そうして私は、呪_師になる   作:みつじ

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第十九話:夜蛾正道の苦悩⑤

 そこは、吐息すら許されぬほど張りつめた静寂だった。

 

 四方の障子はすべて閉じ、広いはずの空間は不自然に狭い。現実味は薄れ、虚に浮かぶ仮初の舞台めいている。

 

 逃げ場のない沈黙が、ひとりの男をじっとを見下ろす。

 

 ここはまるで、罪を量るための場のようだ──そう、夜蛾は思った。

 

 

 ふと、障子のひとつに人影が揺れる。軋む音とともに戸がゆっくりと開き、顔中に深い皺を刻んだ老齢の男が現れた。

 

「──夜蛾。なぜ、お前がここに呼ばれたか。もうわかっているな?」

 

 しわがれた声が、部屋の静けさにじわりと滲む。

 

 夜蛾は、視線を伏せぬまま、淡々と答えた。

 

「……いえ。見当もつきませんが」

「──抜かせ」

 

 呆れを隠そうともしない深いため息が、夜蛾の耳を打つ。

 彼は()に呼び出され、白すぎる床の上にただ立っていた。

 

「七瀬ななこに取り憑く特級呪霊。"あれ"について、隠していることがあるだろう」

「そのようなつもりはありません。ただ、情報の確実性に欠ける部分があり、曖昧なまま報告すべきかどうか……判断に迷っております」

 

 老人の口元が、わずかに歪む。

 

「……お前は、口が回る男だな」

 

 開いた障子はひとつだけ。だが他の戸の向こうにも、人の気配が静かに滲む。

 個ではなく群体で動く目。ひとつの命に複数の視線がのしかかる異様さ。闇に潜むその眼差しは、確かにこちらを値踏みしていた。

 

「あの呪霊が、過呪怨霊である可能性があるな?」

「……七瀬には、誰かの死に関わった心当たりがありません。それは憶測の域を出ません」

「では、他にこちらに報告していないことは? 可能性であっても構わん。全てだ」

 

 夜蛾は、気づかれぬよう息をついた。

 

 このように何度も呼び出され、問い詰められるのは初めてだ。

 前例のない術式と状況。不安要素は多い。ゆえに、七瀬と特級呪霊の件は特別視されているのだろう。

 だが、本当にすべてを渡していいのか。夜蛾は迷っていた。

 

 

 情報源は定かではないが、特級──みぃちゃんが過呪怨霊の可能性を持つことは、既に共有されている。

 ならば、自分が出した「七瀬の術式は呪霊操術に近いかもしれない」という報告は、偽りだと見抜かれているかもしれない。

 

 さらに、七瀬の周辺を洗って見えた事実。

 母である七瀬咲の転出歴、そして本人が元は無戸籍だった可能性だ。

 本人の足取りは辿れなくとも、母の旧姓…"藤野"からなら別の道が拓ける。

 

 これを上に渡せば、彼らは真実に至るだろう。

 だが、それが自分の耳に戻ってくることはあるか?

 

 答えは、ノーだ。

 

 真実がわかったところで、あの子に救いの手は差し伸べられない。せいぜい火種として焚きつけられるだけ。

 ようやく見えかけた真実にはすぐに蓋がされ、その代わりに七瀬へ迫るのは──理不尽と破滅かもしれない。

 

 夜蛾は、それ以上考えるのをやめた。

 

「……いえ、現時点で私の口から報告することはありません」

 

 嘘はつかない。だが、真実も口にしない。

 言えば確実に咎められる。黙っていれば、今だけはあの子を守れるかもしれない。

 

 それが、教師として選べる唯一の手だった。

 

(俺はあの子を、呪術界に喰わせるために高専へ入れたわけではない。苦しみを背負わせるためでもない)

 

 盾にはなれまい。たかが時間稼ぎだ。

 自分が掴んだ情報など、遅かれ早かれ上も手に入れる。

 それでも、夜蛾は口を閉ざした。

 

 すぐに返答はなかった。

 代わりに、重苦しい空気が夜蛾を包む。

 

「……後悔するぞ」

 

 障子の向こう、誰とも知れぬ声が落ちる。空気がひと瞬きだけ凍りついた。

 夜蛾は何も言わず、一礼して背を向ける。

 

 その背後──障子の向こうで、ふわりと影が揺れたことに、彼は気づいていない。

 

 

 … … …

 

 緊迫した空間から抜け出した夜蛾は、肩の力を抜くように小さく息を吐く。

 校舎へ足を向けたとき、視線の先で夏油傑がぼんやりと空を見上げていた。

 

 彼は七瀬ななこと任務に出ていたはず。

 指定場所は近かった。戻っていてもおかしくない時間だが、ひとりだ。

 

 夜蛾はそっと声をかける。

 

「七瀬は?」

 

 夏油は空を指した。その先に、白く丸い塊が浮かぶ。

 夜蛾は一瞬だけ首を傾げた。

 

「あの毛玉の中です」

 

 その言葉で、ようやく"みぃちゃん"だと察した。

 

 その場で報告を受けながら、夜蛾は改めて彼らの異質さを思い知らされる。

 怯えひとつで、呪霊を一級相当へ押し上げる少女。領域展開どころか反転術式まで扱う特級呪霊──。

 

 一体どこまで不安要素を積み上げれば気が済むのか。

 そんな自問が胸の奥に渋く沈んだ夜蛾だが、表情には出さず、夏油の話に耳を傾ける。

 

 中でも引っかかったのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()という報告だ。

 ぽつんと思い浮かんだのは、あの猫の腹の中にいた少女。特級呪霊とは別の人格。

 ()()()()()()と言った存在。

 

 だからあの特級呪霊は、七瀬の呪力を吸い上げ、必要なときに使っているらしい。

 

 ──術式か、縛りか。

 猫の腹、すなわち生得領域で、少女は「封じきれなかった」と語った。内部に取り込み、制御する。ならば術式と見るのが妥当だ。

 

 では、あの少女は誰だ。

 

 顔が似ているだけでは足りない。答えが出ない。

 そう思っていたが、あのとき少女は言った。七瀬の過去を思い出させたくない、と。

 

 どうして、それを知っている?

 "彼女の側で、実際に見てきたから"──そう考えれば腑に落ちる。だから、その記憶が、思い出させたくないほどの痛みだと知っているのでは?

 

 ならば次に問題となるのは、七瀬が無戸籍だった理由。

 なぜ出生届が出せなかった? まず浮かぶのは、単なる家庭事情だ。母親の家庭環境が悪かったという可能性。

 ──これは、そんな万人が思いつくような理由で起こったものだろうか。いまいち、ピンとこない。

 

 思考に割って入るように、夏油がぽつりと言う。

 

「みぃちゃんに、七瀬さんの血縁関係かと聞いたとき、肯定するように瞬きをしていました」

 

 瞬きに、肯定の意志があったと断言はできない。だが否でもない──それで十分だ。

 夜蛾の予感に、輪郭を与えるには。

 

 ──七瀬に酷似した顔立ち。輪郭も、目元も、口元も、鏡写しのよう。

 母子よりも近く、双子めいていた。

 

 

 

 夜蛾は、つい思いついてしまったことを後悔した。

 恐ろしく静かな確信が、体温を奪っていく。

 

 七瀬咲の、戸籍上の子どもは一人だけ。

 

 だが、本当にそうだったのか?

 

 もし、無戸籍のまま誰にも知られなかった子どもが、もう一人いたとしたら。

 今そこに浮かぶ異形の呪霊が、"それ"なのだとしたら。

 

 そう考えた途端、背筋にぞわりと冷たいものが走った。

 

 あの子は時の流れを忘れたように、幼い姿のまま腹の中にいる。

 

 今も、七瀬ななこのために戦っている。

 

 

 

 夜蛾は、見上げるのをやめた。静かに口を閉ざし、足元へと視線を落とす。

 まるで、そこにしか今の現実を置く場所がないかのように。

 

 

 

「……先生?」

 

 夏油の声に、ハッと我に返った夜蛾は、努めて平静を装い、ゆっくり顔を上げた。

 悟られたくなかったのだ。

 

「少し考えていただけだ。傑はこの後どうするんだ?」

「高専に戻ります。報告書をあげなくていいなら、このまま食堂へ行くんですが」

「……俺は否定してやればいいのか?」

「いえいえ、わかっていますよ」

 

 いたずらっぽい笑みに、夜蛾は別種のため息を漏らす。

 命を張った直後にこの調子──よくできた若者だ。

 

「傑と悟の未来が心配だな」

「悟はわかりますけど、私もですか?」

「当たり前だろう」

 

 生徒に助けられるとは……自分もまだまだだな。

 そう感じながら、夜蛾は今度こそ、校舎へと足を向けた。

 

 きゅっと唇を引き結び、その足取りに迷いを見せないように。

 

 

 

 ──それなら、あの少女はなぜ、ああなった?

 余計にわからなくなっていく。

 

 腹の中の少女が、術式を使えるのは確かだ。ただの人間ではない。

 

 すなわち──呪術師。

 

 術師は、ときに死後、呪いへ転ずる。

 それは、呪力以外で殺されたとき。強い怨み、悔い、納得できない死。"どうして自分が死ななければならなかったのか"──その後悔と共に呪いになる。

 

 あの子は、強い恨みを抱いたまま、呪力以外に殺されたのか。

 七瀬を呪い、呪われ、過呪怨霊に堕ちたのか。

 

 あるいは、猫を取り込んだつもりで、逆に呑まれたのか。

 

 どうすれば一つの器に、ふたつの人格──魂が並び立つ?

 

 しかも、あの少女が常に優位というわけでもない。

 

 猫はなぜ、七瀬を守る?

 彼女の術式から得られる旨味だけで、あれほどの忠誠が成立するのか。

 

 何を、企んでいる?

 

 

 答えはいつも、出ない。問いかける相手もいない。

 だが、そう遠くないところにある気がした。

 

 口元をわずかに歪めた夜蛾は、ひっそりと呟く。

 

「……だから俺は、報告することはないと言ったんだ」

 

 踊らされていればいい。机上の空想に。

 

 

 … … …

 

 

「──あれ、先生と傑じゃん」

 

 夏油と夜蛾が、校舎の廊下を歩いていたときだった。

 背後から間延びした声が伸びてきて、白髪にサングラスの青年が、ひょいと顔を出した。

 

「……悟」

「なんでふたりで歩いてんの? 傑は任務帰りだよな?」

「そうだよ。ここへ戻ってくる途中に先生と会ったんだ」

 

 「へえ」と五条は相槌を打ち、気怠げに小さく首を傾げた。靴底が床と擦れ、キュッと鳴る。

 

「なんでそんな沈んでるわけ?」

「別に、ただ会話が途切れただけだよ」

「お前と違って、ずっと話し続けていないからな」

「ふたりして何だよそれ。俺、そんな喋りっぱなしじゃねーし」

 

 不機嫌そうに眉を潜めた五条は、夏油の隣に並び込む。

 

「悟も任務じゃなかった?」

「まあね~。こっちは楽勝。ていうか、大変なのは傑のほうじゃない?」

 

 その問いかけに、夏油がわずかに眉を動かした。

 

「まあ……予想していたより、少し骨が折れたかな」

 

 軽口と低い声の温度差が、磨かれた床に反響する。

 そのやりとりを聞きながら、夜蛾はほんの一瞬だけ目を細めた。何かを量るように。

 肩の力を一度だけ抜き、呼吸を整える。

 

「……傑に悟も、報告書、忘れるなよ」

「わかっていますよ」

「へーい」

 

 そう言い残し、夜蛾は背を向けた。

 

 

 廊下をひとり歩きながら、夜蛾は思案する。

 七瀬はまだ気を失っているだろうか──それとも、もう目覚めているのか。

 一度様子を見に行くべきかもしれない。

 

 そして、彼女の存在に呼応するように、あの名前が頭の奥に浮かぶ。

 "藤野"。その名に、何度も呼び戻される。

 

 探るなら、どこからか。

 その思考の先に、ひとつの顔が浮かんだ。

 

 

「……五条家」

 

 それは、自身の教え子だった。

 

「……あそこなら、何か記録が残ってないだろうか」

 

 御三家のひとつで、その歴史は古い。

 特異な術式や血筋の記録など、膨大な資料を保管しているだろう。

 

 七瀬の持つ術式は、あまりにも珍しい。

 もし過去に同じ術式を持つ者がいて、その誰かが五条家に関わったことがあったなら──高い確率で何か記録されているのではないか?

 

 軽々しく踏み込むべき場所ではない。だが、今は悠長に構えていられなかった。

 可能性があるなら、賭ける価値はある。

 

 夜蛾は、くるりと踵を返した。

 生意気な奴らはまだこの校舎内にいるだろう。

 

 来た道を戻り、ある角を曲がって陽の差す廊下へ出ると、足音が二つ、軽口がひとつ。

 微かなワックスの匂いと、埃の粒が光に泳ぐ先に、長身のふたりの背が見えた。

 

「──つーか、それって連れて行くだけ損じゃね?」

「まあ、祓えない範囲まで成長させられたらね」

 

 近付くにつれ、会話が鮮明になる。

 その言葉の端々に、夜蛾は確信を覚えた。七瀬の話だ。

 

「憑いてるもんが強くたって、アイツ自身は並以下だし」

 

 夜蛾は、歩みを緩めずふたりに近づく。

 咎めるつもりで口を開きかけた、その瞬間──廊下の空気が変わった。

 

 背後から、重たい水の膜を通すような圧。

 湿り気を帯びた気配が、ゆらりと肌を撫でる。

 これは……。

 

「……悟」

 

 制止の声は、夏油のものだった。だが、五条は気にも留めず口角を上げる。

 

「しかも本体が気絶したら、お憑きの呪霊も弱るとか……マジで実践には不向き」

 

 夜蛾は視線だけを後ろに流す。

 角の向こう、こちらからは見えない位置。

 床に落ちる光がわずかに揺れ、不自然な気配を孕んでいた。

 

「正直さ──ただのお荷物になっちまうだろ」

「悟、それ以上はやめたほうがいい」

 

 時間がきしむ。耳鳴りのような高音が一瞬だけ走り、重圧がふっと抜けた。廊下は元の静寂に落ちる。

 

「……悟」

「わかってるよ。あの小さいのだろ?」

「七瀬さんだよ。今の会話、聞かれたと思う」

「別にいいだろ。俺、嘘は言ってねえし?」

 

 夜蛾は静かに息を吐くと、トン、と軽やかに跳躍した。

 角の向こう、小柄な背中が揺れて遠ざかる。

 

「……七瀬」

 

 呼びかけたが、聞こえる距離でもなかった。

 

 いつの間に目覚めたのか。

 追うべきか──そう考えていたところに、背後から声がかかった。

 

「先生」

 

 振り返れば、夏油がこちらを向いていた。

 その横で五条は面白がるように片眉を上げている。

 

「今の、七瀬さんでしたか?」

「ああ……ったく、悟。言っていいことと悪いことがあるだろう」

「事実を言って、何が悪いんだよ」

 

 肩をすくめて見せた五条に、夜蛾は眉をひくつかせた。

 だが、夜蛾は苛立ちを飲み込み、ひと呼吸を置く。

 怒る前に、まず誰かが寄り添うべきだ──そう結論づける。

 

「傑」

 

 夜蛾はひと呼吸置いて、言葉を選ぶ。

 

「七瀬を追いかけてやれ」

 

 その途端、夏油がわずかに口角を下げた。

 

「悟だと追い打ちだ。だが、あの子をひとりにしておくのも不安が残る。あの術式は、感情に左右されすぎる」

「私でも追い打ちになるかもしれませんよ」

「悟よりマシだ」

「先生そりゃねーよ」

 

 夏油はため息をつき、踵を返して歩いていく。

 本当に追いかける気があるのか。そう咎めようかと夜蛾は思ったが、やめた。やる気を削ぐような横槍になる気がしたからだ。

 

 足音が遠ざかり、廊下には五条の声だけが残った。

 

「傑も優しいよなぁ。ちゃんと追いかけてやってさ」

 

 夜蛾はわずかに眉を寄せたが、反論しなかった。

 五条は顎を掻きながら、気の抜けた調子で続ける。

 

「まあ、あの術式は面白いけどな」

「……その眼に、あれはどう映ってる?」

「魂に干渉し、増幅。その結果、治癒や能力の増強が得られる」

「やはり、お前に見てもらうのが一番か」

「なに? 先生、もしかして悩んでた?」

 

 呑気な声を上げる五条は、夏油が消えた先を追っていなかった。

 サングラスの向こうで欠伸を噛み、まるで、七瀬のことなどもう興味を無くしたかのように。

 

「いや……悟。お前に頼みたいことがある」

「なんですか? 面倒くさいのは嫌ですよ」

 

 わざとらしい敬語が、薄く棘を含む。

 

「"藤野"という家系について、五条家の記録に何か残っていないか調べてほしい」

「……ふじの?」

 

 サングラスの陰から、青い瞳が夜蛾をなぞる。

 

「あの子の術式の手がかりになるかもしれない」

「七瀬じゃなくて?」

「藤野は母親の旧姓だ。少なくとも、彼女の出自を辿る唯一の糸口だ」

 

 五条の瞳がわずかに細まる。

 

「何か根拠は?」

「母親は東京へ引っ越してきてから再婚している。七瀬自身は、前の夫との子どもだった」

「ふーん……。まあ、珍しい術式ではある。昔のどこかで交わってたんなら、うちの古文書を漁れば何かは出るかもな」

「それを期待している」

 

 夜蛾が頷くと、五条はふわ、とあくびをひとつ。興味がないことを、もう隠す気はなさそうだった。

 

「で、先生はそれ、調べてどうすんの?」

「……どう、とは?」

「出自も、術式のルーツもわかったとして、今を生きるのはアイツ本人だ。なのに、非術師に戻してやる、みたいな意気込みだけど」

 

 夜蛾は言葉を飲み込んだ。喉の奥がわずかに軋む。

 

「あの子と関わって、そうしてやれない現実は嫌というほど見てきた」

「じゃあ結局、自分でどうにかするしかない。上がどうこう言う前にな」

 

 五条は顎を掻き、視線だけで廊下の角を示す。

 

「俺はよく知らねーけど。今のままじゃ、上の極秘処分か、自分が強化した呪霊に呑まれるか──どっちかだろうな」

「……よくわかってるじゃないか」

 

 夜蛾は低く続ける。

 

「それもある。だが、俺は……あの猫に、どうこうされる気がしてならないんだ」

「猫?」

 

 夜蛾は腕を組んだ。視線を落とし、言葉を探す。自分の中の違和感を、言い表せることができるものを。

 

「俺はあの腹の中で、七瀬そっくりの少女を見た。彼女は言った──"猫を信じるな"とな」

 

 五条はわずかに目を見開き、すぐに肩をすくめた。

 

「なんだよそのオカルト」

「呪術師やっておいて今さらだろう」

 

 その言葉に、ふっと笑った五条はひらひらと手を振りながらその場を立ち去ろうとする。

 

「一応、探してみますよ。一応ね」

 

 その背中を、夜蛾は見送った。

 

 

 

 ──何度も、何度も考えてしまう自分に、考える回数を減らせ、と言い聞かせる。

 

 どんな答えが出ようとも、確信はあるのに自信がない──その矛盾が胸に居座る。

 それでも足は止まらない。

 

 本当にこれでいいのか、と自問自答を繰り返してしまう。

 

 そんな夜蛾の頭の中で、五条の言葉が反芻する。

 

 "今を生きるのはアイツ本人だ"

 

 それは、わかっている。

 

 わかったうえで……あの子が、不条理に踊らされている気がしてならない。

 

 

 

「──夜蛾先生」

 

 ハッとして顔を上げる。職員室の扉がコトリと揺れ、声のした方を振り返ると、補助監督のひとりがこちらを覗き込んでいる。

 

「夜蛾先生に用があるって生徒が来てますよ」

 

 視線は自然と扉の方を向いた。

 そこに立っていたのは、七瀬と灰原だった。ふたりの表情はどこか硬い。

 

(戻って、来たのか)

 

 夏油が迎えに行ったはずなのに、なぜ灰原と?

 そんな疑問は、胸中の安堵にかき消された。

 

 扉の向こう、夕陽に縁どられた二つの影。

 七瀬は視線をさまよわせ、灰原は背筋を伸ばしたまま言葉を探しているように見えた。

 

 夜蛾は立ち上がり、生徒ふたりに近づく。椅子の脚が床を擦って小さく鳴った。

 

「……入れ」

 

 夜蛾は手近の応接室の扉を開け、換気のため窓を少しだけ滑らせた。風がブラインドを一度だけ鳴らす。

 来客用のインスタントコーヒーの粉を紙コップに入れ、湯沸かし器のスイッチを押す。カチ、と点いた音が、沈黙の角を丸めた。

 湯を落とし、七瀬と灰原の前にそっと滑らせる。

 

「座れ。叱るのは後だ。まず、ふたつだけ確認する」

 

 七瀬の肩が、制服ごとわかりやすく震えた。

 

「ひとつ。怪我はないか」

「大丈夫です!」

 

 元気よく返事をしたのは灰原の方だった。七瀬は小さく頷いている。

 

「ふたつ。七瀬、今は話せる状態か」

「……はい」

 

 小さく、かき消されそうな声だった。

 その様子を見て、夜蛾は椅子の背にもたれなかった。距離を詰めすぎず、離れすぎず、指導の間合いを取る。

 

「よし。経緯はあとで順に聞く。何があったか、話せる範囲でいい。……だがその前に、この瞬間の話だ」

 

 視線が七瀬に落ちる。

 

「勝手な外出、連絡なしの移動。高専のルールをいくつ破ったか、わかっているのか」

 

 怒鳴らない。低く、逃げ場を与えない調子で。声量より確度だ。

 

「いえ! ななこさんは悪くないです!! 僕がお昼ご飯食べに行きましょうって提案したんで!」

「……そっちが元凶か」

「すみません!」

 

 七瀬は、そろりと探るように瞳を動かし、灰原を見た。

 きゅっと唇を噛み、目を伏せる。紙コップの湯気が細く揺れた。

 

「……違うんです」

 

 ぽつりと呟くように言った彼女は、叱られている子どものように指先をいじる。

 

「私……その、聞いてしまって」

 

 夜蛾は思わず唸りそうになったのを堪える。

 やはり、あの廊下でのやり取りを聞いていたのか。

 

「誰の、どんな話を?」

「……たぶん、悟さんと夏油さんだと思うんですけど。私の話をしていて、聞こえて……お荷物って。ちょっとショックだったんです」

 

 七瀬は、夜蛾が考えていたより素直に話した。

 彼女は大人しそうに見えた。だから何も言わず、黙り込んでしまうかもしれないと夜蛾は予想していたのだ。

 

「それで、私、泣いちゃって。灰原くんはなぐさめてくれて、気分転換にお昼ご飯を一緒に食べようって言ってくれたんです。そしたら……みぃちゃんが、急に私たちを掴んで。気づいたら空で──びゅーんって飛んじゃって……」

「いやいや、ななこさんだけのせいじゃないよ! 僕、あのときめちゃくちゃ楽しんじゃったし!」

「ううん、私がみぃちゃんを止められなかったから……!」

 

 かばい合う声が交差し、部屋の空気が一瞬たわんだ。

 

 だが、夜蛾はぴたりと動きを止めた。

 ──そういえば、姿が見えないのだ。

 

「……七瀬、そのみぃちゃんの姿が見えないが」

 

 すると七瀬は、あっと小さく声を上げた。

 焦りを思い出したように、こちらを勢いよく見たのだ。

 

「そうなんです……! みぃちゃん、急にいなくなっちゃって……」

「いなくなった?」

「はい……夏油さんに助けてもらったあと、3人で探したんですけど見つからなかったんです……」

 

 夜蛾は、次々と出てくる不可解な言葉に首を傾げた。

 

「ちょっと待て。夏油に助けてもらったとは?」

「あ……えっと、道で…着物を着た、変な男の人に"藤野家の当主になってほしい"って話しかけられたんです」

「……藤野?」

 

 それは、夜蛾につきまとう名だった。

 胸のざわめきを飲み下し、彼は努めて冷静に問いかける。

 

「急にひざまずくし、話し始めたから、怖くて……」

「それで、夏油に助けてもらったということか?」

「はい。追い払ってもらいました」

「……七瀬は、その藤野という名前に心当たりは?」

「いえ、全然ないです。……そういえばその人、お母さんのこと知ってました」

 

 視線を上ずらせ、七瀬はその時の状況を思い出している様子だった。

 

「え、ななこさん、そんな目に遭ってたの?」

「うん。灰原くんが携帯を取りに行ってたタイミングでね。でも、みぃちゃんのことで頭がいっぱいになったから……あの人のことはすぐに忘れちゃってたんです」

 

 灰原が驚いたように目を見開いている。

 

 夜蛾は、急かしたい気持ちを堪えた。

 

「藤野は、たぶんお母さんの旧姓だと思うんです。私も初めて聞いたから、自信ないけど……」

「……そうだったんだな」

「あと、十年前にお母さんが消えたとか……私が、過去の()()()? とは違うとか……なんか難しくて、よくわからなかったことも多くて」

 

 夜蛾は七瀬の言葉を待ちながら、状況を整理した。

 

 彼女の言う"いみご"とは──恐らく《忌み子》のことだろう。

 ということは、七瀬の誕生が、()()にとって都合が悪かったと考えていい。

 

 不吉な子。だから出生届は出さなかった。

 そして、思い出せたくないほどの過去を乗り越え──母親とともに田舎を離れた。

 

「その男は、他に何か言っていたか?」

「バーッといろいろ言われたんですけど……急だったし、あんまり覚えていないです」

「……そうか」

 

 術式を持つ七瀬を当主に据える意図で、藤野家の関係者が接触してきた……。

 

 とすると、藤野家はまだ"生きている"。

 

 だが、腑に落ちない。

 七瀬は世間には知らせられない子だった。それに呪術師としてもまだまだ未熟だ。そんな彼女をわざわざ探し出して、当主へ推薦する……。

 掌返しにも程がある。それとも──別の狙いか。

 

「でも、変だったんですよね」

 

 呟いたその声は、本当に不思議がっているものだった。

 

「私のこと、藤野ななこって呼んだんです」

「……」

「私の名字は七瀬なのに」

 

 この口調からして、恐らく七瀬は母親の再婚を知らない。

 戸籍を作った瞬間から、"七瀬ななこ"として生きてきたのだ。

 

 夜蛾は返事に困り、黙り込む。

 

「……それに私のこと、血の継ぎ手って…どういう意味なんですかね」

「……!」

 

 続いた言葉に、夜蛾はまた、思いついてしまった。

 

 

 

 この子は、本家筋の生まれなのでは?

 そして──受け継いだ術式が、相伝の術式だったとしたら?

 

 それなら今の不安定な状態でも、辻褄が合う。

 

 接触してきたその男が、どこまで情報を得ているのかわからないが…… 取り憑く特級呪霊ごと当主へ据える算段だ。

 これが現状で、一番しっくりくる。

 

「……七瀬」

 

 夜蛾は言葉を探した。

 

 だが、やはり見つからない。

 

「すまないが、それだけでは俺も正確なことはわからない。だが、気にかけておいたほうがいいだろう。特に、高専外に出るときは」

 

 夜蛾は、ようやく背もたれへ背をつけた。

 

「あと、その男の外見・口調・名乗り。傑が介入した時刻と場所。みぃちゃんを最後に見た時刻と場所……思い出せる範囲でいい。全部教えてくれ」

「はい」

「あと、傑本人にも確認したいんだが……アイツは?」

「夏油さんは……」

 

 七瀬はちらりと灰原を見た。助けを求めるように。

 

「夏油先輩は、僕たちと高専に戻ってきたあと、報告書を仕上げないとって言って、どこか行きました」

「……面倒の芯だけ、器用に避けたな」

 

 ふぅ、と息をついた夜蛾は、また頭を悩ませる。

 

 みぃちゃんがいなくなり、喜べばいいのか悔やめばいいのか、わからなかったからだ。

 本来、呪霊に取り憑かれないほうがいい。だが七瀬の術式は特殊だ。"あれ"がいなければ、彼女を高専外へ出すハードルは跳ね上がる。

 どれだけ低級の呪霊でも、遭えば際限なく増幅させてしまう。その速度が読めない。少なくとも1級術師以上でないと、七瀬に付き添えない。

 

 あれほどの忠誠を誓ったうえで、なぜ──。

 

「……過呪怨霊か」

 

 夜蛾は、再確認するように呟いた。

 過呪怨霊なら"対象への危害"で顕現する。ならば──と、思考が冷えていく。

 

 今日は、よく頭が回った。ここ最近、考えさせられてばかりだからかもしれない。

 

 夜蛾は真っ直ぐに前を見た。対面には七瀬が座っている。

 見据えると、彼女はわずかに肩を震わせた。

 

 カタン、と立ち上がると、呼応するように七瀬は見上げた。

 

「七瀬──すまない」

 

 教員の面が落ち、術師の目になる。室温がひと息で下がった気がした。

 そして、隙だらけの首元へ、呪力を薄く滲ませた手のひらをそっと沿わせた。頸の皮膚に触れるか触れないかの圧。

 指の腹で頸動脈の鼓動を一拍、数える。

 

 細い首だ。軽く圧をかければ折れる、と想像できるほど脆い。

 

 七瀬の喉元にひやりとした感触が走った。折る角度と力加減を、手の中で先に決めているような冷たさ。

 彼女の喉元から、ヒ、と掠れた息が上がる。

 

 隣に座る灰原は、椅子から半歩、身を乗り出したが制止できなかった。夜蛾の一瞥に釘を打たれ、喉がひとつ鳴る。

 

 

 

 ──何も、現れない。

 

 術式の反応も、気配の(はし)りもない。

 華奢な首から手を離した夜蛾は、深く溜め息をついた。

 

「……みぃちゃんは、過呪怨霊ではない…?」

 

 彼が思い出したのは、過呪怨霊の定義だった。

 それは、"特定の個人に執着し、その個人への危害などを条件に顕現する存在"を指す。

 

「……そうだ、常に顕現しているわけがない」

 

 常在の護衛など、理屈に合わない。

 なぜ、気が付かなかったのだろう。

 

 今、わかることはふたつ。

 

 過呪怨霊の線は、限りなく薄いということ。

 七瀬の側から、少なくとも今だけは本当にいなくなっているということ。

 

「……七瀬。急に悪かった」

 

 夜蛾は、瞳を潤わせた七瀬に謝罪した。

 七瀬は静かに首を振ったが、まだ彼の威圧感に呑まれている。

 

「みぃちゃんが本当にここにいないのか、確かめる必要があった。そして、あれの存在も……」

 

 褒められた手段ではないが。

 

「……一旦、休むといい。また明日にでも、今日の詳細を報告してくれるか」

 

 夜蛾は、灰原に支えられた少女を、あえて見るのをやめた。

 理由があったとはいえ、首に手をかけられたことに、怯えているように見えたからだ。

 

 とにかく、状況はなんとなく飲み込めた。

 今いちばん突き止めるべきは──今や表舞台から消えた藤野家の素性だ。

 

 

 

 

 

「みつけた……! やっとみつけたのだ……!」

 

 目を血走らせ、歓喜するひとりの男。

 淡いグレーの着物を着た彼は、人気のない路地で呟くように言う。

 

「皆に報せねば。あの術式を持つ人間さえいれば、我が家門の復興は近いと……!」

 

 銀髪の男は、足元から式神を召喚した。懐から紙を抜き取り、走り書きで伝令をしたためる。

 式神へそれをくわえさせ、黄昏の空へと送り出そうとしたときだった。

 

 

 

『あ〜っ、ダメだよぉ。そんなの教えちゃあ』

 

 間延びした声に続き、ゴロゴロゴロと喉の奥で猫が鳴らすような音が響く。

 

「誰だ!」

 

 男は周囲を見回した。だが、何も見えない。

 

『もう、アタシのことどうして見つけてくれないの〜? やっぱりななこちゃん以外はダメだなぁ』

 

 その直後、男の背後、建物の壁の目地から黒い気配が汗のようににじみ、じわじわと広がって石肌を汚していく。

 やがて黒は薄い膜を張り、内側から何かが押しつけられたようにぼこり、ぼこりと脈打って膨らみ始めた。

 

「なっ、なんだこれは……!」

 

 それに気付いた男は、後ずさって距離を取る。

 

 男の焦りなど意に介さない"それ"は、壁から押し出されるたび、重なった肉がずぶずぶ歪み、塊は輪郭を獲っていく。

 出来損ないの肉塊から眼窩が開き、奥から眼球がずるりと──それを繋ぎ止めるのは細い腱だけだ。

 鼻の奥に、焼け脂と鉄のにおいが刺さる。

 

『なにって、アンタたちのほうがよく知ってるんじゃない〜?』

 

 声は、その肉塊から聞こえていた。

 形を成していく"それ"は、やがて黒ぐろとした鼻先が現れ、真っ白の体毛に覆われていく。

 

「お、お前は……」

 

 現れた姿に、男は絶句した。

 

「まさか……ななこ様に取り憑く呪霊というのは、お前か……?」

『取り憑くって、失礼だねぇ。アタシとななこちゃんは一緒にいないといけないんだよぉ』

 

 にたりと持ち上げた口角。喋るたびに尖った歯が見え、赤い舌がべろんと垂れた。

 それは猫のかたちをしていた。だが、継ぎ目がまだ微かに痙攣している。

 

『そういうのは、やめてね。アタシとななこちゃんだけで大丈夫なんだから』

「……何が言いたい?」

『ななこちゃんは、七瀬ななこちゃんなんだよぉ。藤野じゃない。ねぇ、わかった?』

 

 男の指先で羽ばたこうとしていた式神は、いつの間にか黒い粘液に絡め取られ、紙片ごとぬるりと猫へ呑まれていった。

 紙の縁が、舌の上でふやけて崩れる。

 

「うるさい! 土地神に模しただけの化け猫め! お前が現れたから弥春様は死んだんだ!」

 

 男は胸の前で手印を結んだ。小声で祝詞の歯擦音が滲む。

 その瞬間、男の前に式神が召喚された。

 

「お前は、ここで私が──!」

 

 

 

『あ〜、やだやだ、やっぱりななこちゃんの前で姿を見られないようにして正解だったなぁ』

 

 特級呪霊は、呆れたような溜め息をひとつこぼす。次の瞬間だけ、路地の音が全て止まった──風も、遠くの車も、電車の唸りも、男の喉の鳴りさえ。

 そして、自身に迫る相手に怯む様子などなく──顎を外すようにガバッと口を大きく開けた。

 

『いっただきま〜す』

 

 そして、白刃のような歯列で式神もろとも、男の胸骨を鳴らして飲み込んだ。

 紙の符は粉雪みたいに砕け、血は細い霧となって赤い息に混じった。

 

『うぇ〜、ぜんぜんおいしくな〜い』

 

 口の中のものをペッと吐き、ずるりと腰を落とす。腹がぐぅ、と鳴った。

 

『ダメだぁ〜、やっぱりななこちゃんと離れたら……あんまり呪力も補充できなかったしぃ……』

 

 まぶたを下ろしそうになるのを堪え、ぼやけた視界の中で口角をわずかに持ち上げる。

 

『みはるさま、だって。懐かしいねぇ。覚えてる? ──ねぇ、なつみちゃん』

 

 猫は、にゃあと鳴いた。

 

 そして、また腹が鳴った。

 

 

 

 ──猫は、四肢を震えさせ、立ち上がる。

 ふわりと浮いたあと、主を探して漂いはじめた。

 

 成熟した熊ほどもあった体は、ひと呼吸ごとに縮む。毛は綿のように剥がれ、糸目の粘が引く。

 自身の体を繋ぎ止めていた呪力が枯渇していたのだ。

 

『ななこちゃぁん……どこぉ……?』

 

 七瀬ななこには、自分の呼ばれ名を知られたくない。

 その一心だけで姿を消し、男と真実を闇に葬り──その代償が今、迫っていた。

 





めちゃくちゃ遅くなりました……!
みなさん話を忘れますよね。私はすっかり忘れて、読み返しました。
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