灰色の髪の女を助けたことで、町へと招かれ食事に招かれることとなった。
魔剣がささやく呪いの言葉を考えると町で過ごすのはどうかとも思ったが、つい招かれてしまったのだった。
その晩は、全力でもてなすというだけあって豪華な食卓だった。広い庭で大きなテーブルに並べられた料理を自分でとる。このあたりだとそういう感じらしい。
よりどりみどりで俺としては嬉しい。町の人間も招いているようで、それなりに笑い声が聞こえてくる。多分、灰髪は町の行き詰まった雰囲気をなんとかしたかったのだろう。俺のもてなしは単なる口実だ。
「うまいな。このタレが、いい」
つい感想をつぶやくくらいに、料理がうまい。肉にかかった甘辛いタレが猛烈にうまい。舌鼓を打つというのはこういう時に言うのだろうな。
しかし、豪華すぎるもてなしでもある。命を救われたことにそれだけの価値を見出す。そういう人間はいる。灰髪は自分というより、仲間を助けてもらったことに価値を見出していそうだが、それにしてもだ。
町の救世主だの、随分子供のようなことを言っていたが、それも関係しているのかもしれない。
「ごきげんよう、ゴート。楽しんでいる?」
「トカゲを殺せばいいのか?」
単刀直入な俺の物言いに面食らったか、おしゃべりな口が閉じられる。
「あなたは……いや、そうね。本当はあなたに純粋に楽しんで貰えたらと思っていたのだけど。回りくどい話はなしにするわ。3日後、私たちは街道に住み着いた岩トカゲを討伐に行くことに決めたわ。できれば、ゴートにも協力してほしいのだけれど」
トカゲ討伐への協力か。それはできないな。
「協力はできない。俺にも都合があるからな」
灰髪が言葉に詰まり、目を伏せた。
「そう……よね。ごめんなさい、勝手を言って。あなたの部屋は用意してあるから、今晩はそこで休んで。……楽しんでいってね」
とぼとぼと、意気消沈した様子で離れていく姿に、ちょっとだけ心が痛む。
だが、協力などできない。トカゲが群れでいるというなら、それは全て俺の獲物だ。俺が、魔剣が皆殺しにする。第一、そんな場所に他の人間がいたら、一緒に斬らずにいられるかは自信がない。
ま、討伐の手間が省けるわけだから、別に悪いことではないはずだ。
***
用意された部屋に入り鍵をしめる。ベッドに腰掛けて、硬く手を握りしめる。部屋の外からはまだ盛り上がっている人たちの声や、軽やかな音楽が聞こえてきている。
別に今すぐにトカゲの群れを襲いに行ったってかまわない。むしろ、魔剣が騒ぎ出す可能性を考えると、それが一番いい。だが、あと少しだけ、このにぎやかさに包まれていたいと思った。
「そうだよな、町って、こんな風ににぎやかだったよな」
もうずいぶんと長いこと、人の多い場所は避けてきた。そのせいで忘れていた感覚を思い出してきた。
今はまだ、町で暮らすことはできない。人の中にいられたらと思うけれど、魔剣がある以上、それはかなわぬ夢だ。
「父さんのように、ってのは難しいなぁ……」
本当は人を守る剣士になりたかった。でも俺の魔剣では、いつ俺自身が人を襲うかもわからない。その様では守るなんて遠い話だ。ならせめて、人から離れた場所で、魔獣を殺していたい。
魔獣は人を襲う生き物だから、俺が魔獣を殺せば、その分だけ人が助かるのだ。そう思って、ずっと過ごしてきた。
部屋にこもり、魔剣を握り締めてただ食いしばる。本当にそうならいいのに。
***
そのまま黙って周囲の音を聞いていた。気がつけばとっぷりと夜は更けて、あたりは静かになっている。
もう、人の声は聞こえない。いつまでも部屋に籠っていたって仕方もない。それに、だんだんと魔剣がささやき始めてきた。
「……しんみりしてる間くらいは黙ってられないのか、クソ剣め」
ベッドから立ち上がり、伸びをする。さっさとトカゲを斬って、魔剣を満足させてやるか。扉を静かに開けて、廊下へ出る。
真っ暗な廊下に、白いシルエットが浮かぶ。
灰髪だ。
俺がまさか部屋を出てくるとは思っていなかったのか、びくりとしている。
白い寝巻きで、灯りを持っている。こんな時間に何をしているのか。自分を棚上げしてそんなことを考える。
だが灰髪は、着替えもせずに旅装のまま出かけようとしている俺を見て、それが何を意味するかを悟ったようだ。
「まさか、一人で行く、というわけではないわよね……?」
だから何だというのか。俺が黙っていると、なぜか彼女は狼狽しながら、近づいてくる。
「な……なんでなの? だって、少し待っていれば、私たちが討伐するから、あなたが行かなきゃならない理由なんてないのよ……?」
討伐などと言うが、それが簡単ではないことは分かっているのだろう。声が、手も、体も震えている。
本当に自分たちだけで討伐出来ると、全く思っていないことがありありとわかった。何せ灰髪はそのたった一匹に殺されかけているのだ。
俺がいなければ確実に殺されていた。その恐怖が色濃く顔に現れている。
こんな時間に俺の部屋まで来たのは、岩トカゲを退けた俺を見て安心でもしたかったのだろう。もしくは、俺をもう一度説得しに来たのか。
戦いに慣れていないだろうに、町を束ねる一族のものとして責任感を感じているといったところか。
「本当に、ほんとに死んじゃうのよ? わ、私の父だって……帰ってくるって、そういってたのに」
灰髪がうつむく。そして、顔をあげると俺をにらみつける。
「絶対に、行かせないから! 一人じゃ、殺されるだけよ!」
その懸念は正しい。常識的な町の人間としては、俺が一人で向かったところで死にに行かせるようなものだと考えてもおかしくはない。
だが、俺には魔剣がある。
魔剣がキィンと鳴り始める。俺の戦意に反応したか、灰髪の高ぶった感情に身体に反応したか。
まだ、黙っていろ。すぐにいくらでも殺していい相手を用意してやるから。
そんなことを考えていたら、灰髪がなぜか俺に抱き着いてきた。なんだ? まずい、話を聞いていなかった。いや、どんな話をすればほとんど初対面の旅人に抱き着くことになる?!
分からない。分からないが、こいつがとにかく不安でたまらないんだろうことは分かった。さっきから震えているから分かりやすい。鈍い俺にも分かる。なら安心させてやろう。
「俺は魔剣に呪われている」
俺の言葉に灰髪が困惑している。胸元に寄せていた顔をあげて、俺の顔を見ている。俺は彼女の肩を押して、引き離す。そしてぼろ切れに包まれたままの魔剣を露にする。
黒い刀身に、蠢く赤い紋様。灰髪も魔剣の異様な雰囲気に気が付いたようで、口元を抑えている。
すぐに魔剣をぼろ切れで包み直す。その間にも、その視線は俺と魔剣を往復している。
「トカゲは殺す。この魔剣なら容易いことだ。……もう寝ろ。俺は行く」
「ま、魔剣があろうと、あなただけで戦えるような相手じゃないのよ……? だって、あんなに大きくて、数えきれないくらい、いるのよ……?」
そうだ。何十といる。だからいい。他の奴らにくれてやるには勿体無い命だ。トカゲを俺が皆殺しにして、その後に町の連中を斬ればそれが一番いいのだが。──いや、いいわけあるか。どうも魔剣の悪意が思考に混じる。
今更こんなところで問答しても無駄だ。安心させてやろうと思って話したのに、全然効果なかったみたいでちょっと恥ずかしいし。
俺のゆるぎなさに気が付いたのか、灰髪の顔にあきらめが混じる。
「せめて、見送りくらいは……」
俺がさっさと行こうとしたことに気がついたようで、灰髪は俺の服をぎゅっと握りしめ、そんなことまで言ってくる。
でも駄目だ。もうそろそろきつい。人にいてほしくない。だって殺してしまいそうだ。
「いらん。俺は、──あんたの名前も覚えてないんだ」
俺を引き留めようとしてつかんでいたらしい服が離される。これ幸いとすれ違うように先へ進む。振り向かないままに、その場を足早に去る。
灰髪はその場に立ったまま着いてくることはなかった。
自分で言っておきながら、かなり酷いことを言った自覚がある。さすがに気まずい。でも他に何を言えばよかったのか。早くも魔剣が戦いの気配を感じ取って騒ぎ始めた。ああ、早く殺さないと。
もし彼女への言葉を妹に聞かれていたら。多分、半日はお説教を受けることになるな。どうしてそんなひどいことを言ったのと、ひと月位は口をきいてくれなくなる。
だからとてもじゃないけど言えない話だ。ああ、また一つ、家族に言えない秘密ができてしまった。が、こればかりは仕方ない。
──だってもし人を殺してしまったら。
そうしたら家族に合わせる顔がない。何もない町の中であって、魔剣の声に引きずられることがあるのだ。殺し合いの鉄火場で声に抗えるという保証はない。
共に行けば俺が殺してしまう。だからしかたない。脳裏に浮かぶ妹や母の責めるような顔から背を向けるように屋敷を後にする。
父は、多分仕方ないよなぁって笑ってくれる気がする。そしてお説教に巻き込まれるのだ。でも、それは素敵な未来だ。俺が家族の元へ帰る、そんな夢の話だ。
きっと彼女にもそんなたわいない夢があったはずだ。でも彼女ではそれはかなえられない。だから俺がやる。だって、魔剣にできるのは、俺にできるのは殺すことくらいだから。
ただ駆ける。防衛のために閉じられた西の門を、魔剣によって拡張された身体能力にものを言わせて飛び越える。
魔剣はすでにこれからの殺戮に向けて興奮し続けている。頭に響く声は割れるほどに大きく、俺に注がれる力は普段よりもさらに大きい。
***
荒野は巨大な壁のような断崖絶壁に囲まれている。その壁の大きさからすればわずかな、人から見れば大きな亀裂へと街道は続いていた。
確かに魔獣の気配を感じる。おかげで魔剣が興奮し続けている。ボロ布を取り払えば、刀身に映し出されている真っ赤な紋様がグネグネと躍り散らかしている。
気味の悪い魔剣ではあるが、その力は確かだ。さっさと捨て去りたいものだが、今はその力が有難くもある。
壁の亀裂、まるで谷のように両側を迫る壁の隙間を歩く。隙間といえども壁から見たらの話で、人間から見れば4頭立ての馬車を3台でも4台でも並べられるくらいの幅がある。
それなりに旅を続けているが、こういう道は魔獣や盗賊、騎士団なんかに封鎖されやすいからあまり好きではない。今回みたいに魔獣の住処になっているなら歓迎だが、相手が人間だと逃げるしかないから嫌なのだ。
両側の壁は凸凹している上に、所々浅い洞穴もできている。壁に正対して見れば浅い穴ではある。だが道をまっすぐに進むものからすれば、魔獣が潜んでいてもおかしくない死角になる。この穴ボコを巣にして岩トカゲが増えたというのだろう。まあ岩トカゲと名前にあるように、この岩場は隠れ場も多いし、待っていれば人間という獲物が通る。相当いい立地なわけだ。
谷に俺の足音だけが響く。対して大きくないけれど、深夜の静けさのせいか、嫌に耳につく。そういえば岩トカゲは谷のどのあたりにいるかを聞くのを忘れていた。この足音で気がついてくればいいのだが。気づかれなくて素通りなんて最悪だ。いっそ歌でも歌いながら歩くか? あまり種類は知らないが、童歌の一つ二つなら自信がある。ん、んんと咳払いをする。
「あ、あ~」
ピリリと肌をさす敵意。釣れたようだ。歌いだしてすぐなのは少し不完全燃焼だが、これからのことを思えば大したことではない。声を出すのをやめて、歩みを止める。
すでにやつらは近づいてきている。静かな谷に、トカゲの足音が響く。地面を擦るような音だ。それがあたり一面から聞こえてくる。
いいぞ、もっと集まってこい。魔剣を握り直す。魔剣はすでに臨戦態勢、いや捕食態勢とでもいうべきか。刀身が高く鳴る。知らず、俺も舌舐めずりしていた。
まだかまだかとその時を待つ。棒立ちで、軽く腕を振ってアピールも欠かせない。さあ、ご馳走の時間だぞと。
俺の誘惑に誘われて、背後から一体の岩トカゲが飛びかかってくる。かかった。振り向けば大きく広げた口にはまばらな牙。噛みちぎるというよりは、丸呑みするための用途なのだろう。まあ丸呑みされたくはない。
第一、ご馳走とは俺ではなく、お前たちだ。
魔剣の狂気が揺らぎ、俺の意識が殺意に最適化される。一歩後ろに引いて噛みつきをかわし、口が閉じられる様を眺める。俺の目の前には差し出されたように岩トカゲの首がある。
「これはこれは、ご丁寧にどうも」
ぶら下げたままの魔剣をただ振り上げる。揺らぎのない線を描くように岩トカゲの首がぷつりと分かたれる。自分の頭を転がすようにして首のない岩トカゲが壁へと走り抜けて激突している。
──ああ、いいな。
魔剣によって強化された俺の肉体は、殺しに対する抵抗感をなくしている。そしてこの場には殺しても構わない魔獣だけ。
仲間を殺されて動揺でもしたか、動きを止めていた岩トカゲの群れ。でもそれじゃあつまらない。もっと、命をくれよ。抵抗をしてくれ。死にたくないと、そう願え。死に抗おうとするその瞬間が、一番美味いんだ。頭が痺れるほどの快感がある。
魔剣を振るう。その度に赤い血が飛び散る。一帯を血に沈めたい。もっと斬りたい。斬らせてくれ。魔剣の要求なのか、俺の欲求なのか、もう分からない。
血霞が心地よくて、そんなことどうでも良くなる。
理性を飛ばしているのは俺だけではない。岩トカゲもだ。狂乱がどこまでも続く。続々と現れる岩トカゲに魔剣が歓喜する。
俺の魔剣は、何より斬り殺すということに執着する。だから、斬るためにならば、ありとあらゆる現実を超越する。
命を吸い取り力へと変えるのだ。力は世界を塗り替え、魔剣の望みを叶えようとする。
刃が届かないほどの遠方にいるのなら、届く場所にいればいい。距離を塗り替えて一歩で彼方先までを超えさせる。斬るためになら、現れる力に限界はない。
「さあ、おかわりが来たぞ?」
魔剣が俺の冗談に、笑うように高く鳴る。
ねぐらからゾロゾロ出てきた岩トカゲどもを視界に捉える。この谷には多すぎる。剪定してやらないと。最終的には丸刈りならぬみな殺しだが、そうするには数が多い。
万一町の連中がやってきたらと考えると、あまり時間はかけていられない。狂気のままに魔剣を振るう中でも、まだ理性らしきものは残っている。
人間は殺さない。意地でもだ。俺が村に、家族のもとに帰る為に絶対曲げられない信念。
だからさっさと皆殺しにしないと。人は殺したくないから、魔獣を殺す。殺さない選択肢がないんだから、殺してもいい奴を選ぶ。実際魔獣に殺される人間が減るわけだから、どちらかといえば善行だ。
善を言い訳に肉を裂き、骨を断ち切り、血を撒き散らす。
大きく飛び下がる。岩トカゲどもから距離をとり、魔剣が奪った命を力へと変換する。
魔剣の切先をトカゲどもに向ける。まだまだわらわらと湧き出していて、血に酔ったか互いに喰らい合う奴らもいる。……それは良くない。全部斬り殺すためにいるのに。俺の獲物を取られては堪らない。一言、魔剣に命じる。
「やれ」
魔剣の紋様が脈動し、力を表す。俺の目には世界そのものが色をなくしたように見えた。ゆっくりと、全ての動きが停滞していく。
トカゲどもの動きも死にかけの芋虫のようにゆっくりと、鈍くなっていく。これまで魔剣が吸ってきた命が、魔剣の力へ変わる。
完全に静止した世界の中で、魔剣を構えたままに意識を岩トカゲの一匹に合わせる。灰色の視界の中、魔剣で指し示した岩トカゲどもの周囲が四角く切り取られる。
例えるなら、集合絵から一体一体を切り抜くように、岩トカゲが空間から分たれる。世界から浮き上がったその絵は、俺の示した一匹の岩トカゲに重ねられていく。
同じ空間、場所、位置に、何十という岩トカゲが重なり、矛盾することなく同時にそこに”ある”。
魔剣の柄を軽く握る。力を入れるのは斬る瞬間だけでいい。静かに、細く長く、息を吸う。魔剣を左下手に下げて、軽く揺らす。
息と気合が揃った瞬間、短く強く息を吐く。踏み込んだ右足が地面を踏み砕く。蹴り足の勢いが腰胸腕と増幅され、横一文字に魔剣が振り抜かれる。
わずかな抵抗すらなく、ただ最速の線が重なりあった岩トカゲへ刻まれる。
振り抜いた魔剣を下げる。それで終わりだ。
色を取り戻した世界で、全ての岩トカゲが全く同時に首を落とす。そしてそのどれもが、同じ傷跡を持つ。
もし岩トカゲが生きていたら、いや側から見ていたものがいたとしたら訳が分からなかっただろう。俺が一度魔剣を振った瞬間に、全ての岩トカゲが同時に首を斬られたのだから。
これが魔剣の顕した力だ。一振りで全ての獲物へ斬撃を刻むこと。
死した命が谷に溢れ、そのことごとくが魔剣に吸われていく。ここ最近では覚えのないほど大量の命。そして死。これだけくれてやれば魔剣も当分は満足しているだろう。
もちろん斬れるとわかればすぐに騒ぎ出すだろうが、それでもしばらくは持つ。
「これで、満足してろ」
応えるように魔剣がキィンと鳴る。
再び元の静寂を取り戻した谷。今しがた奪った命を想い、目を閉じる。
トカゲは別に好きではないが、逃げずに向かってくるのは追わなくていいから助かる。そこについては評価してもいい。いや、そういう評価はどうなんだ? まだ魔剣の狂気から抜けきれてないようで、軽く頬を叩いて魔剣の影響を払おうとしてみる。
一番近い岩トカゲの死体に魔剣を突き刺す。そして少しだけ、座ることにした。魔剣の力を使うのは疲れる。俺自身が魔剣を万全な状態で使えるように、使わせるように強化の力が注がれる。
それでも命を使うというのはなんとも言い難い疲れを感じるのだ。
***
最近まともに寝ていなかったし、結局町でも横にならずじまいだった。そのせいか、少しだけ意識が飛んでいたらしい。
気がつけば町の方から蹄の音が響いてきていた。数は1。なんだろうか。
パカリパカラと次第にゆっくりと変わっていく音。まあここまで血まみれの一帯に突撃なんてしたくはないわな。それでも蹄の音は止まらない。
それにしても、眠い。ここを抜けたらどこかで昼寝でもしたい。そのくらい休んでもバチはあたるまい。
ふと顔を上げると、そこにいたのは灰髪の女。正直俺はビビった。相当傷つけたと思うし、もう会わないと思っていた相手だったからだ。
馬から降りて、座ったままの俺の前に立つ。体が震えている。無理もない、こんな凄惨な景色はなかなかない。気丈な女性だとは思うが、声も出まい。
「私の答えを聞く前に出て行かないでよッ!!」
怒声にびっくりした。灰髪は周りの状況とか、気にならないみたいだ。
「私の、私の名前はシエラ! 町を、私たちを助けてくれてありがとう。岩トカゲを倒してくれて、ありがとう。でも、私の名前くらいは覚えていってよ!!」
座ったままの俺の前で、顔を真っ赤にして、灰髪が──シエラが言う。
「……こんな、一人で、血まみれじゃない」
俺は声も出ない。あっけに取られてしまう。別に、この血は全部返り血で、俺は怪我一つしていない。シエラの頼みを素気無く断ったし、ひどいことも言った。
なのに、彼女はここにいる。荒野の、彼女を恐れさせる岩トカゲのいる場所へ、一人で。
シエラは興奮に肩を上下させながら、他に何も言おうとしない。
そういえば、そうだ。人の名前を覚えていないんだなんて、そんなことを人にいうのは本当に失礼なんだ。
そりゃ怒る。怒って当然だ。
そうだ、魔剣のせいでなんて言っても、それはいいわけだ。魔剣を言い訳にしてそんな当たり前のことを忘れていた。
酷いなんてものじゃない。この体たらく、俺が父に教わったのは、こんなことじゃない。妹や母が教えてくれたことが、何にもできてないじゃないか……。
そうだ、俺は家族の元に帰るためにこんな旅を続けているんだ。このクソみたいな魔剣の呪いを解いて、どうにか処分するんだ。そうして、帰るんだ。血も殺意も無い、ただの普通に帰るんだ。
父と肩を並べて剣を振る。稽古姿をちゃかしてくる妹に文句を言ったり、母の温かでおいしい料理をまた食べたいんだ。あの食卓に、もう一度帰りたいんだ。
なら、こんな異常に心を慣らしてはダメだ。人としてまともに生きなくては、みんなに合わせる顔がない。
真っ赤な顔で俺を睨みつけたままのシエラ。俺に大事なことを思い出させてくれた恩人だ。ならこれ以上礼を欠いてはダメだ。
立ち上がり、背筋を伸ばす。そして深々と頭を下げる。
「すまなかった。失礼な真似をしてしまった。許してほしい」
「え、えっ?? いや、待って、そんな、顔をあげて! そういう訳じゃないの! ただ、私は……!」
「シエラだろう、覚えた」
顔を上げると、まだシエラは顔を赤くしたままだ。それでも、少しずつ顔が綻んでいく。
「そっか、私のこと……えていてくれるのね?」
「もう忘れない。シエラには大事なことを思い出させてもらった。だからってわけじゃないけど、もうこんな失礼はしない」
自分の馬鹿さ加減にあきれてしまう。首に手を当てて恥ずかしさをごまかすように撫でる。
「やっぱり、一人でいるのはろくなことにならないな」
「……あなたは、そんな風に笑うのね」
笑っていたか? 自分を自嘲しただけのつもりだったが、あまりに普通が出来てないから、笑ってしまったのかもしれない。
そういえば、笑い方も忘れていた気がする。獲物を前に魔剣に引きずられて口をあげることはあったけど、そんなの俺の笑い方じゃない。
「ああ、そうかもしれない。俺は、こんな風に笑っていたんだ。全部、忘れてた。だから、ありがとう」
シエラが俺をじっと見ている。あらためて見られると恥ずかしいかもしれない。
「あなたのことは全然分からないわ。でも、初めに会った時より、今の方が──素敵に見えるわ」
「そうか。なら、そうある様にしよう。これからは」
***
それから少しだけ話をした。わずかな時間だったが、本当に、久しぶりに息をついたような気がした。
昨日の豪華な食事より、魔獣を相手に切り結ぶより、一人で当てもなく歩くより。
ただ話す。たったそれだけのことがこんなにも満たされるとは思わなかったな。
***
「ゴート、もう行ってしまうの?」
「止まる理由がないからな」
「私がお礼をしたいって引き留めても、それは理由にならない?」
「……もう礼は貰った。それに、俺も帰りたい場所がある。家族のもとに帰るために、旅をしている。だから俺は行く」
「そう……。なら、私はゴートの道行きを祈るわ。祈らせて。それくらいは、いいでしょう?」
それくらい? 俺にはもったいないくらいだ。
「魔剣の、その呪いのことだけど……もしかしたら森の魔女様なら、知っているかもしれないわ」
「森の……魔女?」
300年を生きるという、この国最高の魔法使い。それが森の魔女だという。
「それは、いいことを聞かせてもらった。本当に、シエラには貰ってばかりになってしまった……」
「いいの。だってもうこんなことくらいじゃお礼にならないくらい、助けてもらったんだもの」
離れたところに転がったままの岩トカゲども。俺にとってはついででしかなくても、シエラにとってはそうではない。
そんなことすら、俺は忘れていたのだ。
夜が明けて、谷もだんだんと明るくなっていく。シエラに見送られて、ただ振り返ることなく歩く。
だって、シエラの笑顔は俺の心に焼きついているのだから。
***
谷を抜けてしばらく進む。だんだんと緑が見られるようになってきた。小動物すら見るようになったのだ、完全に荒野を抜けたと言っていい。
次の目的地は実はもう決まっている。この国の北に位置する大森林だ。
「魔女か。300年生きているって言うのは、本当なのかね」
もし事実なら、魔剣の呪いをどうにかする方法を知っているかもしれない。いや、事実ではなくても、魔剣をどうにかできるなら何でもいい。
小高い丘まで来て、腰を下ろす。魔剣を放り投げ、ごろりと横になる。荒野を放浪して、岩トカゲを殺して、その間ずっと寝ていない。魔剣のささやきに、寝たらどうにかなりそうで眠れなかったのだ。
今はトカゲどもを皆殺しにしたおかげで、魔剣は黙っている。ならば、今のうちに寝溜めしておきたい。
しておきたいのは山々なのだけど、物事というのはどうもうまくいかないものだ。魔剣が鳴り響く。警告。気がつけば周囲を囲まれている。
「本当にさ、いい加減にしろよ……。寝るところだって、見りゃわかるだろうが……!」
四つ足の魔獣、牛ほどもある大型の狼だ。獲物を見つけたとほくそ笑むように獰猛な牙を見せている。
だがそれは俺も同じだ。俺にとっては、魔獣はこの忌々しい魔剣を黙らせるための、俺自身を守るための生贄だ。
ボロ布越しに握り締めた魔剣が脈動する。
「かかってこい。そして、俺のために死ね」
***
魔剣を放り出し、こんな血にまみれて命を啜るような生活を終わりにする。そして家に帰るのだ。
そのために、俺は旅を続けている。
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