時が過ぎるのは早いもので、カレンダーをめくればもう12月に入っている。朝の登校が憂鬱になる時期だ。まあでも、僕の心は軽やかだけどね。
ははっ、本当にもう12月なんだ。吐き出す息の白さに、冬の訪れを実感する。
「──どうしたんだ、やけに機嫌がいいみたいだが」
隣を歩く奈良坂が、不思議そうに僕の顔を覗き込んできた。
「わかる?あと1ヶ月で今年が終わる。つまり、来年からは動画の投稿頻度を下げられる」
週に何度も企画をひねり出し、撮影しする日々に一区切りつく。
まあ、あの家での暮らし自体は悪くない。
流しそうめんやバーベキューができる広々とした庭まであって、環境としては極めて快適だ。地下には根付さんが用意してくれた訓練室もあるし。
そんなわけで、神園隊は来年以降もあの家に住み続けることになった。
広報部隊から完全に抜けるわけではないしね。
そもそも、抜けたいと僕が駄々をこねたところで、そんな気軽に抜けさせてくれるはずもない。
それでも、動画投稿の頻度を週1回に落とせるというのは、僕にとって本当にありがたい朗報だった。
これで、ようやくランク戦に復帰できる。
連続でランク戦を不参加で見送った影響で、僕たちの隊の順位はA級からB級へと落ちていた。
根付さんからは『広報活動の功績に免じて、特例措置でA級の地位を据え置きにする』という打診もあったけれど、それは即座に断った。
僕たちは、自分たちの実力でA級に舞い戻れる。
なにより、そんなことをしたら、有象無象が騒ぎ立てるに決まっている。
実力もないくせに広報の特別扱いでA級に居座っているなんて陰口を叩かれるのは御免だ。叩いたやつを一々叩きのめすのはめんどくさい。
ちなみに、広報活動の専属期間中に試験運用していた改造トリガーの類も、ランク戦復帰に伴い本部へと回収された。
「嬉しそうでなによりだ。ん?ということは、これからは本部にも顔を出すようになるのか?」
奈良坂が少しだけ口元を緩めながら尋ねてくる。
「え、まあ、今よりは?地下の訓練室があるから、隊の特訓自体は家で事足りるけどね」
「絶対に週1以上は来い。お前とランク戦をやりたい連中が大勢待ってるぞ」
「ああ、確かに米屋とか太刀川さんはうるさかったな。メッセージもしょっちゅう来てたし」
スマホの通知欄を思い出すだけで、少し頭が痛くなってくる。一日に何回も連絡してくるのが鬱陶しくて、ブロックしそうになった。
「風間さんなんて、お前のことを心配して『神園は今日も来てないのか?』が口癖になったんだからな」
「そんなこと言われても、風間さんからは連絡来てないから知らない」
「お前なぁ......自分から後輩に『寂しいから顔を出せ』なんて連絡してくるわけないだろ」
「直接連絡してもらわないと、知らないよ。エスパーじゃないんだから」
僕は肩をすくめて、奈良坂の呆れ顔を受け流した。
昼休み。
屋上へ続く階段の踊り場で、ポケットの中のスマホが小刻みに震えた。画面を見れば、木虎からの着信だった。
通話ボタンを押し、耳に当てる。
『──ん?なになに。C級隊員が隊務規定違反を犯して、それを放課後に連行するから僕にも来て欲しいって?』
電話の向こうから聞こえてくる木虎の声は、トゲトゲしく尖っていた。どうやら何かトラブルがあったらしい。
ふーん。学校に近界民が出た件で木虎が出撃したものの、嵐山隊と同時に現場に到着した頃には、とあるC級隊員が騒ぎを収めていたと。
『僕いらなくない?──嵐山隊と処分について軽く揉めた?僕が行かないと嵐山隊が連行することになる?』
なるほど、事情はなんとなく察しがついた。情状酌量の余地があるとかなんとか嵐山さんが言ってるんだろう。多分。
別にそれで良くない?
わざわざ規則も守れないC級を連行するなんて面倒だし、嵐山隊が身柄を引き取りたいと言うなら、そのまま譲ればいい。
放課後にわざわざ時間を作って、無能に時間を費やすなんて嫌だ。
とはいえ、木虎は一度言い出したら絶対にテコでも動かない頑固者だ。その活躍したC級隊員にも対抗心を抱いてるだろうし、放置する方が後々面倒になる気がする。
でも、やっぱり、わざわざそのC級隊員が通っている『三門市立第三中学校』まで迎えに行くのはめんどくさい。
ただでさえ動画のせいで顔が売れている僕がそんな場所に出向いたら、野次馬が集まって無駄な注目を集めることになる。
はぁ、仕方ないか。
『──わかった。途中で合流しよう』
『途中、ですか?』
『そう。僕がそっちの学校まで迎えに行けば、無駄な注目を集めることになるでしょ。そういう目立つ役回りは木虎に任せて、いい感じの場所で合流する』
『わかりました』
まあ、嵐山隊が肩入れしてるなら、どうせ厳重注意か何か、形式上の軽い処分で終わるだろうけどね。
それに異議を唱えてまで争うほどの出来事じゃない。わざわざ揉める必要はないし。
僕はため息をつきながらスマホをポケットにしまい、冬の冷たい風が吹き抜ける窓の外をぼんやりと見つめた。
嵐山隊と衝突するのも面倒だし、規則違反を犯したという無能なC級隊員のせいで時間を使うのは勿体ない。
今日は僕の機嫌がよくてよかったね。普段なら断ってた。
これは、来て正解だったかもしれない。
「──そのトリガー、ボーダーのものではない。ってことはつまり、君は不正にトリガーを開発してる犯罪者か、人型の近界民になるけど.....後者で間違いなさそうだ」
約束した場所についたら、木虎が初めて見るタイプの近界民と戦っていた。
その近界民が街を巻き込んで自滅しようとしていたから、手を出そうとしたら──それと同時に見知らぬトリガーがどこからか使用された。鎖?のような形をしていた。
ひとまずは自爆しようとしていた近界民を細切れにして海に落とし、そして今──謎のトリガーを使用した少年と顔を合わせている。
「ちょっと待って、誤解だよ。俺は何もしてない。あのトリオン兵はお前が倒した」
僕の指摘に、少年は少しだけ目を丸くし、両手をひらひらと振って見せた。
「ボーダーが所持していないトリガーを使っておいて、その言い訳は無理だろ。一応勧告しておく。投降の意思はあるか?」
『気をつけろ、ユーマ』
なんだその喋るのは。それもトリガーなのか...?まあ、捕まえればわかる。僕は既にトリガーは起動しており、フルアタックでバイパーを構えてる。
『──ちょっと待った、神園』
「.....また、お得意のサイドエフェクトですか?まさか、この近界民を見逃せなんて言いませんよね?」
このタイミングで登場するってことは、そういう事か。
「そのまさかだ。今回の件は神園の手に負える問題じゃない。俺のサイドエフェクトを信じて、何も見なかったことにしてくれないか?」
「.....内輪揉めか?」
『そのようだな、ユーマ。だが、油断してはならない。どちらも強者に違いはない』
「僕が断ったら、どうするつもりですか」
「そうなったら──力尽くで止めさせてもらう。【トリガーオン】」
風刃を起動したところを見るに、本気みたいだ。迅さんは強いけど、倒せないほどじゃない。かといって、確実に勝てるわけでもない。
──ここで戦えば、近界民も迅さんに協力するはずだ。そうなれば、不利なのは僕の方だ。
近界民がどんなトリガーを扱うか分からない以上、今すぐに無理に戦う必要はない。もちろん、何を使われようが勝つ自信はある。
でも、迅さんが見逃せと言うならそれ相応の理由があるはずだ。騒ぎを起こせば人目も集まる。
衆目の中、ボーダー隊員同士が戦っている姿は良い光景じゃない。今のように少なからず街に被害がでたなら尚更。
「その近界民が人に危害を加えない保証はありますか」
「俺が保証する。どの未来でも、こいつが人を傷つける未来は見えない」
「........やっぱり、玉狛は嫌いだ。本部への報告はそっちにお任せしますよ」
これ以上、面倒事に付き合う義理はない。
僕は背を向け、街の住民たちの対応をしている木虎の元へと歩き出した。
閑話
【デート企画第2弾】
手帳には、昨夜のうちに組み上げた綿密なスケジュールがびっしりと書き込まれていた。
移動時間、信号の待ち時間、混雑のピーク予測。戦闘シミュレーションと同等の熱量で構築した、私なりの完璧な計画。
神園先輩に認めてもらいたかった。
自分が一番だと傲慢に振る舞っているくせに、誰よりも私たちのことを見て、守ってくれている先輩。
口を開けば厳しい言葉が飛び交うけど、面倒見が良くて、お人好しなところを隠しきれていない先輩だ。
そんな先輩の前で、ただ守られるだけの後輩でいたくはなかった。完璧な状況判断と行動力で引っ張っていけるだけの頼もしさを証明したかったのだ。
鏡の前で身なりを整え、落ち着いたネイビーのチェスターコートに、上品なプリーツスカート。足元は少しヒールのあるショートブーツを選んだ。
集合場所である駅前の時計台へ向かう。
集合時刻の15分前。早く到着して待機するつもりだったのだが──そこには、すでにいつもの姿があった。
「あ、草壁。おはよう」
シンプルな装いのはずなのに、すらりとした体躯と整った顔立ちのせいで、周囲を通る人々が露骨に視線を送っている。
胸元には、すでに黒い超小型カメラが装着されていた。
「神園先輩。早すぎます。集合は10時のはずですが」
「遅刻は嫌だったから。それにしても」
先輩の視線が、私の足元から頭のてっぺんへとゆっくり滑る。
「よく似合ってるよ」
素直に褒めてくるあたりが先輩らしい。
「....今日は私が先輩をエスコートします。先輩は私の指示に従ってくだされば結構です」
平然を装って答えたものの、心臓が跳ねたのを悟られないよう、私はすぐに手帳を開いた。
「本日の行程です。まず10時15分に、駅前のベーカリーカフェで限定のクロワッサンサンドを調達します。メディアでも取り上げられたことのある人気商品です。その後、11時発のバスで美術館へ移動し、鑑賞。12時45分には予約済みのレストランで昼食。14時からは最新のVR体験施設、16時に展望ラウンジでお茶をして終了です。無駄のない効率的なルートも組み立ててます」
先輩は手帳を一瞥し、軽く肩をすくめた。
「結構慌ただしい予定だね。まあ、とりあえず従うよ」
「ええ、任せてください」
私は手帳をしまい、背筋を伸ばして歩き出した。
最初のベーカリーカフェに到着したのは、予定通りの10時13分。
完璧なタイムキーピングだったはずだった。
だが、店の前に立ちはだかっていたのは、最後尾が見えないほどの大行列だった。
『最後尾:現在約80分待ち』
店員が掲げるボードを見て、私は思わず眉をひそめた。
「──80分待ち?」
「テレビで紹介されたことがあるお店で、今日は休日だからね。こうなるのは当然と言えば当然だ」
後ろから、神園先輩がやれやれと首を振る。
「ですが、事前のリサーチでは午前中の回転率は高いと.....」
「ネットの不確定なレビューを信じすぎ。どうする?80分並んだら、次のバスには乗れなくなるけど」
図星を突かれ、私の思考が急速に回転する。
ここで予定を崩すわけにはいかない。この限定メニューを先輩に食べさせたかったのに。
「並びます。私が購入しててくるので、先輩はあそこのベンチで待機していてください」
「嫌だよ、寒いのに一人で待たされるのは。ここじゃなくても、他の店でいいでしょ」
「妥協は許されません。最高のものを提供すると決めましたから」
「頑固だなぁ。まあいいや、付き合ってあげるよ」
先輩は一人で列を離れることなく、私の隣に並んでくれた。
しかし、列の進みは予想を遥かに下回る遅さだった。
冷たい風が吹き抜け、足元のヒールがじわじわと体重を圧迫していく。
チラリと隣を見れば、先輩は暇そうにしているのが見えた。
(.....まずい。時間を浪費している)
焦りが募る。
結局、クロワッサンサンドを手に入れた時には70分が経過していた。
広場のベンチはどこも埋まっており、私たちは寒風の吹き抜ける路肩で、立ったままそれを口にすることになった。
「味は、どうですか」
私の問いに、先輩は一口咀嚼し、飲み込んでから言った。
「うん。美味しいよ。でも、70分並んで食べる味じゃないね」
「.....すみません、私の見通しが甘かったようです」
「謝る必要はないよ。草壁が悪いわけじゃないし。それより、美術館のバス、とっくに出てるけどどうする?」
「タクシーを手配します」
「ああ、それなら呼ぶね」
先輩はスマホを取り出し、手際よくタクシーの配車アプリを開いてくれた。
まだ挽回できる。次の美術館の展示物は事前に調べてきた。今度こそ上手くいくはず。
だが、狂い始めた歯車は止まらなかった。
タクシーを降り、美術館のエントランスへと向かった私の目に飛び込んできたのは、無情な立て看板だった。
『設備点検のため、本日臨時休館』
「なっ....!?」
声が漏れた。
「ホームページのトップ、ちゃんと確認した?」
背後から近づいてきた先輩が、自身のスマホ画面をこちらに向けてくる。
「昨日の時点でトラブルによる休館告知が赤字で出てるよ。カレンダーの定休日だけ見て、お知らせ欄を見落としたでしょ。まあ、ここに来るまでに僕も気づかなかったからお互い様だけど」
完璧に言い当てられた上に、さらりとフォローまで挟まれ、余計に情けなさが込み上げる。
チェックの甘さ。
ボーダーの任務であれば、事前情報の確認不足は致命的なミスだ。それを、私はこの期に及んで犯してしまった。
「.....次に向かいます。昼食のレストランは完全予約制ですから、確実に営業しています」
強張る表情を必死に取り繕い、私は早足で歩き出した。
美術館からレストランまでは徒歩で約15分。少し早いけど、現地で待てばいい。
しかし、歩みを進めるごとに、右足のかかとに鋭い痛みが走り始めた。
慣れないヒールで長時間立ちっぱなしになり、さらには小走りを繰り返した代償だった。靴擦れを起こしている。
「草壁、大丈夫?」
「......問題ありません。予定の範囲内です」
私は痛みを噛み殺し、平然を装って歩き続けた。
すると、先ほどまで私の半歩前を歩いていた先輩が、不意に歩幅を狭めた。
足を痛めたことに気づいた先輩は、そこからわざわざ『足が痛いのか』と口に出して確認することはせず、ただ自然な動作で速度を落とし、私のぎこちない歩調にさりげなく合わせて横を歩いてくれた。
その無言の気遣いに気づいてしまい、胸の奥がチクリと痛む。
情けない。先輩に気を遣わせている。
そうして辿り着いたレストラン。
だが、その扉の前にはエプロン姿のスタッフが立ち、ひどく申し訳なさそうに頭を下げていた。
「大変申し訳ございません、草壁様でしょうか。先ほど厨房のガス設備にトラブルが発生し、本日のランチ営業を取りやめざるを得なくなりまして......お電話を差し上げたのですが」
ポケットの中で、消音にしていた端末が静かに着信履歴を刻んでいた。
「..........」
視界がわずかに明滅する。
大行列。
臨時休館。
そして、設備の不具合による営業停止。
どれも不可抗力の要素が含まれている。だが、それを予測し、代替案を用意していなかったのは紛れもなく私の責任だ。
「.....わかりました。キャンセルで構いません」
私が機械的にそう告げると、店員は恐縮しながら奥へと消えていった。
重い沈黙が落ちる。
隣に立つ神園先輩は、両手をポケットに突っ込んだまま、静かに佇んでいた。
胸元のカメラが、無機質に作動し続けている。
私の無様な空回りは、すべて記録されているのだ。
先輩をエスコートするどころか、ただ寒空の下を引き回し、疲労と不快感を与え続けている。
完璧にエスコートするはずだったのに。頑張って色々調べたのに、何一つ上手くいかない。
「.....先輩」
喉の奥が引きつりそうになるのを、必死に抑え込む。
「次の場所へ移動しましょう。昼食は、適当なファストフードで済ませれば」
「草壁」
遮るように、落ち着いた声が落ちてきた。
「もういいよ」
その一言が、決定打となって私の胸を刺した。
もういい。
呆れられたのだ。
こんな使えない後輩の独り善がりには、エスコートにはこれ以上付き合いきれないと判断されたのだ。
「......申し訳、ありませんでした」
伏せた視界が、じわりと熱を帯びる。
「私のリサーチ不足と....見通しの甘さが原因です。先輩に無駄な時間を取らせ、不快な思いをさせました。言い訳の余地もありません」
唇を強く噛み、悔しさと不甲斐なさから溢れそうになる涙を必死に押し殺す。
泣くことすら許されない。自分のミスをリカバリーできず感情的になるのは、最も軽蔑すべき行為だ。
だが、私の目の前に、すっと清潔な白い布が差し出された。
「──え?」
見上げると、先輩は困ったように眉を下げて、ため息をついていた。
「なんでそんな今にも泣きそうな顔してんのさ。まだデートは終わってないのに」
「そんなこと、ありません」
「強がらなくていいから。ほら、受け取りなよ」
手渡されたハンカチから、微かに洗剤と香水の清潔な匂いが香った。
「不可抗力だよ。行列も配管トラブルも設備の故障も、君のせいじゃないでしょ。そんなのでいちいち落ち込まれたら、こっちが困る」
「ですが、代替案を用意していなかったのは私の落ち度です」
「デートは遊びみたいなものなんだから、そんなに肩肘を張らなくていい。それに、草壁──足を庇ってるよね」
ハッとして息を呑む。
「歩き方が不自然なんだよ。右足を気にして重心が左に偏ってる」
取り繕っていた平静も、隠していた痛みも、この人の前では何の意味もなさなかったのだ。
「そこのデパートに入るよ。座れる場所もあるし、靴も買える上に手当てもできる。昼食も適当な所で済ませればいい」
先輩は私の返事を待たず、踵を返した。
その歩幅は、先ほどと同様、痛む私の足でも無理なく追いつける、極めて緩やかなものだった。
その背中を、私はただ見つめることしかできなかった。
デパートの1階、吹き抜けのロビー。
「草壁、そこのソファーに座ってて。絆創膏と靴を買ってくるから」
「私が買いに行きます。先輩にそこまでさせるわけには」
「いいから座りなよ。足を悪化させたら、日常生活に支障が出る」
肩を軽く押され、私はベンチの上に腰を下ろさざるを得なかった。
「動かないで待っててね」
先輩はそう言い残し、人混みの中へと歩いて行った。
一人残された私は、痛むかかとを指先で押さえた。
じくじくと痛む患部よりも、胸の奥のざわめきの方がずっと大きかった。
先輩は、失敗ばかりの私を切り捨てなかった。
呆れることもせず、それどころか足を痛めた私を心配し、フォローに回ってくれている。
口を開けば傲慢で、誰から見ても生意気なことばかり言うのに。
行動のすべてが的確で、どこまでも甘くて優しい。
「ねえ、お姉さん。一人?誰か待ってたりする?」
無遠慮な声が頭上から降ってきた。
顔を上げると、派手な服装をした男が二人、品定めするような目を向けて立っていた。
「連れがいます。用がないなら離れてください」
私は感情を削ぎ落とした冷徹な声で言い放った。ボーダー隊員として、この程度の相手に怯む道理はない。
「えー、そんな冷たいこと言わないでよ。あっちのカフェでお茶しようよ。奢るからさ」
男の一人が距離を詰め、私の肩へ手を伸ばしてきた。
「触らないで」
私は鋭くその手を払いのけた。
しかし、咄嗟に立ち上がろうとした拍子に足に鋭い痛みが走り、わずかに体勢を崩してしまう。
「おっと、足痛いの?じゃあさ、車で送ってあげるよ。ね、行こうよ」
足の不調を見て取ったのか、男たちは露骨に調子づき、左右から私の腕を掴もうと間合いを詰めてきた。
周囲の買い物客は、関わり合いを避けるように足早に通り過ぎていく。
トリガーを起動するわけにはいかない。生身の人間に対して武力を行使すれば、重大な規律違反になる。
そんなことを考えてると
ガシッ、と鈍い音が響いた。
「──痛えっ!?なんだお前!?」
男の手首が、空中で完全に制止されていた。
視線を向けると、袋を持った神園先輩がそこに立っていた。
「人の連れに、気安く触らないでくれる?」
低く、静かな声。
怒鳴るわけでもないのに、周囲の空気が一瞬で凍りついたような錯覚を覚える。
「な、なんだよ.....!俺たちはただ話しかけてただけで──」
「僕には、嫌がっている女の子を力ずくで連れ去ろうとしているようにしか見えなかったけど」
神園先輩の手首を握る力が増したのか、ギリ、と骨が軋む音が聞こえた。
「痛っ!離せよ....!」
「その手で僕の隊員に触れたら、相応の報いを受けてもらうよ。理解できた?」
先輩は男を突き放すと、流れるような動作で私の肩を引き寄せた。
「っ.....!」
抗う隙もなく、私は先輩の胸元へと引き寄せられた。
しっかりとした腕が私の肩を抱き込み、外敵から遮断するように庇われる。
至近距離から伝わる体温と、トクトクと均等に刻まれる鼓動、そして鼻をかすめる清潔な香り。
完全に、守られていた。
「この子は僕の隊の大事な後輩で、今日の僕のパートナーなんだ。君たちのような有象無象に安売りする気はないから。失せろ」
絶対零度の宣告。
男たちは先輩の圧倒的な眼光と気迫に完全に呑まれ、顔を青ざめさせて後ずさった。
そして、逃げるように人混みの奥へと姿を消した。
ロビーに、再び日常のざわめきが戻ってくる。
「全く。見る目がないにも程があるね。ボーダーの隊員に手を出して無事で済むと思ってたのかな」
先輩は呆れたように息を吐き、私を抱き寄せていた腕の力をゆっくりと解いた。
「ケガはない?草壁」
至近距離から見下ろしてくる、静かな黒い瞳。
──ドクン、と。
胸の奥で、何かが決定的な音を立てて跳ね上がった。
血液が一気に逆流したかのように、全身が熱を帯びる。
心臓が激しい警鐘を鳴らし、呼吸が浅くなる。
『この子は僕の隊の大事な後輩で、今日の僕のパートナーなんだ』
その言葉が、耳の奥で、何度も、何度も鮮烈にリフレインする。
認めざるを得なかった。
誤魔化しようがなかった。
私は、この人に。
神園冬という男の子に、恋をしてしまったのだと。
「草壁?顔が赤いけど、どこかぶつけた?」
心配そうに顔を覗き込んでくる先輩から、私は咄嗟に視線を逸らした。
「なんでも、ありません。少し、驚いただけです」
「そう。ならいいけど。行くよ、足の手当てが先だ」
先輩は私の手首を軽く取り、近くのカフェへと先導してくれた。
引かれる手から伝わる温もりが、痛みを和らげてくれる。
デパートの上層にある、静かなカフェのボックス席。
クラシックが微かに流れる空間で、私は向かいに座る先輩から視線を落とし、テーブルの下で処置される足元を見つめていた。
先輩は手際よく消毒液を吹きかけ、絆創膏を貼り終えると、私の足を静かに床へと戻した。
「....ありがとうございます」
「どういたしまして。これで少しは歩きやすくなるでしょ」
先輩は自分のアイスコーヒーを一口飲み、カップを置いた。
テーブルの端には、電源が切られた撮影用のアクションカメラが置かれている。
先輩はふっと口元を緩め、軽く笑った。
「もっと肩の力を抜きなよ。無理して背伸びしなくてもいいじゃないか。少なくとも、僕はいつもの君の方が好きだよ」
「────」
いきなりの告白に言葉が出なかった。
喉の奥が詰まり、熱い塊が胸を満たしていく。
いや、わかっている。これがそういう意味ではないことは。
それでも、こんな言葉を投げかけられて、平然としていられるはずがない。
「今日のところはこれで終わりにしよう。動画の撮れ高も、あいつらを追い払ったところで充分取れただろうしね」
先輩は伝票を手に取り、席を立った。
「立てる?」
差し出された手に、私は自分の手を重ねた。
力強く引き上げられ、立ち上がる。足の痛みは、すでに気にならないほど遠のいていた。
「──神園先輩」
「なに?」
出口へと向かう先輩の横顔を見つめながら、私は強く、静かに決意を固めた。
木虎にも、帯島にも、今先輩にも、絶対に譲らない。
今はまだ、私は頼りない後輩かもしれない。
「──なんでもありません。次は、先輩がす、好きないつもの私でエスコートしてみますから」
「はいはい。期待しないで待ってるよ」
先輩は呆れたように笑い、私の歩幅に合わせてゆっくりと歩き出した。
草壁ちゃん
原作軸に入ってきた。、