木曜日の夕方。
雨に打たれた俺たちは、びしょ濡れで抱擁している。
今晩の買い出しに彼女と共に出掛けた時のことだ。ここ数日ですっかり顔馴染みになった市場の人間たちと話す彼女を横目に、ジャミルは通知のバイブ音を聞いてスマホを取り出した。新着メッセージが一件。「来週どうする?」とは、あのウィークリーマンションの管理人からだった。この街に来てもう随分経つ。正直なところ、そろそろアジームの家に顔を出すべき時期は近づいているのだが、彼女の存在が気がかりで、俺は「また頼む」とだけ返事をした。あの学園にいたタコの人魚なら毎週契約更新のサインでもさせようものだが、オーケーとだけすぐさま返されたメッセージをもってあっさり話が終わるのがこの街に住む人間の良いところだ。もちろん、昨日のような煩わしさもあるにはあるのだが。そんなやり取りをしていた所で、彼女がこちらを見つめていた事に気付く。どうした、と声をかけてやれば、今日の天気は稀に見る下り坂だと市場の人間たちが騒いでいるのだという。ここ数日前の朝に随分大きな入道雲が出ていて、ああいう雲が現れる日は決まって二日後に大荒れの空模様となるんだと、地元じゃ専らの噂なんだそうだ。そう聞いて、俺と彼女は密かに、あれか、と目配せをした。おそらく話のその雲を、俺たちは火曜日の早朝に見に行っていた。
「どうする」
小 声で尋ねた俺に彼女は意外だったのか一瞬目を丸くして、そして半月型に細めた目を期待にきらりと輝かせた。「決まりだな」昨日の、写真の一件で知った事だが。俺たちには冒険好きという意外な共通点があるようだった。
そして数刻後。
市場の人間たちの言った通り、どしゃ降りとなった街を眺めながら、俺たちは建物の軒先で雨を凌いでいた。
この街慢の市場は、商売人たちが各々テントを持ち寄ってそこらの通り道で開くものだ。どこでも取引が出来るという利点の反面、当然雨風といった悪天候には弱い。市場は遠くに聞こえた雷の音を皮切りに、蟻の子を散らすようにあっという間にテントを畳み始めると、本降りになる頃にはすっかり影も形も見えなくなっていた。大雨が来るよ、早く帰りなよとあちこちから掛けられる声に微笑み返しながら、俺たちは内心雨が降るまでを心待ちにして、楽しんでいた。
「ニホンで、学校に通ってた頃………」
聞き慣れない単語に、俺は屋根から流れる滝のような雨水をうっとり見ていた彼女に視線を向ける。雨雲に覆われた街は、一変して薄暗い影に包まれていて、普段の活気もなりを潜めている。こういう表情の変化を、俺たちは楽しめる側の人間同士だった。
「傘を忘れたって、こういう大雨の日に、濡れながら帰る子がいて。下着まで全身ずぶ濡れなんです。わたし、それをいいなって思ってた………」
監督生の言うニホンというのが一体全体どこのことなのかは、分からなかった。彼女は時折、知らない言葉を話す時がある。それはほろりと溢された彼女の本心なのだろうとも、おそらくは彼女の元いた世界の話なのだろうとも、思っていた。俺たちが立つこの世界は、間違いなく、彼女を元いた場所から切り離し閉じ込めているのだと、こういう時に実感する。
「だけど自分も同じことをしようと思うと、いつも親切な人が傘を差し出してしまうの」
諦めにひとさじの恨みごとが混じったようなため息を聞いて、俺は彼女の手を取った。「ここに………」言葉が震えたのは、彼女がどんな顔をするか、その期待からだった。
「ここに、親切なヤツはいない」
軒先から一歩、まずは俺が踏み出す。たったその一歩で雨は俺の全身を打ちつけ、白いTシャツはみるみる体に貼りつき、重くなっていく。額に張り付く髪が鬱陶しくて、明日にはおもいきり短くしてやろうかなんて突発的な考えが頭に浮かぶ。そんな俺を見て、彼女は子供のように破顔すると同じように一歩、踏み出した。この四日間で、一番無邪気な笑顔だった。俺たちは近づいてくる雷鳴を聞きながら、あのアパートに向かって手を取り、走りだした。
「ねえ!先輩!」
「なんだ!」
吹き荒れる風と、雨が地面を叩く音がおもっていたより大きくて、俺たちは自然と叫び合うように話してしまう。腹の底から出し合う大声は人を大胆にさせてしまうのか、「私のスマホ、見たでしょ!」直球で投げられた言葉におれは転がりそうになってしまった。
「お前、気付いてたなら、言えよ!」
叫び返した俺に、彼女は雨水が入りそうなほど口を開けて笑っていた。
「結婚が近づいて、これからずっと熱砂の国に閉じ込められるんだって時、頭に浮かんだのが、先輩だったの!」
その笑い声が震えている。手を引く彼女の方を振り返れば、雨水か涙か分からないものが彼女の顔の輪郭を滑って、ぽたぽたと落ちていった。
「ずっと………!あの学園にいた頃も、その前も、この先もずっと!こんな気持ちで、それでもずっと生きてきたんだって、生きていくんだって、思った時に、なんてすごい人なんだろうって、そう思ったの………!」
そう思ったら、先輩に会いに行かずに、いられなくなっちゃったの。
嵐の轟音に紛れることなく、そう語った彼女の心からの叫びを、俺の耳は寸分違わず聞き分けていた。もういい、もういいから。そんなことを口走っていた気がする。俺たちはやはり、今や同じ人間同士だった。同じ人間にしか分かち合えないもどかしさと、苦しみを理解し得る一番高い可能性を持つ相手だった。腹の底から胸の内まで、全身熱くなる。恋なんていう衝動的なものではなく、愛なんていう穏やかなものでもなく、俺は、俺たちは、二人だけが知る後ろ暗い感情に背を押されるままにあのアパートへ走っていた。
なんとか狭い玄関に駆け込んだ俺たちは、肌に張り付く濡れた服の不快感もそのままに立ち尽くしていた。場を濁すように、タオル取ってくるからとシューズを脱ごうとした俺の服が背後から引っ張られる。先輩、と呼びかけられる頼りなさげな声に目眩がする。雷がさっきより近付いていた。
「私、本当は………」
その細い手を掴んで、少し引いてみせる。抵抗は無いのを確認して、俺は腕の中に彼女を招き入れた。互いの首筋に顔を埋めていると、心臓の鼓動がよく分かる。生きている。不思議なもので、あれだけ雨に冷やされた体同士も重なり合っていれば、だんだんと滲むような熱を交わしあうようになっている。体の内にめぐる熱い血潮の存在を感じる。このまま、衝動に身を任せてしまう事が叶ったならば、どれほど良かったか。
「先輩………」
伸ばされた白魚のような指が、濡れた俺の唇をなぞる。その指が、誰に捧げられるため誂えられたものか知っている。知っていて、俺は、その指先を掴んだ。抵抗は、やはり無かった。今度こそ確かな涙が彼女の目の端からこぼれ落ちて、水滴に飾られた長い睫毛と共に、瞼が伏せられる。衝動では無かった。だが、迷いは無かった。
それが。
それが、木曜日のこと。