そうして私は、呪_師になる   作:みつじ

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第十一話:夜蛾正道の苦悩④

 乾いた砂の感触が、頬をじわりと刺激する。

 

「……っ…」

 

 夜蛾はうっすらと目を開けた。瞼の隙間から射し込む光が強く、せっかく持ち上げたものをすぐ下ろしてしまいそうになる。

 うつ伏せの体を、ゆっくりと仰向けに転がした。冷たい砂が、痛みと共に現実を突き付けた。

 

(……帰ってこれたのか…?)

 

 そう思ったが、全身が鉛のように重い。どこかを強く打ったかのように、関節の奥まで軋むように痛む。

 

 耳鳴りが続く。頭がぐらぐらして、視界も定まらない。まるで世界が水中に沈んだように歪んで見えた。

 その向こう、空だけが鮮明に澄んでいる。

 

 そんな彼の意識を浮上させたのは、すぐ側から聞こえた声だった。

 

「──先生…?」

 

 泣き出す寸前のような、ひどく震えた声。夜蛾は目だけでそちらを見る。

 

 七瀬だった。制服の裾が汚れるのも気にせず、夜蛾のすぐ側に座り込んでいる。

 瞳は充血し、必死に涙を堪えている。夜蛾が目を覚ました途端、少し安心したように腕にすがった。

 すでに何度か頬を擦ったのだろう。目の下は真っ赤に腫れている。瞬きをする度に、堪えきれずにこぼれ落ちる雫が皮膚に滲んだ。

 

 ……やはり、似ている。

 生得領域の中で出会った少女の面影をどこか漂わせていた。

 

 "わたしを、おもいださせないで"

 この世のものとは思えないざわめきの中で、確かに聞こえた言葉。今思えば、どこか幼さの残る声色だった。

 あれは、あの少女の叫びだった──?

 

「よかった…! 先生、全然起きないから…!」

 

 頬にぽたりと落ちた涙が、夜蛾の意識を引き戻した。

 

「……でも、私…やっぱりひとりのまま、いればよかったのかな……?」

 

 また、声が震える。

 七瀬は唇を歪め、眉間にシワを寄せた。にじむ嗚咽が、そのまま宙に溶け込んだ。

 彼女の体からゆっくりと、しかし明確に呪力が溢れ出す。辺りの温度が一気に下がるようだった。

 

 夜蛾は思わず手を伸ばした。

 

「七瀬、落ち着け──!」

 

 だが、声も手も届かない。彼女から溢れる呪力がいつもより濃く、幾つもの厚い層となって夜蛾を押し返したからだった。

 

「私が、ひとりで、いなかったから……!」

 

 七瀬は、わっと泣きだしてしまう。そして、術式が感情に引きずられるように暴走していく。先ほどの演習のときより、ずっと遠くまで広がった。

 夜蛾は痛みに耐え、上体を起こした。そして、彼女を落ち着かせるために、また手を伸ばした。

 

「……!」

 

 そのときだった。

 

 夜蛾を覆った呪力が、彼の体に染み込んだ。その途端に、節々の痛みが消えていく。

 それだけでなく、自分の芯から呪力が湧き上がるのがわかった。気持ちが高揚し、心臓の拍動がよく耳に響く。

 

 

 

 そこで夜蛾は、自分がいかに浅はかな了見だったかと痛感した。

 

 七瀬の術式の対象範囲は、想定していたよりもずっと広い。

 呪霊だけでなく、人間にも効く。魂を持つもの、あるいは魂となり得るもの全てに有効だ。

 

 だが、その湧き上がる力は、どこか不安定だ。無理やり力を底上げされ、自分の体ではない感覚さえあった。

 

 これを止めなければまずい。それだけが夜蛾の頭の中を占拠する。

 

 ようやく七瀬の肩に指が触れた。──届いた。思わず指先に力がこもる。

 びりびりと、七瀬の呪力が手のひらを伝った。その度に、自分の中に巻き上がる確かな力。

 

 七瀬の肩を揺らす。彼女はハッとしてこちらを見た。

 

「七瀬、お前は──よく頑張った。今まで、ずっとひとりで……誰にも助けを求めずに生きてきたんだろう」

 

 七瀬が"ひとりでいたほうがよかった"と言ったのは──あの呪霊に憑かれて以降、他者に被害が及ぶのを何度も見てきたからだ。

 

 ずっと悩み、悔やんでいたはずだ。

 だが、どうすることもできずに選んだのが、周りと距離をおくこと。

 

「呪霊がずっと側にいたことで周囲から孤立し、それでも誰のせいにもせず、命を投げ出すこともしなかった」

 

 七瀬の肩が、びくりと揺れる。

 

「それだけで、十分だ。お前は、よくやった」

 

 暴走する呪力の中で、夜蛾の声だけが、確かに彼女に届いていた。

 

「だが、これからは違う」

 

 それは、宣告だった。

 

「体に刻まれた術式は生涯に渡り、消えることはない。つまり向き合っていかなければならないんだ」

 

 そんな言葉を、向けていいのか?

 相手はまだ幼さの残る、ひとりの少女なのに。

 

「だから、落ち着いてほしい」

 

 だが、向けなければならない。

 

 夜蛾は悔やんだ。彼女を教育するために与えられた時間が、あまりにも少なすぎることを。

 

 

 

 七瀬は、瞬いた。ひと粒の雫が溢れたのを最後に、もう涙が伝うことはない。

 夜蛾は恐る恐る手を離す。呪力は穏やかな風のようにふわりとなびき、消えていった。

 

「七瀬、今から言うことをよく聞いてほしい」

 

 夜蛾は、震えそうになる声を無理やり押さえ込んだ。自分が怯え、恐れてはならない。それは七瀬に伝播する。

 

「お前の術式は、他者を育てるものだ」

 

 短く言い切ると、彼女がほんのわずかに眉を上げ、頷いた。

 

「対象は……呪霊だけじゃない。魂を持つもの、あるいは魂となり得るもの、全てに影響する」

 

 自分でも言葉にしながら、胸の奥が冷たくなる。これから伝えなければならないことを考えると、七瀬の目を見ていられなくなりそうだった。

 

「呪術師にも、呪詛師にも……そして、俺にも」

 

 七瀬の目が、ほんの少し見開かれた。

 

「──七瀬」

 

 夜蛾はそっと呼びかける。

 

「お前は、自分の呪力で成長させるものを選ばなければならない」

 

 それが、どれだけ恐ろしい意味を持つか。

 正しい道から外れた瞬間、彼女はこの世界から敵意を向けられる。

 

「だが……七瀬になら、できる」

 

 夜蛾はわずかに息を吸い込む。

 

「お前はさっき、みぃちゃんを止めて俺を助けた。ちゃんと自分の取るべき行動を選んだんだ」

 

 言い切ると、七瀬の目尻がまた少しだけ緩んだ。

 雫が一粒、頬を滑り落ちる。だが、今度は術式が作動することはない。

 

 夜蛾はほぅ、と深く息を吐いた。

 

「これから何度も迷い、悩むと思う。だがその度に自分を信じろ。物事を測るものさしは、これから作っていけばいい」

 

 ぐす、と鼻をすすった七瀬は、指先で目元を擦った。ぼろぼろと次々に溢れる涙は、頬を伝い、制服に染みを作っていく。

 

「……俺がしてやれるのは、道を作ってやること。だが、その道を実際に歩くのは七瀬だ」

 

 垂れた頭が微かに揺れた。それを相槌だと受け取った夜蛾は続ける。

 

「ただ、七瀬の術式は、ひとりでは完結しない。だから、お前には──」

 

 一拍置いて、夜蛾は言葉を絞り出した。

 

「みぃちゃんが、いる」

 

 七瀬の背後で、空中にふわりと浮かぶ影。にたりと笑う顔は相変わらずだ。

 よく懐いた猫のように、七瀬の頬に擦り寄った呪霊。

 

『そうだよぉ、アタシがいるからねぇ』

 

 間延びした声は甘く響く。

 七瀬はみぃちゃん見上げ、涙でぐしゃぐしゃになりながら微笑んだ。そして、毛並みをそっと撫でる。

 

 確かな信頼関係がそこに成り立っている。

 

 

 

 

 

 "猫ちゃんの言うこと、ぜーんぶ信じちゃ、ダメだからね"

 

 ──夜蛾は、ぐっと拳を握り締めた。

 生得領域で見せられた光景は、全てが嘘だと思えなかった。だから、あの少女の警鐘も、恐らく何かしらの意味があるはずだ。

 だが、自分は七瀬にずっと付き添えない。夏油傑にも声をかけたが、あちらも1級術師だ。任務を請け負いながら、七瀬の面倒を見続けることは難しいだろう。

 

 つまり、この呪霊に側にいてもらうしかない。

 

 七瀬を守ることが第一なのは確かだ。そこは信じるしかない。

 それに七瀬の術式との相性もいい。これから先、ずっと呪力をもらい、成長していくのだろう。

 

 どんな強大な力を得るまで、それは続くのか……?

 

 夜蛾はもう、考えるのをやめた。

 そっと目を閉じると、頭の中で幼い声が反芻する。

 

 "あの子はわたしだけど、わたしじゃない"

 

 "力をね、止めきれなかったの"

 

 "だから猫ちゃんなの"

 

 "わたしがしゃべっているようで、しゃべってないの"

 

 

 それなら……みぃちゃんではない方は、一体なんだ?

 

「七瀬は、何を忘れている……?」

 

 夜蛾がぽつりと呟いたその直後──空気が静かに張り詰めた。

 彼がハッとして目を開けたとき、みぃちゃんの金色の瞳が、ぎらりと光を放った。

 

 風もないのに、草が逆立つような感覚。空気の密度が、じわりと変わる。

 

 特級呪霊は、宙に浮かびながら、じっと夜蛾を見つめる。

 その視線は冷たく鋭い。まるで"何も聞くな"とでも告げているようだった。

 

 ──そう圧をかけなくてもいい。今は突き詰めない。

 あの少女の訴えを無視すれば、何が起こるかわからないのだ。

 そんな無謀なことはできなかった。

 

 だから、今、七瀬に聞けることはただひとつ。

 

「……お前は、みぃちゃんを信じられるか?」

 

 七瀬は撫でる手を止め、みぃちゃんをそっと見つめる。

 

「お前が孤立した理由は、みぃちゃんだろう。その原因を信じて、一緒に道を進めるか?」

「……それは、私も考えたことがあるんです」

 

 響く声は、先ほどまで泣いていたとは思えないほど落ち着いていた。

 

「どうして私だけこんな目にって。こんなのいなくなっちゃえばいいのにって……正直、何度も思った」

「……」

「でも、みぃちゃんと話してみたら、私が誤解してたってわかりました。みぃちゃんが私を驚かしてたのは、私に構ってほしかっただけ」

 

 夜蛾が少し驚いた。ただ怯えているだけだったのが、呪霊としっかりコミュニケーションをとれている。

 

「私がここにいるためには、この子の力が必要なんですよね?」

「……そうだ」

「じゃあ、信じます。それに……みぃちゃんは私を何度も助けてくれた。ずっと寄り添ってくれていたから」

 

 七瀬は、顔を綻ばせた。優しい目で見つめている。

 それを受け取る呪霊も、ゆったりと尻尾を揺らしていた。

 

『ななこちゃぁん、だいすきぃ〜』

 

 ぐりぐりと鼻先を押し付けられ、くすぐったそうに顔を伏せた七瀬に、もう涙は見えない。

 

「私も、みぃちゃんが好きだよ」

 

 そう、確かに言葉にした瞬間だった。

 七瀬の体から、ふわりと柔らかい呪力が舞う。それを吸い取り、嬉々とした呪霊。

 かつて黒だった瞳は、今や金色に輝き、揺るぎない光を放っていた。──あれはきっと、成長した証。

 

 夜蛾はいいようのない不安を胸に抱く。

 

 この歪な関係の先に何が待つのか──まだわからなかったから。

 涙のない結末を迎えられるなら、それに越したことはない。だが……その道を選ばせてやれるかどうか。夜蛾には思いも及ばなかった。

 

 

 

 ──そう、彼は知らない。

 すべてを握り、隠すのは金色の目をした呪霊だけ。

 





GWが秒で終わってしまいました……。
休みってなんでこんな過ぎるの早いん……。

この話は見切り発車からの、いつもストックゼロでお送りしています。
なんか辻褄合わねえなとか、なにこれ?なんて疑問とかあれば教えてくださると助かります。
お気に入り、感想、ありがとうございます!めっちゃ喜んでます!
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