運命はおまえに微笑む【完結済】   作:yoshiko

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『御伽噺の続きなんて 誰も聞きたくない』
宇多田 ヒカル 二時間だけのバカンス(作品コード 221-9428-2 より引用) 


幕開け

 久しぶりに袖を通した豪奢な服、その細やかな金糸の刺繍に、ジャミルは果たして何日ぶんの食糧と引き換えられるだろうかと考えた。アジームに戻ったジャミルが、従者としての人生を再スタートさせてから久しい。常ならばもっとシンプルで動きやすい服装で構わないのだが、今日ばかりは従者の彼までめかしこむ必要があった。熱砂の国でもアジールと並ぶ豪商、監督生が輿入れしたあの男と自らの主人が、商談を行うからだった。

 手早く身支度を済ませてしまうと、まず間違いなく悪戦苦闘しているだろう主人の扉をノックする。すぐ入室の許可が聞こえて、ジャミルは部屋に踏み込んだ。案の定ぐちゃぐちゃのターバンを持て余していた彼の主人、カリムは一瞬驚くと、「似合うぜ」と見慣れた太陽のように笑うから、ジャミルもすぐ「当然だろ」と返すのだった。

 

 到着した男の屋敷では、商談の前に、ジャミルとカリムは歓迎の意を込めて空中庭園に招かれた。屋敷の頂上に設けられたその庭園は、太陽の光を目一杯取り込むため、天井部分が前面ガラス張りになっている。階段上に積み上げられた花壇の下には滝のような水が流れていて、その水が通路の脇を流れて行った。室内には小鳥も飼われているようで、時折木陰から鮮やかな青や碧をした翼がちらついている。カリムはその様にすっかり興奮しているようで、さらに奥へ、奥へと進んで行ってしまう。アジームの家を継ごうと常に付き纏う暗殺の危険を憂慮して、すぐさま追いかけようとしたところで、背後から声をかけてきた人物におもわずジャミルも足を止めた。この家の家主、つまりは、監督生の夫となった男だった。

 男はカリムにはこの家の者が庭園を案内するから必要ないと笑いかけ、ジャミルには自ら案内するのだという。正直気が引けたし、さっさとカリムのところに行ってしまいたいが、男はのらりくらりとかわしてしまう。あくまで従者であるところのジャミルはそれ以上強く断ることも出来ず、仕方なく案内を受けることにした。

 

 男がなぜこれほどまで、ジャミルを手ずから案内しようとしたかは、すぐに分かった。

「見たまえ」男は庭園内に突如開かれた場所に現れた、鳥籠を思わせるドームに囲まれたベンチを顎でさす。透かし彫りのような彫刻が施されたその空間からは、幼い赤ん坊を腕に抱いた黒髪の女性のかんばせが見えた。「妻と子だ」その声に、牽制の意が込められていたのは気のせいでは無かっただろう。

 安いものだったと思いますよ。きっと。そう語った彼女の、俺の運転する車の助手席に座っていた横顔を思い出す。この男は知っているのだ。一瞬の煌きのように過ぎ去った、あの五日間の日々を。別れの際、俺たちが抱いた葛藤を。分かっていて、許容しているのだと言いたいのだ。結局は手の中に戻って来ざるを得ない女だから、すべて見逃してやるのだと。安い、と痛感する。俺たちの自由は、彼らにとって、あまりに安すぎる。

 

「妻が子供の名前を、………にすると聞かなくてね。普段は大人しい、穏やかな子なんだが、あんまり望むものだから、とうとう私の方が折れてしまった」

 

 語る男の言葉は、正直なところ右から左だった。透かし彫り越し、久しぶりに見た彼女の肌は艶やかで、纏め上げられ髪はよく手入れされ、黒曜石のように光っている。頬の輪郭も健康的にふっくらとした赤みの刺したものに変わっていて、何もかもあの五日間とは違った。今の方がよく整えられ美しいんだろう。だがジャミルの脳裏には、あの日、あの時、うんざりするのだと語った彼女の声、諦観に塗れたため息が、拭い去れないでいる。

 

「彼女が異世界から来たのは知っているだろう。………と言うのは、彼女の世界の言葉で、『美しい』という意味のようでね」

 

 雷が落ちたような衝撃が走る。それはどしゃ降りの雨の中、二人で駆けたあの日に聞いた雷鳴だ。なんて女だと思った。男は、ジャミルの名前の由来を知らないようだった。彼は男に促されるまま、ふらつく足取りで女の座る鳥籠の中に足を踏み入れた。

 男は彼女に、自分がカリムの従者であることを紹介しているらしかった。そんな空々しい会話もついぞ耳には入らず、ジャミルは男の手ですっかり美しく飾られた監督生を呆然と見つめていた。

 

「従者さん?」

 

 彼女はベルベットのような滑らかな深紅に縁取られた唇で、微笑んだ。

 薄気味悪い、穏やかなあの笑みだった。

 

「その装い、あまり似合ってらっしゃらないわ」

 

 服。そういう方が似合ってます。

 あの早朝の火曜日、帰り道に零した彼女の声が頭の中でぐわんぐわんと響いている。男は「いけないだろう、客人に」白々しく彼女を叱り付けていて、彼女もまた「ごめんなさい、あなた」表向き従順に、貞淑な妻のように、そう答えている。どうして誰も気付かないのか。ジャミルには不思議で、不可解だった。その言葉尻に、聞き分けのない犬に言い聞かせるような言葉尻の冷たさも孕まれていることを、なぜどんな男も気が付かないのか。彼女の心を、彼女の孤独を、その苦しさを、見つめようとさえしていれば、簡単に気付けようものなのに。

 

 不意に男が身を屈めて、これが常であるかのように監督生へ口付ける。彼女は人形のようにされるがまま、赤い唇を開けて差し込まれる分厚い男の舌に答えている。鼻にかかる甘ったるい吐息が鳥籠の中に満ちていくなか、男と口づけながら不意に開かれた彼女の瞳は、熱の欠片もなく冷めきっている。その瞳が、ついと動いて、横目に俺を捉えた。

 

 そう、捉えられたのだ。「お前も………」たまらず喉元から飛び出した言葉の続きを、臓腑の底に押し戻した。お前も、似合ってない。見てくれだけ美しく飾りつけられたお前は、見るに耐えない。あの部屋で暮らした五日間、お前は痛み、傷つき、疲れきっていて、けれど美しかった。輝いていた。そう思った時、あの五日間の最後でさえやり込めた衝動に頭の中が支配されていくのを感じた。

 恋なんていう衝動的なものじゃない、とあの時の俺は思った。ならば、それは今だ。このどうしようもない光景に至り、俺は遂に恋に落ちた。今はただ、ようやく生まれた鋼鉄の意思で衝動を飼い慣らしながら、必ずお前を手に入れてみせる、と、そう誓っていた。




彼の名前は、アラビア語で「美しい」を意味するそうです。
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