### **鬼哭の村**
#### **一**
山奥の寒村「鬼ノ岳村」には、古くから語り継がれる言い伝えがある。
> **鬼が哭く夜、人が消える**
村の外れに住む老人たちは、夜になると決して家の外へ出ない。もし鬼の哭く声を聞いたなら、決してその音の方を見てはならない——それが、この村での掟だった。
ある晩、高校生の**佐久間翔**は、その掟を破った。
「おかしいな……」
翔は、夜の森に響く不気味な音に気づいた。風の音ではない、獣の鳴き声でもない。それは、どこか人間の嗚咽に似た、悲痛な泣き声だった。
村の言い伝えを思い出したが、好奇心には勝てなかった。翔はそっと障子を開け、外を覗いた。
——瞬間、全身が凍りついた。
闇の中、家の前に“それ”は立っていた。
真っ赤な瞳、ざんばら髪、裂けた口から覗く鋭い牙。黒く染まった爪が地面を引っ掻くたびに、土が削れる音が響く。
「鬼……?」
声にならない言葉が漏れた瞬間、鬼がピクリと動いた。
その目が、翔を見つめていた。
#### **二**
「翔? どうしたの?」
隣室から姉の**佐久間美咲**が顔を出した。翔は慌てて障子を閉める。
「な、なんでもないよ」
美咲はじっと翔を見つめたが、それ以上は何も言わずに部屋へ戻った。
しかし、その晩から翔は悪夢にうなされるようになった。夢の中で、鬼が何度も彼の名前を呼ぶ。
> **サクマ……サクマ……**
耳を裂くような泣き声と共に、血に塗れた手が翔の顔を掴む。その感触があまりにも生々しく、翔は毎晩、汗びっしょりで目を覚ました。
そんな日が続くうちに、翔は日に日に衰弱していった。
「翔、大丈夫? 顔色悪いよ」
美咲が心配そうに覗き込む。
「……いや、ちょっと寝不足なだけ」
そう答えながらも、翔は気づいていた。このままでは自分は“持っていかれる”と——。
#### **三**
翔は村の神社に住む巫女、**桐生千尋**を訪ねることにした。
「鬼を見た? 本当に?」
翔が頷くと、千尋は険しい表情になった。
「……それ、本物の鬼よ。あなた、呼ばれてるわね」
「呼ばれてる……?」
「鬼ノ岳村に伝わる“鬼哭伝説”を知ってる?」
翔は首を振る。
千尋は静かに語り始めた。
——昔、この村にはひとりの**少女**がいた。美しい黒髪と透き通るような白い肌。だが、その美貌ゆえに村人から疎まれ、**人柱**として鬼ノ岳の洞窟に生贄として捧げられた。
少女は泣き叫びながら、鬼の住む洞窟へと閉じ込められた。
やがて彼女は死に、その怨念は鬼と化し、**自分と同じ孤独な魂を求めて村を彷徨う**ようになった。
「鬼は、孤独な者を狙うの。あなたの中の“寂しさ”が鬼を引き寄せたのかもしれない」
千尋の言葉に、翔の背筋が寒くなった。
#### **四**
その夜、翔は再び鬼の哭く声を聞いた。
> **サクマ……サクマ……**
窓の外には、血に濡れた少女の姿があった。翔は動けないまま、ただその鬼の目を見つめた。
——**悲しげな、赤い瞳。**
「……お前は、寂しいのか?」
翔は、鬼に向かって問いかけた。
鬼は一瞬、驚いたように目を見開いた。そして、涙を流しながら静かに頷いた。
翔の胸の奥に、ひどく痛い感覚が広がった。
「……俺も、同じだ」
翔がそう呟いた瞬間、鬼の姿がふっと薄れ、夜の闇に溶けて消えた。
——**鬼は、孤独な魂を求めていただけだったのかもしれない。**
それ以来、鬼の哭く声は村から消えた。
翔は静かに夜空を見上げた。
月の光が、優しく彼を照らしていた。
#### **五**
鬼の哭く声が消えた夜、翔は不思議な感覚に包まれていた。恐怖ではない。むしろ、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような——**喪失感**だった。
それから数日が経った。翔の悪夢はすっかり消え、体調も戻ってきた。姉の美咲や村の人々も、彼が元気を取り戻したことに安心しているようだった。
だが、翔には**ひとつの違和感**があった。
——あの夜以来、**村の空気が妙に静か**なのだ。
夜になると、今まで聞こえていた虫の声や風の音すら消え、まるで何かがこの村から抜け落ちたかのようだった。
そして、ある夜。
翔はふと、窓の外に**黒い影**が立っていることに気づいた。
**鬼……?**
いや、違う。
それは**人間の姿をしていた**。
翔が障子を開けると、その影がゆっくりとこちらを振り向いた。
「……美咲?」
そこに立っていたのは、姉の美咲だった。
「……翔、おかしいと思わない?」
「何が?」
「鬼が消えたのに、村は何も変わってない。むしろ、もっと静かになった」
美咲の言葉に、翔の胸がざわつく。
「……それに、翔。あなた、何か**大切なもの**を忘れてる気がしない?」
美咲の瞳がじっと翔を見つめる。
その瞬間——翔の脳裏に、あの鬼の赤い瞳がフラッシュバックした。
> **お前は、寂しいのか?**
> **……俺も、同じだ。**
あの鬼——いや、あの**少女**は、もういない。
なのに、翔の心の奥には未だに彼女の存在が焼き付いていた。
「……俺、何か忘れてるのか?」
美咲はゆっくりと頷いた。
「一緒に、確かめに行こう」
#### **六**
美咲に連れられ、翔は村外れの森へと向かった。
足元に枯葉が積もり、風が吹くたびにざわりと音を立てる。
「どこに行くんだ?」
「……洞窟」
「洞窟って、あの鬼の?」
翔の心臓が強く脈打った。
——**鬼はもう消えたはず。なのに、なぜ俺たちはそこへ向かっているんだ?**
美咲は迷いなく森の奥へ進んでいく。やがて、岩に覆われた**黒い穴**が見えてきた。
鬼が封じられていた、あの洞窟だ。
翔の足が震えた。
「美咲、やっぱりやめよう」
「怖い?」
「……わからない。でも、これ以上関わっちゃいけない気がする」
美咲は翔の手を取った。その指先は**異様なほど冷たかった**。
「翔……あなたは、本当に“鬼”が消えたと思ってるの?」
「え……?」
「私はね、ずっと見てたの。鬼が消えたんじゃない……**翔の中に溶けたのよ**」
翔の血の気が引いた。
「な……何を言ってるんだよ……?」
美咲は静かに翔の胸に手を当てた。
「感じるでしょう? 今でも、あの子の声が」
翔は耳を澄ませた。
——**サクマ……**
「っ!!!」
確かに聞こえた。微かだが、あの鬼の哭く声が——**自分の内側から響いていた**。
#### **七**
「どうすればいい……?」
翔の声は震えていた。
美咲は洞窟の奥を指さした。
「このままじゃ、翔は“鬼”になってしまう。だから——この洞窟の奥に行って、“本当のこと”を思い出して」
「本当のこと?」
「翔が“鬼”と出会う、ずっと前のことよ」
翔は戸惑いながらも、一歩、また一歩と洞窟の中へ進んだ。
**ザリ……ザリ……**
足元の石を踏みしめる音だけが響く。
——すると、洞窟の奥に小さな祠があった。
それを見た瞬間、翔の脳裏に**ある記憶**が鮮明に蘇った。
###
**昔、この村には、ひとりの少女がいた。**
**翔は、その少女と友達だった。**
**だが、村の大人たちは彼女を鬼の生贄として捧げることを決めた。**
**翔はそれを止めようとした。だが——**
###
「……嘘だ」
翔の膝が崩れた。
**あの鬼の正体は、かつて翔が守れなかった少女だった。**
「そう……**鬼は最初から、翔のことを知っていたのよ**」
美咲の声が静かに響く。
翔は震える手で祠に触れた。
その瞬間——
**視界が、赤く染まった。**
#### **八**
気づくと翔は、血に濡れた洞窟の中にいた。
目の前に、かつての親友——いや、鬼となった少女が立っていた。
> **サクマ……思い出してくれたんだね**
彼女は微笑んだ。その顔は、昔のままの優しい少女のものだった。
「……俺、お前を……」
> **もういいの。私はもう、ここにはいられないから**
彼女の体が薄れていく。
> **さよなら、翔……ありがとう**
「待ってくれ!!!」
翔が手を伸ばしたが、彼女の姿は霧のように消えてしまった。
そして——翔の耳に最後の囁きが届いた。
> **もう、泣かないでね……**
#### **九**
翔が目を覚ますと、朝の光が差し込んでいた。
気づけば、美咲が隣で眠っていた。
「……夢?」
いや、違う。翔の手のひらには、小さな**黒い髪飾り**が残っていた。
翔はそれをそっと握りしめた。
——**鬼はもういない。だけど、あの子の記憶は、俺の中にずっと残る。**
翔は空を見上げ、そっとつぶやいた。
「……もう、泣かないよ」
そうして、鬼の哭く夜は、二度と訪れなかった。
#### **十**
鬼の哭く夜が消えてから数年が経った。
翔は高校を卒業し、都会の大学へと進学した。村を離れるのは少し寂しかったが、あの出来事以来、どこか吹っ切れたような気持ちでもあった。
「翔、忘れ物はない?」
玄関で美咲が声をかける。
「うん、大丈夫」
そう答えながら、翔は胸ポケットに**黒い髪飾り**を忍ばせた。あの夜、鬼となった少女が残していったものだ。
「それ、まだ持ってるんだね」
美咲が髪飾りに目をやる。翔は微笑んだ。
「うん、手放せないんだよな」
「そう……でも、それでいいのかもね」
美咲は優しく微笑んだ。
村の伝説は終わった。だが、翔の心の中には、あの鬼の記憶が今でも生き続けている。
そして、それは——決して悲しいものではなかった。
#### **十一**
都会での生活は、思った以上に忙しく、刺激的だった。
新しい友人、新しい景色、新しい日常。
しかし、翔の心のどこかには、いつも**鬼ノ岳村**の静けさが残っていた。
そんなある日。
大学の図書館で課題をしていると、不意に背後から声をかけられた。
「……佐久間君?」
驚いて振り向くと、そこには**どこか懐かしい雰囲気を持った少女**が立っていた。
黒髪が肩で揺れ、大きな瞳が翔をじっと見つめている。
「え……?」
少女は少し首を傾げて微笑んだ。
「ごめん、なんだかあなたのこと、知ってる気がして……」
翔の胸が、**強く脈打った**。
「君……どこかで……」
少女は少し考えたあと、照れくさそうに笑った。
「ふふっ、不思議ね。初めて会ったはずなのに、すごく懐かしい感じがする」
翔は、その笑顔に一瞬、あの**鬼の微笑み**を重ねた。
「……俺も、同じだよ」
それは、偶然の出会いか、それとも——。
翔はそっと胸ポケットの**黒い髪飾り**を握りしめた。
遠い村の夜風が、微かに吹いた気がした。
——鬼の哭く声は、もう聞こえない。
#### **十二**
都会での生活が始まってから数ヶ月が経った。翔は新しい環境にも慣れ、講義やアルバイトに追われる日々を過ごしていた。
だが、あの日、図書館で出会った少女——**楓(かえで)**のことが、ずっと心に引っかかっていた。
「君のこと、どこかで見た気がする」
初対面のはずなのに、彼女の仕草、声、瞳の色までが**どこか懐かしかった**。
彼女もまた、不思議そうな顔をしていた。
「私も……あなたのことを知っている気がするの」
それからというもの、翔と楓は自然と一緒に過ごすことが増えた。
昼休みに一緒に食事をしたり、講義が終わった後に図書館で話をしたり。
そして、ある日の帰り道——
「ねえ、翔くん……あなた、昔どこに住んでた?」
楓が何気なく尋ねた。
「鬼ノ岳村、っていう田舎の村」
翔が答えると、楓の表情がピクリと動いた。
「鬼ノ岳……?」
「知ってる?」
楓は少し考え込むように沈黙した後、小さく首を振った。
「ううん……でも、なんだか懐かしい気がするの」
翔の心臓が強く脈打った。
> **そんなはずはない。楓は都会育ちのはず。なのに、なぜ鬼ノ岳村に“懐かしさ”を感じるんだ?**
翔は何かを思い出しそうになった。だが、それは霧の向こう側に隠されているようだった。
#### **十三**
その夜、翔は**久しぶりに夢を見た**。
> **闇の中、誰かが立っている。**
> **長い黒髪、透き通るような白い肌。**
> **そして、赤い瞳——**
「……サクマ……」
夢の中で、少女が翔の名を呼ぶ。
「お前は……」
少女は微笑んだ。
「……私は、また会えたね」
翔は息を呑んだ。
「お前は、もう……」
> **消えたはずだった。**
> **鬼は、もういないはずだった。**
だが、目の前の少女は確かにそこにいた。
「サクマ……寂しくない?」
その声は、夜風のように優しく、そして悲しかった。
翔はゆっくりと首を振った。
「……寂しくないよ」
少女は少し寂しそうに微笑んだ。
「……そう……それなら、よかった」
そして、少女の姿は**静かに溶けるように消えていった**。
——まるで、最初からそこにはいなかったかのように。
#### **十四**
翔は、ハッと目を覚ました。
心臓が激しく脈打っている。
> **あれは夢だったのか? それとも……**
額に滲んだ汗を拭いながら、翔は**胸ポケットに手を伸ばした**。
そこには、いつも持ち歩いているはずの**黒い髪飾り**がなかった。
「……え?」
枕元を見ると、そこには**一枚の白い紙**が置かれていた。
震える手で紙を開く。
そこには、たった一言だけ、こう書かれていた。
> **“ありがとう”**
翔は、紙をじっと見つめた。
やがて、ふっと微笑んだ。
「……そっか」
彼女は、もう完全に消えたのかもしれない。
**今度こそ、本当に。**
そして、翔の中に残ったのは、もうあの孤独な哭き声ではなかった。
それは、まるで春の風のような——**静かで穏やかな囁き**だった。
#### **十五**
楓と出会ってから半年が過ぎた。
翔の大学生活は順調で、新しい友人もできた。だが、心のどこかで、ずっと**違和感**を感じていた。
**本当に、あの鬼は消えたのか?**
彼女が残していった「ありがとう」の言葉。
それを受け取ったはずなのに——翔の胸の奥には、まだ**何かが残っている気がした**。
そんなある日。
楓と二人でカフェにいたとき、ふと彼女が呟いた。
「ねえ、翔くん……最近、変な夢を見るの」
「変な夢?」
楓は少し困ったような表情をした。
「暗い洞窟の中に立ってる夢。誰かの声が聞こえるの。でも……目が覚めると、何を言われたのか思い出せないの」
翔の手が止まる。
「それって……」
楓はカップのコーヒーを見つめながら、ぼそりと言った。
「私、もしかして、昔どこかで死んだことがあるのかな?」
翔の背筋に寒気が走った。
楓は冗談めかして笑ったが、翔は笑えなかった。
> **そんなはずはない。楓は生きている人間だ。**
> **なのに……なぜ俺たちは、こんなにも深く繋がっているように感じるんだ?**
そして、その夜——翔は再び**あの夢**を見た。
#### **十六**
夢の中、翔は鬼ノ岳村の森を歩いていた。
霧が立ち込め、木々がざわめく。
——ザリ……ザリ……
足音が聞こえる。
翔が振り向くと、そこには**楓**が立っていた。
「楓……?」
彼女はぼんやりと翔を見つめていた。
「……翔くん」
「どうしてここに?」
楓は静かに首を振った。
「わからない。でも……この場所、知ってる」
翔の心臓が強く脈打った。
> **まさか、楓は——**
その時、霧の向こうから別の声が響いた。
> **「サクマ……」**
翔の全身が凍りついた。
> **「……また、会えたね」**
霧の中から現れたのは、**あの鬼だった。**
赤い瞳が、翔をじっと見つめていた。
「……お前は、もう消えたはずじゃ……?」
鬼はゆっくりと微笑んだ。
「……私は、消えたよ」
「じゃあ……」
「でも、私は“いる”んだよ」
「……何を言ってるんだ?」
鬼は翔ではなく、楓の方を見た。
「私とあなたは、一度離れた。でも……また出会った」
翔はハッと楓を振り返った。
「まさか……」
楓はただ、じっと鬼を見つめていた。
そして、彼女の口から出たのは——
> **「……私、あなたを知ってる気がする」**
翔の世界が揺れた。
> **——楓は、生まれ変わりなのか?**
鬼は、静かに微笑んだ。
「“あの時”の約束、覚えてる?」
翔の心臓が激しく鼓動する。
> **「……もう、泣かないでね」**
翔の口が震えた。
「お前は……」
鬼は、ふっと微笑み、そしてゆっくりと消えていった。
翔は息を呑んだ。
隣で、楓がぼんやりと呟いた。
「……私、ここに来たことがある気がする」
翔は、静かに楓の手を取った。
「……もしかしたら、本当にそうなのかもしれない」
楓は翔を見つめ、優しく微笑んだ。
その笑顔は——かつて翔が知っていた、**鬼だった少女の笑顔と同じだった**。
#### **十七**
翌朝、翔は胸ポケットを探った。
いつものように、そこには**黒い髪飾りがあるはずだった**。
しかし——
「……ない?」
翔の手は、空を掴んだ。
その瞬間、彼は理解した。
——もう、鬼はどこにもいない。
もう、泣き声は聞こえない。
翔は静かに目を閉じ、微笑んだ。
「ありがとう」
その囁きは、朝の風に溶けていった。
#### **十八**
楓と出会ってから一年が経った。
翔の大学生活は充実していたが、心の奥ではまだ**確かめなければならないこと**が残っていた。
> **楓は本当に、あの鬼の生まれ変わりなのか?**
彼女が見た洞窟の夢。
鬼が残した「ありがとう」の言葉。
そして、翔の胸から消えた**黒い髪飾り**。
全てが、ひとつの答えに向かっている気がした。
そんなある日、楓がふと呟いた。
「ねえ、翔くん……**私たち、一度だけ鬼ノ岳村に行ってみない?**」
翔の心臓が跳ねた。
「……なんで?」
楓は少し困ったように笑った。
「うまく説明できないんだけど……そこに行けば、何かを思い出せる気がするの」
翔は黙って彼女の瞳を見つめた。
> **それはきっと、“運命”だ。**
翔は静かに頷いた。
「……わかった。一緒に行こう」
#### **十九**
数日後、翔と楓は村へ向かった。
バスに揺られ、山道を抜け、懐かしい景色が広がる。
村の空気は、あの頃と変わらず静かだった。
美咲が出迎えてくれた。
「翔、おかえり……そちらの方は?」
「楓だよ。大学の友達」
美咲は楓を見つめ、少し驚いたように目を見開いた。
「……はじめまして。でも、なんだか……**あなたのこと、知っている気がする**」
楓は微笑んだ。
「私も……ここに来たことがある気がするんです」
翔は息を呑んだ。
——**やはり、そうなのか?**
美咲は少し考え込んだ後、静かに言った。
「……翔、夜になったら**あの場所へ行きなさい**」
翔の胸がざわつく。
「……洞窟、か?」
美咲は黙って頷いた。
#### **二十**
夜。
翔と楓は、鬼が封じられていた洞窟の前に立っていた。
闇の中、冷たい風が吹き抜ける。
「……行こう」
翔が足を踏み入れると、楓も静かについてきた。
洞窟の中はひんやりとしていた。
そして、奥へ進むと——
**そこに、ひとつの小さな祠があった。**
翔の記憶が蘇る。
——あの夜、鬼が消えた場所。
楓が、祠を見つめる。
「……私、ここを知ってる」
「……やっぱり……」
楓は静かに目を閉じ、口を開いた。
「**私、ずっと孤独だった。ずっと誰かを探していた……でも、それが誰なのか、わからなかった**」
翔の心臓が激しく脈打つ。
「……楓」
楓がゆっくりと翔の方を向いた。
「私が、誰か……思い出せた気がする」
翔は息を呑んだ。
そして、楓の瞳の奥に——
**一瞬だけ、あの鬼の赤い瞳が揺らめいた。**
#### **二十一**
その瞬間、洞窟全体が静寂に包まれた。
——風が止まり、音が消えた。
楓が、微笑んだ。
「翔くん……」
「……ああ」
二人の間に、言葉では表せない感情が流れる。
翔はゆっくりと楓の手を取った。
「……もう、寂しくないよな?」
楓は静かに頷いた。
「うん……もう、大丈夫」
**その瞬間、翔の胸の中で何かが解放された。**
> **鬼の哭く声は、もうどこにもない。**
> **ただ、静かな夜が広がっている。**
楓がそっと囁く。
「翔くん、ありがとう」
翔は微笑み、夜空を見上げた。
そして、確信した。
——鬼はもういない。
だが、彼女はずっと**翔の中に生き続ける**。
風がそっと吹いた。
まるで、最後の別れを告げるかのように。
#### **二十二**
翔と楓が洞窟を訪れたあの日から、村の空気はどこか変わった気がした。
それまでの静寂が和らぎ、まるで重く垂れ込めていた霧が晴れたようだった。
「……何かが終わったんだな」
翔は村の神社の前で、ぼんやりと夜空を見上げていた。
楓も隣に立っていた。
「私……この村のこと、もっと知りたい」
「……俺も」
鬼の伝説。村の歴史。そして、楓と翔を繋ぐ不思議な縁。
**すべてが終わったはずなのに、まだ何かが残っている気がした。**
そして、その夜——翔は**再び夢を見た**。
#### **二十三**
夢の中。
翔は、どこか知らない場所に立っていた。
夜の森。木々がざわめき、遠くで川の音が聞こえる。
足元には、なぜか**無数の白い花**が咲いていた。
「ここは……?」
ふと、前を見る。
そこに、**ひとりの少女**が立っていた。
長い黒髪、透き通るような白い肌——**だが、彼女は鬼ではなかった。**
ゆっくりと振り向いたその顔は——**楓だった。**
「楓……?」
しかし、楓は翔を見ても何も言わない。
ただ、じっと翔を見つめていた。
「……楓?」
翔がもう一歩踏み出した、その瞬間——
> **ザリ……**
足元の白い花が、一瞬で**黒く枯れた**。
そして、楓の影がゆっくりと長く伸び、翔の足元に絡みつく。
「——っ!」
翔は息を呑んだ。
楓の顔が、ゆっくりと歪んでいく。
そして、彼女の口から出た言葉は——
> **「……まだ、終わってないよ」**
翔の心臓が止まりそうになった。
「何が……終わってないんだ?」
楓の顔は、次第に“別のもの”に変わっていく。
瞳が深い赤に染まり、口元がゆっくりと裂けていく。
翔は全身が凍りつくのを感じた。
それは——
> **鬼だった。**
#### **二十四**
翔は目を覚ました。
額には冷たい汗が滲んでいた。
隣で眠る楓の顔を確認する。
——普通のままだった。
「夢……なのか?」
翔は震える手で額を押さえた。
**いや、違う。あれは、ただの夢じゃない。**
鬼は言った。
**「まだ、終わってないよ」**
では、本当に終わるのは——**いつなのか?**
翔は、もう一度夜空を見上げた。
**夜はまだ、深かった。**
#### **二十五**
翌朝、翔はぼんやりとした頭のまま、神社の境内を歩いていた。
> **「まだ、終わってないよ」**
昨夜の夢の言葉が耳から離れない。
**あれは、本当にただの夢だったのか?**
鬼は消えたはずだった。
楓は普通の人間として生きているはずだった。
しかし、翔の胸の奥には、まだ**何かが取り残されている**ような感覚があった。
「翔?」
ふと、美咲の声がした。
振り向くと、彼女が不安そうな顔でこちらを見つめていた。
「どうしたの?」
「……いや、なんでもないよ」
そう答えたが、美咲は納得していないようだった。
しばらく沈黙が続いた後、美咲が静かに口を開いた。
「ねえ、翔……**楓さん、本当に“人間”なの?**」
翔は息を呑んだ。
「……どういう意味だ?」
美咲は神社の境内を見つめながら、ゆっくりと話し始めた。
「昨夜、村の外れで妙なものを見たの」
「妙なもの?」
「……楓さんが、一人で立っていたのよ」
「それの何が?」
「——**宙に浮かんでいたの**」
翔の心臓が凍りついた。
「……冗談、だろ?」
「私も目を疑った。でも、確かに彼女は地面に足をつけていなかったの」
「……」
「まるで……**影のように、ふわりと浮いていた**」
翔は何も言えなかった。
> **もし、それが本当なら——**
> **楓は、本当に“生まれ変わり”なのか? それとも……**
翔の胸の奥で、静かに何かが囁く。
> **「まだ、終わってないよ」**
翔はギュッと拳を握った。
「……楓に、話してみるよ」
美咲は静かに頷いた。
#### **二十六**
その夜、翔は楓を呼び出した。
場所は、鬼が封じられていた**洞窟の前**。
夜の空気はひどく冷たく、二人の間に妙な緊張が漂っていた。
「翔くん……こんな夜にどうしたの?」
楓の声は、いつもと変わらない優しいものだった。
だが、翔はその瞳の奥に**何か違うもの**を感じた。
「……楓、聞きたいことがある」
「うん?」
翔は深呼吸し、静かに問いかけた。
「お前、本当に……人間か?」
楓の表情が、ピタリと固まった。
沈黙。
風が吹き、木々がざわめく。
やがて、楓はふっと微笑んだ。
**「……どうして、そう思うの?」**
翔は、美咲が見たことを話した。
楓が宙に浮かんでいたこと。
彼女が「鬼の洞窟」を知っていたこと。
そして、翔が昨夜見た**夢の中の鬼**のこと。
すべてを話し終えると、楓は静かに目を伏せた。
そして——
**ゆっくりと、彼女の身体が宙に浮いた。**
「——っ!!」
翔の目が大きく見開かれる。
「やっぱり……俺は、間違ってなかったんだな」
楓は静かに翔を見下ろし、微笑んだ。
「……翔くん、怖い?」
「……わからない。でも、お前が何者なのかを知りたい」
楓はゆっくりと降り立ち、翔の頬にそっと手を当てた。
「……私は、あなたのことをずっと探していたの」
「……」
「でも……私は、あなたと一緒にいちゃいけないのかもしれない」
翔は思わず楓の手を握った。
「そんなの、俺が決める」
楓の瞳が、揺れる。
「俺は……お前を手放したくない」
その言葉に、楓の頬を涙が伝った。
**そして、その涙は、黒く滲んでいた。**
#### **二十七**
> **鬼は、完全には消えていなかった。**
> **彼女は、楓という名前で生まれ変わったのではなく、“残された影”としてこの世に存在していた。**
> **人ではなく、鬼でもなく——ただ、翔のそばにいるために。**
翔は、楓の手を強く握った。
「……俺は、お前をまたひとりにはしない」
楓は涙を流しながら微笑んだ。
そして——
**彼女の身体が、ゆっくりと光に包まれていった。**
翔は驚いたが、手を離さなかった。
「翔くん……ありがとう」
「待ってくれ……!」
楓の姿が次第に薄れていく。
> **「さよなら……」**
「嫌だ……!」
翔は手を伸ばすが——
**——そこには、もう誰もいなかった。**
風が吹いた。
静かな、夜の風が。
#### **二十八**
翌朝、翔は目を覚ました。
全てが、夢だったかのように感じた。
だが、机の上には**一本の黒い髪飾り**が置かれていた。
「……楓」
彼女の名前を呼んだが、もう返事はなかった。
翔は、ゆっくりと髪飾りを握りしめた。
> **鬼は、もういない。**
> **楓も、もういない。**
だけど——
「……ずっと、一緒だ」
翔は空を見上げた。
青空の向こうに、彼女の微笑みが見えた気がした。
> **鬼の哭く夜は、もう来ない。**
> **だが、翔の心の中には、いつまでも“彼女の影”が生き続けるだろう。**
風がそっと吹いた。
まるで、彼女の最後の囁きのように——。