火曜日の早朝。俺たちは、桃色に染まる浜辺を眺めている。
翌朝、ジャミルは遠く聞こえた蝶番の軋む音で目を覚ました。枕元から探り当てたスマホを確認すれば、まだ早朝だった。伸びをして眠気を振り払うと起き上がる。ここ一年の旅の間、暗殺の心配なんぞ必要のない安寧の日々はジャミルを芯から自由にしたが、どういうわけか些細な物音に反応してしまう癖だけは、幸か不幸か変化が無かった。
リビングに顔を出せば、レースのカーテンの隙間から薄ら青くなってきた空を眺めている監督生がいた。眠れなかったのか、と聞けば、起きてしまうのだという。どうせ起きてしまうのなら、そんな細い隙間からじゃなく、ベランダに出て自由に景色を眺めてしまえばいいのに。そこまで考えて、多分、そういう自由をこそ真綿で包むような幸福を与えられる最中に引き剥がされてきたのだろうと直感する。このまま朝日が昇るまで捨て置くことがどうにも出来ず、ジャミルは不意に、行くか、と彼女に声をかけた。
「どこへ」
「ドライブ」
夜明け前、そう話した二人は今や年季を感じるジープに揺られていた。彼女は助手席から後方へ流れていく景色を目で追いながら、車持ってたなんて知りませんでしたと、ぽつりと呟く。それを笑い飛ばすかのように鼻で笑ってみせたのが、ハンドルを握るジャミルだ。あの学園ではついぞそんな姿を見なかったが、無骨な腕時計にシンプルな白のシャツ、長い足はジーンズの中に収まっていて、アクセルを踏む足元はスポーツ用らしい機能美を感じるシューズに飾られている。
「借りたのさ。この街の人間は親切なんでね」
「こんな早朝から」
「忘れたのか?『瞳に映るは』」
途端、監督生は目を丸くしてきっかり3秒後、「悪いひと!」耐えきれないというように身を捩り笑い出した。あんまり笑うので目の端には涙さえ浮かんでいる。彼女はひとしきり笑い終えると、指先で涙を拭いながら運転席に語りかける。
「こんな人のあったかい町に先輩がいるなんて、意外だったんです」
「そうさ。そういう所を気に入ってる」
なにかと便利だからな、と飲み込んだ言葉を彼女も分かっているのか、意地悪くにやにやと唇を吊り上げている。ようやく、あの学園での生活を強かに、時にふてぶてしく駆け抜けたあの頃彼女の片鱗を見たような気がした。空の端が白んでくる気配を感じて、ジャミルはアクセルを深く踏み込む。夜の青白いベールが太陽によって覆われていく頃、二人を乗せたジープはなんとか夜明けの浜辺にたどり着くことが出来た。
水平線の向こうにそびえる入道雲は、昇る太陽の光を受け、赤く輝く輪郭に縁取られている。夜を覆い尽くしていくような朝方の燃えるような太陽が、浜辺をピンク色に染めあげていた。その太陽が中天を目指す道行を、雲が緩やかな風に押され流れていくのを、俺たちは打ち寄せる波の音を背後に眺めていた。いや、正確には彼女が目に焼き付けでもするようにその風景をじっと見つめていて、俺はといえば途中からそんな彼女の様子ばかり隣で伺っていたのだった。
すっかり夜の気配も失せた頃、帰路についた車内で俺は気になっていたことをつい漏らしてしまった。つまりは、「一人旅なんてよく許しが出たな」ということだった。
熱砂の国は一夫多妻制だ。アジーム同様、国に物申せるだけの力を持つ豪商ともなれば、ハレムだなんだで女を侍らすことは最早社会常識ですらあった。彼らがより多くの女を愛し、より多くの子を成し、そして彼らを常に自分の影響下において守るのは責任ある行為とすら認識されている。ジャミルの主人もそうであるように、彼らとその家族は常に何者かより命を狙われる存在でもあるからだ。
自分とその主人という二人の姿を学園で見てきた監督生が、その程度の想像も及んでいないとは考えていなかった。残酷な予想は的中し、彼女は軽くため息でもつくように、こう言った。
「だってこの先、もうどこにも行けないもの」
安いものだったと思いますよ。きっと。
落ちた言葉を拾ってやることは出来なかった。同じことをジャミルも思っていた。それはあの日、生まれを、家族を思い、二十数年の葛藤の果てやっと絞り出し、そして呆気なく一年の自由を許されたジャミルの胸の内で澱のように存在したものと、同じ正体をしている気がした。
「服。そういう方が、似合ってます」
零れ落ちた本心を拭い隠すように、監督生が言う。気怠さの滲んだ言葉は本心か逃げのためか、ともかく今は彼女に甘えて寝てていいぞと声をかければ、「先輩、運転うまいから………」と零される。お前そういう、『くすぐる』ような振る舞いに慣れるのやめた方がいいぞと声をかけるか悩んだところで、助手席から子供のような寝息が聞こえてきた。初めて見る彼女の寝顔は思っていたより穏やかだ。結局、俺はマンションについたと彼女を起こすまで、赤信号に阻まれる度に、学生時代よりやつれた彼女の頬の輪郭、よく見れば濃い目の隈、細い首筋に傷んだ髪の先をまじまじ見つめる羽目になってしまったのだった。それが、火曜日のこと。