乾いた砂の感触が、頬をじわりと刺激する。
「……っ…」
夜蛾はうっすらと目を開けた。瞼の隙間から射し込む光が強く、せっかく持ち上げたものをすぐ下ろしてしまいそうになる。
うつ伏せの体を、ゆっくりと仰向けに転がした。冷たい砂が、痛みと共に現実を突き付けた。
(……帰ってこれたのか…?)
そう思ったが、全身が鉛のように重い。どこかを強く打ったかのように、関節の奥まで軋むように痛む。
耳鳴りが続く。頭がぐらぐらして、視界も定まらない。まるで世界が水中に沈んだように歪んで見えた。
その向こう、空だけが鮮明に澄んでいる。
そんな彼の意識を浮上させたのは、すぐ側から聞こえた声だった。
「──先生…?」
泣き出す寸前のような、ひどく震えた声。夜蛾は目だけでそちらを見る。
七瀬だった。制服の裾が汚れるのも気にせず、夜蛾のすぐ側に座り込んでいる。
瞳は充血し、必死に涙を堪えている。夜蛾が目を覚ました途端、少し安心したように腕にすがった。
すでに何度か頬を擦ったのだろう。目の下は真っ赤に腫れている。瞬きをする度に、堪えきれずにこぼれ落ちる雫が皮膚に滲んだ。
……やはり、似ている。
生得領域の中で出会った少女の面影をどこか漂わせていた。
"わたしを、おもいださせないで"
この世のものとは思えないざわめきの中で、確かに聞こえた言葉。今思えば、どこか幼さの残る声色だった。
あれは、あの少女の叫びだった──?
「よかった…! 先生、全然起きないから…!」
頬にぽたりと落ちた涙が、夜蛾の意識を引き戻した。
「……でも、私…やっぱりひとりのまま、いればよかったのかな……?」
また、声が震える。
七瀬は唇を歪め、眉間にシワを寄せた。にじむ嗚咽が、そのまま宙に溶け込んだ。
彼女の体からゆっくりと、しかし明確に呪力が溢れ出す。辺りの温度が一気に下がるようだった。
夜蛾は思わず手を伸ばした。
「七瀬、落ち着け──!」
だが、声も手も届かない。彼女から溢れる呪力がいつもより濃く、幾つもの厚い層となって夜蛾を押し返したからだった。
「私が、ひとりで、いなかったから……!」
七瀬は、わっと泣きだしてしまう。そして、術式が感情に引きずられるように暴走していく。先ほどの演習のときより、ずっと遠くまで広がった。
夜蛾は痛みに耐え、上体を起こした。そして、彼女を落ち着かせるために、また手を伸ばした。
「……!」
そのときだった。
夜蛾を覆った呪力が、彼の体に染み込んだ。その途端に、節々の痛みが消えていく。
それだけでなく、自分の芯から呪力が湧き上がるのがわかった。気持ちが高揚し、心臓の拍動がよく耳に響く。
そこで夜蛾は、自分がいかに浅はかな了見だったかと痛感した。
七瀬の術式の対象範囲は、想定していたよりもずっと広い。
呪霊だけでなく、人間にも効く。魂を持つもの、あるいは魂となり得るもの全てに有効だ。
だが、その湧き上がる力は、どこか不安定だ。無理やり力を底上げされ、自分の体ではない感覚さえあった。
これを止めなければまずい。それだけが夜蛾の頭の中を占拠する。
ようやく七瀬の肩に指が触れた。──届いた。思わず指先に力がこもる。
びりびりと、七瀬の呪力が手のひらを伝った。その度に、自分の中に巻き上がる確かな力。
七瀬の肩を揺らす。彼女はハッとしてこちらを見た。
「七瀬、お前は──よく頑張った。今まで、ずっとひとりで……誰にも助けを求めずに生きてきたんだろう」
七瀬が"ひとりでいたほうがよかった"と言ったのは──あの呪霊に憑かれて以降、他者に被害が及ぶのを何度も見てきたからだ。
ずっと悩み、悔やんでいたはずだ。
だが、どうすることもできずに選んだのが、周りと距離をおくこと。
「呪霊がずっと側にいたことで周囲から孤立し、それでも誰のせいにもせず、命を投げ出すこともしなかった」
七瀬の肩が、びくりと揺れる。
「それだけで、十分だ。お前は、よくやった」
暴走する呪力の中で、夜蛾の声だけが、確かに彼女に届いていた。
「だが、これからは違う」
それは、宣告だった。
「体に刻まれた術式は生涯に渡り、消えることはない。つまり向き合っていかなければならないんだ」
そんな言葉を、向けていいのか?
相手はまだ幼さの残る、ひとりの少女なのに。
「だから、落ち着いてほしい」
だが、向けなければならない。
夜蛾は悔やんだ。彼女を教育するために与えられた時間が、あまりにも少なすぎることを。
七瀬は、瞬いた。ひと粒の雫が溢れたのを最後に、もう涙が伝うことはない。
夜蛾は恐る恐る手を離す。呪力は穏やかな風のようにふわりとなびき、消えていった。
「七瀬、今から言うことをよく聞いてほしい」
夜蛾は、震えそうになる声を無理やり押さえ込んだ。自分が怯え、恐れてはならない。それは七瀬に伝播する。
「お前の術式は、他者を育てるものだ」
短く言い切ると、彼女がほんのわずかに眉を上げ、頷いた。
「対象は……呪霊だけじゃない。魂を持つもの、あるいは魂となり得るもの、全てに影響する」
自分でも言葉にしながら、胸の奥が冷たくなる。これから伝えなければならないことを考えると、七瀬の目を見ていられなくなりそうだった。
「呪術師にも、呪詛師にも……そして、俺にも」
七瀬の目が、ほんの少し見開かれた。
「──七瀬」
夜蛾はそっと呼びかける。
「お前は、自分の呪力で成長させるものを選ばなければならない」
それが、どれだけ恐ろしい意味を持つか。
正しい道から外れた瞬間、彼女はこの世界から敵意を向けられる。
「だが……七瀬になら、できる」
夜蛾はわずかに息を吸い込む。
「お前はさっき、みぃちゃんを止めて俺を助けた。ちゃんと自分の取るべき行動を選んだんだ」
言い切ると、七瀬の目尻がまた少しだけ緩んだ。
雫が一粒、頬を滑り落ちる。だが、今度は術式が作動することはない。
夜蛾はほぅ、と深く息を吐いた。
「これから何度も迷い、悩むと思う。だがその度に自分を信じろ。物事を測るものさしは、これから作っていけばいい」
ぐす、と鼻をすすった七瀬は、指先で目元を擦った。ぼろぼろと次々に溢れる涙は、頬を伝い、制服に染みを作っていく。
「……俺がしてやれるのは、道を作ってやること。だが、その道を実際に歩くのは七瀬だ」
垂れた頭が微かに揺れた。それを相槌だと受け取った夜蛾は続ける。
「ただ、七瀬の術式は、ひとりでは完結しない。だから、お前には──」
一拍置いて、夜蛾は言葉を絞り出した。
「みぃちゃんが、いる」
七瀬の背後で、空中にふわりと浮かぶ影。にたりと笑う顔は相変わらずだ。
よく懐いた猫のように、七瀬の頬に擦り寄った呪霊。
『そうだよぉ、アタシがいるからねぇ』
間延びした声は甘く響く。
七瀬はみぃちゃん見上げ、涙でぐしゃぐしゃになりながら微笑んだ。そして、毛並みをそっと撫でる。
確かな信頼関係がそこに成り立っている。
"猫ちゃんの言うこと、ぜーんぶ信じちゃ、ダメだからね"
──夜蛾は、ぐっと拳を握り締めた。
生得領域で見せられた光景は、全てが嘘だと思えなかった。だから、あの少女の警鐘も、恐らく何かしらの意味があるはずだ。
だが、自分は七瀬にずっと付き添えない。夏油傑にも声をかけたが、あちらも1級術師だ。任務を請け負いながら、七瀬の面倒を見続けることは難しいだろう。
つまり、この呪霊に側にいてもらうしかない。
七瀬を守ることが第一なのは確かだ。そこは信じるしかない。
それに七瀬の術式との相性もいい。これから先、ずっと呪力をもらい、成長していくのだろう。
どんな強大な力を得るまで、それは続くのか……?
夜蛾はもう、考えるのをやめた。
そっと目を閉じると、頭の中で幼い声が反芻する。
"あの子はわたしだけど、わたしじゃない"
"力をね、止めきれなかったの"
"だから猫ちゃんなの"
"わたしがしゃべっているようで、しゃべってないの"
それなら……みぃちゃんではない方は、一体なんだ?
「七瀬は、何を忘れている……?」
夜蛾がぽつりと呟いたその直後──空気が静かに張り詰めた。
彼がハッとして目を開けたとき、みぃちゃんの金色の瞳が、ぎらりと光を放った。
風もないのに、草が逆立つような感覚。空気の密度が、じわりと変わる。
特級呪霊は、宙に浮かびながら、じっと夜蛾を見つめる。
その視線は冷たく鋭い。まるで"何も聞くな"とでも告げているようだった。
──そう圧をかけなくてもいい。今は突き詰めない。
あの少女の訴えを無視すれば、何が起こるかわからないのだ。
そんな無謀なことはできなかった。
だから、今、七瀬に聞けることはただひとつ。
「……お前は、みぃちゃんを信じられるか?」
七瀬は撫でる手を止め、みぃちゃんをそっと見つめる。
「お前が孤立した理由は、みぃちゃんだろう。その原因を信じて、一緒に道を進めるか?」
「……それは、私も考えたことがあるんです」
響く声は、先ほどまで泣いていたとは思えないほど落ち着いていた。
「どうして私だけこんな目にって。こんなのいなくなっちゃえばいいのにって……正直、何度も思った」
「……」
「でも、みぃちゃんと話してみたら、私が誤解してたってわかりました。みぃちゃんが私を驚かしてたのは、私に構ってほしかっただけ」
夜蛾が少し驚いた。ただ怯えているだけだったのが、呪霊としっかりコミュニケーションをとれている。
「私がここにいるためには、この子の力が必要なんですよね?」
「……そうだ」
「じゃあ、信じます。それに……みぃちゃんは私を何度も助けてくれた。ずっと寄り添ってくれていたから」
七瀬は、顔を綻ばせた。優しい目で見つめている。
それを受け取る呪霊も、ゆったりと尻尾を揺らしていた。
『ななこちゃぁん、だいすきぃ〜』
ぐりぐりと鼻先を押し付けられ、くすぐったそうに顔を伏せた七瀬に、もう涙は見えない。
「私も、みぃちゃんが好きだよ」
そう、確かに言葉にした瞬間だった。
七瀬の体から、ふわりと柔らかい呪力が舞う。それを吸い取り、嬉々とした呪霊。
かつて黒だった瞳は、今や金色に輝き、揺るぎない光を放っていた。──あれはきっと、成長した証。
夜蛾はいいようのない不安を胸に抱く。
この歪な関係の先に何が待つのか──まだわからなかったから。
涙のない結末を迎えられるなら、それに越したことはない。だが……その道を選ばせてやれるかどうか。夜蛾には思いも及ばなかった。
──そう、彼は知らない。
すべてを握り、隠すのは金色の目をした呪霊だけ。
GWが秒で終わってしまいました……。
休みってなんでこんな過ぎるの早いん……。
この話は見切り発車からの、いつもストックゼロでお送りしています。
なんか辻褄合わねえなとか、なにこれ?なんて疑問とかあれば教えてくださると助かります。
お気に入り、感想、ありがとうございます!めっちゃ喜んでます!