すぅ、とまぶたが持ち上がる。
視界が霞んでいる。ぱち、ぱちと瞬きを繰り返すうちに、徐々にクリアになっていく。
広がるのは、見知らぬ天井だった。
呪術高専に編入したばかりだから……そう思えば筋は通る。
けれど、それにしては、あまりに"見慣れなさすぎた"。
上半身を起こすと、すぐそばにカーテンの開いた窓があった。そこには大きな月が覗いている。雲ひとつなく、まんまるで、夜にしては明るすぎるほどだった。
そのせいか、部屋の中がぼんやりと照らされていた。
そして、気づいた。
ここは──初日に案内された、あの部屋じゃない。
「……っ、あ、そっか…」
脳裏に浮かぶのは、あの夜の出来事。
自分に憑いていた呪霊に触れた途端、おぞましい化け物に成ってしまった。
アイツは私の部屋をどんどん壊していってたっけ。
そして、みぃちゃんに抱えられて逃げた先で、悟さんに"自分で祓え"と言われた。夏油さんは"みぃちゃんのほうが強いよ"と助言をくれた。
だからみぃちゃんにお願いして、あの子は『領域展開』と呟いて──、
「……それから、どうしたんだっけ?」
そのあとは何も覚えていなかった。
ふと周りを見渡す。
胸にあったのは少しの不安だ。あの呪霊はどうなったのだろう。それをすぐに教えてくれそうなのは、いつもついてきてくれるみぃちゃんだけ。
だからその姿を探した。
「みぃちゃん……?」
『はぁい』
肩にトンと乗っかってきたのは、みいちゃんの顔。本当に生きている猫のように温もりを伝えながら、すりすりと擦り寄ってきた。
ホッと肩の力が抜ける。つい撫でてしまい、我に返ってから手を引っ込めた。
『なぁに?』
「……みぃちゃんは、あんなふうに急に怖くならない?」
『ならないよぉ』
「あの呪霊はどうなったの?」
『もういなくなった〜』
ふわりと浮いたみぃちゃんは、私にぐるぐる巻き付いていく。猫みたいだったのに、胴体が少しずつ伸びていく。
「ちょ、ちょっと……!」
慣れてきたとはいっても、目の前でミシミシと音を立てながら変形されては、少し気味悪さがあった。
手のひらでみいちゃんの体を押さえる。──と、ここで急にトイレに行きたくなった。
室内には、自分の荷物があった。立ち上がって、テーブルの上にあった折りたたみ携帯を開く。パカッと開けると、画面が光った。
"02:49"
表示された時間を見て驚いた。そして、日付を見た瞬間もっと驚いた。
私は、丸一日以上も寝ていたようだった。
「みぃちゃん、離れてくれる? 私トイレ行きたいかも……」
『ん〜?』
みぃちゃんは離れてくれたと思ったら、ずるりと床を這いずった。そんな姿を横目に、私は部屋の扉に近付いた。
扉の前に靴が置かれており、自分のものか思わず確認した。見覚えがあったのでそれを履く。
辺りを伺うように、ゆっくりと扉を開けた。
「……」
廊下は真っ暗だった。何かがうごめいてしまうほどの、闇。
急いで携帯を取りに戻り、画面を光らせた。
弱々しい光でなんとか足元を照らしながら、一歩を踏み出す。自分の足音がやけに響いた。
「……みぃちゃん」
『暗いねえ』
「一緒に来てくれる?」
『ななこちゃんとはいつも一緒だよ〜』
呑気に間延びした声に、やけに安心した。
浮かぶみぃちゃんを片手で掴み、反対の手で携帯を握りしめる。周囲を照らそうとも、ぼんやりとしか浮かび上がってこない。
夜。そして、見知らぬ場所。下手なお化け屋敷より怖かった。
……おかしいよね。廊下の角からどんなお化けが飛び出してきても、みぃちゃんのほうがよっぽど怖いはずなのに。
私はその怖いものにしがみつきながら廊下を歩いている。
しばらくさまよい、ようやくトイレを発見する。
電気のスイッチを発見し、パチリ、とボタンを押した。一瞬、瞬いてから真っ白い明かりが灯る。う、と目を細めながら、個室に入った。
たどり着けた安心感で、思わずホッと息をついてしまう。我慢していたものを解放できたせいもあるかもしれない。
──ぐぅぅ。
自分のお腹が緊張感なく鳴った。
トイレから出て手を洗い、お腹をさする。
何度、携帯の画面を見ても、日付は自分の知らないうちに一日進んでいた。
……そりゃあ、丸一日なにも食べてなかったらお腹すくよね。
『どうしたの〜?』
「ううん、お腹すいたなーって思って」
『ごはんたべる?』
「食べたいけど……何か持ってたかなあ…」
しっかりみぃちゃんを掴んでから、来た道を戻る。
ここは、どうしてこんなにも暗いんだろう。
妙に心臓がどきどきした。自分が歩く音でさえ気になった。
ようやく元いた部屋に戻れたとき、なんだかドッと疲れが出た。
部屋の中に置いてくれていた荷物を漁る。……いや、元々食べるものなんか持ってきてなかったような……。
携帯で時間を確認する。まだ、3時を回ったところだった。
寮だったら、寮母さんが3食準備してくれると聞いた。でもここが、その寮かも怪しい。
考えれば考えるほど、空腹感が強くなる。
──ぐぅぅ。
自分のお腹が、またもや抗議の音を上げた。
『ななこちゃんのお腹泣いてる〜』
すぐ隣で、みぃちゃんが笑う。
私はまたお腹をさすり、どうしようか悩んだ。
「……コンビニ、行ってもいいかな?」
こんな時間に空いてるところといえば、24時間営業のコンビニかファミレス、ファーストフード店ぐらいだろう。
その中で、ご飯を買ってすぐ帰ってこれる場所といえばコンビニがいちばん良いような気がした。
『こんびに?』
「うん。深夜まで開いてて、食べるもの買えるところ」
『わぁ、こんびに! すごいねえ』
「便利だよね。……でも、どうやって行こうかな」
窓に近づいて、外をそっと覗く。
自分が今いる建物から学校外に出るまで、どれくらいかかるんだろう。
それに、夜の校舎は不気味だ。何かが息を潜めて待つような気配を持っている。不用意にうろうろしたくないし、誰かに見つかるのも避けたい。
『外に出たらいいだけじゃないの〜?』
「うーん……外に出るのがちょっと怖いなって思って」
『怖いのはダメだねぇ』
みぃちゃんはぶるりと震えた。そして体の中から、ミシミシと音が上がる。
「ちょっと、みぃちゃん?」
『アタシがななこちゃんの怖い、消してあげる』
背中にコブがふたつ隆起したかと思ったら、バサッと勢いよく翼のようなものが開いた。
『乗って乗って〜』
くるんっと回ってみせたみぃちゃんは、こちらへ背中を向ける。
……猫に翼。神話に出てきそうな、奇妙な生き物に見えた。
「もうちょっと鳥っぽくなれない?」
『とりぃ〜?』
「そう。誰かに見られたら大変かなって」
『見えないよぉ、アタシは呪霊だもん』
「……あ、そっか、そうだった」
自分にとってみぃちゃんの存在が当たり前すぎて、すっかり忘れていた。
……じゃあ、もし誰かに見られたら、私が浮いてるように見えるってこと?
「……まあ、いっか。まだ起きてる人なんかいないよね」
『そうだそうだ〜』
窓を開けると、窓枠より大きいみぃちゃんは、ぐにゅりと体をひねりながら窓枠をすり抜けた。まるでスライムみたいに。
私はまず靴を地面に放ってから、窓の桟に足をかける。1階といえど、窓の桟から飛び降りるのは勇気がいった。ぎゅっと目をつぶりたくなるけど、足元が見えていないとダメだろう。
ひと呼吸おいて、えい! と飛び出した。
結局、足が滑って尻もちを着きながら着地した。
「いったぁ……!」
『だいじょうぶ〜?』
「うん、大丈夫……こんなこと初めてしたかも」
『楽しいねぇ』
服をはたきながら立ち上がり、思わずみぃちゃんを見つめてしまう。
"楽しい"──確かに。夜の学校は怖いはずなのに、自分の心臓は先ほどとは違う意味合いでどきどきしていた。
こんなふうに誰かと話して、行動を共にするのは初めて。こんな深夜に抜け出して、秘密ごとを共有するのも初めてだった。
……それはみぃちゃんのせいなはずなのに、もうそんなふうに咎めたくない。
「ほんとだね、ちょっとワクワクして楽しいね」
『ね〜』
「……みぃちゃんって、友達みたい」
月明かりに照らされたみぃちゃんはぼんやり発光していて、神秘的だった。
『……アタシは』
にんまりと口角を上げたまま、珍しく言葉を探しているように見える。
『アタシは、みぃちゃんだよ』
ふわりと浮いたみぃちゃんは、私のすぐ横に降り立った。そのへんに転がっていた靴を履き、背中によじ登ろうとする。
なかなかうまくいかなくて戸惑っていると、背中から手が2本生えた。するすると伸びる手は私を抱え、みぃちゃんの首の根本に座らせてくれた。
『こんびにって、どんなの〜?』
「えっと……見つけたら言うね」
『はぁい』
翼が高く持ち上げられ、力強く上下した。
一瞬、体に重力を感じたと思ったら、次にやってきたのはふわっとした浮遊感。
『むずかしいぃ〜』
「えっ、大丈夫……?」
『たぶんだいじょうぶぅ』
「た、たぶんはやめてー…!」
思わず目の前の頭にしがみつく。ふわふわとした触り心地は、本物の猫のようだ。じんわりとした温かさが伝わってくる。
……生きているみたい。
頬ずりをして、瞼を下ろし──ふと、気になった。
みぃちゃんは、出会った頃よりずっと大きくなった。そして、会話もできるようになった。
それどころか呪術高専に編入するまでの間、いろんな呪霊を食べ……いや、祓って、みぃちゃんが負けたことはない。
気がつけば"領域展開"というものが使えるようになっていて、夜蛾先生や夏油さんは、みぃちゃんを"特級呪霊"だと言う。
特級という意味も調べた。呪霊がどういうものかなんとなくわかっている。
それは、ずっとわかっていたつもりだった。
……私は呪術師になるらしい。
呪霊を……呪いを祓う者になるのに、みぃちゃんと一緒にいてもいいのかな……?
──考えたくない。
今、私と一緒にいてくれるのは、みぃちゃんだけなんだから。
… … …
しばらく飛んでいると、ぼんやりと光る看板を見つけた。
「あ、あった。あれがコンビニだよ」
『降りようかぁ』
暗闇にぼんやりと浮かぶ看板。それを指差すと、少しずつ高度が下がっていく。
後頭部をそっと撫でた瞬間、体が急にがくんと揺れた。重力が、崩れるかのように。
『あっ』
「えっ?」
みぃちゃんの体が傾く。
『降りるって、むずかしいねぇ』
飛行機が旋回するように、大きく傾いたと思ったら、そのままぐるんと一回転した。
声にならない悲鳴を上げた私がそこから落ちなかったのは、背中からまた生えた腕が掴んでくれたからだった。
そのまま、ぐるぐると空を撹拌されながら、地面が近づいてくる。まともな着地なんかできるはずもなく、みぃちゃんは砂ぼこりを立てながら地面をスライディングした。
ようやく地上に降り立ったとき、無茶苦茶な重力にさらされていた私は吐きそうだった。アスファルトの匂いが鼻につく。
「……ぅえっ」
『ごめんねぇ、また練習しとくねぇ』
「うん……お願いします…」
みぃちゃんにも不得意なことなんてあるんだな、と思いながら前を見る。
コンビニから少し離れたところに着陸してくれたようだった。誰にも見られずに済んだことに安堵するより先に、胃が反応した。
せっかくきたのに食べられるかな……。そう不安に思いながら、道端に座り込んだ。
「ごめん、ちょっと休憩するね……」
ふと風が吹き、返事の代わりのようだった。私はそっと瞼を下ろす。
辺りはしん、として静かだった。
胸の奥にある不快感が、じんわりと膨らんでいく。
自分の背中に、柔らかな温もりが乗った。それはまるで、手のひらで優しく撫でられているようだった。
少しだけ瞼を持ち上げ、隙間から隣を見る。ふわふわの毛並みが見える。そこにいるのはみぃちゃんだろう。
ひとりぼっちな私に寄り添ってくれる、みぃちゃん──、
ざぁぁ、と木々がざわめく。
不思議と、既視感があった。
──"だいじょうぶだよぉ"
頭の中で声が響いた。それは自分のものでも、みぃちゃんのものでもない。
──"ここはね、アタシの山だから"
でも、どこか聞き覚えがあった。私じゃない誰かの、でも私の中にある、そんな声。
──"ひとりはさみしい、さみしいねぇ"
私を誘い込むような、優しくて、寂しげで。
──"アンタがいれば、アタシはさみしくないのにねぇ"
間延びした話し方は、みぃちゃんに似ていた。
──"それに、アンタの力があれば、アタシはきっと元にもどれるよぉ"
……これは、誰の記憶?
──"だから、ずっと、一緒にいようねぇ"
……私の、記憶?
チリン──。
『……ダメだよぉ』
次に響いた声は、みぃちゃんのものだった。
『そっちは、思い出しちゃダメなほう』
額を湿った何かでざらりと撫でられる。目を開けたら、みぃちゃんの舌にざりざりと舐められていた。
『アタシは確かに"それ"だけど……でも、"それ"じゃない』
にぃ、と口角を持ち上げているみぃちゃんは、いつもと変わりないように見える。
大きな瞳と目が合った。じっと見つめる瞳孔は針のように尖っていて、私を見透かすようだった。
月を雲が隠すように、少しずつ薄暗くなる。みぃちゃんの瞳に滲む黒が、じわりと広がる。
黒曜石のような奥底に、ゆらゆらと自分の姿が浮かんでいた。
「……っ」
夜の深さをそのまま閉じ込めたような色なのに、どこか透けて見えそうで、その奥で何かが一瞬、揺らめく。
『一緒に思い出しちゃうのかなぁ』
それはまるで、目の中に、目があるような──。
『それなら忘れててほしい』
いつもは間延びした声が、凛として響く。
『もう何も、思い出しちゃダメ』
真っ黒のレンズの中央に、さらに濃く、何かが押し付けられるような影ができる。
『アタシとななこちゃんで、これからを生きるの』
"それ"と目が合っているような気がする。
でも、どうしてか怖くなかった。なんとなく懐かしいような気さえした。
『守ってあげる。何があっても、絶対に』
思わず、みぃちゃんに触れる。
『ななこちゃんの力、アタシだけちょうだい』
頬に、不意に鼻先を押し付けられて、つい目を閉じてしまった。
『……この前はちょっと試してみたけど、もうやめる。もう何も取り憑かせないから』
「……この前?」
『そう。あの小さいの、試してみたの。ななこちゃんの力がどうやって呪霊に効くのか』
小さいのと言われ、思い当たる節があった。不気味な妖精みたいなのが、自分の呪力のせいで成長したのは記憶に新しい。
「……わざと、だったの? あの小さい子を側にいさせたの」
『ごめんね。だって知っとかないと、ななこちゃんを助けられない』
「……」
『でも、もうわかった。他のは言うこと聞かないね』
「……襲われちゃったね」
『うん。アタシの中に入れないとダメみたい』
「……みぃちゃんに入れる?」
『そうだよ』
みぃちゃんはざり、と音を立てて一歩下がった。
『食べちゃえば、言うこと聞くんだよ』
がばぁ、と大きく開けた口の奥。……何かがうごめいている。それがわかるのは、時折光が反射したような艶がちらつくから。
「ひっ……!」
そのうちのひとつがこちらを向いた気がして、思わず悲鳴を上げてしまった。
『たぶんこれは使わなくても大丈夫。ななこちゃんがいればアタシは強いから』
みぃちゃんは口を閉じて、また、にぃ、と口角を持ち上げた。
『だから、思い出しちゃダメ。……でも……思い出してくれたら、嬉しいのかなぁ……』
ぽつんと呟くように言い、みぃちゃんは空を見上げた。
まんまるな瞳はきっと月を見ている。その横顔は、少し泣きそうに見えた。
かける言葉が見つからず、私はみぃちゃんをただ見つめる。
……今ので、私が忘れていることはひとつじゃないって確信した。
でも、そのうちのどれかを思い出してほしくないと、みぃちゃんは言う。それなら全部思い出してほしくないと言えてしまうほどの、何か。
みぃちゃんのためになるのなら、思い出してあげたいと思う。
けれど、そうじゃないなら……私は忘れたまま……みぃちゃんが言うように、今を…これからを生きたほうがいいの?
みぃちゃんだけに、全部を背負わせたまま?
みぃちゃんは私の覚えてないことを全部知ってそうな口振りだった。
それだけでなく、私の力のことまで理解して、あえて小さな呪霊を成長させていた。
そうやって、生ぬるい湯船に浸かったまま守られていて──私はそれでいいのかな?
思考が巡るわりに、答えは出なかった。
私が言えることは、きっとひとつだけ。
「……みぃちゃん」
立派な立ち耳がぴくりと動く。目だけがこちらを向いた。
「私、今までたくさん守られてきたんだね。気づいてなかっただけで」
喉の奥いっぱいにうごめく呪霊。それは、私がみぃちゃんにお願いした以上のものが詰まっているようだった。
「だから、みぃちゃんの思うようにする」
そして、そっと目を閉じておくよ。
「私は思い出さないから。……みぃちゃんのつらいこと」
グルル、と喉が鳴るのが聞こえた。
『アタシのじゃなくて、ななこちゃんのつらいことなのに〜』
細められた目は、少しいじけているよう。
──不思議だった。あんなにも怖くて、どこかへ行ってほしかったのに。
今はどこか可愛くて、頼りがいのある、私の友達。
助けてくれる場面がグロテスクなのがたまにキズだけど……それは、ご愛嬌だろう。
「……ありがとう」
『いいよお、アタシがしたくてしてることだからねぇ。……それにね』
にぃ、と緩んだ笑みを見て、"いつものみぃちゃん"に戻ったとわかる。
『ななこちゃんがくれた力で、アタシは強くなったんだよぉ』
『みゃおん』と鳴いたみぃちゃんは、私の腕をガジガジと甘噛みした。
『気持ち悪くなくなったぁ? こんびに行こ〜』
「あ、そうだった……!」
思い出したように、自分の胸へと意識を向ける。気持ち悪さはすっかり引いていた。
立ち上がって、お尻あたりを手で払う。ふわりと浮かんだみぃちゃんが、鼻先で擦り寄ってくる。思わず、その額を撫で返した。
つい、笑ってしまった。
心がすごく軽くなっていたから。
コンビニでは、おにぎりとサンドイッチ、そして水を買った。
ビニール袋を手に、自動扉をくぐる。外は、夜明け前の青に染まりかけていた。驚いて携帯の画面を見ると、時刻はすでに5時を過ぎていた。
「みぃちゃんやばい…! こっそり出てきたのにもう朝だよ……!」
『わ〜超特急で帰らないと〜』
緊張感ゼロの声に、体の力が抜ける。
まぁ、バレなきゃ平気かも……? そんな甘い希望を抱いた瞬間、両脇を抱えられ、体がふわりと宙に浮いた。
トン、と乗せられたのはみぃちゃんの背中だった。ゆっくりと空高く上昇していく。
背中から生えていた手が、私の体にぐるぐる巻き付いた。
『急げ〜』
「え、あ、ちょ……!」
次の瞬間にはもう、ジェットコースターで急降下しているときのような速さで、みぃちゃんが駆け出していた。
案の定、また重力にぐちゃぐちゃに振り回されて──地面に下ろされた頃は、ぐえっと吐き気を堪えていた。
窓から部屋に戻れず、壁に手をついて唸っていると背後から大きな声で呼ばれる。
「七瀬!! お前、どこ行ってたんだ!」
痛いくらいに心臓がドキ! と跳ねて、そろりと振り返る。
怖い顔した夜蛾先生がこっちに走ってきていた。
「ずっと寝てたくせに急にいなくなりやがって!」
ガタイのいい男の人に見下され、大きな声で起られると肩がすくむ。
「す、すみません……どうしてもお腹がすいて…」
正直に白状したら、ふっと息を吐くのが聞こえた。
「あれだけ寝ていたらそうなるだろう」
いつの間にか俯いており、そろりと顔を上げると夜蛾先生は小さく笑っていた。
「心配したんだぞ。……戻ってきてくれて、よかった」
ポン、と頭の上に大きな手のひらが乗る。
……なんだろう。目頭が熱くなる。
「……何か、あったのか?」
ぐす、と鼻をすすりながら首を横に振る。なのに、瞬きをしたらぽろりと涙が溢れた。
──正直、不安だった。こんな私が、呪術師としてやっていけるのか。
いつか見た夏油さんも悟さんもすごい身体能力で、みぃちゃんと渡り合えていた。
でも、運動音痴で何もできない自分。みぃちゃんがいないと、呪術師になれない自分。
今までに居場所を作れなかった自分が、存在する意味とは。
そんな私が、ここに戻ってきていいんだ。
そう思えたら、なんだかぐっときてしまった。
別に、家出したかったわけじゃない。でも、不意に投げかけられた言葉が、不安のどこかと噛み合ってしまった。
「……みぃちゃんがいないと何もできないけど……私、頑張ってみたいです」
みぃちゃんのために。そしたらきっと、自分のためになるから。
「何もできないことはない」
「……え?」
夜蛾先生は真剣な顔つきだったけど、どこか穏やかな目をしていた。
「呪霊を……みぃちゃんを強くできるのは、お前にしかできないことだ。それ以外にも、きっと……自分にしかできない何かを、見つけられる」
「……」
「だから、それを見つけるために頑張れよ」
夜蛾先生の優しい声を聞き、私は久しぶりに心の底から笑えた気がした。
『そうだよぉ』
気がつけば、みぃちゃんがすぐ隣にいた。にぃ、と見慣れた笑みを浮かべて、湿った黒い鼻先を私のちょんとくっつけてくる。
くすぐったくて、また笑ってしまう。今度は、私の方からそっと頬を寄せた。
みぃちゃんは私の胸に前足を掛けて、ざり、と額を舐めてくれたのだ。
──そんな、本来であれば微笑ましい光景を見て、夜蛾は目を見開く。
ふたりの距離感が縮まったのは、きっと良いことなのに……みぃちゃんの前足が、七瀬の胸に静かに沈み込んでいく。
まるで、ふたつの存在が融合するかのように、ズズ、と音が聞こえそうなほど少しずつ。
夜蛾は、言葉を飲んだ。
それほどまでに異質で──彼女と、彼女の"何か"だけの、聖域のような空間だったから。
更新だいぶ間が空いてしまいました……。
年度末と年度始めは忙しいのを失念してました。
これで序章は終わりになります。
引き続き頑張ります! またよろしくお願いします!
追記※ めちゃめちゃ確認してから投稿して、さらっと読み返したら誤字発見しちゃう現象ってなんなん……?