「色々と言ったけど、少し考えてみてほしい」
夏油さんは家まで送ってくれ、私が玄関のノブを掴んだときにそう言った。
……一体何を?
そう思ったけど──ひどく、疲れていた。
昨日も今日も、たくさんのことを経験した。
夏油さんとの出会って、お化けの力を目の当たりにした。しかもそれが私の力のせいだの……もう、この運命から逃れられないだの……頭も心も、限界だった。
一度だけ頷いて見せ、家に入った。
「おかえりー、遅かったのね」
「ちょっと寄り道してて」
「そう、ご飯できてるよ」
母がいつもと変わらない様子で出迎えてくれた。
私の後ろに、こんなに大きく膨れ上がったお化けがいるのに。
「……あとで食べる」
「じゃあお風呂入っちゃいなさい」
お節介な母に促されるがまま、脱衣所に入る。
そこで母がぴたりと動きを止める。
「顔色悪いけど……学校で何かあった?」
「……ううん、今日は体育あって、疲れただけ」
「なあんだ」
母は笑って、リビングに戻った。
くるりと振り返って、ふと洗面台にある鏡が目に入る。
「……あれ?」
ふと、疑問に思った。お化けの体から、血のようなものが吹き出すのを目の前で見たのに……自分の体も制服もきれいだったから。
「……もう、よくわかんない」
呟いて、全部を脱ぎ捨てる。ガチャン、と音を立てて浴室に入った。
足元はひんやりするのに、ムッとした暑さを感じる。
相反するものに、
"りょおいき てんかいぃ〜……"
この世のものとは思えない呻きを思い出した。
シャワーを頭から浴び、しばらくお湯の感触に浸る。
鏡を見ても、何もいない……はずだった。
でも、視線を逸らして周りを見ると、
片方は、浴室が狭いせいか天井にミチミチになるくらいくっついていて、もう片方は羽虫のように飛んでいる。
体を洗い終え、浴槽に浸かる。自分が体を動かすたび、お湯がちゃぷんと音を立てた。
『ねぇ、ねぇ、お風呂って、怖くないの〜?』
気付けば、洗い場にお化けが座り込んでいた。
浴槽のフチに前足を掛けて、こちらの様子を伺っている。その姿はまるで猫のようだったけど、大きさは大型犬ほどもあった。
その周りをふよふよと漂うものがある。栗みたいな形の顔に、ぷよぷよとしてそうなこじんまりした体がくっついている。背中から小さい羽が生えていて、ぷるぷる震わせている。……あんなもので本当に飛べるのだろうか。
猫のお化けは、じっと水面を見つめている。私もつられて覗き込むと、そこに映るのは……やはり、自分だけ。
瞬きをしたら、ほんの一瞬、何かが揺らいだ気がした。
私が返事しないからだろうか。浴室はしん、と静かだった。
ちらりと猫のお化けを見る。まだ水面を見ているようだ。時折、ひくひくと鼻を動かしている。
……こんな冷静な気持ちでお化けを見れたのは初めてだった。
だからだろう。少しだけ、いつもと違っている。
「……ううん、怖くないよ」
ふと思い立って返事をしてみる。
すると、お化けはパァっと表情を明るくさせた。
『ななこちゃんが、お返事くれたぁ〜!』
大きく開けた口には、人の体を簡単に噛みちぎってしまいそうな歯が並んでいた。
「嬉しいの?」
『だってぇ、初めてだよぉ。やっとくれたねぇ、ずーっと待ってたんだからぁ』
グルグルグル……喉を鳴らして目を細めている。こうして見ていると、本物の猫のように見える。サイズはちょっと規格外だけど。
「そうだっけ」
『そうだよぉ』
のんびり返事をするのを聞き、それもそうか、と思った。
今の今まで、無視して遠ざけることばかりを考えていた。でもお化けは消えない。それどころか成長して話せるようになった。しかも、あんな妙な魔術を使う始末。
『今まで構ってほしくて仕方なかったけど、あんなことしなくてよかったんだねぇ』
「……」
"あんなこと"に思い当たる節があり、思わず黙った。
もしかして、今まで舌を出して怖がらせて来たのは、ただ遊んでほしかっただけ?
「……ごめんね」
無意識に、口からぽろりと言葉が溢れた。ハッとして口を手のひらで覆う。
お化けはまた、パァっと顔を綻ばせる。
『別にいいよぉ〜大丈夫だからねぇ、アタシが守ってあげるからねぇ』
お化けは──みぃちゃんはふふん、と得意げに鼻を鳴らしている。
そこで、みぃちゃんがいつもそう繰り返していることに気づく。
「……何から、守ってくれるつもりなの?」
みぃちゃんは、目を細めたまま、
『それは、思い出さなくて、いいよ』
いつもの間延びした声ではなく、冷たい声ではっきりとそう言った。
『……それとも、ななこちゃんは…思い出したい?』
みぃちゃんの真っ黒い瞳が、真っ直ぐにこちらを見ている。
「……ううん」
私は思わず目を逸らし、首を横に振った。
それを知ることが、自分にとって正解かわからなかったから。
… … …
朝起きて、学校へ行き、授業を受ける。
みんなが変わらない毎日を過ごすなかで、私にだけ変化が訪れていた。
まず、自分の周りを漂うのが、みいちゃんだけじゃなくなった。
お風呂場で見た可愛くない妖精みたいなものも、ふよふよ浮かんで着いてくる。何も話さない。まるで、私と出会ったころのみぃちゃんのよう。
そして──私は、視えるようになっていた。
みぃちゃん以外の、お化けが。
彼らは道行く人の肩に乗っていたり、建物の陰に潜んでいたりする。それを誰も気にしていない。視線を向けているのは自分だけだ。
姿かたち、大きさはそれぞれで、なんとなく気配の濃度に差があった。
それが何を示すのかわからなかったが、そんな中でみぃちゃんの気配がいちばん濃い。
"特級呪霊"
夏油さんや悟さんは、みぃちゃんのことをそう呼んでいた。
特級という文字を携帯で調べてみる。
"特別の等級"
"一級よりもさらに上の等級"
この言葉通りの意味だとすれば……つまり、みぃちゃんはお化け──呪霊のなかで、かなり上の方だということだ。
そこまで私が育てた?
今思えばまだ可愛げのあった、あんなぽてぽてとしたお化けから?
ただ、側にいただけで?
ざぁ、と風が吹く。髪をふわりとかきあげられたことで、意識が外へ向く。
私は学校の帰り道に、消しゴムとシャーペンの芯を買いに来ていた。
みぃちゃんはやっぱり側にいる。
猫のようだった姿は、今はカエルのよう。建物の壁に張り付いている。大きさは軽自動車ほどもあって、確かな存在感がある。
私が進むペースに合わせて、『ゲコッ』と鳴きながら、びょーんとジャンプをしている。
誰もそちらを見ない。
視えていない。
それがあまりに
だって私には視えているのに。まるで、私だけが別の世界に取り残されているみたいに。
どうして、私が。
幾度となく考えたことだった。
でも、夏油さんに言わせれば、これはもう私が産み落とされたときから始まっていたらしい。
これが私の世界で、人生で、これからも背負っていくものらしい。
──なんのために?
それは、初めて考えたことだった。
みぃちゃんが視えること、呪霊を育てること、それはどうして存在するのだろう?
私でないと意味がないのか?
この力を持って、私はどうしたらいいの?
"呪霊を祓って、非術師を守る"
夏油さんはそう言っていた。非術師……それはきっとただの人を指す。
呪霊が視えていない、一般人。
弱きものを守れってこと?
私も、強くないのに?
頭の中がごちゃごちゃした。
みぃちゃんのこと、自分のことについて、夏油さんは少しの情報をくれた。
それによって疑問が明確化したが、答えを出せるのは自分ではない。
「……」
この疑問を抱いて、私は何をするべきなのだろう……と足元を見つめた、
そんなとき──、
ガシャン!!
「きゃああぁ!」
空気を切り裂く、金切り声が響いた。
そちらを向くと、ある女性が地面にへたり込んでいる。その前には、ぐしゃりと大きな看板が落ちていた。
「急に看板落ちてきたくない!?」
その近くにいた学生が話しながら、そちらへスマートフォンを向けている。画面はカメラモードだった。
自分は、背筋に冷たいものが走り、ゾッとした。
──何か、いる。
そろりと目線を上げると、看板があったであろうところに、ゲタゲタ笑う、得体のしれないものがいた。
『あ〜、同類かもぉ』
みぃちゃんがふわっと浮いて、私の周りを漂う。
「……同類?」
『うん、アタシみたいなの、じゅれいって言うんでしょ〜?』
みぃちゃんが周りに視えていないことなんかまるで無視して、言葉を返す。
『だから、あれはじゅれいぃ〜』
みぃちゃんはぐいーんと伸びて、トカゲのようになった。
得体のしれないものは、ある程度の高さから飛び降りて、女性の肩に乗っかっている。
女性は顔を青ざめさせて、呪霊が乗った瞬間、ひぃ、と声を上げた。
「……」
そこで、ふと思う。
……呪霊って、なに?
私に憑いている呪霊──みぃちゃんは、すごくて強い力を持っている。でも私には使わない。私を守るといって、周りを漂っているだけ。
夏油さんや悟さんに対しては、攻撃されただけ反撃した程度のものだろう。
でももし、他の呪霊がそうじゃなかったら?
アイツはきっと、悪意とかそんなものを持ってあの女性に憑いている。それは、"今の自分"にも明らかだった。
そして、腑に落ちるものがあった。
どうして呪術師が必要で、非術師を守らなければならないのか。
呪霊が私たちに、何か危害を加えてくるから──?
「……みぃちゃん」
『なぁに〜?』
「どうして、みぃちゃんは私といるの?」
『ななこちゃんを守るためだよぉ』
「私のせいで成長しちゃって……どう思う?」
『う〜ん、ななこちゃんのせいじゃないよぉ』
気付けば、みぃちゃんは私の肩にぽんっと顔を置いていた。
爬虫類顔で、目をきゅっと細めている。
『ななこちゃんの
みぃちゃんの顔がぐにゃりと歪んだ気がした。
『……ねぇ、すごいでしょ?』
さっきと同じ言葉なのに、どこか違って聞こえた。
ケタケタ笑って、ふわっと宙に浮く。体を少し丸めて、風になびくのを楽しんでいるようだった。
だけど、私はじっとみぃちゃんを見てしまった。
"私の、おかげ"
それには、少し、救いがあるような気がしたから。
「みぃちゃん、お願いがあるの」
見上げれば、みぃちゃんは少しだけ顔をこちらに向けた。
「あの人を助けたい」
あの女性が、呪霊が視える人なのかはわからない。だけど怯えているその姿が、
終わりの見えない恐怖、不安……負の感情にがんじがらめになって出口が見えない。
きっと、助けてほしいはずだ。
「あの呪霊はたぶん、みぃちゃんみたいに守ってくれないよね?」
『くれないねぇ、アタシはななこちゃんが好きだからねぇ』
「……じゃあ、お願い。あの呪霊をどうにかしてほしい」
みぃちゃんはにたりと笑う。
『いいよぉ、ななこちゃんの頼みなら』
そこからは──地獄絵図だった。
みぃちゃんの体が、ズズズ、と不気味に伸びていく。ミシ、ミシ、と骨が軋む音が響き、皮膚の内側で何かがうごめいた。
次の瞬間、蛇のようにうねりながら、呪霊へと一直線に飛びかかる。
ガバッと口を開けて、呪霊を丸呑みにした。飲み込まれたはずの呪霊が、喉の奥で暴れている。
『もぉ〜じっとしてよぉ』
そのとき、みぃちゃんの喉が裂けた。そして、そこから腕のようなものが飛び出す。
『あれぇ、おかしいな〜』
みぃちゃんは特に気にした様子もなく、ぐにゃりと体を丸め、今度は犬のようなものに姿を変えた。
そして、呪霊をぺっと吐き出した。みぃちゃんだったものはそれに近づく。何かを引き裂く音がして、内臓が冷えるような寒気がした。
ぐあっと大きく口を開けて……その呪霊を、食べ──、
その頃にはもう、自分が頼んだくせに耐えられなかった。 "それ"の絶叫を聞いた瞬間、私は視線を逸らした。
口の奥に胃液の酸っぱい味が広がる。吐き気が込み上げ、喉の奥が焼けるように痛い。
指が震えて、膝が崩れた。人に見られているとわかっていながら、私は建物の陰で吐いた。
だって、最後に聞こえた"それ"の叫び。その声は人間のものではない。
だから、あれは、違う。自分に必死に言い聞かせる。
『ななこちゃぁん、だいじょうぶぅ? ごめんねぇ、つい食べちゃったぁ……』
吐き気が治まったころ、みぃちゃんが私の隣でしょんぼりしていた。
『今度はちゃぁんと残すねぇ』
姿が犬っぽいせいか、"きゅうん"と悲しげな鳴き声が聞こえてきそうだ。
「……ううん…残さなくていいよ」
自分が頼んだせいではあったし、もし次こんなことがあれば見ないようにしよう……と思った。
気味が悪いことには慣れてきたつもりだったが……私は、シリアルキラーやスプラッター系の映画は苦手だ。これからも得意になることはない。
ふらつきながら振り返る。もう女性のそばに呪霊はいない。顔色も少しだけマシになっているように見えた。
「……いいなぁ」
あの人は祓われて。
私の隣には、呪霊。
『ななこちゃんは優しいねぇ』
だけど、少しずつみぃちゃんの存在が当たり前になってきていた。隣にいても、怖くない。おかしくない。
──それが、何よりもおかしいのに。
みぃちゃんの存在が、自分の証明になるような……そんな気さえした。
「──やっぱり、君はこっち側なんだね」
背後から声がした。
バッと振り返れば、夏油さんが立っていた。
……こっち側? ……どういう意味?
わからないまま、私は否定しなかった。
「七瀬さんの術式は、呪霊操術に近いのかな?」
返事がないことを、特に気にも留めてなさそうな夏油さんは話し続ける。
「二級呪霊の討伐任務が出てね。着いた先で別の呪霊が出現したと連絡があった。そして、向かってみたら七瀬さんがいたんだ」
「……そう、ですか」
私の隣に並ぶ彼は、今の状況を丁寧に説明してくれた。
二級呪霊……呪霊にもいろいろあるってこと?
「考えてくれた?」
「……なんのことですか?」
「君は、呪術を学んだほうがいいって話だよ」
「……」
あれはそういう意味だったんだと理解したのと同時に、こんなに早く答えを出せるとは思わなかったと驚く。
「……きっと、勉強したほうがいいですよね」
「そうだね、自分の身を守るためにも」
「……それに、たぶんみぃちゃんのためにも」
「……」
夏油さんが、ほんの少しだけ目を細めた。
私はみぃちゃんを振り返った。いつの間にかふわふわ浮いていたのを見、思い出す。
"きちんと躾けないと、そのうち七瀬さんも取り込まれるんじゃない?"
それはみぃちゃんを指して言ったのか、私に取り憑く呪霊が新たに増えたことを指しているのか……わからなかったけど。
「……私、編入します。……えーと、なんて学校でしたっけ?」
「正式名称は長いよ。私たちは呪術高専って呼んでる」
「……呪術高専」
そして、そこで勉強する。
まずは呪霊のこと。それはきっとみぃちゃんに繋がるはずだから。
そして呪術師のこと。それは……まだわからないけど、私の世界を変えるきっかけになるかもしれないから。
「編入の件は一応、私のほうから先生には軽く伝えたよ」
「……編入って簡単にできるんですか?」
「さあ、事務的なところはわからないな。……でも、決めたんだろ?」
夏油さんは、どこか挑発的に笑った。その目には、"期待"と──、
まるで獲物を観察するような、冷静な光が宿っていた。
それは妙に張り詰めたものであり、思わず息が詰まった。喉がひゅ、と鳴る。
だから私は、ただ頷いて返事した。
そのとき、夏油さんが歩き出した。「送っていくよ」と言っている。その大きな背中を追った。
チリン──、
どこからか、かすかに鈴の音が聞こえた。
けれど、風は吹いていない。それなのに、"ここ"で鳴った。
まるで、誰かが意図的に鳴らしたよう。
ちらりと隣を見る。夏油さんは不思議そうに見下ろした。
……彼には聞こえてなさそうだった。
──チリン、
まるで記憶の奥底で、誰かが私を呼んでいるような──そんな感覚。
……みぃちゃんは、自分のことを思い出してほしそうにしている。
なのに、どうして
私が忘れているのは……ひとつだけじゃない?
なかなか思い出せないモヤを抱えているのは、気持ちが悪かった。
それは、みぃちゃんが思い出してほしい記憶かもしれないし、そうじゃないほうかもしれない。
それすらわからないほど、曖昧なもの。
鈴の音と、"みぃちゃん"という名前。そして死んでほしくないと懇願する、幼少期の自分の声。
……浴室で拒否したまま、押し込めてしまっていたほうがいいだろうか?
それとも、あのとき、勇気を持って聞いていれば──、
『ななこちゃぁん』
にんまり笑うみぃちゃんが、消えなかったかもしれない。