そうして私は、呪_師になる   作:みつじ

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間章
やがて悔いとなる夜


 ある地方の、山間部の農村地帯にて。

 

 太陽は西に傾きはじめ、空の端からは薄墨色の帳が忍び寄るように広がっていた。

 そんな空の下で、ひとりの少女は急いでいた。友人と遊んでいたとき、気づけば決められた時間をとっくに過ぎてしまっていたから。

 

 そして、大きな屋敷の門の前で小石につまづき転んでしまう。

 

 土のついた膝を気にする暇もなく、少女は頬を赤らめながら立ち上がった。門限を破った罪悪感が、痛みよりも心を急かした。

 それを、ちょうど屋敷の門をくぐろうとしていた青年が見ていた。

 

 ぱちり──ふたりの視線が交わる。

 

 少女はうつむきながら、理由もなく「ごめんなさい」と謝った。

 青年は「大丈夫ですか?」と問うた。

 

 少女はこくんと頷き、恥じらいを隠すように俯いたまま駆け出した。

 青年の視線は、その小さな背中を──見えなくなるまで離さなかった。彼の胸の内に芽生えたのは、小さな……だが、確かな高鳴りだった。

 

 そうして、少女──(さき)は、見初められた。

 

 あの一瞬が、咲の運命を変えた。

 

 青年の名前は、藤野弥春(ふじの みはる)

 藤野家は、かつて呪術界において長い歴史と権力を持つ禪院・五条・加茂と並び称される名門だった。

 今やその名は表舞台から消え、深い()だけを残していた。

 

 その家門へ、嫁ぐこととなったのだ。

 

 

 

 弥春のひと声により、トントン拍子で咲の嫁入りが決まる。

 本人はただ戸惑い、狼狽えている間に、気がつけば白無垢の袖に手を通していた。

 

 それが、咲がちょうど齢16となった日のことだった。

 

 白無垢に身を包んだ咲の姿は、まるで雪の精のようだった。肌よりも白い衣が、頼りなく細い体をそっと包み込んでいた。

 白という色が、彼女の幼さを拭い去り、しとやかさを浮かび上がらせている。

 綿帽子の奥に見え隠れする瞳は、静けさを湛えていて、凛とした横顔に一瞬、息を呑むほど。

 

「あの……弥春さん」

「なんだい? 咲」

 

 赤い紅を引いたくちびるで、咲は恐る恐る言葉を紡ぐ。

 

「その……どうして、私だったんでしょう?」

 

 それに、弥春は少し困ったように眉を下げた。理由を問われても、これといった答えが見つけられない。

 ただ──、

 

「咲は一目惚れってあると思うかい?」

「……」

「僕は咲と出会って、そんなものが実在するんだって知ったよ」

 

 ふわりと微笑んだ青年は、そっと咲の頬に指先を這わす。

 

「……咲は本当に綺麗だ。僕が藤野家に生まれて──当主でよかったと思えたのは、お前がいたからだ」

 

 その指先は、熱を孕む前に離れた。艷やかなくちびるに口づけたい衝動を堪える。

 これが終われば触れられる──そんな気持ちを抱いた弥春は、今日の全てを終わらせるべく前を向く。

 

 咲は、ただ戸惑うばかりだった。胸の奥に芽生えたざらつく不安は、言葉にもならず、白無垢の内側でじっと息を潜めていた。

 感情がひとつずつ、心の奥に沈んでいくような……咲はそんな気がしていた。

 

 

 

 そして、神前式が執り行われた。

 

 ふわりと揺れる裾が、地面の上を滑るように進んでいく。

 

 白無垢に包まれたその姿は、まるで()()()()()()()()()()()()のようだった。

 綿帽子の奥に隠された目は、喜びよりも戸惑いを湛えている。それは、ふたりに向けられる参列者の瞳が、どこか均質で──冷えていたからだ。

 

 祝詞の響きが、妙に長く、重たく耳の奥に残った。太鼓の音が、腹の底を震わせるたびに、咲の胸もどこかざわついた。

 

 花嫁行列の中で、自分だけが異物になったようだった。

 

 彼女の瞳は、祝福の音よりも、遠く風の音に耳を澄ませていた。

 

 花嫁行列が目指すのは、その村の奥にある神殿。

 その前に並んで座った二人は、正面の神前に静かに向き合っていた。

 

 日の当たらぬ木造の拝殿は、長いあいだ誰の声も響いていなかったらしい。

 太い梁が交差する天井の下、神職の詠唱だけが重く響く。

 藤野家の神に誓う、ひとつきりの契り──。それは、神々しいよりも、どこか冷たいものだった。

 

 巫女の手により運ばれた朱塗りの盃が、弥春の前に差し出される。小さな盃を両手で受け取った彼は、口元に酒を運び、ゆるやかに傾けた。

 

 続いて、同じ盃が咲の前に。指先が触れるのを避けるように盃を受け取ると、彼女はそっと唇を湿らせるだけだった。

 酒の味よりも、胸の奥に広がるざわめきの方が強く残った。

 

 三度目の盃を受け取るとき、ふと、ふたりの視線が交わる。

 それでも言葉はなく、ただ静かに、契りの儀は続いていく。

 

 夫婦の契りとは名ばかりに、咲の心は、遠く違う場所にぽつんと置き去りにされたままだった。

 

 

 ──そして、ざわついたのは、()()()者だけだった。

 

 神殿の奥から、黒い気配がじわじわと滲み出した。まるで血のように床を染めながら、徐々に質量を帯び、やがて肉塊が形を持ち始める

 

 弥春は咄嗟に立ち上がった。背筋を正し、無言でその気配を睨む。

 

 やがて現れたのは、白い体毛を纏い、金色の瞳を燦々と輝かせた……猫に似た異形。

 尻尾は二又に裂け、その巨体は成人男性すら凌駕する。

 

「……土地神様、だと…」

 

 誰かの、しわがれた声が呟く。その場が緊張に包まれた。

 

 猫を模した異形──土地神は、咲の前にふわりと腰を下ろす。

 しなやかな尾を揺らし、金色の瞳がじっと彼女を見つめた。まるで、何かを見極めるかのように。

 

 黒い鼻先が、咲にすうと近づく。ひくひくと動き、においを嗅ぎ、何かを感じ取るように見えた。

 

 咲には、その姿が見えていない。けれど周囲のざわめきに、ただならぬものを感じていた。

 不安が、彼女の瞳に滲む。自分だけが見えないことへの恐怖が、咲を支配していた。

 

 そんな咲に、土地神はにんまりと口角を上げて言った。

 

『……良い(はら)だねぇ』

 

 その声は低く、喉の奥から湿った吐息とともに漏れ出た。聞こえた者すべての背筋に、じわりと冷たいものが這い上がる。

 

 するりと身体を擦り寄せる土地神に、咲は肩を震わせた。

 見えていないはずなのに……頬に何かが触れたような感覚があったのだ。

 

『これ、アタシにくれるのぉ?』

 

 喉を鳴らし、恍惚とした表情で咲を見つめる土地神。

 その異様さに、行列を成していた参列者たちは誰ひとり動けなかった。

 それも当然だった。猫の甘い声の奥に潜む殺気は、首筋をなぞるように彼らを縛り付けていたのだから。

 

 

 

「──恐れ入りますが」

 

 絞り出したように、掠れた声が猫を制止した。

 

「その女は藤野家当主である私──藤野弥春の妻にございます」

 

 猫の金色の瞳が、声の主へ向く。視線の先では、弥春は拳を握り締め、真っ直ぐに猫を見据えていた。

 

「本日は、夫婦の契りを神前にて交わすため、参りました。土地神様に拝謁を賜るのは栄誉ですが……咲は、我が家にとって"捧げ物"ではありません」

 

 静かに語る声には、微かに怒気と所有欲が滲んでいた。

 そこには、土地神を"畏れながらも屈しない"者の響きがあった。

 

『……なぁんだ、おもしろくない』

 

 土地神は声を弾ませるように鳴き、また咲の顔を覗き込んだ。

 

『でも……もしもお前に、子を授ける器がなかったら。そのときは、迷わず攫いにくるねぇ』

 

 無邪気に放たれた言葉に、弥春はピクリと表情を動かす。

 それに見向きもしない猫は、舌をべろんと出して嫌らしく笑い、黒煙のようにその場から消えていった。

 

「──咲」

 

 咲の肩が、小さく跳ねる。

 

「……帰ろうか」

 

 振り返った先で、弥春は微笑んでいた。

 その瞳の奥には、怒りと、それ以上に強い"所有の欲"がたぎっている。

 

「大丈夫だよ。咲は、誰にも渡さない」

 

 その口調には微笑があったが、そこに宿る執着は、静かな炎のように燃えていた。

 

「……はい」

 

 それをなんとなく感じ取りながらも、咲は縦に首を振ることしかできなかった。

 

 

 

 … … …

 

「弥春様……! やはりあの女は土地神に捧げるべきです…!」

 

 屋敷のある一室にて。初老の男が顔色を変えながらそう言った。

 

「……女ではない、咲だ。それに……彼女はもう僕の妻だ。今さら顔を見せた神に、くれてやる義理などない」

 

 冷たい目で周囲を見回した弥春は、誰にも気づかれぬよう息をつく。

 

 

 ──神前式のあとのこと。

 誰も言葉を発さないまま、行列は屋敷へと戻った。そして、土地神が現れたことで、藤野家の上層部が招集され、会議となったのだ。

 

 さっきまで、誰ひとり動けなかったくせに……戻ってきた途端、ギャンギャンとうるさい。

 そう、心の中で思った弥春は、この場をさっさと終わらせる方法を考えていた。

 

「──それに、"あれ"は本当に神なのか?」

 

 弥春のぽつんと放った言葉に、周囲は一瞬静まり返る。

 

「この中に、以前にもあの神殿で土地神の姿を見た者はおるか?」

「……」

「いないのだろう? あの場所に、神を祀ってきたことは周知の事実だが……少なくともここ云百年と、その姿を見た者はいない」

 

 ひとり、またひとりと隣の者と視線を交わす。

 

「神の居ぬ間に棲みついた、化け猫の可能性だってあるわけだ」

 

 すると、どこかから小さく「それもそうだ」と漏れ出た。

 

「それに、あれは言った。咲に対して、良い胎だと」

 

 弥春はいつか見た、咲がうっすらと頬を染めた姿を思い出す。

 

「藤野家の没落以降、一度も生まれ落ちていない相伝の術式……呪育呪籠(じゅいくじゅろう)の術が、今度こそ宿るかもしれない」

 

 あの表情を歪ませ、孕ませられるのがこの自分であるなら──それは、この上ない悦びだ。

 弥春は笑みを噛み殺し、そっとまぶたを下ろした。

 

 

 そして弥春は、一向に話が展開せず、無意味とも思える場から立ち上がった。

 

「あの猫が牙を向くのは、僕が子を成せなかった場合だろう。そんなありもしないこと、よく引き合いに出せたものだ」

 

 畳を踏み、色を宿さない瞳で前を向く。

 彼は当主のいう位置に就きながら、呪術師である自分にも、藤野家にも興味がなかった。

 

 色褪せた日々だった。

 

 没落した旧家。立て直せるわけもない家門の復興を夢見る重役。そこに据えられた、平凡な自分。

 術師としての等級も2級止まり。そんな自分の世界に色をつけたのは、咲だった。

 

 弥春は、なぜこれほどまで咲に執着するのか……自分でも考えないようにしていた。

 何も知らない無垢な少女が転ぶのを見たあの日から、自分の心の中にはずっと彼女がいる。

 

 そして──ようやく今日を迎えた。

 白無垢姿の咲──それは、誰のものでもなく、自分だけの色に染めたいと思わせるほどに美しかった。

 

 考える度に、気持ちばかりが急く。

 弥春は、自分を縛り付ける現実から目をそらした。

 

 

 

 静かに向かう先は、咲がいるであろう奥座敷。

 誰の目にも触れさせたくない。そんな思いから、屋敷の奥に押し込めた。

 

 日はまだ高く上がっている。肌を合わせるには早すぎる。

 だが、弥春は人払いをした。障子に手をかけ、静かに開ける。

 

「──咲」

 

 部屋はまだ、太陽の柔らかな光に包まれている。白無垢を脱ぎ、身軽になった咲がひとりで座していた。

 

「あ……弥春さん…」

 

 咲は、正装のまま凛とした姿の弥春を見上げた。

 その瞳には、かすかな不安と安堵が入り混じっているように見える。

 

「少しは休めたかい?」

 

 弥春はそう言いながら、咲の隣に腰を下ろした。

 

「はい……あのきれいな服を脱いだら、ちょっとホッとしました」

「そう? もう少し見ていたいくらい綺麗だったけど」

「えっ……!?」

 

 ボッと火がつくように顔を赤らめた咲に、弥春は少し驚いたが、次の瞬間には小さく吹き出した。

 

「咲は、純粋だね」

「……そうなんでしょうか」

「そうだよ。あの白無垢に負けないくらい」

 

 弥春の視線が、畳の上をかすめる。まだ敷かれていない布団。

 ……それもそうか。だが──今、それを命じれば、咲の笑顔は消えてしまうかもしれない。

 

「……でも、弥春さんもきれいですよね」

「……え?」

 

 まさかそんなことを言われると思っていなかった弥春は、ぽっかりと口を開けて咲を見た。

 それを悪いように受け取ったのか、咲は慌てて謝る。

 

「……いや、嬉しいよ。少し驚いただけ」

「いえ……当主様に不躾でした」

「……咲」

「はい……?」

 

 弥春は手を伸ばして、咲の手を握った。

 

「僕が当主だったから、この縁談を断れなかったんだろ? 咲に、僕への気持ちがないこともわかってる」

「……」

「でも、この縁談を受けてよかったって思わせたい。だから、そんなにかしこまらなくていい。僕達は夫婦になるけど……当主の妻としてでなく、僕の奥さんとして接してほしいな」

「……奥さんって」

「ん?」

「なんだか、かわいい」

 

 くすっと笑った咲は、弥春の手を握り返した。

 

 春のひだまりのような、柔らかな笑みを浮かべる咲に、弥春は同じものを返せるよう意識しながら、ごくりと喉を鳴らした。

 

 咲の頬に落ちかけた前髪を、弥春が指先でそっと払う。

 

「……咲」

 

 名を呼ぶ声が、さっきよりも低く、近い。

 

 その距離に、咲はふっと息を呑んだ。何かを察したように、けれど拒むでもなく、その場にとどまる。

 

「……今日は、朝も早かっただろう。疲れてないか?」

 

 問いかける声の奥に、彼の覚悟のようなものがにじんでいる気がして、咲は小さく瞬きをした。

 

「……少しだけ」

 

 その言葉に、弥春の指がそっと、彼女の手の甲に重なった。

 

 弥春は、咲に向き直った。彼女の、宙へ彷徨わせている視線が自分に向かないか、ただ焦がれながら。

 

「じゃあ……僕のために、もう少しだけ頑張ってくれる?」

 

 真剣な瞳だった。ちらりと彼の顔を盗み見た咲が、一瞬、息を詰めるほどの。

 

 神前式のあと、自分の身に何が起こるか……咲は、予想していなかったわけではない。

 だが、いざ情事を目の前にすると、緊張と羞恥心がかけ巡った。

 

 ──ドサ、と畳の上に押し倒されては、耳まで熱くなるほどに。

 

「……怖い?」

「……少し…」

「それだけ?」

「あとは……恥ずかしいし、その……痛くないのかなって…」

 

 咲の正直な言葉に、弥春は優しげに目を細めた。

 

「大丈夫。咲の嫌なことはしないよ。痛いときも、言ってくれたらすぐにやめる」

 

 穏やかな声でそう言って、咲のつるりとした額に口付ける。

 

 少し離れ、鼻先が触れ合うような距離で──目が合う。

 

「……きれいですね」

 

 咲は、ぽつりと呟くように言った。

 

「……え?」

「弥春さんの目って、とてもきれいだなって……わたし、いつも思うんです」

 

 珍しく、咲のほうから弥春に触れた。迷いのない指先は、つう、と彼のまぶたをなぞる。

 

 

 

 ──色のない景色を見てきた、この目が?

 

 ──咲に、どうしようもない執着を向ける、この目が?

 

 弥春は、込み上がる感情をぐっと飲み込んで、ゆっくりと笑ってみせる。そして、声が震えないように、祈りながら──。

 

「咲に、そう思ってもらえるなら……嬉しいよ」

 

 醜い感情を、奥底に仕舞い込んだ。

 

 

 

 咲は──知らない。

 

 なぜ、藤野家が没落したのか。

 

 藤野家が御三家に食らいつくほどの実力を持てた理由は、ただひとつ──宿る相伝の術式の強大さだった。

 呪育呪籠の術式。捕えた呪霊を自身の身体に宿し、育て、使役する。術師をも凌ぐような、特級レベルの呪霊を作り出し、戦場ではその名を轟かせた。

 

 だが、それも長くは続かなかった。

 

 ある双子の誕生により、名声はあっけなく散った。

 

 術式が、ふたりの娘に割れてしまった──ただ、それだけで。

 

 問題だったのは、呪籠ではなく──呪育の術式。

 寄ってくる呪霊を際限なく強化させた挙句、誰も祓うことができずに、藤野家は壊滅状態となった。

 

 御三家から嘲笑され、没落し、ひっそりと隠れて生活するようになった。

 家門の復活を、完全な相伝の術式を持った者が生まれることを……ただひたすらに渇望しながら。

 

 

 そして、咲と弥春が出会った。

 

 こんなところへ、引きずり込んでしまったのだ。

 

 

 

 ──弥春は、自身の手のひらにひんやりと伝う畳の感触に、少し悩んだ。

 咲を押し倒したはいいものの──服を脱がせば、咲の背中がこの畳に直に触れてしまう。

 

 大事にしてやりたい。でももう、そんなこと構いもせずに、乱暴にでも推し進めたい。

 そんな交錯する感情に憂いながら、自分に組み敷かれる女を見る。

 

 羞恥からか、その瞳は潤んでいる。それを見ていたら、どちらの感情も熟れて、こぼれ落ちそうになる。

 ガシャンと秤が落ちたのは、咲の初めてを大事にしてやりたいという気持ちのほう。

 

「……恥ずかしいなら、僕から脱ごうか?」

 

 そう言いながら、ぽいぽいと服を脱ぎ捨て、その上に改めて咲を寝かせてやる。

 

 弥春は、自分のことを考えるのはやめた。

 咲のことだけを考えよう。そうすればきっと、優しくできる。自分の中にある、醜い欲も執着も隠しとおせるはずだ。

 

「ねえ、咲」

 

 優しく名前を呼んで、彼女の手のひらを自身の左胸に押し当てる。

 

「……どう?」

「……どきどきしてます」

「でしょ? ……僕も、緊張してるよ。咲と一緒」

 

 すると、咲はようやく笑った。緊張の糸が緩んだように、ゆっくりと息を吐き出している。

 

 弥春は、それに呼応するように瞬いた。

 

 

 

 ──優しく、優しく。怖がらせてはいけない。

 

 髪に触れ、耳に口づけを落とす。

 

 布の擦れる音が、やけに大きく響いた。

 

 彼女の肩、胸と露わになっていくにつれ、押し殺すように吐息を逃がす。

 

 湿った肌に触れるたび、体の奥が確かな熱を孕む。

 

 自分のものだとわからせてやりたい──そんな想いを馳せ、白い肌に赤を散らした。

 

 

 そして、ぱちり──ふたりの視線が交わる。

 

「……やっと、ここまで来れた」

 

 門の前で、少女を見つけたあの日から──思い描いていた理想へ。

 

 

 

 そうして咲は、孕んでしまった。

 

 忌み子と呼ばれた、双子を。

 

 

 

 弥春の奥さんとして、双子の母親として、誰よりも近くにいたはずなのに──。

 咲は、ただ傍観しただけ。

 

 悲劇に向き合う資格すら、与えられないまま。

 

 そして、今もずっと──悔いている。

 

 

 

『──ななこちゃぁん』

 

 その声に、ハッと呼び起こされる。

 

 ぱちりとまぶたを持ち上げたら、思わず目の前を手のひらで覆ってしまいたくなるほどの快晴だった。

 

 七瀬ななこは、みぃちゃんの腹の上で目覚めたのだ。

 

「……えっ? あれ、私……」

 

 彼女は混乱していた。一番新しい記憶は、廃病院でみぃちゃんにしがみついて……よくわからないままおぞましい呪霊に呪力を吸われたところ。

 しかも体を起こせば、自分は猫の腹の上。

 首を捻り、現状を受け入れようと必死だった。

 

『ななこちゃんはねぇ、気を失ってたんだよぉ』

「……そうなんだ。じゃあ……もう、全部終わった、とか?」

『そうだねぇ』

「……そっか。えっと、よかったのかな?」

『うん、だいじょうぶ〜』

 

 なんとも要領の得ない返事を聞きながら、七瀬はぐるりと周りを見渡す。

 恐らく、呪術高専に戻ってきている。けれど……何がどうなったら、みぃちゃんと空に浮くことになるんだろう?

 

 ひとりで考え込んでも答えは出ない。

 

「……みぃちゃん、とりあえず、降ろしてくれる?」

『は〜い』

 

 ふよふよと漂いながら、少しずつ地面に近づいていく。

 七瀬は、そっと自分の肩に触れた。呪霊に怪我を負わされたはずなのに……そこには傷ひとつなく、痛みも感じない。

 

「……私の初任務って、うまくいったのかな?」

『え〜わかんなぁい』

「そうだよね……」

 

 トン、と地に足を着いたとき、七瀬の体にはずしりとした重力がかかった。

 それに無意識に息をついてしまいながら、七瀬は思い出したようにみぃちゃんに向き直る。

 

「ねぇ、みぃちゃん」

『ん〜?』

「私が気を失ってるとき、誰か私に謝ってくれてた?」

『そんなことなかったよぉ』

「そっか……じゃあ、夢だったのかな」

 

 ぼんやりと空を見上げながら、ゆっくりと瞬く。

 

「誰かが……私に、ごめんねって謝ってたような気がして」

 

 みぃちゃんは『ふぅん』と返事をしながら、にんまりと口角を持ち上げる。

 

 ──それは、お前の母親ではないか?

 

 そんな問いを言うことは、片方が制した。





投稿しはじめたときは、こんなサイドストーリーまで挟む予定じゃなかったので、なかなか終わりに向かえないことに自分がいちばんびっくりしています。

※ お気に入りや評価ありがとうございます!
少しでも楽しんでもらえてたら嬉しいです!!
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