「はぁ……」
ペットボトルのお茶をぐいっと一気に飲み干した夜蛾は、深く息をついた。
七瀬の呪力が、自分の術式にあれほど強く作用するとは。
呪骸での訓練を通して、七瀬の術式の特性がよくわかったのは収穫だった。
魂ごと成長させることで、低級呪霊を特級にまで底上げできる。しかも、魂と言い難い呪いにまで効くのだ。
次は、七瀬に呪力を出力させて、その影響範囲を探るつもりだ。
みぃちゃんは、彼女の呪力をよく好む。だからその反応を利用させてもらうつもりだったが……。
「そう上手くいくか……?」
あの呪霊は、七瀬以外の言うことを聞くのか?
もし協力を得られないなら、七瀬に説得させるほうが現実的だろう。
ただ、何か琴線に触れた瞬間、"あれ"はすぐに術式を展開しようとしてくる。
それが厄介だ。
幸いなのは、七瀬が止めに入ってくれること。さっきもそのおかげで助かった。
「……」
あの呪霊が突然こちらに殺意を向けてきたとき、俺は──少しも動けなかった。
首筋に刃物を突きつけられたような、背後に死が迫るような……ただならぬ圧。
一瞬で体に危機が突き刺さった。
もしも七瀬が、以前のようにただ怯えるだけだったなら──。
夜蛾は、首を振った。
考えるのをやめる。
あの場面で呪霊を止められるぐらい、七瀬も確かに成長している。そこだけを、今は信じろ。
あとは、機を見て、あの呪霊とコンタクトを取る。
もうこの際、出力範囲がありえない広さである以外は許容範囲だろう。少々の呪霊くらい、みぃちゃんが全て食らうはずだ。
恐らく、いつもそうやって切り抜けていただろうから。
… … …
夜蛾と七瀬はグラウンドに集合した。
七瀬はどこか気まずそうにしている。恐らく、先ほどの特訓のことを気にしているのだろう。
呪骸を急に奪い取られてしまっただけでなく、特級呪霊がまた領域を展開しようとした。
それらを、自分に非があったせいだと思いこんでいる。それが、ひしひしと伝わってきた。
「七瀬」
名前を呼ぶと、少し肩を震わせながら視線を持ち上げている。
「こういうのは切り替えが大事だ」
「……」
「切り替えろと言われてすぐにできるものではないが、色々と考え込みすぎないほうがいい」
「……はい」
すると、小さく笑った七瀬に、夜蛾も同じように返した。
「では、次は七瀬の呪力がどこまで届くかを知る」
夜蛾が説明を始めると、七瀬は表情を引き締めて、真面目に聞いている。
「さっきの練習で、七瀬は自分の中に流れる呪力が知覚できるようになったな?」
「えっと……」
小さく視線を彷徨わせてから、言葉を継いだ。
「たぶん…?」
「そこは自信を持っていい。知覚できたから手のひらから呪力を出力できるようになったんだ」
「……はい!」
七瀬には、恐らく褒めて伸ばすことが必要だと夜蛾は考えていた。
七瀬の体から濃厚な呪力が溢れだしたとき、彼女はきっと、強い不安や死への恐怖に支配されていたはずだ。
それを"感じるな"というのは難しい。だが、"薄める"ことはできる。
不安や恐怖に負けないためには、心の柱──自分を支える自信が必要だ。
だが、七瀬にはその柱がまだない。
恐らく、彼女の自己肯定感が低いせいだろう。
幼い頃から呪霊が取り憑いたせいで、人と距離を置き、孤立してきた。
自分を肯定できる機会も、誇れるものも、きっとなかった。
それでも……今日の明け方、泣きながら言った。
"……みぃちゃんがいないと何もできないけど……私、頑張ってみたいです"
今までの危機的状況に、特級呪霊の助けがあったのは事実だ。だが、それだけではない。
七瀬には、自ら呪力を放ち、術式を働かせた力があった。
それを正しく教えてやらねばならない。
……いずれ、必ず。
「まず七瀬は、呪力を放出する。自分より遠く離れたところまで届くイメージでやってくれ」
そして、夜蛾はみぃちゃんを見る。
「それを、みぃちゃんに感じ取ってもらう。俺と一緒に七瀬から離れるんだ」
名前を呼ばれた呪霊は、相変わらず主人以外には反応を見せない。
「……七瀬、悪いが俺の代わりにみぃちゃんに指示してくれるか?」
「あ、はいっ。みぃちゃん、先生の言うこと聞こう?」
『え〜なんでななこちゃから離れるの〜?』
「……私のこと、もっと知るためなんだって」
みぃちゃんはしょぼんと肩を落としている。
『そんなのしなくたって、アタシは知ってるよぉ』
その会話を聞きながら、夜蛾は神妙な面持ちだった。
あくびをするように緩んだ口元に、どこか意図的なものを感じた。コイツ──やはり、何かを知っている。そして隠している。
先ほども、過呪怨霊が元は人間と聞き、ぼんやりとした様子の七瀬をたしなめていた。まるで、悪いことを思い出させないように。
みぃちゃんへの不信感が強くなる一方だった。
「ねえ、お願い」
『……しょうがないなぁ』
最後には諦めて、夜蛾の側にふわりと近寄った。
「まずこの距離で呪力を放出してみてくれ」
「はい」
七瀬は目を伏せて、片方の手のひらを上に向けた。彼女の手からじわりと滲み出る呪力。それは波紋のように、円形に広がっていく。
『わぁぁ…! すごいねぇ、ななこちゃんの呪力だぁ…!』
嬉々として呪力に寄っていきそうになるのを、夜蛾はみぃちゃんを掴んで制止した。
手触りはまるで、本物の猫のようだった。
あまりにリアルな実体を伴っており、夜蛾は思わず手を離す。
「……ある程度離れたら、手を上げる。次はそれを合図に呪力を放出してくれ」
「わかりました」
七瀬はきゅっと口元を引き締め、少し緊張した様子だった。
夜蛾が歩き出すと、素直に側をついて歩く。
自分の考えを通すような自我はあるが──これは恐らく、主従の契りだ。やはり、過呪怨霊である線が濃厚か……?
4歩離れたところで立ち止まる。男の歩幅の平均は、約78cmらしい。これならだいたい3m離れたことになるだろう。
夜蛾は手を上げた。
七瀬は自分の内側に意識を向けている。
ちらりと見上げるが、みぃちゃんはつまらなさそうに逆立ちになって浮いていた。
……幸か不幸か、射程距離はずいぶん短いな。
そして、夜蛾はまだ離れた。呪力どころか、七瀬の声が聞こえないほどの距離まで。
『……なんでぇ? もう届いてないよぉ』
「……お前と話がしたかったからだ」
夜蛾はみぃちゃんに向き直る。
「七瀬は今、あの術式のせいで、上層部に目をつけられている」
返事がくるかは一か八かだった。
恐らく選んでいる。判断基準は知らないが、自分にとって何か有益なことには返事をするだろう。
「だから高専には仮入学になっているんだ。……それに、難癖つけられて、急に秘匿死刑が決まってもおかしくないような状況だ」
ふよふよ漂うだけの呪霊は返事をしない。声はきっと届いているだろうに。
「俺は、担任として、あの子を真っ当な呪術師にしたい。力の使い方を学ばせ、人を助けられるようなそんな存在に」
七瀬の生死に関わるような話題を振っているはず。
どうすれば興味を引く?
七瀬の力を吸い上げ、どれだけ脅威になろうとも……七瀬をいちばん近くで守れるのは、コイツしかいないんだ。
気を引かなければならない。
「……実現するには、俺と七瀬だけではダメだ。必ずお前の力がいる」
先の尖った耳が、ぴくりと動いた。
すぅ、とこちらを向く目。縦に裂けた、細長い瞳孔がじっとこちらを見据える。
「だからこそ、俺は知らなければならない。七瀬のこと、彼女に取り憑くお前のことを」
そして、その目は何を見てきて、何を覚えているのか。
「七瀬の術式により出力された呪力は、呪霊を成長させる。これは、呪力が魂に作用するからだな?」
『……意外と見てるんだねぇ』
返事が来たことで、夜蛾は思わず拳を握りしめてしまった。
「それにより魂の質量を濃くするだけでなく、成り損なったものも完璧なものへ成し遂げる。……違うか?」
『へぇ、合ってるよぉ』
にまにま笑うみぃちゃんは、くるんと回転したかと思ったら、夜蛾としっかり向かい合った。
歩幅2歩分程度の距離。相手の射程圏内であることに違いない。
『……まだ何か聞きたそうだねぇ』
「察してもらえて助かる」
夜蛾は声を潜めるように問いかけた。
「……お前は、過呪怨霊なのか?」
その瞬間、空気が張り詰める。
『……それを聞くために、わざわざ離れた?』
声が低く沈む。
夜蛾はほんのわずかに重心を落とした。逃げられる態勢を整えながら、それでも正面から目を逸らさない。
ここで視線を外せば、すぐに噛みつかれる。本能が、そう警告していた。
そのとき──みぃちゃんの白目が、静かに引っくり返った。
ぐるんと現れた瞳がじわりと変色していく。真っ黒だった瞳に、うっすらと金の光が滲む。
(……金色?)
色素の薄い瞳が、じっと夜蛾を見つめる。
『……白髪で、青い目を持った少年。五条家の六眼持ち──あれに聞けばいいじゃない』
「……!」
コイツ、呪術界のことを知っている──?
「……あれですら、お前のことは捉えきれなかった」
『へぇ、ずいぶんと上手く隠れているねぇ。
それは、にぃっと笑う。それは、子どもの悪戯じみたものではなかった。
目の色が変わっただけなのに……別のもののように感じた。
『……わかった、
……見せる?
夜蛾が不思議に思った瞬間、みぃちゃんは口角を吊り上げながら、ゆっくりと口を開いた。
開かれたその奥は、どこまでも暗く、深く──まるで、底なしの沼のような異形の穴だった。
その奥にうごめく、無数の
それが見えた途端、夜蛾の背筋が凍る。それでも、なんとか身構えた。
『入らないと、何も見えないよぉ』
甘く誘うような声は、頭の中に響くようだった。
夜蛾は舌打ちをしたが──悩む間もなく、闇が迫る。
うごめいているもののひとつが、こちらに手を伸ばす。
こちらへ、おいで。そう呼ばれているようだった。
「──ッ」
反射的に跳ねのけようとしたが、逃げられず、ぬるりと粘つくような闇が、自分の腕を這い上がる。
飲み込まれる。
そう思ったときにはもう、両足は宙を離れていた。
大きな口の中へ引きずり込まれ、喉の奥でざらざらした舌が蠢く感触を感じた。
それ以外にも体中を這う感覚。
ぞわりと肌が栗立つ。肌に何かが這う感触がやまない。
耳元でざわざわと、無数の
冷たい舌の感触が、首筋を這った。
息を吸うことも、拒絶することも、もうできなかった。
(──くそっ……!)
心の奥底で、夜蛾は叫ぶ。
だが、次の瞬間──世界が裏返るようなめまいと共に、意識は闇へと沈んでいった。
──気付いたとき、夜蛾は見知らぬ場所に立っていた。
乾いた土の匂いが鼻をつく。
周囲は、どこまでも続く荒れた農地。
……音がない。
風の気配すらない世界。ただ、空だけが鈍い灰色をして、じっと頭上にのしかかっている。
周りを見渡すが、あの呪霊の姿は見えない。
(……ここは、生得領域か)
瞬間的に悟った。だが、理解したところで、どこにも出口は見えない。
視線を前へ向ければ、ポツンと立つ、朽ちた瓦屋根の平屋。
無理やり引き寄せられるような、抗えない圧を感じる。
(……ここで、アイツは何を見せる気なんだ?)
喉の奥がひりつく。額にじっとりと脂汗が滲んだ。
(──行くしか、ない)
重い足を引きずりながら、夜蛾は一歩を踏み出した。
立て付けの悪い引き戸を押し開ける。
ぎぃ、と音がする。
自身の呼吸が浅くなるのがわかった。
その先は土間だった。冷たい空気が頬を撫でる。
靴のまま踏み込む。目線の先、段差の上に畳があった。
その上には、ぐしゃぐしゃに汚れた布団。
そして──。
その上に、誰かが膝を抱えて座っていた。
夜蛾は息を詰めた。それ以上、近寄ることも後ずさることもできずに立ち尽くす。
こちらに気づいたように、顔を上げる。
──少女?
……七瀬に、似ている。特に、目元。
あどけないのに、どこか影を落とした、あの目だと……思ったのに。
どこかが違った。
顔にかかる前髪から覗く瞳は、あまりにも深い絶望の色をしている。
『やが、せんせい?』
鈴を転がすような、幼い声。
なのに、そこに宿る響きは、どこか歪んでいる。
夜蛾は咄嗟に答えた。
「……ああ、そうだ」
『わたしはね、みぃちゃん』
にっこりと笑った少女は、今やすっかり聞き慣れた名前を口にした。
「……みぃちゃん、だと?」
これは、もしかして──過呪怨霊に成る前の姿か?
背筋にぞわりと冷たいものが走る。
『うん! そうだよ!』
無邪気に笑う少女は布団から腰を上げ、土間にあった草履を履いた。
夜蛾は身長195cmと長身である。自分の近くに寄ってきた少女は、彼よりもずっと小さかった。パッと見た印象だが、小学生ぐらいだろう。
『猫ちゃんに言われて来たの?』
「猫ちゃん……あの呪霊のことか?」
『うん、呪霊…になるのかなぁ? むずかしいことはよくわかんない』
少し首を傾げる姿に、また七瀬が重なった。あの子もわからないことがあると、よくこうしている。
「みぃちゃんと、あの猫は別物なのか?」
そのせいで、少し気が緩んだのだろう。夜蛾のほうも少女に近寄る。
『うん、そうだよ。わたし頑張ったんだから!』
ピースサインを向ける姿に、夜蛾はほんのわずかに身を引いた。
『ななこちゃんを守るために……たくさん、たくさん食べたんだよぉ……』
少女からさっと表情が消え、そんな言葉が続いたから。
夜蛾は全身の血の気が引いた。
少女の両目からたらりと水分が垂れる。──赤い、まるで血のような。
夜蛾は立ち尽くした。足の裏から根が生えたみたいに動けない。
赤い液体は耳、鼻と、次々に溢れだした。口角を持ち上げて、ただ笑っている。
『あぁ……ダメだぁ…』
少女は口元を手で覆う。肩を大きく震わせて、げえっと嘔吐いた。
指の隙間からも赤色が伝う。
(……この子は、もう──)
直感的に理解した。
この少女は、もう"人間"ではない。
『ねぇ、やがせんせい』
ごぷ、と多量の液体を吐きながら、少女は話した。
『猫ちゃんの言うこと、ぜーんぶ信じちゃ、ダメだからね』
思わず目を背けそうになっていた夜蛾は、ハッとして目を向ける。
『あの子はわたしだけど、わたしじゃない』
「……それは、どういうことだ?」
『力をね、止めきれなかったの』
その言葉に合わせて、周囲の空気が一層重たく淀んだ。
『だから猫ちゃんなの』
小さな手が、夜蛾に向かって伸ばされる。
その指先は、もう人間のものとは思えない、ひび割れた色をしていた。
『わたしがしゃべっているようで、しゃべってないの』
これは──警鐘だ。
『だから……』
また嘔吐く。そして頭がだらんと後ろへ垂れた。
小さな肩がぴくりと跳ねる。
少女の口が、ぐにゃりと裂ける。
その中から這い出してきたのは……夜蛾がよく知る、猫の姿をした"異形"だった。
『はい、これで終わりぃ〜』
ずるりと這い出たあと、少女の体は抜け殻のように崩れ落ちた。
夜蛾は指一本も動かせなかった。心臓の鼓動が、やけに耳に響く。
(これで、何がわかるというのだ…!)
頭ではそう思うのに、喉から出るのは掠れた音だけ。
『じゃあ、またねぇ』
ガバッと開けた口にまた飲み込まれる。
体中を這う感覚。耳元でゲタゲタと嘲笑う声。
──"わたしを、おもいださせないで"
その中に混じる、確かな訴え。
それを最後に、彼は暗闇の中で気を失った。
感想や、誤字報告ありがとうございます!
誤字まみれすぎて、修正の嵐……申し訳なくなってきました……。
これからもよろしくお願いします!