私は、うまく理解できなかった。
灰原くんと出会って、気持ちが少し軽くなった。笑うことができた。
そんな、ファミレスからの帰り道、銀髪の男の人に「藤野ななこ」と呼ばれた。お母さんの名前まで知っている。
そして言われたのは、「藤野家の当主を継いでほしい」ということ。
その一言で、時が止まったようだった。
私は、理解しようとした。でもその度に脳がブレーキをかけてくる。言葉の意味が、頭のどこにも収まらない。
心臓の鼓動ばかりが、やけにうるさく響いていた。
胸の奥では、ざわざわと不安が渦を巻く。
わからない。何を、どう考えればいいのかも。
答えが出ないまま、空気が静けさだけを抱いて、落ちていく。
「……とうしゅって、なんですか?」
思わず問い返してしまったけれど、それは時間稼ぎにしかなっていなかった。
頭が追いつかない。何を言われているのか、わからない。
藤野という名字に心当たりはない。
なのに、その家を継げだなんて──私は、一体何を頼まれているの?
なんで……どうして、そんな話が突然、私に──。
「……驚かせてしまいましたね。ですが、どうか、少しだけ耳を傾けていただけませんか」
男の人はそう前置きすると、まっすぐに私を見つめた。
「呪術界には、長きにわたり血で術式を継ぐ家系がございます。中でも、代々術式を守り継いできた名家は、もはや家というより、ひとつの組織と申しても過言ではありません」
「その頂点に立つのが、
「当主は、家に伝わる術式や規律を守り、継がせ、必要とあらば判断を下す立場。呪術師としての強さだけでなく、家の名を背負う覚悟が求められます」
「もちろん、それは決して名誉や権力のためだけではありません。守るべき者たちがいるのです。呪術界という歪な世界のなかで、ほんの少しでも
その口調は柔らかいのに、事実のみを淡々と告げられるようだった。
「咲様──あなた様の御母堂が、幼きあなた様を連れて姿を消されたのは……あの忌まわしき日より、すでに十年……」
「そして今や、あなた様が生まれ持った
その言葉の意味だけは、すぐにわかってしまった。彼の言う"力"は、きっと私の術式のこと。
でも、どうしてそれを──。
「あなた様の
「その判断を下した弥春様は間違っていなかった……それのなんと素晴らしいことか……! あの家の
男の人は静かに微笑んだ。
儀式のように整えられた動き──まるで舞台の上の役者のように、ゆっくりと頭を垂れる。
けれど、次に顔を上げたとき、その目だけは笑っていなかった。むしろ、熱を帯びた異様な光を孕んでいて……私は、思わず息を呑んだ。
「
「だからこそ、お願い申し上げるのです。ななこ様は血の継ぎ手。どうか……この家を継いでいただきたい」
それは命令でも願いでもなく、あらかじめ定められていたような口ぶりだった。
男の人は深く頭を下げ、静かに黙り込む。
……なに? 十年前? お母さんが「消えた」って、どういうこと──?
何か、とても大切なことを聞かされている気がするのに、身体が拒否している。
やっぱり、言葉がうまく頭に入ってこない。
「取り込み中に申し訳ないけれど」
──声が落ちた。
どこかで聞いたことのある声。低く、柔らかい、それでいてこちらが
咄嗟に振り返ると、そこには──、
「……夏油さん」
いつの間にか、夏油さんが私の隣に立っていた。
瞳の奥には何かを測るような鋭さが宿り、彼はじっと男の人を見据えていた。
その視線に、男の人は肩をかすかに震わせる。
「高専の生徒に、無断で接触しないでもらえますか」
「……これは、藤野家の正式な──」
「関係ありません。ここは高専の管轄だ。君らの家の論理は、ここには通用しません」
静かだが、決して譲らぬ声音だった。
男の人はしばらく唇を噛みしめていたが、やがてすっと立ち上がる。
「……では、いずれ改めて。ななこ様、ご機嫌麗しゅう」
言葉を残して、男はひとつも足音を立てずに去っていった。
その背を見送りながら、私は──呼吸の仕方さえわからなくなっていた。
藤野。
それはきっと、お母さんの旧姓。
私が知らなかった、もうひとつの名前。
「──大丈夫?」
気がつけば、夏油さんが私の肩にそっと手を置いていた。
声はとても穏やかだった。でも、さっきまでの鋭さが、まだ声の奥に残っている気がした。
「さっきの男……知り合い?」
「……いえ、初めて会いました」
自分でも驚くくらい、小さな声だった。
声が震えている。
「困っているように見えたから間に入ったけど……余計だったかな」
私はわからないまま、ただ頷いた。
そして、ぐるりと辺りを見回す。
──いない。あの人はもう、どこにもいない。
ようやく、息が吐き出せた。
「ありがとうございます、助かりました……」
「ただならぬ空気感だったよ。男が君の前で跪いていたし、そんなことよくあることじゃないから」
「そうなんです……びっくりして……。何かよくわからないことばっかり言われて、もっとわからなくなっちゃって…」
「へえ、あいつはなんて?」
少し肩の力を抜くように、夏油さんが微笑む。
「あ、でも私が聞いてもいいのかな」
「はい、私もなに言われているのかよくわからなかったんですけど……」
私はゆっくりと視線を遠くに向けて、あの男に言われた言葉を思い出す。
「藤野家の、当主になってくれって……言われました」
「……藤野家の、当主、ね」
夏油さんは静かにその言葉を繰り返した。
そのとき、遠くから駆けてくる足音が聞こえた。
「ななこさーん! ごめんなさい! 戻りましたー!!」
それは、聞き慣れてきた無邪気な声だった。
笑って駆けてくる灰原くんの姿が目に入った瞬間、私はようやく、穏やかに息を吸い込むことができた。
夏油さんは、彼の姿を見て小さく目を細めた。
「……灰原と一緒だったんだ」
ぼそりとそう呟いた声は、風に紛れて遠くへ流れていった。
「あれ!? 夏油先輩! どうしたんですか!!」
「七瀬さんが学校を抜け出したから、追いかけて来たんだよ。すごいスピードで飛んでいったね」
「そうなんですよ!! みぃちゃんの力、すごいですね!」
興奮した様子の灰原くんを見ながら、私はハッとした。
そして、周囲を見回す。
「……みぃちゃん?」
どこにも──いない。
「げ、夏油さん……!」
「うん?」
「その……みぃちゃんがいなくなっちゃったんです…!」
自分でも驚くほど不安げな声が漏れた。胸の奥に残るざわめきだけがやけに鮮明なまま、私は立ち尽くす。
夏油さんは黙り、私の顔をじっと見つめてから、すぐに周囲を見回した。
その隣では、灰原くんが目を丸くしてあたふたしている。
「え!? 今さっきまでいたのに……!」
そして、同じようにきょろきょろと視線を動かしている。
私ももう一度、ぐるりと見回した。けれど、あの白くてふわふわした姿は、どこにもいなかった。
「どっか隠れたのかな……いや、でも、あんな目立つのに……」
灰原くんは、あたりの建物の隙間を覗き込んだり、植え込みの奥を覗いたりしていた。
「……すぐに戻るとは限らないけど、探せるだけ探してみよう」
夏油さんはそう言って、ゆっくりと歩き出した。
私と灰原くんもそれに続くように、三人で町を歩きながら、みぃちゃんの姿を探した。
昼下がりの街は人の気配が多い。でもみぃちゃんの濃い気配が消えてしまうとは思えなかった。
なのに、空を見上げても、どこからも感じ取れない。
屋根の上も、電柱の影も、公園のベンチの下も、全部見た。
小さな路地もぐるぐると回った。
「……いませんね」
灰原くんが息を切らして呟く。
「なんで……どこにもいない……」
焦りが胸の奥でじわじわと広がっていく。
さっきまで一緒にいたのに。あんなに元気に飛んでたのに。
足がだんだん重くなって、呼吸も浅くなっていく。
「大丈夫、落ち着いて」
隣で夏油さんが立ち止まり、私の肩にそっと手を置いた。
「きっと、何か理由があるだけだよ」
その言葉に、少しだけ呼吸が戻った気がした。
「……でも」
また、声が震える。
ぽつんと思い出したのは──ここへ来るきっかけになった言葉。
「私が気絶したら……みぃちゃんも弱くなるんですよね?」
夏油さんは少しだけ眉をひそめた。
「じゃあ、私から離れてたら、弱くなってしまいませんか? みぃちゃんは、無事に帰ってこれるの……?」
「……悟の言葉、やっぱり聞こえていたんだね」
静かな口調だった。
「そうだろうと思って、探しに来たんだ。灰原が一緒にいてくれて正直助かったよ」
「え! そうなんですか? じゃあよかったです!!」
「でも無断で抜け出したから、きっと怒られるよ」
「……うわ、やばい。ほんとごめんなさい、ななこさん!」
「あちゃー」と呟いた灰原くんは、パンッと顔の前で手のひらを合わせた。
「ううん……」
みぃちゃんがいなくなった不安、動揺……いろんな感情が渦巻いて、唇がひきつる。
「私、嬉しかったです」
だけど、灰原くんには笑顔を返したかった。
「人に慰めてもらって、一緒にご飯を食べて、抜け出して怒られるなんて……初めてだから。みぃちゃんがいなくなっちゃったのはちょっと不安だけど…」
人の温もりに触れられて、嬉しかったこと。それは本当だから。
「一旦帰ろうか。みぃちゃんの方から戻ってくるかもしれない」
夏油さんがそう言うと、灰原くんも頷いた。
「はい! あの子、すごく甘えん坊でしたし、きっと寂しくなって、ふらっと戻ってきますよ!!」
その楽天的な一言に、思わず小さく笑ってしまった。
自分の顔が少しだけ緩んだのがわかる。
「……はい」
私は、頷いた。
そして三人で混雑する道を、高専へと向かって歩き出した。
ふと見上げた空には、さっきとは違う、橙色の光が差し込んでいる。
少しだけ、世界が柔らかくなった気がした。
灰原くんが、夏油さんに笑顔で話しかけている。それに小さく笑って、返事をする夏油さん。
そして、思い出したように振り返る。
「あ、そうだ。悟の言ったこと、そんなに気にしなくていいよ。悟は言葉が直接的すぎるから」
私は、小さく頷いた。
「そのことも、誤解のないように話したほうがいいと思って。私が間に入るよ」
「五条先輩ってたまに高火力ですよね!」
「そうだね、本人は悪気がないからなんとも言えないんだけど」
ハァ、と息をついた夏油さんは、やれやれといった風に軽く頭を振った。
──いつだったっけ。
夏油さんと悟さんは、仲が悪いように見えた。でも、そうじゃなかったのかな。
そんなことを思っている間に、話題が逸れた。
背の高いふたりの後ろを、私はただついていく。
ざわざわとざわめく人混みの中。
ぐるりと周りを見回す。
何回繰り返しても、いない。
前を見れば、笑顔で会話する、私のクラスメイトと後輩。
声を掛ければ、きっと振り返ってくれる。
私を、その中に迎え入れてくれる。
ひとりで、歩みを止めた。
ふと、心の中に何かが浮かぶ。
「……普通の、世界だ」
呪霊に取り憑かれていない、世界。
私の──私だけの、世界。
もう二度と戻ってこないと思っていた日常が、ここにある。
(……なんで、いなくなったの)
みぃちゃんがいなくなってしまった不安は確かにある。
でも、僅かな胸の高鳴りに気づいてしまった。
だって……もし、あの子が戻ってこなかったら──。
私は──自由になれるのかもしれない。
自由。そんなもの、自分とは縁のないものだと思っていた。
そんな考えがよぎった自分を、すぐに否定する。
考えるのはやめた。
呪霊を育てる術式がある私は、あの子がいなければ──生きていけないというのに。
※ 誤字報告ありがとうございます!いつも助かっています!