どこの世界にも馬はいる 作:月陽
第10走 延焼する思惑
——ニアーク王国 王宮
豪奢な装飾が施された王宮の謁見の間に、静謐な緊張が満ちていた。
壁に掲げられた王国の紋章——燃え盛る太陽と剣の意匠が施された金の盾——が、煌々とした蝋燭の明かりを受けて揺らめく。
玉座に座するのはニアーク王国の王、ヴァレンティス・ニアークである。
銀の髪を肩まで流し、鋭い青灰色の瞳が冷たく臣下たちを射抜いていた。
「……つまり、失敗したということか?」
その声は氷のように冷ややかだった。
玉座の前で跪く一人の騎士は、脂汗を滲ませながら声を震わせる。
「申し訳ございません、陛下。奴らは……森の国エントへと逃げ込みました。
我々の追跡は、霊力の障壁によって阻まれております」
ヴァレンティスは眉ひとつ動かさず、しばし沈黙する。
その隣に控えるのは、司祭長 ルクレティウス・ベルグレイブという男だ。
彼は漆黒の法衣を纏い、痩せた指を組みながら、神妙な顔で王を見つめていた。
「森の国エント……精霊どもの巣窟か」
ヴァレンティスは低く呟いた。エントは、人間とは異なる秩序のもとに生きる精霊たちの国である。度々使者を送ったものの、エントは人間の統治を拒み続けてきた。王国にとっては“未開の地”に等しく、それでいて手出しの難しい領域だった。
だが、それも過去の話となろう。
「陛下、聖女フロレンティアの代わりは、すでに用意がございます」
ルクレティウスが静かに言うと、王の表情がわずかに動いた。司祭長はさらに続ける。
「聖女の姉、リゼリアを“新たな聖女”として擁立いたしました。魔術により、彼女の姿はフロレンティアと瓜二つに変えてあります。これで国民も疑問を抱くことはないでしょう」
「姿形を変えただけで、騙し通せると?」
「無論、それだけではございません。民が求めるのは“象徴”であり、聖女本人ではない。聖女の存在こそが王国の秩序であり、それを担う者がリゼリアになったというだけのこと……」
王は静かに頷いた。
「よかろう。フロレンティアがいなくとも、王国の秩序は揺るがん。
だが、聖女が王国を捨てたという噂が広まれば、民の信仰心も揺らぐ。あの逃亡者どもを必ず討て」
「はっ!」
ルクレティウスはわずかに目を細めた。
「森の国エントは、外部の侵入を許さぬ大精霊エントが統べる国……ですが、陛下。我々には手があります」
「ほう?」
「火です。火の精霊を召喚し、森を焼き払うのです」
その言葉に、ヴァレンティスの口元がわずかに歪んだ。
「面白い。エントの庇護があろうと、森が消えれば無意味というわけか」
「はい。大精霊の力は自然の調和によって成り立つ。
森が崩れれば、霊力も乱れ、エントの加護は弱まるでしょう」
「ならばすぐに準備に入れ。王国軍と教会騎士団を動員しろ」
「御意」
ルクレティウスが深く頭を垂れると、玉座の脇から新たな人物が進み出た。
聖女管理官 オルランドという男だった。
もとはフロレンティアの両親が担っていた役職であり、現在は彼がその後任として聖女の権威を維持する役割を負っている。
「オルランド、リゼリアを“聖女”として国民に示せ」
「心得ております。すでに彼女は神託の儀を経ております。
民の前に姿を見せれば、フロレンティアが“戻った”と信じ込むでしょう」
「よかろう」
王は静かに頷き、最後に言い放つ。
「ならば、この王の命により……聖女フロレンティアの名のもとに、異端者を討て——」
とある時。王宮から離れたニアークの大聖堂では、暗い祈りが響いていた。
天井の高い礼拝堂には、信仰の象徴たる黄金の十字架と、かつての聖女たちの肖像が並ぶ。
聖堂の奥、薄暗い回廊に佇むのはリゼリアという、フロレンティアの姉である。姉妹といえど当然なら容姿は異なるのだが今の彼女は、魔術によってさらに“フロレンティアそのもの”として作り替えられていた。
傍らには、オルランドが静かに控えていた。
「……お前は聖女だ、わかっているな?」
彼の冷たい声に、リゼリアはゆっくりと顔を上げる。
「聖女……?」
「そうだ。フロレンティアが‘‘死んだ’‘今、王国には聖女が必要だ。お前がその役目を果たすのだ」
彼女の瞳がわずかに揺れる。
「でも……私に、あの子のような力はない……」
「力など不要だ。求められるのは“存在”のみよ」
オルランドの声は容赦なかった。
「これは王の命令だ、リゼリア。お前はただ、フロレンティアとして生きればいい。そうすれば、お前の家族も、王国の民も、救われる」
リゼリアは小さく息を呑んだ。
王国の秩序は、彼女にかかっている。
今や、彼女は聖女フロレンティアとして、国の希望そのものなのだ。
そして、祈りの鐘が鳴り響いた——。
同時刻。
ナタルマの森をさらに越えた先、深淵の樹海に包まれた領域——そこに森の国エントはあった。
エントは人間の国とは全く異なる統治体系を持つ。
そこに暮らすのは精霊たち——大地と共に生きる者たちだ。天を覆うように広がる樹々、空へと伸びる神木たち、そして根を張る大樹の下には、精霊たちの集落が息づいていた。
街路などという概念はなく、巨大な木々の根を跨ぐように橋が架けられ、蔦や木の階段を登って住居へと辿り着く。その住まいもまた木々の洞を活かし、森そのものと一体となるように築かれていた。
地面の上にも、柔らかな苔と草が絨毯のように広がり、空気には瑞々しい生命の香りが満ちている。
だが、何よりも特徴的なのは、その静寂だった。
風が吹き、葉がそよぐ音が響くが、人の国にあるような雑然とした喧騒は存在しない。
そんな森の奥深く、緑と木漏れ日に包まれた大樹の宮殿の中央、森王スプライトが玉座に座していた。彼は人の姿をしながらも、その身体には木の紋様が浮かび上がり、瞳には森の悠久を映している。
スプライトは、かつて森の大精霊エントによって選ばれた“王”であり、森の意志そのものを体現する存在であった。
彼の前に立つのは、リエースという女性だ。
エントの巫女として、大精霊の意を王へと伝える役目を担う少女だった。
「大精霊エント様より賜りしこの瞳が、今、映し出しました。
……人間の王が、森に火を放つ準備を進めています」
彼女の言葉に、スプライトはゆっくりと瞳を開ける。
「ふむ……人間の愚かさよ」
エントの森は、ただの土地ではない。森そのものが一つの生命であり、精霊たちの魂の揺籠である。それを焼き払おうとするなど、精霊たちにとっては宣戦布告に等しい暴挙だった。
「彼らは聖女フロレンティアを追ってきます。どうなさいますか?」
スプライトは静かに目を閉じる。森を守るのは、彼ら精霊の役目である。
だが今、その安寧が揺るがされようとしていた。
「フロレンティアを迎えよ。そして、ニアークの暴挙に、我らの答えを示すとしよう」
森王と巫女は、エントの森を統べる二つの柱であり、対等の立場にある。
森王は森の秩序と精霊たちの統治を司り、巫女は大精霊エントの意志を聞き、森に生きる全ての者に伝える役目を担う。決して王が巫女を従えるのではなく、巫女が王を崇めるわけでもない。
両者は共に森を守るために選ばれた存在なのだ。
その言葉とともに、木々がざわめく。風が一層強く吹き抜け、葉が舞い踊った。エントの森が、目覚めつつあった。
森の入り口を越えた瞬間、空気が変わった。
湿り気を帯びた風がひんやりと肌を撫で、どこか遠くで鳥の鳴き声が響く。
しかし、それもすぐに掻き消されるように静寂が訪れた。
まるで、この森が外界の音を拒絶しているかのように。
フィロは慎重に蹄を進めたが、何かがおかしいとすぐに気づいた。
「……なあ、なんか変じゃないか?」
耳をぴんと立てながら、周囲を見渡す。
確かに、森に入ったはずなのに、空の明るさはほとんど変わらない。
木々は高く、幹はどれもねじれるように曲がっており、不気味な影を作っている。それ以上に奇妙なのは、歩いても歩いても景色がほとんど変わらないことだった。
「ふうん、早速来たね」
マーニが低く呟く。
「段々と森が変わってきているね。気をつけな」
「気をつけなと言われてもなあ」
明らかに感覚がおかしい。進んでいるはずなのに、どこまで行っても同じ場所を歩いているような錯覚に陥る。ふと後ろを振り返れば、確かに歩いてきたはずの道が、すっかり見知らぬ風景へと変わっていた。
「……マーニ、ここってさあ、どんな森なんだ?」
「“ミルクヴッド”って名前は聞いてたけどね、詳しくは誰も知らないんだよ」
「聞いてたって、どんな風に?」
「エントの国の境界を守る霧の森とか、迷ったら二度と出られないとか……。
帰らずの森と言われるほど、帰ってきた生き物はいないらしいからね。
まあ、あたしはそこまで信じてなかったけど」
「なにそれえ……」
フィロの耳がばたばたと動く。
風も吹いていないのに、葉がざわざわと揺れ、どこからともなく細かい霧が立ち込めてきた。マーニは剣の柄に手をかけながら、辺りを警戒する。
「とりあえず落ち着いて進もう。
適当に動くと、本当に戻れなくなるかもしれない」
「そ、それはいやあ……」
フィロは渋々歩を進めるが、どこへ進めばいいのか分からない。
何にせよ右も左もどこを見ても同じ景色だ。大きな樹がそびえ、絡み合う枝葉の隙間からは、ぼんやりとした淡い光が差し込んでいる。
「フィロ、明るい方に進むんだ!」
「明るい方って、どこも明るいんだけどお!?」
確かに、ところどころに光が差している。
しかしそれが正しい道なのかどうか、まるで分からない。
「……これは、さっき通ったね」
「えっ、まさかあ!?……いや、でも、そう言われると見覚えがあるような……」
「はあ、これは完全に迷い込んだみたいだ」
「そ、そんなあ!」
フィロは焦りながらも再び耳をすませた。周囲の音を拾おうとする。
しかし、鳥の鳴き声も、風の音も、なぜか消えている。
あるのは、木々がざわめくような妙な囁きだけだった。
「……なあ、マーニ、なんか聞こえるぞお……」
「聞こえる?何が聞こえるって?」
「わかんねえ。でも……森が、喋ってるみたいなんだ」
マーニが眉をひそめる。
「……それ、道が開くかもしれない」
フィロはそっと、前脚を一歩進めた。
その瞬間、霧が一瞬だけ揺らぎ、遠くに一本の大樹が見えた。
まるで道標のように、森の奥へと誘うかのように立っていた。
「フィロ、そっちだ。進め!」
「おっしゃああ!いくぞおお!」
フィロは力強く地を蹴った。
だが、次の瞬間──
「き、気持ちわるう!? なんかひっかかった!」
フィロの前脚が何かに絡まり、思わずバランスを崩す。
ぬめっとした粘液をまとったそれに、フィロはない眉を顰めた。
「フィロ、気をつけろ!罠だ!」
マーニが警戒するが、フィロは必死に地面を見る。
そこには、太い根が地表にむき出しになっており、まるで生き物のように蠢いていた。
「う、動いた!?」
「この森、あたしたちを逃がす気がないね!」
フィロは力を込めて足を振り抜き、なんとか絡みつく根を振りほどいた。
しかし、周囲の木々がざわざわと揺れ、霧がますます濃くなっていく。
「やべえよお、なんか機嫌損ねた気がするう」
「走れ、フィロ!ここから抜けるしかない!」
フィロは全力で地を蹴った。
ミルクヴッドの霧の迷宮の中、彼らの道がようやく開かれようとしていた──。その時だった。
霧の奥から、ぼんやりとした影が浮かび上がる。
人のような形をしているが、目がない。口もない。
ただ、黒い霧が固まったような、異様な存在がそこにいた。
「フィロ、止まるな!」
「使い詰めすぎだよお!いい加減脚いかれるぞお!!」
フィロは全速力で走る。
だが、霧の影はするすると滑るように近づいてきた。
音もなく、気配もなく、ただ暗闇のような存在が彼らを追ってくる。
「なんなんだよあれえ!?」
「わからないけど、あたしの武器が効く相手かどうかも怪しいね……!」
「む、無理い、もうあかんってえ!」
スルスルと這い寄る影が、フィロの広い視界にずっと映り込んで離さない。
ずっと付き纏うそれに緊迫感が精神を追い詰める。
それだけではなかった。
「っ……!?」
フィロの足が急に重くなった。まるで見えない鎖が脚に絡みつくような感覚だ。全身に纏わりつく冷気が、まるで馬体を霧の中に沈めるようにまとわりついている。
「な、なんか、動きにくいんだけどお!?」
「……たぶん、あれのせいだね」
マーニが剣を握り直し、振り返った。いつの間にか、黒い影は一つではなくなっていた。霧の中から、さらに三体……いや、五体……次々と黒い霧の塊が姿を現し、フィロたちを囲み始めていた。
「ふ、増えてるぅ!!お、俺は、チェイスがあるホラーは苦手なんだよお」
「しっかりしな、フィロ!このままじゃやられるよ!」
「ひぃぃ……!!!」
蹄を強く打ち鳴らす。だが、動きが鈍い。
影が近づくほどに、冷たく重い気配が全身を縛りつける。
「やばいよお、マーニ!!」
「いいから、抜けるんだよ!!」
マーニの発破を受けて、フィロは奥歯を噛み締めるような感覚で、ぐっと脚に力を込めた。そうして全身の筋力を最大限に使い、踏み込んだ。黒い霧が一瞬びくりと揺れた。
「……消えた?」
「か、勘弁してくれよお……。俺ぁ、もう心臓がもたないぞお……」
その時、木々の囁きが再びフィロの耳をくすぐる。
今度は優しく、促すような音だった。
「……もうすぐ、抜けられるのか?」
フィロは前方を凝視する。
霧が薄れ、ようやく森の出口が見え始めていた。
「よし、突っ切るぞ!」
「わ、わかったあ!」
フィロは最後の力を振り絞って加速する。霧を蹴散らし、一直線に走り抜ける──。そうして、視界が開けた。
「こ、ここは……」
フィロとマーニは同時に息を呑む。
霧を抜けた瞬間、全く異なる世界が広がっていた。
天を突くような巨木が無数に生い茂り、その幹はまるで大地の神々の手のように広がっている。葉の隙間から差し込む光が、森全体を柔らかく照らし、金色の粒子が宙に舞っていた。
「……まるで別世界だね」
マーニがぽつりと呟く。
目の前には、まるで天空へと続くかのような橋が架かり、その向こうには高くそびえる神木があった。その木の根元には、精霊たちの集落が広がり、木の幹や枝に沿うように住居が築かれていた。
まるで森そのものが、ひとつの生命体として息づいているかのようだった。
フィロは深く息を吸った。
「……空気が、違うなあ」
湿り気を帯びた緑の香りが、全身を包み込む。
ミルクヴッドの重苦しい霧とは違う、清浄な風が吹き抜けていた。
だが、ただの美しい風景ではない。フィロの視界の端で、何かが動いた。
──人間ではない。
彼らは木々の影から、じっとこちらを見ていた。
緑の肌を持ち枝葉を身に纏う者たち、細身で透き通るような羽を持つ者、岩のようにどっしりと根を張る者など姿形は色々だった。
「……これが、エントの住民か」
マーニが低く言った。
フィロは彼らの視線を感じつつ、ゆっくりと前に進む。
すると──。
「ようこそお越しいただきました。
私は森の巫女、リエースと申します。
ご到着早々申し訳ありませんが──森王スプライトが、お待ちです」
不意に声が響く。振り向くとそこには銀の霧を思わせる長い髪を持つ女性がいた。淡く輝くその髪は肩口でやわらかに波打ち、森の光を受けるたびに微かに煌めく。
深い碧色の瞳は、湖の静寂と森の影を宿しており、見る者を引き込むような神秘的な雰囲気を漂わせていた。
身に纏うのは、翠と金糸の刺繍が施された軽やかな布の衣だ。
風が吹くたびに葉が揺れるように裾が舞い、彼女の動きに合わせて自然と調和するように揺れた。
胸元には、森の象徴を刻んだオカリナが飾られ、淡い光を宿している。
その佇まいはどこか人ならざる気配を帯び、森と精霊の加護を受けた巫女であることを一目で悟らせた。
「あなた方は、聖女フロレンティアを連れた旅人ですね」
彼女は穏やかな声で言う。
「森は、あなた方を受け入れました。どうぞ、森王のもとへ」
フィロは、再び深く息を吸い込む。
「……ここが、俺たちの目指してきた場所なんだなあ」
フィロとマーニは、リエースに導かれながら森の奥へと足を踏み入れた。
エントの森が、彼らを迎え入れようとしていた。