまり、この光景は……特別ってこと?

 思わず首を傾げてしまう。そのままお化けを見ていたとき、自分の首筋を撫でるものがあった。

 驚いて見上げると、夏油さんが興味深そうにこちらを見ている。

 

 私の首筋に触れたのは、彼の手だった。

 

「あの呪霊は、七瀬さんのことをすごく気にしてる」

「……そう、なんですかね」

「そうだよ。まるで守るみたいに」

「私を、守る?」

 

 いまいちピンとこなかった。

 それよりも、首筋を撫でられたことにしか意識がいかない。大きな手は、まだ私に触れたままだ。

 でも、夏油さんの涼しげな目にじっと見つめられると、体がこわばって動けなかった。

 

「……私のこと、驚かせてばかりだったのに?」

「それには何か理由があるんだと思うよ。……それよりも」

 

 するりと首に手を回され、背筋を刃物で撫でられるような寒気が走る。

 夏油さんは優しく微笑んだ。その笑顔が、さっきまでとは違って見える。

 

「今、君に危害を加えたら、あの呪霊はどうなるんだろうね?」

「……え?」

 

 ……あれ? この人は、私を助けてくれる人なんじゃ、

 

「"あれ"はまた成長するのかな? 特級をも凌駕するものにまで」

 

 静かな声がやけに響いた。

 

 ヒ、と掠れた声が喉に張り付く。

 

 ぐっと力が込められた指先は、私の喉に少しずつ食い込んでいく。

 

 

 

 いやだ……助けて……!!

 

 

 

 その瞬間、強烈な悲鳴が轟いた。

 

 

 

 

 

 ──五条悟は首を傾げた。

 自分とやり合う呪霊から、どうも殺意が向けられてこない。自分の攻撃をただ避けるだけで、あの呪霊はただひたすらに"七瀬ななこ"という女子生徒を気に掛けている。

 

『お前やだ〜! ななこちゃんと遊びたいのにぃ』

 

 いや……避けるのも、ただの呪霊にしてはよくやるほうだ。

 最強の名をほしいままにする自分の一手を、体の形態をぐにゃりと変えながら、するりとすり抜けていく。

 

(妙だな……傑は、この呪霊はただ憑いてると言っていた。七瀬ななこに使役されていないと。呪霊は本来、本能的に攻撃するものだ。誰の調伏も受けていない呪霊が、ここまで大人しい理由がわからない。……それに、)

 

 コイツ──なんでこんな()()()なんだ?

 

 イラついた五条が、"いっそのこと蒼でもぶつけてやろうか……"と思ったときだった。

 

 争いの最中、呪霊が急に、勢い良く上を向いた。つられて同じ方向を見ると、夏油が女子生徒の首を掴んでいる。

 呪霊が口を開けた。ギギギ、と効果音がつきそうなほど大きく、口の端が裂けるギリギリまで。

 

 

 

 その瞬間、強烈な悲鳴が轟いた。

 

 思わず耳を塞ぎ、片目を閉じてしまう。その間に、呪霊は遥か上空に飛び上がっていた。

 

『ななこちゃんに 触 る な !!』

 

 それは咆哮だった。耳をつんざくほどの鋭い叫びが空間を震わせる。

 ただの声ではなく、骨の髄まで震わせるほどの圧力を伴った呪いの怒声。

 空間が歪んでしまいそうなほどの、呪霊の"本能"そのものだった。

 

 五条は舌打ちをし、両手をスッと構える。

 

「ご主人様をやらなきゃ本気出さねーってか」

 

 その手のひらの中に呪力が収束し、まるで世界がその一点へ吸い込まれていくように、空間が歪む。

 轟音とともに空間が捻じれ、周囲の景色ごと引き裂かれた。鮮やかな蒼い光を放ちながら──、

 

「術式順転──蒼」

 

 

 

 

 ──強烈な悲鳴が響くだけでなく、咆哮までもが轟いた。

 

『ななこちゃんに 触 る な !!』

 

 思わず鳥肌が立つような圧力を感じたあと、私は誰かに腕を掴まれて、空中へ放り投げられた。

 声にならない悲鳴を上げたら、何かにふわっと持ち上げられる。

 目を白黒させながら顔を上げると、鳥のような姿があった。不格好な翼が生えている。

 

『ななこちゃん、ななこちゃん』

 

 そのダミ声からわかる。私を抱きとめていたのは、あのお化けだった。

 

『アタシが、守ってあげる』

「……え?」

『だから、アタシのこと、思い出して』

「……私、あなたを忘れてるの?」

 

 こくりと一度だけ頷いたあと、お化けは震えるように体を丸めた。

 

『思い出してよぉ』

「……なにを?」

 

 そして、ぐにゃりと形を変えて──それは、猫のように見えた。

 

「……え?」

 

 

 ──チリン、

 

 耳元で鈴が転がるような音が鳴った。

 その瞬間、記憶の奥底で何かが微かにうごめいた。それはまるで、濃霧に覆われた景色の向こうで、何かがこちらを見ているような……そんな感覚。

 

 

 『……ねぇ、……ないで……』

 

 自分の脳内に声が響いた。それは幼き日の自分のものによく似ている。

 

 『……目を、開けて……』

 

 その声の合間に、ぐすぐすと鼻を鳴らすような音が聞こえる。

 

 『……死なないで、みぃちゃん……』

 

 

 

 ──みぃちゃん?

 

 どこかで聞いたことがある。でも、はっきりと思い出せない。

 目の前のお化けがまた『ななこちゃん』と震える声で呼ぶ。その声と私の中の"何か"が繋がりそうになる。

 

 ……思い出せそうなのに、思い出せない。

 

 頭の中にかかる霞が晴れない。

 

 

 チリン──、

 

 また鈴の音がする。

 

 それと同時に、目の端から鮮やかな青が広がる。

 

 時間が止まったようだった。音さえ消えてしまった。

 

 それなのに自分を巻き上げるかのように、ふわりと風が舞う。

 

 

 

 ──ズドン!!

 

 轟音とともに、空間が一瞬で引き裂かれた。突然現れた青い球体は、時間を止めたように静かに炸裂し──、

 

 次の瞬間、爆風が遅れて襲いかかる。

 

 空間が爆ぜ、お化けごと周囲の景色が抉り取られる。

 目の前で、どす黒い血のようなものが飛び散った。

 

「あ……え……っ、う、」

 

 そんなときはまぶたを閉じられず、目の前で"それ"が吹き飛ばされ、原型を留めないのを見てしまう。

 何か言おうとしたのに、ヒィ、と声が掠れる。声にならない悲鳴を上げるしかなく、お化けがだらりと垂れるのをただ見た。

 

 一瞬の無重力のあと、ぐらりとバランスを崩す。落下しかけた私の背中をお化けが腕一本で掴んだ。私は宙ぶらりんになる。

 

 地面の遠さに、思わず目をつぶった。

 

「ダメ…!」

 

 口に出したのはもう無意識だった。

 

「死なないで…!」

 

 必死になって願った。

 

「生きて!!」

 

 

 

 自分の体の中を、熱いものがかけ巡る。感じたことのない感覚に、ハッとして目を開けた。

 血のようで、空気の泡のようなものがぐるぐる巡って、湯気のように放出されるのがわかった。

 

『あはぁ…! ななこちゃんの呪力だぁ…!』

 

 歓喜する声が聞こえ、首をひねって上を見る。

 かろうじて見えたのは、お化けの端っこ。べろんと裂けており、そこへナイフで切られたような横一直線の裂け目が走る。そこがばあっと開いて、大きな舌のようなものが飛び出してきた。

 

『だいじょうぶ、大丈夫だよぉ、アタシが守ってあげる……』

 

 舌が真っ二つに分かれて、そのそれぞれの先が指のように5本に分裂している。

 

 

 ()()が目覚める気配がした。

 空気が重くなり、心臓がぎゅっと締め付けられる。

 

 まるで、世界そのものが呪われるような──そんな、異質な感覚があった。

 

 

 

 刹那──世界が、音を失った。

 

 空気が一変する。重力が狂ったかのように重くなるのに、足元がふわりと浮き上がる感覚があった。

 

 肌を刺すほどの冷気が辺りを包み込む。

 

 ここだけが、この世ではなくなるような違和感。

 

 ぽとり、と落とされた言葉が世界を支配した。

 

 

『りょおいき てんかいぃ〜……』

 

 

 その声は、遠く、深く……まるで別の世界から響いているかのようだった。

 

 ぞわりと背筋が凍る感覚があった。

 それまではただのお化けにしか思えていなかったはずなのに……夏油さんの言う「呪い」という言葉に相応しいほどの圧を放つ。

 

 真っ赤に血濡れたような指がゆっくりと、だが、確実に印を結んでいく。

 

「七瀬さん!!!」

 

 私のことを呼んだのが、もう誰なのかもわからない。

 

 

 もう何もかもの理解が追いつかないまま、私は闇の中に落ちた。

 

 

 … … …

 

 五条悟と夏油傑は首を傾げた。

 

 七瀬ななこに憑く特級呪霊は、拙い言葉で『領域展開』と言い、無理やり生やした舌のような腕のようなものの指先で、確かに手印を結んだ。

 

 そして、その空間に閉じ込められたのは一瞬だった。

 

 目の前に広がるのは、ただの住宅街。だが、異様に静かで、人の姿はない。

 彼らは気が付いた。ここは確かに呪力による生得領域……だが、未完成だった。

 ただ閉じ込めるだけで、術式の付与もなく、なんの効果もない。

 

 なら、まだマシか──得体のしれない特級呪霊と、完璧な領域内で戦うよりは。

 

 

 

 ──ぐす、ぐす、

 

 どこからか、泣いて、鼻を鳴らすような音がする。

 

 五条と夏油はそれぞれ周りを見回した。そして、ふたりでそろりとある一軒家に近づいた。

 それは塀に囲まれていた。正面から入り、ぐるりと裏へ移動する。

 

「……なんだあれ」

 

 五条は思わずぽつりと零す。

 

 成熟した熊ほどの大きさの猫のようなものが、セーラー服を着た子に擦り寄っている。

 

『ななこちゃぁん、起きてぇ』

 

 ぐすぐすと鼻を鳴らしていたのは、その猫だった。ダミ声で、名前を呟いている。

 

「……あれは、七瀬さんか」

 

 夏油の呟きに、猫は──いや、呪霊は顔を上げた。

 そして、本当の猫のようにフーッと毛を逆立て、威嚇している。

 

『近寄るな!!』

 

 今にも飛びかかってきそうな勢いだった。ぐったりとして動かない女子生徒を後ろに隠している。

 

「なに、アイツ、死んでんの?」

「いや、さすがにそれはないだろう。ここが本当にただの生得領域なら、さほど影響はないだろうし」

 

 だが、実際はわからない。

 周りの景色は時折揺らぎ、ジジ、とノイズが聞こえる。今はまだ不完全な領域内だが、あの呪霊がまた自分を成し上げた途端、状況は一変するかもしれない。

 

「……君は、どうして七瀬さんに取り憑くんだい?」

 

 静かに問う夏油に、特級呪霊は答えない。シャーッと鳴き、威嚇をやめなかった。

 

「アイツ、マジで怒ってんじゃん。どうする? 俺は放っといてここから出たいけど」

「……」

 

 夏油は少し悩んだ。

 不完全な領域なら、ここから脱出することはできる。あの呪霊を逆撫でしないようにすれば、きっと容易だろう。

 

 ……でも。七瀬さんがここに来るように自分が誘った。しかも、あの呪霊がどうなるのか、興味本位で細い首元に手をかけた。

 

 結果、彼女は目の前で呪霊が弾けるのを見、血潮を浴びて、どこからそんな声がと思うような悲鳴を上げた。そして今、ぐったりと意識を失っている。

 

 術師の自分が、非術師をそんな目に遭わせて──、

 

 

 

「……傑?」

 

 声をかけられて、ハッと我に返る。

 

「……いや、七瀬さんも連れて帰ろう」

「うげっ、めんどくせ〜」

「放っといたら先生に怒られると思うよ」

「それはダルい。チッ、あの猫祓えばいい?」

「うーん、たぶん祓わなくても大丈夫だ」

 

 ──私は、きっと羨ましくなった。

 

 自分が降伏させた呪霊は、その時点で成長を止める。

 だが、彼女が側にいれば、自身の呪力を餌にしてその存在を押し上げる。

 

 それを、目の当たりにした。

 

 こんなにも呪霊に愛される才能。私がどれだけ努力しても手に入らない、"最強"に至る力。

 ただの人間として生きてきた彼女が、無意識にもっていたもの……少しだけ、妬ましい。

 

 でも、それはきっと──幸せじゃない。

 

 

 夏油は、呪霊へと声をかける。

 

「ねえ、私たちをここから出してくれるかい」

『……なんで』

「このまま七瀬さんとここにいたら、きっと、彼女は死ぬよ」

 

 しん、とした静けさがやってくる。

 

 呪霊は、目の輪郭をぼやけさせた。そして、次の瞬間に泣き出した。

 

『それはやだぁ〜! ななこちゃんと、まだ遊んでないぃ…!』

 

 ぼたぼたと大粒の涙が落ちる。しゃくり上げながら、子どものように、ひたすら『いやだ、いやだ』と繰り返していた。

 

『ずっと、一緒にいたかったのに……』

 

 その姿はまるで、ひとり取り残されたようだった。

 

 猫の姿のまま、しゅるしゅると小さくなっていく。そして『にゃあ』と鳴いた。

 

 

 その瞬間、空間が割れた。バラバラと破片が散らばって、見慣れた景色が顔を出す。

 

「コラァ! お前らいい加減にしろ!!」

 

 その中で、先生は見るからに怒っていた。

 

 夏油は、七瀬に近寄った。そっと優しく抱き上げて、がくんと揺れる顔を見る。

 胸が僅かに上下し、生きているのだとわかる。

 

「ちゃんと生きてる?」

「生きてるよ。悟、そんな言い方は良くない」

「へいへい」

 

 軽口を叩く五条をじろりと見てから、夏油は視線を落とす。

 

「……ごめんね」

 

 ──でも、少し同情するよ。

 まるで、呪いの親のように呪霊を成長させる。そんな存在はきっと、この世界で歓迎されるはずがなかったから。

 

 

 … … …

 

 頭の中が、ぐちゃぐちゃになる。

 幼い頃のおぼろげな記憶、お化けに憑かれた過去──すべてが脳裏をかけ巡る。

 

 そして、眼前にお化けがぐあっと迫った。

 

『ななこちゃんは、ずーっと一緒だよぉ』

 

 

 

 ──ガバッと息を呑んだ。

 

 目が、覚めた。

 

 はぁ、はぁ、と自分の息が荒いのがわかる。

 目だけで周りを見回す。知らない天井だった。

 

 自分は、どこかに寝かされていた。ゆっくりと半身を持ち上げる。

 

『っあ〜〜! ななこちゃんだぁ!』

 

 バッと突然、お化けが目の前に落ちてきた。

 

「ひっ、あっ、」

 

 その瞬間、次々と思い出される。

 

 突然、視界の端から蒼が炸裂する。空間ごと歪み、凄まじい衝撃が辺りを引き裂いた。

 

 お化けの体が裂ける。

 

 ぱっと飛び散った肉片。降り注ぐ赤。

 だらん、と力を失う体……宙吊りの私……、

 

 それが、何がどうなったのか持ち堪え、お化けの体から急に生えた舌は先が指のように枝分かれし、そっと何かを形どる。

 そして、感じたことのない妙な圧と、歯がカチカチなるような冷気が背中を伝ったのだ。

 

「っ、わぁぁぁあ……!!」

 

 必死に手で振り払った。まぶたを閉じても、残像が残っている。

 

 なに、あれ、

 

 怖い、怖い……!

 

 

 

「七瀬さん」

 

 穏やかな声が聞こえ、ぐっと肩を掴まれた。

 

 ハッ、ハッ、ハッ──、

 息が浅く、速くなる。喉がひゅうっとおかしな音を立てた。

 胸が苦しい。うまく吐けない。目に涙が滲んで、溢れて、止まらなくなる。

 

「大丈夫だよ。ゆっくり息できる?」

 

 鼻と口元を覆われ、吸い込む空気の量を制限される。ぎゅっと目を閉じて、背中をさすられている温もりを感じた。

 

 しばらくして、呼吸は落ち着いた。

 

 涙を拭いながら顔を上げると、そこにいたのは夏油さんだった。

 心配そうにこちらを覗き込んでいたが、目が合うと少し微笑む。

 

「七瀬さん、気を失ってたんだよ」

 

 そう言われ、思わず自分の記憶を辿ろうとしてしまったが、やめた。

 思い出すのはどうせ、血塗られたものばかりだったから。

 

『ななこちゃん、だいじょうぶぅ?』

 

 ダミ声が鼓膜を揺らす。お化けは少し距離を置いて佇んでいた。

 

 素直に大丈夫とは言えなかった。

 あんな光景を見せられて──、

 

 ハッとして夏油さんを見る。

 

 "今、君に危害を加えたら、あの呪霊はどうなるんだろうね?"

 ……この人に首を掴まれたから、ああなったんじゃないの?

 

 彼は不思議そうに首を傾げている。

 

「……私のせいだと思ってる?」

 

 核心をつくような質問に、息が詰まる。

 

「あの呪霊の正体がわかるかと思ったんだ」

「……何か、わかったんですか?」

「わかったのは、あれが七瀬さんの呪力を吸って成長しているってことだね」

 

 成長。

 

 その言葉が妙にしっくりきた。

 今思えば、お化けはまるで赤子が大きくなるようだった。姿は少しずつ大きくなり、いつしか話せるようになっている。

 

「……このままだと、みぃちゃんはどうなるんですか?」

「……みぃちゃん?」

 

 夏油さんに繰り返されて、自分が無意識でその名前を口にしていたのだと知る。

 

「……お化けが吹き飛ぶ直前……みぃちゃん、って名前を思い出したんです」

 

 あのとき、お化けは体を丸めて姿を変え、猫のようだった。

 今はいびつな球体となって、ふわふわ浮いている。

 

「その、みぃちゃんはあの呪霊のこと?」

「たぶん、そうです……」

「みぃちゃんと七瀬さんは、知り合いだった?」

「……そこまでは、わからなくて」

「まあ、何かしら関連があるんだろうね。あの呪霊は、七瀬さんにひどく執着してるし」

 

 それを聞いて、気分が沈む。

 どうして、私なのだろう。

 

「起きられそう?」

 

 夏油さんはすっと手を伸ばした。それを掴んでいいのか悩む。

 

「……別に、何もしないよ」

 

 見透かされ、その大きな手を取った。

 

 

 

 夏油さんは「送っていくよ」と言った。

 夜蛾先生や悟さんは、任務があって出ていったと聞いた。そして、謝られた。「危険な目に合わせてごめん」と。

 私は、やっぱり素直に返事ができない。

 

「君の体は硝子……呪霊の専門の医者みたいな人に見てもらったから、大丈夫。問題ないって言ってた」

 

 だから、ただ頷いた。

 

 長い石段を降りながら、日が沈みかかった空を見る。それらも、自分も……何も変わっていないように思う。

 

 なのに、どうして──、

 

 

「たぶん、呪霊が成長するのは七瀬さんの体質か術式か、そんなもののせいなんだと思うよ」

 

 夏油さんは、ぽつり、ぽつりと話した。

 

「周りに呪術師はいる?」

 

 首を横に振る。

 

「一般家庭出身で、恵まれた体質だね」

 

 その言葉に、カッと頭に血が登った。

 

「恵まれてなんかない…!」

 

 隣を歩く夏油さんを見上げる。

 

「これのせいで友達もいない! 夜も眠れない! 普通の生活なんかずっと諦めてた!」

 

 目頭がぐっと熱くなる。視界はぼやけ、目の端から伝うものがあった。

 

「夏油さんに全部あげる! ……あげるから、もう私を、元の世界に戻して…」

 

 目の前にある学ランを握り締める。シワになって、自分の指先に血が通わなくなるのも気にしなかった。

 

「……ここは、元の世界のままだよ」

 

 穏やかな声は、私に現実を突きつける。

 

「何も変わっていない。たぶん最初からあったんだ。七瀬さんが産み落とされた瞬間から、背負ってたはずだ」

「……そんな…」

「そして、これからも背負い続けるんだよ」

 

 頭に温もりが乗り、彼の方へ引き寄せられる。

 胸元へ顔を寄せ、私はぎゅっと目を瞑る。

 

「……私は、七瀬さんは呪術について知るべきだと思う」

 

 黒い学ランに顔を埋める。もう何も聞きたくなかった。

 

「あの呪霊だけじゃなく、これから先、君はきっといろんなものを成長させるはずだから」

 

 どうなろうと、自分には関係のない話だ。

 

 

 

「……気づいてる?」

 

 夏油さんが、私の肩をぐっと抱きしめた。

 

「──もう一匹、いつの間にか憑いてるね」

 

 なのに、現実が絡みついて離れない。

 

「これもきっと、放っておいたら成り上がるんだろう。特級か、それ以上に」

 

 優しい声のはずなのに、そうは聞こえなかった。

 

「きちんと躾けないと、そのうち七瀬さんも取り込まれるんじゃない?」

 

 先に棘がついていて、自分の心の奥に沈められる。それは鉤爪のようで、引っ張ってもすぐに抜けないんだ。

 

「……呪術を知るって?」

「あの学校に編入だね。先生には私から掛け合っておこうか」

「……そうしたら、私はどうなるの?」

 

 そっと顔を上げたら、それに気づいた夏油さんが少し下を向く。

 

「呪術師になるんじゃない?」

「じゅじゅつし…」

「そう、私や悟……他に何人もいるよ」

「それになって、どうするんですか?」

 

 夏油さんは少し目を見開いた。

 

「……呪霊を祓って、非術師を守る」

 

 ……おかしな話だ。

 

「私が、呪霊を──育てるのに?」

 

 そんな私が、"それ"を祓う側になれるって?

 

 

 口元が引きつった。

 




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