そうして私は、呪_師になる   作:みつじ

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第二十話:怖いものは怖い

 気づけば額に汗が滲んでいた。

 それを拭いながら廊下に出ると、ひんやりとした空気が頬を撫で、力の抜けた足がよろめいた。

 

「──ななこさん、大丈夫ですか?」

 

 パッと支えてくれた腕。

 顔を上げると、灰原くんの視線がすぐ傍にあった。

 

 頷けたけど、声は出なかった。

 

 彼の肩に寄りかかったとき、胸の奥にあの冷たい圧が蘇った。

 

 首筋をなぞった冷たい圧。

 

 思い出した途端、喉が強張り、息が浅くなる。

 

 

 あんな夜蛾先生、初めて見た。

 見た目こそ強面だけど、本当は私を気にかけてくれる人だ。術式やみぃちゃんのことも、一緒に考えてくれた。

 ……なのに、どうして。どうして、この場所の人は揃って私の首に手をかけるのだろう。

 

 初めて高専に来た日も──夏油さんに。

 

 

 思い返した瞬間、背筋にぞわりとしたものが走る。だから、やめた。

 

 灰原くんは何も言わず、ただ歩調を合わせてくれる。靴音が規則正しく響き、そのリズムに合わせるように呼吸を整えると、少しずつ足が前に出せた。

 

 寮の入口にたどり着いたとき、ようやく肩から力を抜くことができた気がした。

 

「……ごめんなさい。迷惑かけて」

 

 出した声は、かすれていた。

 灰原くんは静かに首を振る。

 

「迷惑なんかじゃないです! 僕も寮だし、ななこさんの部屋まで送りますよ!」

 

 夕日が傾いていく静けさのなか、その言葉が頼もしく胸に染みた。

 私は小さくうなずき、彼の支えに身を委ねながら、ゆっくりと寮の中へと歩を進めた。

 

 寮の自室の前にたどり着くと、灰原くんは手を放した。

 

「部屋、ここだったんですね! お疲れ様でした!」

 

 彼はそう言って軽く頭を下げ、踵を返そうとする。

 

 ──ひとりに、なってしまう。

 

 胸の奥がひゅう、と冷えた。

 誰もいなくなった途端に、またさっきの感触が蘇る気がした。喉の奥にひやりとした圧が残っている。

 

「あ、あの……」

 

 思わず声が出た。灰原くんが振り返る。

 言葉を探して、唇がもどかしく動く。

 

「……いえ、なんでもないです」

 

 でも、引き止めることはできなかった。

 

 一瞬、彼の目が見開かれた。けれどすぐに表情が和らぐ。

 

「何かある顔してますよ?」

「えっ、と…」

 

 笑みとともに返ってきた声は、さっきと同じく柔らかかった。

 その笑顔を見たら、なんだか安心できた私はホッと息をついた。

 

 少しだけ、今だけは素直になれそうだった。

 

「ひとりになるのが、少し怖いなって…思っただけです」

「……そうですよね。そう思ってしまいますよね」

 

 灰原くんは、いつになく落ち着いた声でそう言った。

 柔らかな笑顔はそのままに、少し開いた唇は紡ぐ言葉を探しているように見える。

 

「せっかく仲良くなれたし、少しお邪魔してもいいですか?」

「……! はい、ありがとうございます」

 

 そして、私は自分の部屋の扉を開けた。

 

 狭い部屋に、外の空気が入り込む。

 中に入る灰原くんの背を見ながら、胸の奥の冷たさが、少しずつ和らいでいくのを感じた。

 

 パチリと電気を点けると、蛍光灯の白い明かりに照らされる。だけど、どこか心許ない。

 

「物少ないですね!」

「そう、なのかな? 最近、引っ越してきたばかりだからかも」

「あ、転入してきたんですよね!」

「うん」

 

 私はベッドを背もたれにして、カーペットに腰を下ろした。

 その隣に、灰原くんも座った。

 

 気を使ったのか、灰原くんが口を開いた。

 

「お昼ご飯、美味かったですね! 僕、食べるの好きなんですよ」

 

 わざと明るい声を出してくれているような気がした。

 

 優しさが滲むその言葉に、プレートにたくさんのおかずが乗っていたのを思い出す。

 

「すごかったね。男の人って、あんなに食べるんだ〜って思ったんです」

「あれぐらい普通ですよ! 何してても腹減るんで!」

 

 私は、小さく笑った。

 隣にいる灰原くんはいつも笑顔だった。

 

「……そう、なんだ」

 

 不意に、頬からぽろりと雫が零れた。

 慌てて袖で拭ったけれど、またすぐに滲んでしまう。気づかれないように、少しうつむく。

 胸の奥がぎゅっと縮んで、止めようと思っても、次の滴はあとからあとから溢れてきた。

 

 それから、しばらくのあいだ沈黙が落ちた。時計の秒針の音だけがやけに大きく響く。

 

 ──口を開く勇気が出ない。今、何か話せば、全部こぼれ落ちてしまいそうで。

 

 

 

「……なんか、大変そうですね」

 

 不意に、灰原くんが小さくつぶやいた。

 驚いて顔を上げると、彼は気まずそうに頭をかいて、視線を逸らしていた。

 

 胸の奥に溜め込んでいたものが、そこで一気に揺らぐ。

 

「……私って、やっぱり変ですか?」

 

 声は震えていた。自分でもうまく整理できていない心情が、そのまま現れているよう。

 

「うーん……術式なんか、ぜーんぶ個性的ですよ!! ……でも、ななこさんは特に大変そうに見えました」

 

 灰原くんは何も否定しなかった。

 その穏やかさが、堰を切ったようにさらに言葉を引き出していった。

 

「……先生に言われたんです。私の術式、魂のあるものを……なんでも、勝手に成長させちゃうって」

「それは少し聞きました。呪霊を成長させちゃうって」

 

 こくりと頷いて、続ける。

 

「それが、私の感情に左右されるみたいなんです。相手を"怖い"って思ったときが、一番危ないみたいで……」

「え! 怖いと思っただけで?」

「はい……だから、先生にはコントロールしないといけないって言われたんですけど──」

 

 そこで声が途切れた。

 唇が震え、胸の奥にまたあの冷たい圧が蘇る。

 必死に堪えても、視界がにじんで──とうとう涙が零れ落ちた。

 

 目をつぶると、すぐに思い出せる。

 真っ暗闇の中にいたはずなのに、気付けば目の前に呪霊がいた。顔なんかあってないような存在なのに、嬉しそうに私に傷をつけていたように見えた。

 そして、気がつけば気を失っていて──すべてが終わっていた。

 

 私に投げかけられた『お荷物』って言葉は、きっと間違ってはいない。

 だけど、まだ始まったばかりだ。

 呪霊のこと。術式のこと。呪術師のこと。わからないことだらけで、現実だけが冷たく、つらい。

 

 自分で、選んできたはずなのに。

 

 

 また、視界がにじんだ。

 必死に堪えても、喉の奥がつんと熱くなり、涙がまた溢れそうになる。

 

 灰原くんは、何も言わなかった。ただ隣に座ったまま、黙って聞いてくれている。

 

「そんな私に、みぃちゃんは絶対に必要だったんです」

 

 あの子がいたから、私は呪霊を祓える。

 

 呪術師になれる。

 

「なのにいなくなっちゃって……っ、私……どうしたらいいのかわからなくて……」

 

 言葉にした瞬間、涙があとからあとから零れてきた。

 

 しばらくして、灰原くんが小さく息をついた。

 

「……ここでくらいは、泣いていいと思いますよ」

 

 その声が優しく胸に響いて、余計に涙が止まらなくなった。

 

 やっと涙が落ち着いてきたころ、灰原くんが思いついたように手を叩いた。

 

「そうだ! ななこさん、ホラー映画って見ます?」

「……え?」

 

 突然の話題に、涙で赤くなった目を瞬かせる。

 

「呪霊を怖いって思わなかったらいいんですよね? 一緒に見て克服しません?」

「克服、できるのかな」

「呪霊だって結局は慣れです! まずはホラー映画で練習しましょう!」

 

 冗談めかした声に、つい吹き出してしまう。

 

 ──泣き腫らした目のままで笑っている自分に気づき、少しだけ胸が軽くなった。

 

「明日、学校終わったらなんか適当に借りてきます! 夜のホラー映画大会! どうですか?」

 

 キラキラと目を輝かせている灰原くんに、私は頷いて見せた。

 

 

 … … …

 

 次の日。私は、夏油さんと悟さんに挟まれて、授業を受けた。

 黒板に並ぶ公式や英文。呪術のことばかりと思っていた私は、思わず拍子抜けした。

 

 夏油さんは穏やかな雰囲気で挨拶をしてくれた。悟さんとは目も合わない。

 家入さんは「なんか久しぶりだね」と会話を振ってくれ、私は思わず笑って返した。少しだけ話をした。

 みんな、同級生にしては大人びていて……私だけ取り残されているように思えた。

 

 昼休憩には、夜蛾先生と話した。あの怖かった姿はなく、いつもどおりの先生。

 そして、昨日のことをまた謝ってくれたので、なんだか逆に申し訳なくなってしまった。

 その後、私に"藤野家の当主に"と話しかけてきた男の人のことを報告した。

 

 そして、放課後。

 トイレを出た瞬間、灰原くんに腕をつかまれた。

 

「僕、今から借りに行ってくるんで、ご飯とかお風呂とか適当に済ませておいてください!」

 

 「お疲れ様です!」と大声を残して、そのまま駆け抜けていった。

 私の返事なんて聞こえていなさそうに。

 ぽかんと置いてけぼりにされながらも、胸の奥は少しだけ温かった。

 

 そして、早めの夕食にお風呂。もういいか──とパジャマに着替えてしまう。

 歯磨きをしてしまおうか悩みながら、洗面台の鏡に目をやった。

 

 鏡の中には、自分だけ。

 

 振り返っても、どこにもいない。

 

 呪術高専に編入してからの短い日々。そのたびに助けてくれて、寄り添ってくれた存在。

 けれど、こんなにもあっさりと姿を消してしまった。

 

 ちょっとどこかへ行ってしまっただけなのか。

 それとも、もういなくなってしまったのか。

 

 わからないまま、私はただ──ここにいるだけだ。

 

 

 

 そんなことを考えていたら、気付けばすっかり夜になっていた。

 不意に、ドアがノックされる。

 

「──お待たせしました! 僕の部屋で見ましょう!!」

 

 扉を開けると、満面の笑みを浮かべた灰原くんだった。。

 

「ごめんなさい。私のことなのに……」

「いいんですよ! 準備するのちょっと楽しかったし」

 

 相変わらず元気な灰原くんに思わず笑ってしまいながら、私は部屋に招かれた。

 

 そして、部屋に入るときになって、急に緊張した。

 

 そういえば──人の部屋に遊びに行くの……初めてかも。今さら、なんにも準備してないや……と、後悔しながら開けてもらったドアの先を見た。

 

 でも、部屋に入って目に飛び込んできた光景に、私は目を瞬かせた。

 

「……え?」

 

 小さな机の周りには、悟さんと夏油さん、家入さん、そして見慣れない髪色の男の人が腰を下ろしていた。それが誰かと聞ける雰囲気ではない。

 テーブルの上には、お菓子とジュースが山ほど置かれている。完全に映画会の雰囲気だ。

 

「いやぁ、どうせなら人数いたほうが楽しいかなって!」

 

 灰原くんが胸を張る。

 

「怖いときは仲間とワイワイしたほうが気が紛れますよ!」

 

 笑顔の灰原くんに何も言えなくなった私は、

 

「よ、よろしくお願いします……」

 

 と、端に座った。

 いつの間に、みんなを誘っていたんだろう。

 

「なあ灰原〜、なに借りてきたわけ?」

「ななこさんが何に怖いかわからなかったんで、ゾンビものと〜……あ、呪怨とリングもありますよ!」

「ベタすぎ!」

 

 軽口を叩きながら、楽しそうな表情を浮かべている悟さん。

 ……あんな姿、初めて見た……と動揺しながら、ちらりと隣を見る。

 

「……どうも」

「は、はい……すみません」

 

 机の一番端。そこに座っていたのは、他の生徒たちと明らかに雰囲気が違う男の人だった。

 思わずその場に座ってしまったけど、せめて家入さんとか夏油さんの横に座るべきだったかな……。そう悩むが、今さら立ち上がるのも失礼だ。

 

 彼は、すぐに前を向いてしまった。それをいいことに、そっと横目で様子を伺う。

 色素の薄い髪に透けるような瞳。ジト目に困り眉。口数少なく、周りの賑やかさとは対照的だった。

 

 ……同じクラスじゃないってことは、年下か年上?

 いや、絶対に年上な気がする。

 

 それを打ち砕いたのは、灰原くんの言葉だった。

 

「あ、ななこさん! その隣にいるの、七海っていいます! 僕と同い年で、良いやつなんですよ!」

「……えっ? あ、そうなんですね……大人っぽいですね」

 

 自分でも苦しいフォローだと思った。

 

「……別に、そんな気を使ってもらわなくていいですよ」

 

 ようやく口を開いた七海さんは、見た目に似合わない渋い声でそう言って、やっぱり前を向いていた。

 それだけのやり取りで、厚い壁を感じた。

 

「もう決まらないですって! ななこさん! 何見ます?」

「えっ、あっ……」

 

 テレビの前でDVDプレーヤーを操作しながら、灰原くんが振り向いていた。

 「何でも」と言いかけて、唇を噛む。その一言で今からどんな思いをするかが変わるのに、そんな軽々しく決めていいもの?

 私は上半身を乗り出して、置かれている数枚のDVDに視線をやる。

 

 どれも、おどろおどろしい表紙だった。

 

「えっ……!? えーっと……」

 

 正直、どれも見たくはない。けれど、決まらなくて場を白けさせるのも怖い。

 逃げ場のない中で、心臓がばくばくと早鐘を打つ。

 

「──こ、これで……!」

 

 私は、半分目をつぶりながら指差す。

 

 ──そして。

 

 私が選んだのは、真っ黒な背景の中央に、冷たい青色の光に照らされた少年の顔が浮かび上がったものだった。

 無表情で、黒目がちの大きな瞳は感情を失ったように暗く沈んでおり、その視線は正面を真っ直ぐに射抜いている。唇は固く閉ざされ、まるで生気を失った人形のような不気味さを放っていた。

 

 それだけで、ゾッとしてしまう。

 

 少年の顔の上には、縦に大きく白文字で刻まれた"呪怨"の文字。

 これがきっとタイトルだ。名前だけは聞いたことがあった。

 

「おっ! いいチョイスじゃん!」

 

 声を上げたのは、意外にも悟さんだった。

 袋菓子を開けながら笑っている。けれど、その笑顔が妙に無邪気すぎて、逆に緊張を煽った。

 

「本当に大丈夫? これ一番怖いやつだと思うけど」

 

 夏油さんの穏やかな声。心配してくれているのはわかるのに、どこか距離を感じてしまう。

 

「……大丈夫です」

 

 思わず小さな声で答えてしまった。

 

「つーか、お前のための映画鑑賞会なんだろ?」

 

 そう言ったのは悟さんだった。言葉に詰まっていたら、彼は腰を浮かせた。

 

「ド真ん前で見ろよな!」

「う、わっ」

 

 不意に長い腕が伸びてきて、二の腕をぐっと引かれる。抵抗する間もなく、私はテレビの正面へと引き出されていた。

 

「えっ……えぇ…!?」

 

 狼狽えて小さく叫ぶ私に、悟さんは悪びれもせずポップコーンを口に放り込む。

 昼間は目も合わなかったのに、急に絡まれると戸惑った。

 

「悟、さすがにそこまではいいんじゃない? 今日から慣れていくんだから」

「最初が肝心って言うだろ?」

 

 夏油さんがやんわり止めてくれたけど、悟さんはぴしゃりと言い放つ。

 急に訪れた、ピリッとした空気感に耐えられず、私は「大丈夫です……」と呟くしかなかった。

 

 

 

 照明が落とされる。

 部屋が暗くなっただけで、急に心細さが増す。みんなが近くにいるはずなのに、気配が遠い。

 

 画面に青白い光が走る。──映画が始まった。

 

 古い木造の家を映すカメラが、ゆっくり進んでいく。

 床板が軋む音が耳にまとわりつき、背筋を撫でていった。

 

「っ……」

 

 肩をすくめると、いつの間にか隣に座っていた灰原くんも同じように身を縮めていた。

 「だ、大丈夫ですよ!」と小声で囁かれたけど、その声も少し震えていて、余計に不安になる。

 

「ビビりすぎ〜!」

 

 悟さんの笑い声が響く。

 だけど、その声もどこか遠く、画面の奥からこちらを見ている女の存在感にかき消されていった。

 

 じっと、見られている。

 ただそれだけで喉が凍りつき、息ができなくなる。

 

 気がつけば、私は灰原くんの袖を掴んでいた。

 

「ごっ、ごめんなさい……」

「いいですよ……!」

 

 そのやり取りすら、他の人には届いていなさそうだった。

 

 ちらりと周りに意識を向ける。

 夏油さんも家入さんも黙って画面を見ているし、七海さんは無表情のまま。

 全く怖がる素振りを見せない悟さんの笑い声だけが浮いて響き、余計に自分の居場所のなさを突きつけてくる。

 

 輪の中にいるのに、ひとりきり。

 その心細さが、胸にじわじわと広がっていく。

 

 ──やっぱり、怖い。

 けれどそれ以上に。"みぃちゃんのいないここで、ちゃんとやっていけるのかな"という不安も、少しずつ大きくなっているのに気がついた。

 

 それをかき消すよう、テレビへ視線を戻す。

 

 画面の中、古びた家の中をカメラがさまよう。

 ぎい、と軋む音。暗がりの隅に、長い黒髪が一瞬だけ揺れる。

 

「ひっ……!」

 

 思わず息が詰まって、灰原くんの袖をさらに強く握りしめた。

 隣から何か返ってきた気がするが、不明瞭で聞こえない。

 

 次の瞬間、襖の隙間から白い顔がぬっと覗いた。

 黒目がちの瞳がこちらを見ている気がして、心臓が跳ね上がる。

 その影がふっと消えたあと、今度は画面の隅に子供のような姿が立っていた。

 猫の鳴き声のような、甲高い声が重なり──また、消える。

 

「うわっ! 出た!」

 

 悟さんの大声に、私は飛び上がりそうになった。

 ポップコーンが宙を舞い、夏油さんが「やめろ、散らかる」とぼやく。

 家入さんは小さく舌打ちした。

 

 ……誰も、私が泣きそうなのには気づいていない。

 

 女の人の声が聞こえる。

 重く、喉を鳴らすような、底から響く音。『ア”ァァァァ……』と、湿った空気をかき回すように続く。

 体中の毛が逆立ち、涙腺が勝手に熱くなる。

 

 こわい、こわい、こわい──!

 

 目をつぶりたい。けどそうしてしまえば、すぐ背後に立たれそうで──視線を逸らせなかった。

 ──この女に一度でも見られたら、もう逃げられない。そんな理不尽な恐怖が、現実に迫っているような錯覚があった。

 冷たい手が背後から伸びてくるようで、背筋が硬直する。

 

 気づけば頬を伝って雫が落ちていた。

 泣いてる、なんて気づかれたくないのに、震えが止まらない。

 

「……ななこさん」

 

 小声で呼ばれて顔を上げると、灰原くんが困ったように笑っていた。

 彼の袖は、私の指でぐしゃぐしゃに握りつぶされている。

 

「ご、ごめんなさい……」

「大丈夫です! もう少しです!」

 

 そう言われても、画面の中はまだ薄気味悪い。

 

 本当にもうすぐ終わるのか……。

 

「っ──!」

 

 堪えきれず、涙が滲んだまま私は最後まで見続けた。しっかり泣いてしまったけど、必死に耐え抜いたのだ。

 でも、エンディングが流れ、画面が暗転しても、背後に気配が残っている気がして──息を潜めた。

 

 パチリ。誰かが電気をつけてくれる。

 私は声を出す余裕すらなく、ただ大きく息をついた。

 

「……ななこさん」

 

 隣からそっと呼ばれて顔を上げると、灰原くんが困ったように笑っていた。

 袖の布は、私の指でしわくちゃになっている。

 

「すごかったですね! ななこさんはどうでした?」

 

 彼の声を聞いた瞬間、緊張の糸が切れたみたいに思わず声が飛び出した。

 

「……私、ホラー映画はダメです……!」

 

 涙の跡を残したままの顔でそう言うと、灰原くんは「僕もです!」と元気よく答えてくれた。

 部屋に、温かな笑い声が広がった。

 

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