翌朝、情けないことにあの雨で風邪を引いたらしい俺は、キッチンから聞こえてくる包丁がまな板を叩く音で目を覚ました。ベッドの周り一面をぐるりと取り囲む大輪の花の苗が、湿気により強く香りを主張していて頭が痛かった。窓の外は昨日よりマシとはいえ、雨模様が続いている。曇天の、気の晴れない一日の幕開けだった。
床にも置かれた苗を避けながら、思い足取りへ部屋を出る。時折葉先が踵や足首を鋭く掠めていくので、もしかすると少し傷になっているかもしれなかった。熱に浮かされた頭でそんな事を考えながら、リビングに入ると、軽いスープを作ってくれていた彼女が困ったように苦笑していた。
「だめですよ、寝てないと」
言われるがまま手を取られ、リビングのソファに誘導されてしまう。ああとか、うんとか、何かしら返事は返したような気がする。正直なところ座っているのもつらくて、俺は雪崩れ込むように横になっていた。
「昨日の今日で、体が冷えたのかも。暖かくしてくださいね」
ソファのすぐ近く、サイドテーブルに置かれた卵のスープが、ほかほかと湯気を立てている。お前は大丈夫なのかとか、無理をさせてないかとか、そんな言葉は形にならず、不意に近づいてきた彼女の顔に「だめだ」とか返すのが精一杯だった。
「どうして」
「移したら悪い」
彼女は微笑むと、有無を言わさず小さな音を立てて俺の唇を吸ってしまう。驚いたのは口付けに対してじゃない。雨の中、あんなにも自由に心の内を叫んでみせた彼女の顔に、あの薄気味悪い穏やかさを湛えた微笑みが戻っていたからだった。
「コンビニ、行ってきますね」
そう言った彼女に、今度こそ俺はああ、としか返すことが出来なかった。監督生は荷物もそのままに、靴を引っ掛けると出て行った。玄関のドアが重く閉まる音だけが部屋に響く。あまりにも『らしい』幕引きに、とうとう俺は堪えきれなくなって全身をよじりながら笑い出した。笑ってなければ、このやりきれなさで頭がおかしくなってしまいそうだった。ようやく笑い止んだ時には、涙が浮かんでいた。笑いすぎたせいだと思いたかった。
「コンビニって、なんだよ」
この世界には無い、知らない言葉だった。
監督生がこの部屋に戻ってくることはないだろう。根拠のない直感だったが、そう痛感した。俺と彼女は、今やよく似た他人同士だった。だからこそ理解出来る。例えば。俺は、家族がどういう末路を辿るか予感しながらも彼女の手だけを取り、アジーム家との関係を断つことは出来るか?答えは否だ。同じだけの考えが、彼女の中にもあっただけの話に過ぎない。そしてこの世界のどこにも、誰とも、真の意味での繋がりと庇護を持たない彼女にとって、強大な後ろ盾となる力を持つ者は、俺ではない。お互い、時間はとうに無かったのだ。その終わりが、ようやくこの部屋にも及んだだけの話だった。むしろ彼女は、その別れを可能な限り優しい夢で包もうとすらしていた。もしかしたら。もしかしたら、彼女はひょっこり帰ってくるかもしれない、と。月曜日に再会した頃の悪い癖のように、親切な誰かの元に身を寄せてしまっただけなのではないか。そんな風に。彼女自身、そう思いたかったのかもしれない。誤算があるとするならば。俺は、そんな夢を見られないくらいには、彼女への激情に反して静かに思考し続けることを止めることが出来ない性質であることだった。
一度開け放たれた玄関から吹き込んだ風が、ぐちゃぐちゃに混じり合い、最早なんの花ともつかなくなった濃密な匂いを届けてくる。結局俺はそれから、花が萎れ、茶色く枯れた花弁を床に落とすようになるまで一人、このウィークリーマンションをずるずると借り続ける羽目になってしまったのだった。例え夢を見られずとも、静かに現実を受け入れることは出来ようとも。案外、諦めはあるい男であったことを、俺はこの時初めて理解した。
それが、金曜日のこと。
最後にやってきた、別れの日のことだった。