狼嵜光が特別な犠牲を見つける物語   作:Black Shadow

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今回は、結束いのり視点ssです。今後はいのりさんの脳を焼き切る予定でいるので、苦手な方は閲覧注意とさせて頂きます。ご了承くださいm(__)m。


狼嵜光の約束(12.5)

「ね、いのりちゃん。ちょっとだけ明浦路先生を借りても良いかな?」

 

 合宿中。陸トレのメニューはしっかりとこなし、先生に言われたことを黙々をやることに集中していたその時。

 丁度隣まで駆け寄って来た光ちゃんからそんな台詞を言われる。

 

 最初、ちょっとだけびっくりしすぎたため、すぐに「全然良いよ!」と快く返事をすることが出来ない。

 一体、私の明浦路先生に何の用があるのだろうと少し疑問に思ったからだ。

 

 自身はまだ練習の最中であったため途中で放り出すことも出来ない。

 怪我防止のためにも、体は入念に扱えないと意味が無いのだ。

 

 だが、先ほどの光ちゃんの言葉が頭の中から中々離れられない。

 そもそも、2人が会話しているなんてことは珍しい気がする。

 光ちゃんから明浦路先生の話題に触れることはこれまで少なかったし、私がコーチの話をするとやんわりと避けている印象があった。

 私の記憶だと、接点はあまりないと思っていたんだけど……。

 一体、どのような用件で私の先生に会いに行くのかが気になって仕方が無かった。

 

「いのりちゃん……? 顔色悪いけど、大丈夫?」

「え、うんうん!? ぜ、全然大丈夫だよ!? それより、司先生には何の用があるの?」

「ふふ。ちょっと最近会えてなかったから、少しお話しておこうと思って」

「そ、そうなんだ。ふーん」

「もしかして……嫉妬してる?」

「んぇ? べ、別にそんなことないもん!」

「アハハっ! いのりちゃんって分かりやすいなー」

 

 そんなこんなで、なんとなく了承してしまった私は、手を振りながら笑顔で去っていく彼女を黙って見守ることしか出来なかった。

 光ちゃんと出会ってからは、ずっとライバルとしてモチベーションを高め、どん底に陥ったあの大会から這い上がり。

 今年のジュニアGPではようやく光ちゃんの隣まで立てれる――そんな気がした。

 あの天才フィギュアスケート選手と名高い狼嵜光に並び、メディアにも取材を受ける日々が続く毎日。

 そんな自分は、周囲の環境と応援してくれた人達に生涯感謝と恩返しをしなくちゃいけない。

 目標は、最初から定まっている。それはもちろん、次のオリンピックで金メダルを取ること。

 4年に1度の大きな大会で、誰が世界一に相応しいかを決める実力勝負。

 全てのジャンプを成功させ、4回転の精度も上げないといけない。

 

 ただ、最近少し膝の負担が増している気がする。表情には出していないものの、違和感を覚えたのはそう遅くはなかった。

 司先生は、すぐに私の異常に気付いてくれた。

 流石に長年私のコーチをやっているせいか、微変にすぐ察知する部分は素直に嬉しいなと思うくらいだったけど。

 今回に関しては、そうもいかない事情があったことも事実だった。

 

「光ちゃん……なんか。最近様子がおかしい気がする」

 

 これが女の勘だろうか。

 何か、絶対に見逃してはいけない瞬間が存在することは確かだった。

 あのフィギュアスケートで頂点を取ること以外に興味の無い彼女が、ここ一年の間で練習量を減らしていることは周知していた。

 

 ノービスとジュニア時代から腰の疲労が溜まっていたことから、今はまだ制限をかけて行っているらしい。

 でも、4回転ジャンプを再開する日は近いと彼女は言っていた。

 

 いつ、どこの大会で披露するのかは分からないけど。

 もしも、全日本ジュニアのような奇跡を起こす瞬間が来るのであれば。

 

 そう思いながら、今行っている陸トレの練習を中断し、そっと光ちゃんの後を付いていくことに決めた。

 

 本当はこんなことしちゃ駄目なのは分かっているけれど。

 でも、私の中で、どこか譲れない部分があることだけは確かだった。

 

 コーチの休憩室らしき部屋に向かっていった光ちゃんを確認し、そっと近くまで忍び寄る。

 

 中に誰が居るのかまではまだ分からないけれど、そこに司先生の声が聞こえてきたことは確かだった。

 

「か、狼嵜選手っ!? こんな場所まで来てどうしたんだ?」

 

 珍しく、司先生が動揺している所を見た気がする。

 今思えば、二人の会話を聞くのはこれが初めてかもしれない。

 

 自分の心のどこかで、チクりと痛む感覚をこの時は味わっていた。

 

 だけれど。

 

 ――全てを捨てる覚悟が、まだ出来てないみたいですね。

 

 その一言を聞いた瞬間、私は思わず息を呑んだ。

 

 扉の向こう側。さっきまでの光ちゃんの声はいつも通りだったのに、どこか刃物みたいな鋭さを帯びていた。

 

「いきなり……何の話だ?」

 

 司先生の声も普段より低い。

 私は壁に背中を預けながら、聞こえてくる会話に耳を澄ませた。

 

「分からないふりをするんですか?」

「か、狼嵜選手?」

「私、ずっと不思議だったんです」

 

 そう言ってから、少しだけ間が空いた。

 光ちゃんは何かを確かめるように、人の心を探るかのようにそのまま続ける。

 

「どうして明浦路先生は、いのりちゃんだけなんだろうって」

 

 瞬間、胸がどくりと鳴った。

 どうして、この場面で私の名前が出てくるのだろうか。

 

 この時から、徐々に自身の心臓に異変な動きを感じた。

 

「必ず、あの子を金メダルを取れる選手にして見せるんだって、誓ったからね」

「それは、本当に?」

 

 光ちゃんが微かに笑った気配がした。

 だけど、その笑いは楽しそうじゃない。

 

 この二人は、一体どういう関係なのだろうと気になって仕方がない。

 だけど、私が踏み込んではいけない領域であることだけは確かだった。

 

「私もたくさんのコーチを見てきました。選手に人生を賭ける人は確かにいます。でも、あなたは違う」

 

 感情のない言葉で発する光ちゃんを見て、私は絶句する。

 それと共に、徐々に自身の呼吸が荒くなっていくことを感じた。

 

「あなたは、自分の人生そのものをいのりちゃんに預けてる」

 

 私は思わず口元を押さえた。

 何を言っているんだろう……光ちゃんは。

 司先生も、どうしてここで、すぐに言い返さないのだろうか。全くもって、私には理解できなかった。

 

 一体、さっきから二人は何の話をしているんだろう。

 

「……買い被りすぎだよ。それは間違ってる」

「そうでしょうか?」

 

 光ちゃんの声が、ここで少しだけ柔らかくなる。

 

「私には羨ましく見えましたよ」

 

 どうしてそのセリフが光ちゃんの口から出たのかは分からなかった。

 その言葉が意外すぎて、私は目を瞬かせる。

 

「私には、そういう人がいなかったから」

 

 今度は司先生が黙る番だった。

 光ちゃんが自分のことを話すのは珍しい。

 

 少なくとも、私の知る彼女は、自分の内側をほとんど誰にも見せない。

 

「皆、私に期待しすぎたんです」

 

 淡々とした声かと思いきや、心の底から失望しているんだと思わせるような声のトーンで。

 

「勝つことを期待して、才能を期待して、結果を期待する」

 

 私は知らず知らず拳を握っていた。

 手に汗を握っているような状態で。

 

「だから、私が負けた時のことなんて……誰一人考えていない」

 

 あの日の全日本ジュニア……私が負けた大会。そして、光ちゃんが優勝した大会。

 メディアは光ちゃんを一斉に称賛し、スケート業界はより一層、彼女を中心に世界が回っていた。

 

 けれど、その裏光ちゃんが何を抱えていたのかを、私は知らなかったのだ。

 

「だから、少しだけ確認したかったんです。もし、いのりちゃんがこの先、スケートを続けられなくなったら――」

 

 呼吸が止まる。心拍数がさらに上昇する。

 やめて光ちゃん――。それ以上は、その先の言葉だけは絶対に言ってはダメだ。

 

 司先生のせいなんかじゃない。私が勝手にコーチをお願いして、勝手に司先生の時間を奪ってしまっているだけなのに。

 だから、それは絶対に違う。違うんだよ――光ちゃん。

 

「あなたは、どう責任を取るつもりですか?」

 

 その質問に、司先生はすぐ答えなかった。

 長い沈黙……数秒だったのかもしれない。

 

 でも私には、その数秒間は。何分にも、何時間にも長く感じられた。

 

「……支えるよ。選手としてじゃなくても」

 

 静かな声だった。

 私は目を見開いた。

 

 司先生なら、そう言ってくれることを期待していたからだろうか。

 心のどこかで、ちょっとだけ安心してしまっている自分が居て。

 

 それを自覚してからは、とてつもなく罪悪感を感じるようになってしまう。

 そのことが、自身の心を貪る要因にもなった。

 

「スケートが出来なくなっても、夢が変わっても、俺は支えるよ」

 

 胸の奥が徐々に熱くなる。目頭が徐々に熱くなる。

 

「どんな未来になったとしても、それが俺の選択だからね」

 

 本当に、涙が出そうになった。

 

 どうしてだろう。

 今の言葉を聞いて、嬉しいのだろうか。

 それとも、恥ずかしいのだろうか。

 

「だから、いのりさんは――」

 

 分からない……ただ、その言葉が真っ直ぐすぎて。

 結束いのりの心に深く刺さったことだけは、確かだった。

 

 でも、なぜだろうか。

 先ほどから、違和感を感じるようになったのは。

 

 これは、自分が望んでいる『司先生』の偶像でしかなくて――。

 

 本来は、全然違うのではないかと勘繰ってしまったのがいけなかった。

 

 ぐらりと景色が歪み始めて、そこからの会話はうまく聞き取ることが出来ない。

 

 あれ……。どうしてだろう。

 私は今まで、何をしていたんだっけ。全く思い出せない。

 

 徐々に記憶が失われていく自分を感じる。

 

 合宿している最中に光ちゃんを追いかけて――それから何が起こったのだろう。

 さっきまで覚えていたはずの風景が、一瞬にして消え去っていく。

 

 跡形もなく、初めから何もなかったかのように。

 

 そうして、気が付いたら現実に戻っていて。

 

 自分の部屋で、ベッド上で飛び起きたその瞬間。

 気づいてはいけないことに、気づいてしまった。

 

「ああ……ああああああ」

 

 突如、猛烈な吐き気が襲ってくる。大量の汗が体に噴き出るとともに、すぐさまゴミ箱に駆け寄って全てを吐き出した。

 

 今までリアルだと思っていたことが、全て夢だと気づいた瞬間に、胃液が込み上げてきた影響だろうか。

 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。

 

 落ち着け……自分。

 ゆっくり呼吸して、何もかも忘れれば大丈夫なはずだ。

 

 これからは、ちゃんと一人でやっていける。

 だから、何も心配することはない。大丈夫。

 

 司先生が居なくなってから数か月が経った今でも、しっかりと結果は残せているのだから。

 

 何をそんなに怖がっているんだと自問自答する。

 感情をなくしてしまった今、冷たい氷の世界で無意識に道化のように演じて。

 

 それが上手くいっているのであれば、それで良いじゃないか。

 

 じゃあ、さっきの夢は何だった。

 まるで、自分が言ってほしい言葉を。自分が期待していた言葉を。

 

 勝手に設定として作り上げて。勝手に捏造して。

 

 光ちゃんのコーチになったことが気に食わなくて。だから、彼女を敢えて敵に回すシチュエーションを作って。

 

 本来、光ちゃんがあんなことを言うわけがないのに。

 司先生が私のことをどう思っているかなんて、本来分かるはずがないのに――。

 

 そんな自分がどうしようもなく気持ち悪くなって、また更に嘔吐する。

 血が混ざっていることにも気づかずに、正常に働かない頭の中で勝手に嫌な思考が巡ってくる。

 

 『お前が――司先生の人生を壊したんだ』

 

 『ほかの人よりも良い環境で恵まれてきたくせに、先生の時間まで勝手に奪うなんて、どうかしてる』

 

 『君が関わったせいで、大切な人達がどれだけの犠牲を払っているか……知らないんだ?』

 

 そう周りから言われてるような気がして、更に自分を責める。

 

 やめろ――これ以上は考えるな。

 誰かから、そんな幻聴が聞こえ始めてからは、何も考えない方が落ち着く。

 

 私は、ただ無情に氷の上を滑っていればそれだけで良い。

 

 次の大会も、またその次も――。

 優勝すること以外に、道は無いのだと。

 

 だから、誰の手も借りずにこれからは生きていかないと、ダメだ。

 

 私みたいな、誰かの足を引っ張るような人間が、のうのうと人生を歩んではいけないのだ。

 

 そう思ってから、私はまた更に――嘔吐した。

 

 

――――――――――――――――

 

 私、結束いのりは司先生のことが大好きだ。

 

 まだ心も体も幼かった私を見捨てず、ここまでずっと支え続けてくれた先生。

 たとえ失敗したとしても、その温かくて大きな手でこちらを引っ張ってくれる……そんな存在。

 

 そんな中、諏訪湖に訪れた時は、私の中で一つの感情が芽生える。

 眠くなった私を車までおんぶしてくれた時、先生の背中は太陽のように熱かった。でも、そのやけどするような熱さに身を任せたまま、私は一つだけ確信していた。

 この先生は、『スケートをやるために生まれてきた人』なのだと。

 あんな優しくて、カッコよくて、綺麗なスケートが出来る先生は一人しかいないのだと思った。

 

 だからこそ、ずっとあの体に守られていたんだと感じる。

 氷の世界でいくら傷ついたとしても、どんなに転んだとしても。

 最後には、私の一番信頼している先生が、逃げずに出迎えてくれる。

 そう思う程までに、自分の心は彼に依存していた。

 

 けれど――私は知っていた。

 いつまでも、その優しさに甘えてはダメだということを。

 

 大会でジャンプをことごとく失敗し、ステップシークエンスもLevel4を取れなかったあの時。

 司先生が、そっと自身のコートを被せてくれたことは今でも覚えている。

 何か言葉をかけて来るのではないかと思っていたが、敢えて何も言わずに抱きしめてくれた。他の先生だったら、文句の一つ言ってきてもおかしくない状況だったのに。

 結果が出なくても、どんなに惨めな結束いのりであっても。

 司先生は、常に正しいコーチであり続け、私を見捨ててくれない。

 そんな彼を、絶対に世界一のコーチにしてみせるんだと誓った。

 

 だけど――。

 

「これから一年間、狼嵜選手の元でコーチをすることになった」

 

 司先生の口から、その言葉を聞いた時。

 一瞬、時間が止まったような気がした。

 

 ああ、やっぱりその件について話がしたかったんだと思った。

 夕方に、光ちゃんから言われたことは、間違っていなかったのだと確信してしまった。

 

 どうして、なんで。

 そんな理由を問う暇もなく、ただただ何も考えられなかった自分が居た。

 

 ジュニアGP。ショートプログラムが終了したあの日の夜。

 部屋で少し大事な話がしたいと言われてからは、嫌な予感はしていた。

 

 だから、何を言われてもいいように、覚悟は決めていたつもりだった。

 

 スコアでは暫定1位を取れたものの、司先生が納得する滑りを見せることが出来なかったからかもしれない。

 もしかしたら、今日の私のスケートを見て、期待外れだなと思われたのかもしれない。

 

 そう感じて、明日のフリープログラムでは今日以上に最高のパフォーマンスをしてみせるんだと、説得するつもりではあった。

 

 見放されないように。これ以上、幻滅されないように。

 でも、もう時は既に遅かったのだと気づいてしまった。

 

「必ず戻ってくる。だから、それまで待っていてほしい」

 

 淡々と、そんなセリフを平気で言ってしまう彼を見て、一つの信頼が崩れてしまったのだと感じた。

 

 これは、司先生のせいではない。

 私が生み出してしまった……長年蓄積された罪を償う時が来てしまったのだと。

 

 そもそも、こんな素晴らしい先生を独り占めすること事態、おかしかったのだ。

 

 私が、司先生を束縛してしまったから。

 私が、彼のスケート人生を終わらせてしまったから。

 

 本来はもっとメディアに取り上げられて、夜鷹純以上に注目の的になるぐらいの選手になるはずだったのに。

 

 それならば、優秀な生徒のコーチに付いた方が、司先生の実績にもなる。

 もっと言ってしまえば、こんな落ちこぼれの私なんかよりも、品があってスケートの才能も天才で……全ての人を魅了する光ちゃんの方がお似合いだと思っていた。

 

 だから、私はこの現実を受け入れなければいけない。

 

 司先生は、必ず帰ってくると言っていたけれど。

 それは、きっと彼の優しさで。そこが、どうしようもなく大好きで。

 

 だから、私がまた甘えてしまうことで、彼の時間を潰してしまう。

 

 そんなことは決して、許されないことで。

 絶対に引き留めてはいけなくて。

 ずっと私の面倒を見て欲しいだなんて、駄々を捏ねる年齢でもなくて。

 

 そんな自分に嫌悪感を抱き始めて、ようやく納得して。

 

 でも――自制だけが、効かなかった。

 

「なんで……光ちゃんなんですか?」

 

 自分でも、驚くほどに低い声が出ていた。

 司先生を目の前にして、ここまで冷たい声を発したのは初めてだった。

 

 やめろ自分。それ以上は言っちゃだめだ。

 

「どうして、私じゃダメなんですか? 今日の滑り……最高だったって、言ってくれたじゃないですか」

 

 徐々に、感情が表に現れてくる。

 こんなことをしたって、司先生の迷惑になるだけなのに。

 

 思い返してみれば……この時の自分は、史上最悪だったと言ってもいいだろう。

 

 対して、司先生は少しだけ目を見開いただけだった。

 それだけだった。

 

 怒りもしない、困ったような顔もしない。

 

 ただ、静かに私を見ていた。その視線が、なぜだか妙に苦しかった。

 

「いのりさん――」

「私、もっと頑張れます」

 

 今度は、被せるように言う。

 言葉を最後まで聞いたら駄目な気がしたからだ。

 

「もっと練習します。4回転だって、もっと安定させてみせます。ステップだって、まだまだ上手くやれます」

 

 気づけば拳を握り締めていた。

 

「だから……」

 

 違う。

 本当に言いたいことはそんなことじゃない。

 

 だが、司先生の優しさが、更に私を追い詰める。

 

「だから……置いていかないでください」

 

 言ってしまった。本当であれば、言いたくなかった。

 言葉にした瞬間、自分で自分を殴りたくなった。

 

 最低だ……こんなの子供でしかない。

 司先生には、司先生の人生があるのに、なんで自分は引き留めてしまっているのだ。

 

「私、まだ一人じゃ――」

 

 声が震えて止まらない。

 世界を目指す選手が何を言っているんだろう。本当に情けない。

 

 でも、次から次へと言葉が止まらない。

 

「司先生がいたから頑張れたんです」

 

 涙が零れ落ち、長年溜まっていたものが溢れ出す。

 

「司先生がいたから、私はスケートを続けられたんです」

 

 一滴。

 そして、また一滴。

 

「司先生がいなかったら、私なんて――」

「いのりさん」

 

 司先生に名前で呼ばれた。

 それだけで言葉が詰まるような感覚を覚える。

 

「俺は君を置いていかないよ」

 

 静かで、熱意のある声だった。

 けれど私は首を振った。

 

「嘘です」

「……」

「だって行くじゃないですか」

 

 声が掠れる。子供のわがままが炸裂し始める。

 

「光ちゃんのところに」

 

 初めて口にした。

 ずっと飲み込んでいた本音を。決して出してはいけない心の内を。

 

「私より才能があって」

「いのりさん」

「私より綺麗で」

「聞いてくれ」

「私より強くて」

 

 止まらない。

 止まるはずがない――。

 

「私より――」

「いのりさんッ!!」

 

 初めて強い声が飛んだ。

 びくりと肩が震えるとともに、部屋が静まり返った。

 

 顔を上げると、司先生は苦しそうな顔をしていた。

 

 それを見た瞬間、胸が締め付けられる。

 

 ああ……まただ。

 また私は、先生を困らせているんだ。

 

「貴方は、これまでにたくさんのものを積み上げてきた」

「で、でも!」

「貴方がここまで来たのは、貴方自身の力なんだよ」

「それは……違いますよ」

 

 私は即答して否定する。

 私一人の力でここまで来れることなんて、絶対に無かった。

 

「全部、司先生のおかげなんです」

 

 思わずそう口にしていた。これまでも何度も同じことを言ってきたつもりだった。

 

 息が荒くなる。

 視界が滲む。ずっと心の奥に沈めていた感情だった。

 

「私なんか、本当は何も持ってない! 才能もない!」

「いのりさん……」

「光ちゃんみたいに、生まれつき特別じゃないっ!」

 

 喉が痛い。

 それでも叫ぶ。叫び続ける

 

「だから必死だったんですっ!」

 

 司先生に見捨てられたくなくて。

 

 認めてもらいたくて。

 褒めてほしくて。

 隣に立っていたくて。

 

「全部……全部、司先生のためだったのに」

 

 言った瞬間だった。

 自分でも何を言ったのか理解してしまう。

 

 沈黙。

 長い沈黙。

 

 司先生は何も言わないのに対して、私は顔を上げることが出来なかった。

 

 コーチに対して、選手として……絶対に言ってはいけないことを言ってしまった。

 

 最低だろうか。もしくは、今のを聞いて気持ち悪いと思われただろうか。

 それとも、こんな感情を向けられて、重いと感じてしまっただろうか。

 

 普通の先生からしたら、こんな生徒……迷惑に決まっているはずなのに。

 

「ごめん、なさい……」

 

 謝るしかなかった。

 謝って、忘れてもらうしかなかった。

 

 だが――次の瞬間。

 頭に大きな手が乗せられた。

 

「え……?」

 

 顔を上げる。

 司先生は泣きそうな顔で笑っていた。

 

「もっと、早く気づくべきだった」

 

 その言葉の意味が分からなかった。

 どうして。なんで。

 だって、今のは全部……私のわがままでしかなくて。

 

「俺は……コーチ失格だ」

「そんなこと――」

「あるよ」

 

 司先生は首を振った。

 

「君にこんなことを言わせるまでに追い詰めてしまった」

 

 その言葉を聞いて、自然と胸が痛くなる。

 違う。違うのに。

 本当だったら、謝らなければいけないのは私の方なのに。

 

「聞いてくれ、いのりさん」

 

 真っ直ぐ目を見る。

 逃げ場がないくらい真っ直ぐに。

 

「俺は狼嵜選手のところへ行く」

 

 心臓が止まりそうになる。

 ああ。やっぱり見捨てられたのかと思った。

 そんなのは当然で、至極当たり前のことで。

 

 こんな面倒くさい子供に、ここまで付き合ってくれたことに感謝しかなくて。

 

 でも――。

 

「それでも帰ってくる。君が待っていても、待っていなくても……俺は貴方のコーチだから」

 

 その言葉は。

 何より優しくて。何よりも残酷だった。

 だから私は、その場で子供みたいに泣き崩れることしかできなかった。

 

 引き留めたかった。行かないでと言いたかった。

 ずっと隣にいてほしかった。

 

 でも、それを言ってしまえば。

 本当に司先生の人生を縛ってしまう気がした。

 

 だからこそ――。

 

「……待ってます」

 

 絞り出すように言う。

 声は震えていたが、それでも言わなければいけないことがある。

 

「そこまで言ったからには、ちゃんと帰ってきてくれないと……ハリセンボンですよ。司先生」

 

 それが、この時の私にできる……唯一の発言だった。

 これが、正しかったのかはどうかは、今でも分からない。

 

 でも――それは。

 ただの偽りの言葉でしかなかったなんてことは、口が裂けても言うことは出来なかった。

 

 

 

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