第三話:私の話
夜蛾正道は、顔をしかめた。
彼は上層部に呼ばれ、ある部屋の中央に立っていた。
そこは広いはずなのに、妙に息苦しい空間だった。照明の届かない部屋の隅では、影が不気味に揺れている。
大きな
それひとつが開き、奥に座す老人の顔が覗く。
「……それは、どういう意味ですか?」
夜蛾は、自身の眉間のシワが深くなるのを感じた。
七瀬を高専に迎え入れるべき。そう確信していたが──上層部はそう考えてはいない。
「意味も何も、七瀬ななこを正式には入学させられない。それだけだ。むしろ、完全秘匿での死刑執行が検討される案件だ」
「その理由を聞いているんです」
老人は、険しい顔をした。そして、どうでもいいことを聞かれたかのように淡々と続ける。
「お前は見たんだろう、あの異常な呪霊を」
夜蛾は口をつぐんだ。
確かに、見た。いや……目の当たりにした。
七瀬ななこに寄り添う特級呪霊。怯える彼女のそばにいるあれは──普通じゃない。
「見ましたよ」
「なら、話は早い。あれが彼女の力で成長したのは疑いようもない事実だ」
「……ですが」
「これは言葉で覆せるようなものではない」
老人は冷たく言い放つ。すでに決まったことを伝えるだけのように。
「あの術式が制御不能になれば厄介だ」
夜蛾は喉の奥に熱が込み上がるのを感じた。
議論ではない。これではただの"処刑宣告"だ。
確かに、七瀬の術式は異常だ。自分の知る、呪霊の概念を覆すようなもの。
呪霊を特級にまで成長させる……しかし、それだけの理由で彼女を排除するのか?
「なら、管理すればいいでしょう。呪術師として」
「それができるというのか?」
胸の奥に、抑えようのない怒りがこみ上げる。
こいつらは最初から、排除する理由を探していただけだ。
「あれのやっていることは、呪詛師と大差ない」
夜蛾の拳がギリ、と鳴った。
ひとりの少女の命が今、天秤にかけられているというのに──。
──先日、夏油に連れられてやってきた七瀬には、あろうことか特級呪霊が憑いていた。
だがその呪霊は取って食おうとしているわけではなく、友好的な態度を見せている。『ななこちゃぁん』と間延びした声を出して、彼女にすり寄っている。
パッと浮かんだのは、七瀬の術式により主従関係が結ばれているのでは……という仮説だった。
だが彼女は、特級と並ぶほどの呪術師ではない。ただの一般人に毛が生えた程度だ。
自分の生徒にもいる"呪霊操術"という術式なら、これを取り込めるほどの力量が必要だが……明らかに劣っている。
なら、取り憑かれている? それにしては妙な違和感があった。
そして七瀬は言うのだ。
『最初は……小さい動物のお化け、みたいだったんです』
それが、時の流れとともに話せるようになったと。
呪霊はその強さや知能などから等級分けされる。
彼女の言うことを信じるなら、
ただの、日常生活の中で。
そして、夏油は"それ"を一級だと判断した。
呪霊は普段、姿かたちを変えることはない。なのに"それ"はぐにゃぐにゃと形態を変える。何かしらの術式が付与されていると踏んだのだ。
そして、自身が交戦したなかで、もとは一級だった呪霊が、戦いの最中で特級に成り上がったと話す。
にわかに信じがたい話だった。だが、夏油はそんな嘘を言うような男ではないし、携える瞳は真剣そのものだ。
そのとき、同じように話を聞いていた五条悟が突然動いた。特級呪霊に仕掛け、呪霊は我関せずといった様子で攻撃を避け、浮いているだけ。
状況が一変したのは、あろうことか夏油が七瀬の首を掴んだときだった。
特級呪霊の気配が変わり、七瀬を助けた。それはまるで、母が子を守るようだった。
そして──五条の放った術式が特級呪霊の身体を裂き、だらりと体勢を崩したせいで七瀬が宙吊りになったとき──、
『生きて!!』
彼女は叫んだ。その瞬間、体からとんでもない量の呪力が溢れ出た。それは濃く、オーラのように七瀬と呪霊の体にまとわりつく。
それを吸収した特級呪霊は、ありえない量の呪力をまとい始めた。
そして──『領域展開』と。
誰かに教えられたわけでもなく、手印を結び、力任せに膨大な量の呪力を押し込んで……奴は、生得領域を完成させた。
その中から出てきた夏油曰く、未完成だったというが……完全になる日はそう遠くないだろう。
それはきっと、生死の境界線に触れた七瀬の術式が、顕現したから。そう思えるような現実を目の当たりにした。
だから、七瀬が自分の力を制限できるよう、教えを説かなければならない。このままでは、ただの特級呪霊製造機になってしまう。それこそ、処刑の対象になってしまうだろう。
そう考えていた矢先、人伝いに七瀬から『呪術高専に編入したい』と聞いた夜蛾は、それが最良だろうと思った。
なのに、上層部は煮え切らない返事ばかりを寄越す。それどころか今にも殺してしまおうかという勢いだ。
どうすればこの頭の固い連中を……と、ここでふと思いつく。
ちょうどいいのが、自分の生徒にいたな、と。
「少し、考えていただきたい」
「……何を、今更」
引き出さなければならない。七瀬を管理する理由を。
「七瀬に憑く特級呪霊は、"五条悟"の攻撃を凌ぐほどのフィジカルアドバンテージを持ち、呪力量も計り知れない。だが、それは普段、表に出ることはない。……それが唯一、牙を向く瞬間がある。それは何か、わかりますか」
口を閉ざした上層部に、夜蛾は畳み掛ける。
「それは、己の主人である、七瀬ななこに危害が及んだときのみ」
これは、紛れもない事実だ。
「あの呪霊は、七瀬に危害が及んだ瞬間、急成長を遂げた」
まあ、こちらは自分の生徒の興味本位による事故のせいだが……というのは、心の奥に隠しておく。
「あの呪霊の存在は確かに脅威だ。だからこそ、七瀬ななこを処分するのではなく、管理すべきだと私は考えています。………呪術師として」
しん、と冷たい空気が漂う。その張り詰めた中で、夜蛾は最後のひと押しを探した。
「……それに、これは私たち呪術師にとって好都合です」
夜蛾は上層部を見渡した。
「呪霊操術のような自在な制御はまだ難しいが……"あれ"は守る対象を徹底的に訓練すれば、最強の護衛として機能する」
「……」
「つまり、扱いようによっては、これほど強い盾はない。七瀬は、それが作れる存在です」
キーワードは散らばらせた。
五条悟はこの呪術界でも異質だ。それを凌ぐほどの存在……それを従えるもの……そして利用価値があるのだ。生かすこと、殺すこと、どちらにメリットがあるか。
さすがにわかるだろう。
しばらく間が空き、どこからか舌打ちが聞こえる。
「……仮入学だ」
開いていた障子戸が閉じる。
「扱えないとわかったなら、すぐに処分するのみ」
夜蛾は息をついた。誰かの冷めた視線を感じながら、それでもわずかに口角を上げる。
勝ったのは、こちらだ。
… … …
「と、いうわけで七瀬! 仮入学だ」
呼び出された先で、夜蛾先生が開口一番そう言った。
「親御さんはなんて言ってるんだ?」
「……それが、まだ話せていなくて」
私が"編入したい"と言った日から、呪術高専側では着実に準備が進んでいるようだった。
あとは自分が親に話すだけなのだが……もっともらしい理由が見つからなかった。
正直に話す? こんなお化けが視えていて、呪術師になります! って?
そんなこと……信じてもらえるはずがない。
「まあ……呪霊や呪術師のことは公にされてないからな。ここは表向き、宗教学校だ。仏教に興味持ったと言ってみるか?」
「うーん……そうですね…」
夜蛾先生は、私にたくさんの書類が入った封筒を渡す。
「ここに来るのはいつでもいい。早いほうがいいとは思うが」
「はい……わかりました」
封筒を抱えて立ち上がろうとしたとき、呼び止められた。
「夏油からも聞かれたと思うが……七瀬は、本当に誰か人の死に関わったことはないか?」
前を見ると、夜蛾先生は険しい顔をしている。
「その呪霊に憑かれた、小学生ぐらいのときに」
そんな顔で聞かれるほど、重要なことなんだろうか?
だから前よりも丁寧に記憶を辿る。でも、やっぱり思い当たることはない。
「……なかったと思います」
そう返事すると、夜蛾先生は「悪いな」と謝ってから目を伏せた。
どうしてそればかりを気にするんだろう?
そんな疑問を抱えたまま、私は呪術高専を後にした。
… … …
『ななこちゃんは、あそこの学校に通うのぉ?』
みぃちゃんが私の周りを漂いながら、そう言った。
〖かようのぉ〜?〗
それをもう一匹が復唱する。
ちらりと見た"それ"は、みぃちゃんの時よりも格段に速いスピードで成長していた。
言葉は拙く、人間の言葉とは少し違って聞こえる。なのに、脳では正常に理解できていた。
呪霊には専用の言語があるのだろうか? それはこうも耳ではおかしく、脳では正常に聞こえるものなんだろうか?
考えてみるが、答えは出ない。聞くには、私は呪術高専に編入しなければならないだろう。
「……うん、通おうと思ってる」
『へぇ、楽しみだねぇ』
みぃちゃんはニタニタ笑いながら、くるんと笑った。
帰路を辿る足取りは重い。手に持つ封筒も、その材質に似つかわしくない重さがある。
でも歩けば自宅についてしまう。私は、諦めて玄関のノブを掴んだ。
「おかえり」
母がいつも通り迎えてくれる。
「ただいま」
それを見ながら、私は思わず立ち尽くしてしまった。
母の後ろに──呪霊が、いる。
「……どうしたの? 怖い顔して」
「……ううん、なんかゴキブリいたような気がして」
「え〜!? どこ!? 殺虫剤あったかな!?」
慌てふためく母はリビングに消えた。
新たな呪霊は、そんな母の後ろをついていこうとしている。
『やっちゃおうかぁ〜?』
目を細めているみぃちゃんに、私は一回だけ頷いた。
すると、みぃちゃんはふわふわと漂って扉の陰に消えた。耳を塞ぎたくなるような濁音のあと──惨劇の中で、母は笑っていた。
視えていない。それは、どれほど幸せなことか。
「あった、あった! まだそのへんにいる!?」
「うーん……どうだろう」
廊下をくまなく探す母を見ながら、私は切り出す言葉を探していた。
でも……やっぱり理由は見つからない。
「……ねえ、お母さん」
「なあに? ……って顔! 真っ青よ! どうしたの?」
ただわかるのは、このままでは何も変わらないということ。
「私……編入したいの」
「……編入? 学校の話?」
「うん」
あらあら、まあまあ。そう呟いた母は、殺虫剤を落としそうになっていた。
「ゴキブリよりびっくりしたわ。とりあえずリビングに行こう? 話しないとね」
でもゴキブリの存在も諦めきれなかったらしく、適当に振りまいていた。
「──で、編入だっけ?」
母は、丁寧にお茶まで入れてくれた。
この時間はいつも、私と母のふたりきり。
父は夜遅くまで仕事で、母はお昼すぎまでのパートだったから。
「どこの高校に行きたいの?」
「……呪術高専ってところ」
「お母さんも詳しくないけど……宗教学校だっけ?」
私はお茶に手を付けることもできず、乾いた喉で唾液をゴクンと飲み込んだ。
「そう……何か理由があるの?」
「うん」
「……最近、様子がおかしいのも、そのせい?」
驚いて顔を上げる。母は優しく笑っていた。
「たまに、真っ青な顔して帰ってきてるでしょ」
私は何も言えず、頷くこともできなかった。
呪霊が視えるようになってからというもの、私は人に悪影響のありそうなものだけ、みぃちゃんに祓ってもらっていた。
みぃちゃんは遠慮がなく、場面はグロテスクの一言に尽きる。それはどうしようもないことで、胸の悪さをいつも抱えていた。
母はそんな私に気づいていたようだ。
「……高校ってね、自分で選んで、受験して、進学するもんだよね。だからお母さんは、ななこがそうしたいっていうなら……止めないけど」
「うん……」
「編入したら、マシになるようなことなの?」
「それは……わからない」
「お母さんには話せないこと?」
「話せないというか……理解できないかも」
呪霊とか、呪術師とか。私にも、わからないことが多いのに……説明できる自信はないし、母が受け入れてくれるかもわからなかった。
「そう……そうなのね」
「そこは、全寮制なんだって」
「この家も出ていくの?」
「たぶん…そうなると思う」
母は小さく息をついた。目を伏せて、手元を見ている。
「じゃあ、これだけ教えてくれる?」
「なに?」
「……ななこは、お化けが見えてるの?」
自分の心臓が、ドキッと高鳴った。
「どうして……そう思うの?」
自分の声が、少し震えたのがわかった。
言ってしまったら、どうなるんだろう。
母は驚くだろうか? 怯える? 拒絶する?
それとも……私が
途端に不安の渦に飲み込まれそうになった私に、母は静かに言う。
「ななこは……小学生ぐらいからよく誰もいないところを見て怯えてたのよ」
ああ──母は、気づいていたんだ。
だったらもう……隠す必要なんて、ないのかもしれない。
すべて話してしまおうか悩んだ。言ってしまえば、少しは楽になるような気がした。
「でも、何も話してくれなかったし……無理に聞くのも、
「……思い出す?」
その瞬間、みぃちゃんが母の顔の前にすぅっと現れた。にやりと笑いながら、その口角を持ち上げている。その端から裂けていく。ぶち、ぶち、と確かな音を立てながら、中身が全て見えてしまいそうになるほど──、
私は見ていられなくなって目線を落とした。背中にじっとりと汗をかいている。
"聞くな"
そう言われた気がした。
だから、私は「お化け、見えてる」とだけ言った。
母は「わかった」とだけ返した。
「……ななこのやりたいようにやりなさい」
「……お母さん」
「お父さんには私から先に話しておくね。あの人何時になるかわからないし。……でも、お化けのことは内緒にしておくね」
ふふ、と小さく笑った母は「あの人、幽霊とか苦手だから」と零す。
「また、担任の先生の名前がわかったら教えてね」
「うん、また連絡する」
思っていたよりあっさり事態が解決して、私は肩の力が抜けた。椅子に深く沈むかのような重力を感じる。
きっと、妙な緊張感にずっと晒されていたから。
「じゃあ、先にご飯にする? お風呂も沸いてるよ」
「あ……じゃあ、お風呂にする」
「うん、ほら、早く行っておいで」
お節介な母は、私を急かすように「ほら、ほら」と続けた。
それに思わず笑ってしまいながら、私は脱衣所へ向かう。
「──ごめんね、お母さんのせいだね」
ぽつりと落ちた言葉は、リビングの静寂にゆっくりと溶けていった。
まるで、ずっと心の中にずっと閉じ込めていたものを、ようやく吐き出したかのように。
でも、それを聞く人間は、もういなかった。
ななこの足音はもう、遠ざかっている。
残されたのは、ぬるくなったお茶と、半分ほど残った殺虫剤。
「呪術高専って、呪術師の学校よね?」
呪術師──"それ"に関わるものたち。
「
母はそっと目を伏せた。
それは、決して口にできない問いだった。
誤字報告ありがとうございます! 助かっています!
感想も飛び跳ねるぐらい喜んでます! モチベ爆上げ!