赤ん坊は乳母に預けられることとなり、娘は産まれて間もない我が子を数日を共にしただけで手放すこととなった。母乳さえ与えられず、子が口に含むのは乳母の乳だった。国を左右し兼ねないほどの豪商、その跡取りともなれば、確かに幼くして乳母がつきっきりで面倒を見るのは常ではあったが、こと娘の場合においては徹底していた。それは男も予想していた通り、なんの後ろ盾も無い娘とその子供の命を狙う輩が多かったからでもあったし、この世界の者ではない娘を男の一族が信用していないからでもあった。
そんな娘でも、表立って我が子を胸に抱ける瞬間はあった。男の商談の場である。
熱砂の国では、商談の場には妻子同伴で赴くことが殆どだ。裕福であればあるほど、権力を持てば持つほど、伴う妻と子の数は増える。もてなす方はそれを目も眩むような歓待でもてなす。そうして互いの力を顕示するのが、この国の上流階層のやり口だ。同様に、男も娘を様々な会談の場に連れ回した。そういう時の娘の仕事は、我が子を胸に抱いて微笑み、男の腕に指を絡ませ寄り添うことだ。商談が終われば、赤ん坊はすぐに乳母が取り上げてしまう。それまでの僅かな時間、娘は片時も赤ん坊を手放そうとはしなかった。
娘はどんな商談の場でも、与えられた役ともいうべき仕事を見事にこなしていた。だから男にとって、あの人物との会話で娘が自ら口を開いたのは、まさに蒼天の霹靂といえるものだったのである。
その人物は、かのアジーム家当主の従者にあたる人物だった。幼少より現在の当主に仕え、娘とは在学していた学園が同じだった。だが、男女の親密さを伴う交流は無かったと男は聞いていた。その均衡が崩れたのは娘の輿入れ前、あの最後の自由たる一人旅の間であるとは、身辺を調査した者からの報告である。それ以前に、屋根のある部屋と引き換えに、娘は何人もの元を転々としていたと。
だがその報告を聞いてなお許す、と、少なくとも実際にその従者に会うまで、男は考えていた。ただ、釘は差しておかねばならないとは思った。誰がどう足掻こうと、この世に二つとない希少価値を持つ標本の女は、自分のものであるからこそ何をしようと許すのだ。それをあの従者にも、娘自身にもよく分からせておく必要があると、男は考えていた。二日と同じ相手に侍らなかった娘が、五日間もあの従者と暮らしていたとの報告を聞いて、さしもの男も勘繰るものが無いではなかったのである。
しかし、目論見が外れたのは男の方であった。
屋敷の空中庭園、一人になった従者に引き合わされた娘は、男に連れられた会談の場において初めて、自らの意思で、自らの口を開いた。驚いたのは男の方である。針を刺し、ガラスケースの中に閉じ込めたと思っていた標本が自ら喋りだすなど、いったい誰が思おうか。
「その服、あまり似合ってらっしゃらないわ」
落とされた言葉、従者が息を飲んで目を向いている。そこにどんな背景が、どんな感情が込められたのか、そんなものは男の知ったことでは無い。だがこれは、明らかに娘と従者の睦言だ。不可侵の領域で行われる、密やかな情事の熱だった。目の前で犯された娘の背信、娘の姦通とでも言うべき光景に、咄嗟に男は白々しく娘を叱りつけた。そんな事を言うものでは無いと。
ごめんなさい、あなた。そう返す娘はいつもの様子だ。男が手ずからとどめを刺した、標本の女の筈だった。それを確かめたくて、常から閨でそうするように口付ける。従者の前であろうと、娘はいつものように応えてみせた。そのはずだった。最中、男はうっすらと目蓋を開けて戦慄した。娘の黒曜石のような瞳は、冷え冷えとしたままじっと、従者の方を見つめていた。その瞬間、男は全身が堪えようもなく煮えたぎる熱に支配されていくのを感じた。当然だろう。標本とは、命ある頃の鮮やかさと躍動感をそのままに、硝子の中へ閉じ込めるから価値がある。それがケースの外へ抜け出し、焦がれた相手のもとに飛んでいくばかりで、残されたのは見てくればかりの空っぽな体だけだとしたら。これほど許せないことは無かった。男はこの日、この瞬間、初めて嵐のような感情を知った。初めて覚えた、嫉妬だった。
その日の夜、男は閨で娘を手酷く扱った。堪えきれず漏れたかのように思えた娘の声は今や、体の内側から内臓を動かされる反射のようにしか聞こえない。それから幾夜も、男は娘のからだを支配し続けたが、その薄い腹は義務は果たしたとでも言いたげに、二度と膨らむことは無かった。