水曜日の昼間。
絡みつく花々の濃密な香りが、俺たちを取り巻いている。
その日の昼間、ジャミルはインターホンに呼び出され、玄関を開けた。それが正午のこと。気づいた時には一時間、三十分、十五分と次の呼び鈴が鳴らされる間隔が短くなっていき、市場の見知った顔たちが青々とした葉先の植物だの、豪奢に花開く大輪の花々だのの苗を持ち込んでくるではないか。彼はらはいい加減げんなりしてきたジャミルの姿を認めると軽く彼の肩を叩き、「おおジャミル、気にすることないよ」だとか「そんなこともあるさ」だとか、「思いとどまるんだぞ」だとか、好き好きに声をかけてくるではないか。
一体全体なんのことやら分からないでいると、部屋中が木々と花々に埋め尽くされた温室じみてきたところでようやく、監督生が帰ってきた。玄関を開けた瞬間、あまりの匂いに一瞬目くらったのが遠目にも分かる。この街に多く流通するのはなにも野菜や果実だけでなく、魔法を駆使した栽培法で季節に囚われない多種多様な花々が市場に出回っているのが特徴だった。そのためか、ざっと部屋中見渡してもそこいらにあるのは、胡蝶蘭、百合、鈴蘭、薔薇と、実に節操のない有様だ。テーブルを埋め尽くして床はもちろん、冷蔵庫の上や、果てはバスルームの狭いバスタブの中まで覆い尽くす木々と花々は相当濃密に香り立ち混じり合っていたようで、監督生はその香りに鼻を突き抜けて頭までくらくらさせられているようだった。
聞けば、今日の夕飯を買い出す道すがら、運悪くあの豪商の結婚相手だと市場の人間に気付かれてしまったらしい。熱砂の国と交流の深い、この街の住人たちである。言ってしまえば、彼らにとって熱砂の国は重要な顧客なのだ。豪勢で派手な宴を度々開く熱砂の国にとって、かねてより交流のあるこの街は何かと融通の効く相手であったし、この街の商人たちにとってもその生産物を熱砂の国が大量に、継続的に仕入れ続けているというのは経済的にも信用的にも大きな意味のあることだった。
そんな親身な人柄の、もとい、強かな商人たちが良くも悪くもこの機を逃すことなど無く。果たして、結婚祝いにと各々自慢の商品を持ち込んできた、というのが真相だった。そうだった、人の良い奴らはこういうことも平気でするんだった。ジャミルは頭を抱えた。彼らの善意はガスを流され膨らみ続ける風船のようだ。受け取る側は膨張し続ける風船に圧迫され、息をするのも難しい。そこに、受け取る側の人間たちの心は置き去りにされたままだ。
監督生も些かばかり疲れた様子で、けれどダイニングの椅子にさえ木々の苗が置かれるような有様なので、何処かに座って休むのは諦めたようだった。「気持ちは嬉しいんですけど、こういうの、本当に………」言いかけて、薄い唇がきゅっと締まるのを視界の端に見る。「言ったらいい」俺は言った。「聞かないでおく」なんですかそれ、と笑った彼女の顔はもはや隠すことなく濃い疲労の色が浮かんでいる。ほんの数日の変化だが、彼女の心が見えるようになってきたように思う。
「こういうの時々、本当に………とてもうんざりするんです」
馬鹿な、本当にばかな話だが。俺はこの時初めて、彼女と心が重なったと思った。
分かるよ。そう声をかけてやりたい衝動に駆られた。俺たちは人の善意というやつに、すっかり疲れきっていた。何者の意図も存在しない所へ抜け出したいと乾いた渇望を胸の内に抱える同志だった。あの学園で、婚姻の話を飲んだ彼女を見ていた時は、こうまで思えなかった。その選択がどんな意味を持つか分かっているのかと、詰め寄りたい気持ちさえあった。それが、今やどうだ。彼女は落ちてきたのだ。自分と同じところまで。
最初から『そこ』にあった者と、『そこ』にまで落ちてこざるを得なかった者は、一体どちらが苦しいのか。脳裏によぎったのは、そんな疑問だった。
不意に騒ぎ出した自身の心を誤魔化すように、俺は不意に窓を指差し、ついとガラス戸を引くような仕草をしてみせる。彼女は的確に意図を汲んでくれたようで、不思議そうに首を傾げながらも窓を開けてくれた。学生ぶりのことでやや緊張しながらも、口先で小鳥の鳴き声を奏でてみせれば、あっという間に窓から輝くエメラルドグリーンやコバルトブルーの翼を広げた鳥たちが部屋中の木陰で羽を休め、ある者は大輪の花に嘴を突っ込んで顔中を金色の花粉で汚したりしはじめる。
「動物言語学………先輩、得意でしたね」
「久しぶりだったからな。どうなることかと思ったよ」
そうして太陽が沈み、鳥たちがさよならを告げるまで、俺たちは彼らの歌声を聴きながら穏やかな読書の時間を過ごしていた。
それが、水曜日のこと。
その日の夜、室内に押し込めた薔薇を片っ端から解体して湯船に浮かべることでなんとか形になったバスルームを使われている間、俺はといえばテーブルの隅におかれた監督生のスマホに手を伸ばしていた。昼間、呼びかけに応じてやってきていた渡り鳥との会話が気がかりだった。彼女はこの街に来た時から妙に俺を好いているヤツで、監督生に随分妬いているようだった。俺は内心辟易しながら、偶然再会した後輩で、しかも結婚が決まってる相手だと浮気した夫のように弁解したが、彼女は納得しなかった。
(あら、あの子が本当に、偶然、あなたと再会したと思ってるの?あたしは確かに色んな所を巡ってるけど、あなたよりはうんと長くこの街にいるわ)
なんだって、と咄嗟に反応した俺がなぜ驚いているのか、魔力が無かったせいか在学中もついぞ動物言語を解さなかった監督生には分からないでいるのが幸運だった。
(あの子がぼうっと手の中の端末を見ている時があるでしょう。あれをそっと覗いてみなさいな。面白いものが見れるから………)
監督生がバスルームに向かう直前、スマホのロックをかけられていなかったのは視界に捉えていた。直前まで、彼女が言ったようにぼうっと画面を見ていたことも。不確かな囁きに魔がさしたのは昼間の衝動のせいか、テーブルに伏せられていたスマホを手に取って、ジャミルはあっと声をあげそうになった。開かれていたのは、同じ学園だった人間はもちろん、己の主人にさえ伝えてない、この一年が終われば削除しようと思ってはじめたジャミルのマジカメアカウントだった。氷の洞窟、炎噴く山々、太陽の沈まない夜………。この一年、ジャミルが初めて手に入れた自由の証である旅の風景が間違いなくそこにあった。彼は急に彼女の心の内を盗み見たような気になって、咄嗟にスマホを元の位置に戻した。その日のシャワーは、頭から冷水をかぶることにした。
バスタイムを終えた監督生は、入れ違いになったジャミルの姿に違和感を覚えた。異世界で生きていくためか、はたまたこれから後の自分の安全を担保するためか、彼女はあの学園にいた頃よりずっと人の顔色を伺うのが上手くなっていた。
異変にはすぐ気付いた。伏せられた自分のスマホに妙な感覚を覚え、画面を見てみれば、湯船に浸かる前に見ていたのとは別の写真が開かれていた。
「悪いひと」
未来の伴侶に捧げられるため、白魚のように整えられた指先が愛おしげに写真を写し出す画面をなぞる。誰にも秘密だったが、彼女は、彼の旅路が好きだったのである。