「無理しないでね、いつでも帰っておいで」
母の言葉に背中を押され、私は"東京都立呪術高等専門学校"へ編入した。
呪術高専は全寮制で、初めて親元を離れての生活。正直、不安がないわけではない。
でも、変えなくちゃいけない。
お化けに搾取された年月を取り戻して、これからの人生を意味あるものにする。
それをみぃちゃんのせいにしないで、自分の選んだ道を進む。
たとえ、それが"呪術師"という未知のものだったとしても──。
だから、弱音を吐くわけにはいかない。
「体力なし! 呪力も微妙! センスゼロ! 唯一の強みはお憑きの呪霊だけ! ……ヤバくない?」
そう。たとえ、クラスメイトにそう言われても──、
半泣きになるわけにはいかないのだ。
「しょうがないよ、悟。七瀬さんは今まで非術師として生活してたんだ。急にどうこうなるものじゃない」
夏油さんのフォローにやっぱり泣いてしまいそうになりながら、私はジャージの裾を握った。
──呪術高専の2年生に、私は編入した。クラスはひとつしかなく、クラスメイトは3人。
五条悟さん、夏油傑さん、家入硝子さん。
彼らはすでに呪術師としての地位があり、"任務"というものを請け負い、活発に活動しているらしい。
まだ誰とも親しくないので、これは夜蛾先生情報である。
編入初日。教壇の上に立って3人に挨拶をした。
三者三様の反応だった。悟さんは興味なさげに頷き、夏油さんは優しく微笑み、家入さんは「へぇ」とだけ呟いた。
そして、呪術師として駆け出しどころか、スタートラインをようやく見つけたような私には、まずは座学からだった。
「七瀬も来たことだし、復習を兼ねて基礎から説明する!」
「え〜それ俺も聞かなきゃダメ?」
「お前は人の話を聞くクセをつけるべきだからな!」
「うっわ、ヤガセンまじ勘弁〜」
教壇で授業を始めた夜蛾先生にブーイングが飛ぶ。
私は笑っていいのかもわからず、机に広げたノートを見つめた。
4人しかいないから、机は4つ横並び。私は夏油さんと悟さんの間だった。
またとんでもない席順だな……と思った矢先、夜蛾先生は話し出す。
「日本国内での怪死者、行方不明者は年平均1万人を超える。そのほとんどが、人の肉体から生まれる負の感情……"呪い"の被害だ。七瀬は初耳だろうが、これは我々、呪術師にとって周知の事実だ」
呪い。
その言葉を聞いて、すぐに思い浮かぶ光景があった。
──私が、みぃちゃん以外の呪霊が視えるようになった日。
女性の肩に乗り、ゲタゲタ気味悪く笑っていたアイツは、確かにその説明に相応しい存在だった。
「まあ……中には呪詛師による悪質な事案もあるが、ほとんどは呪霊によるものと思ってもらって構わない」
板書はされず、どこをメモしたらいいかわからなかった。
だから、私はとりあえず"呪いは危険"とノートに書き込んだ。
「呪いに対抗できるのは同じ呪いだけ。そして、ここが呪いを祓うために呪いを学ぶ──東京都立呪術高等専門学校だ」
"呪いに対抗できるのは同じ呪いだけ"
その言葉が妙に引っかかる。
私にはみぃちゃんしかいない。呪いを祓うには、呪霊であるみぃちゃんに戦ってもらうしかない。
"呪いには呪いを"──この理屈は理解できた。
でも……あの日、悟さんが放った蒼い光は、呪いとはまるで正反対のものに見えた。
清らかで、鮮烈で──私の知るどの呪霊とも違っていた。
「で、なんで同じ呪いかと言うとだな──、」
夜蛾先生は、私の疑問が見えているかのように続けた。
そして、聞いた内容はこうだ。
1.呪いとは、我々で言う"呪霊"と同義語である。
2.呪霊を祓うには、呪力による術式が効果的である。
3.呪力とは、人の負の感情から生まれる負のエネルギーであり、すべての人間が持っている。
4.呪力とは"電気そのもの"。術式はその電気を使って動く、"家電"のようなもの。
「……七瀬、大丈夫か?」
「はい……なんとか…」
メモを取りながら、頭の中に聞きなれない単語がぐるぐる回る。
ということは、悟さんの蒼い光は、呪力を使った術式だったってことか?
なんとなく自分なりに理解できそうになった頃、
「大丈夫かよ。これからまだまだあるけど?」
右隣で、悟さんが冷たく言う。
「七瀬さん、焦らなくていいよ。慣れるまで時間がかかるものだから」
左隣では、夏油さんが優しく微笑んでくれている。
「とりあえず死なないようにしなよ」
少し離れたところから家入さんの声が聞こえた。
「コラ! お前ら! 煽るのやめろ!!」
夜蛾先生はこちらを指差して怒っている。
「がっ、頑張ります……」
私は消え入りそうな声で言った。
… … …
午後からは、体力テストを兼ねた体術の授業だった。
内容は小学校のスポーツテストと似たようなもの。握力や反復横跳び、立ち幅跳び、長座体前屈、上体起こし、50m走など。
呪術師として、最低限の身体能力を確認するためらしいけど──。
結果は、悲惨だった。
「……え、マジでヤバくない?」
それは、最後の50m走を走りきった直後だった。
記録用紙を覗き込んだ悟さんが、思わずドン引きした声を漏らす。
「運動音痴ってレベルじゃなくない? どうやって生き延びてきたわけ?」
私はゼェハァ息を切らしながら、膝に手をついて項垂れた。
体力テストの結果はこうだ。
握力:13キロ(低すぎて測り直された)
50m走:10秒台(最後、足がもつれて転びそうになった)
反復横跳び:途中で足が滑って転倒。測定不能
立ち幅跳び:跳ぶタイミングを掴めず、その場でぴょこんと跳ねただけ
上体起こし:腹筋をぷるぷる震わせながらギリギリ10回
長座体前屈:足首になんとか指が届くレベル(悟さんに「棒か?」とツッコまれる)
すでに筋肉痛の予兆がきていた。
「え、えーと……努力は、しました」
「どのへんが?」
「……」
言い返せる言葉はなかった。
「運動は少し苦手みたいだね」
夏油さんが、記録用紙を覗き込みながら少し目を見開いたあと、にっこりと微笑んだ。
その笑顔があまりに優しくて、逆に心に刺さる。
「お前、それ笑ってフォローできるのすげーよ……」
「逆に伸びしろしかないって考えればいいんじゃない?」
「……ありがとうございます」
優しい言葉に、少し心が救われたのも束の間……、
「いやいやいや! 体力なし! 呪力も微妙! センスゼロ!」
悟さんの容赦ないダメ出しが、心にドスッ、ドスッ、と突き刺さる。
「唯一の強みはお憑きの呪霊だけ! ……ヤバくない?」
「しょうがないよ、悟。七瀬さんは今まで非術師として生活してたんだ。急にどうこうなるものじゃない」
「でもさすがにもうちょい何とかならない? こんなの一般人以下じゃん!」
最後の一撃は、アッパーカットのように心へズドン! と深く決まった。
ジャージの裾をぎゅっと握りしめる。
「こんなんじゃ体術も組手も練習するだけ無駄だろ」
ハァ、と溜め息をつかれながら、記録用紙をポイッと手渡される。
その紙を見つめ、"これってそんなにダメなんだ"と深く落ち込んだ。
……こんな状態で、私、本当にやっていけるの?
「悟、いい加減にしなよ。言葉には限度ってものがある」
「あ? 事実だろ。現実つきつけてやんねーと、伸びるもんも伸びねえよ」
ピリッとした緊張感が走り、ふたりの間に緊迫した空気が流れる。
私は、思わず後ずさった。
夏油さんも悟さんも身長が高く、顔が整っている。そんな彼らが冷たい目をしてにらみ合い、距離を詰めると……妙な圧があって、私は縮こまってしまいそうだった。
次の瞬間──肌が栗立つような悪寒が走った。
「悟はもう少し寄り添ったほうがいいんじゃない?」
「へーへー、偉いねえ、弱い奴に気を使える傑様は」
夏油さんの背後──ほんの少しの闇が広がり、中から何かが覗く。
悟さんの気配が変わる。空気が沈み、視界が歪んだ気がした。生々しい圧が皮膚に張り付くようにのしかかる。
まるで、どぷんと水中に落とされたかのように息ができなくなった。
──もしかして、このふたり、仲悪い……?
「──そんな近くで見てたら巻き込まれるだけだよ」
急にぽんっと肩を叩かれる。振り返れば家入さんがいた。
「はい、逃げる」
少しだけ腕を引かれ、ぴゅ〜っと走り去る背中を慌てて追った。
… … …
私は肩を上下させながら、必死で呼吸を整えていた。
隣では、家入さんが涼しい顔で煙草に火をつけている。
……高校生なのに? そう思ったのは口に出さない。
ここはどこだろう。私はまだ呪術高専の敷地内に詳しくないが、どうやら何かの建物裏らしい。
私たちは並んで地面に腰を下ろしていた。
自分の呼吸が落ち着いた途端に、しん、とした静けさが降りてくる。
私は、どうしよう、と焦った。
今まで、みぃちゃんのせいで人と深く関わってこなかった。
だから、こうして同級生とふたりきりになるのは、もう何年ぶりかわからない。
ちらりと隣を見る。
家入さんの肩にかかるほどのストレートヘアは、ほんのり明るい茶色で、風が吹くと軽やかに揺れていた。
切れ長の瞳はクールで、どこか気だるげな雰囲気を纏っている。制服をラフに着崩しながらも、その佇まいには自然な華があった。
そして、煙草をふかす彼女は、無言を気にした様子はない。
……何を話せばいいんだろう?
必死に考えるけど話題は何も出てこず、自分の膝を見つめるばかりだ。
「……この前より、顔色マシになったんじゃない?」
気の抜けた声で、ぽつりと呟く。
思わず聞き逃しそうになるほど、さりげない一言。なんとか聞き取れたものの、意味がよくわからず首を傾げた。
私と家入さんは今日が初対面なはず。
「ちょっと前、すごい顔色で気失ってたでしょ」
……ああ。
そのワードで、私が初めて呪術高専に来た日のことだと察する。
夏油さんと悟さん、みぃちゃん……色んなことが重なって、目を覚ましたあとも続いた恐怖。
あれは、しばらく忘れられそうにない。
「……あ、そういえば…」
「うん」
「夏油さんが、あのとき私の体を見てくれた人がいるって言ってたような……」
「それ、私だね」
「あっ、ありがとうございました……」
あのとき、夏油さんが女性の名前を口にしていたのを思い出す。家入さんのことだったんだ。
家入さんは飄々としていた。
私の戸惑いも、周りの静けさも、色んなことを気にした様子はない。彼女はただ、ゆっくりと煙を吐き出すだけ。
立ち上がる煙を目で追った。それはゆったりと揺れ、そのうちすぅっと消えていく。
──まるで、自分の
「……なんか、私、普通ですね」
思わずぽつりと呟いたら、家入さんがこちらを向いた。
「え、すごいの憑いてるのに?」
視線が、私の頭の少し上に向いている。きっとそのへんにみぃちゃんがいるんだろう。
「あっ、いえ……みぃちゃんのことじゃなくて」
……きっと、違う。そうじゃない。
自分でもよくわからず焦りながら、近い言葉を探す。
「……今までだったら、私って、変わった存在だったんです」
お化けが視える。そして、自分につきまとっている。そのせいで周囲に影響が出る。
ずっと、"普通じゃない"って思ってた。
でも──、
ここでは、みぃちゃんが視えるのは当たり前。しかも、それを怖がるどころか誰も気に留めていない。
「夜蛾先生から、私の力は少し変わってるって聞いたんですけど……でも、それですごくなったのはみぃちゃんだけで……でも夏油さんも、悟さんも……きっと、家入さんも。すごいですよね」
呪術師として、呪霊を祓うことを
この場所では、むしろそれが
だったら、私は──?
「ここでなら、私は普通でいられるのかもって、少し思って……」
口に出した瞬間、胸の奥がふっと軽くなった気がした。
だって、初めてだった。
自分のことを、こんなふうに誰かに話せたのは。
──家入硝子は言葉を飲み込んだ。
七瀬ななこという人は、呪術や呪術師について詳しくない。
そして自分たちの担任は、かなりふわっとしたイメージで、彼女の特殊性を説明したのだろう。
だからこそ、まだわかっていない。
硝子は、七瀬ななこのことをうっすら聞いていた。
──呪霊を成長させる術式。
呪いを祓うことが呪術師の役割であるこの世界で、彼女は呪霊を"育てる"。
そんなこと、今までにありえなかった。
硝子は、じっと七瀬を見つめた。
どんな子が編入してくるのだろう。
そう気にかかった子は、今目の前にしてみると、ごく普通の少女に見える。
呪術師として未熟。今見えている呪力は薄く、本当に特級呪霊を成長させるのか疑うほど。そして運動能力は低く、接近戦はまず無理。
"一般人以下じゃん!"
五条の叫びに思わず頷いてしまいそうになるほどだ。
でも。この子は本当に、ただの一般人以下なのか?
その答えは、今も彼女の背後に憑き纏う、特級呪霊の異質さを見れば一目瞭然だ。
──それを、そっと飲み込む。
「……ま、いいんじゃない?
硝子は、そう言って煙を吐き出した。
少しだけ、わざとらしく。
自分の言葉に、嬉しそうに顔を綻ばせるのを見ながら。
… … …
「……つっ、疲れた〜…」
自室内のベッドに寝転ぶ私は、思わずそう呟いてしまう。
初めての環境。初めてのクラスメイト。初めてばかりの一日だった。
座学も実技もボロボロで、最後は家入さんと授業をサボってしまう始末。
……でも、全然嫌じゃなかった。むしろ、今までに感じたことのない充実感があった。
特別なのはみぃちゃんだけで、自分は全然ダメだと知らされたけど……それでも、少しだけ、自分の居場所が見つかったような気がする、
『疲れたの〜?』
ふよふよと漂うみぃちゃんが、ぐいっと伸びをしながらそう言った。
今は少し人に近い姿だった。私ぐらいの背丈で、顔や手足がある。こうして見ると、本当にただの幽霊みたいだった。
「うん、なんだか色々ありすぎて」
今までのことが嘘のように、みぃちゃんと話す。まるで友達のようだった。
『ふぇ〜なーんか大変そうだねぇ』
間延びした声を出し、みぃちゃんはくるんと一回転した。
その側を、ハエのようにもう一匹が飛んでいる。少しずつ、確実に大きくなっていた。
「そうだね……とりあえず、私は運動神経最悪ってわかったから、筋トレでもしようかな」
『きんとれ〜? なにやるのぉ?』
「うーん……腹筋、とか?」
『ふっきんってなぁに?』
「えーと……腹筋っていうのは、寝転がって上半身だけ起こす…みたいな……?」
曖昧な説明をしながら、照明を見つめる。
……なんだろう、少し、
「……っ、」
急に込み上がるものを感じた。
それは、あの諦めていたころの涙とは違う。
『わぁ〜、ななこちゃん泣かないでぇ』
すぅっと近寄ってきたみぃちゃんが、私の髪をくしゃっと撫でる。
少し驚いた。その手が頬に触れた瞬間、ふわっとした柔らかさがあったから。
まるで本物の人の手に撫でられているようだった。
『だいじょうぶだよぉ、アタシがいるよぉ』
そう繰り返すみぃちゃんは、にぃっと笑った。
……あれ?
みぃちゃんの笑顔は、どこか人間らしく見えた。
前はもっと……歪んで、気味の悪い笑顔だったのに。
「……みぃちゃん、また成長してる?」
『ん〜? どうだろ〜あ、でも今なら"りょういきてんかい"できる気がする〜』
「えーと…"りょういきてんかい"ってあの怖いやつ?」
『えぇ〜怖くないよぉ、ななこちゃん守るやつなの!』
ぷいっと顔を背けたみぃちゃんは、じっと天井を見つめている。
『うぅん……なんか、できそうなんだよねぇ……』
みぃちゃんが、ふわりと宙に浮く。
その周りの空気が、一瞬ぐにゃりと歪んだ気がした。
『……ま、いっか〜』
壁と壁の間でぽーんとバウンドするみぃちゃん見て、私は少し笑った。
──まだ、何も始まっていない。
だけどここに来て、自分の存在を再確認した。
みぃちゃんがいる限り、私はここで、
──本当に?
みんながみぃちゃんを視て、
──違う、そんなの関係ない。
一抹の不安を振り払うように、目を閉じる。
私は普通でいられるんだ。だから、大丈夫。きっと、大丈夫──、
……だよね?
そうして私は、呪術師になるための一歩を踏み出した。