本編後、番外編。紙本「なめくじにも角」の書き下ろしを再録。
※お手にとってくださったかた、ありがとうございます。
健やかであればいい
夏のとある日。通りはごった返していて、それだけでうんざりした。サフィヤ・スラグホーンは好き好んで人混みに飛び込むこともなく、わざわざ行列に並ぶようなこともしない男であった。ただの面倒くさがりか、効率重視かは見方によるであろう。自分の用事ならば、間違いなく家に籠もって通信販売を使っていた。しかし、わざわざロンドン――ダイアゴン横丁まで出向いたのには訳がある。
「前を向きなさい」
ディー、と名を呼ぶ。実にふらふらと、危なっかしく隣を歩いていた娘の手を掴み引っ張った。前から来た通行人を危うく避ける。
「一人で歩けるよ」
もう十一歳だよ、とディアナ・ユージェニー・スラグホーン、愛称はディーだったりジーンだったりする――は言う。
「ああそうとも」
ハイハイして掴まり立ちして、一人で歩けるようになったところを僕は見ているからね。大きくなったねえと言ってやる。からかうつもりが、ほんの一滴、感傷らしきものが混ざってしまった。無理もないか。せっせと娘のために産着を縫っていたと思えば、もうこんなに大きくなったのだから。
「あたしは、」
もうホグワーツに入学する年だもん、と娘は言う。わかってるよそんなことは。だからこうしてわざわざ買い物につきあっているのだ、とは言わず、サフィヤは小さくため息を吐いた。
「……落ち着きを身につけてほしいんだけど」
とっつかまえておかないとどこに行くかわからない。好奇心を爆発させて、夜の闇横丁にでも行かれたらたまらない。父の願いも虚しく、娘はあちらこちら視線をさまよわせるのに忙しい。マグル生まれの子じゃあるまいし、と思いつつも諦めた。少し夢見がちなところは妻似である。容姿はどちらかにそっくり、というわけではないが。足してほどよく分けたという感じである。淡い金の髪はどちらの系統でもありえる。片眼の下の泣きぼくろはサフィヤの遺伝であろう。眼は蒼――神秘的な、燐の色。これは本当にどこから来たか不明。穏和しくしていれば貴族の令嬢らしくは見える。粗野な言葉を使うわけでもないし、しつけはきちんとした……と思う。サフィヤなりに、将来困らないようにあれこれ仕込んだ。妻はというと「ディー、木登りするときはズボンじゃなきゃだめだよ」とか「釣りはこうするんだよ」とか、ある意味では子どもの心に寄り添った……いや、君は子どもかルーナ、という風な「助言」を娘にしていた。そこは「もし仮に月のものが来てしまったら」とかではないのか。なんで男親がそのあたりを懸念している。いやでもしかし、寄宿学校で急にそんなことになったら困らないか? そのあたりの繊細な話はルーナに任せてはいるが。男親の領分ではないし、娘も嫌がるだろう。
――友達ができたらいいんだけども
サフィヤはいささか気が滅入った。きらきらとした眼をして、ショーウィンドウの向こうの黄金の鍋を見ている娘を窺う。買いません。黄金の鍋とか却下だから。
娘を引きずるようにして、店に入る。折りたたみの鍋と、普通の鍋――頑丈で軽いものを選んだ。
「ええっ、あれがいい」
娘は黄金の鍋を指さすが、サフィヤは聞き流した。その代わりかき混ぜ棒と薬瓶は好きなものを買わせた。その気になれば魔法薬学関連の用品は自宅のものでどうにでもなるのだが、入学前の買い物という楽しみを奪うわけにはいかない。だからといって、黄金の鍋は買わせないが。
娘は弾むような足取りで、何本も薬瓶を籠に入れ、かき混ぜ棒は、飾りのついたものを選んだ。いいとも。学用品リストには薬瓶は一組と書いているが、一組では足りないだろう。
会計を終わらせ、荷物を持ってやる。片手は娘とつないだままだ。娘もいつしかぶつぶつ言わなくなった。
「次は……マダム・マルキンのところ?」
燐の眼がサフィヤを見上げる。永遠にサフィヤの背を抜かすことはないだろう娘。だが、差は少しずつ縮まっている。ローブは大きめに作ってもらうかどうするか……と迷いながら答えた。
「マフラーとか、ドラゴン革の手袋はもうつくってあるからね」
娘が眼を丸くする。いつの間に! という顔だ。ディーよ、父の実力をわかっていないな。本気を出せば制服一式だって仕立てられるんだぞ。だって昔、マダム・マルキンでバイトをしていたから。ついでに今もたまに仕事を請け負っているから。
「ローブの生地は、好きなのを選んでいいよ。まあ……色は黒縛りだけど」
マダム・マルキンの店が見えてくる。二人でとことこと歩く。娘と二人で買い物なんて奇妙な気分だった。ちなみに、妻は留守番だ。原稿の追い込みらしい。作家は大変である。絵も文もできるもんだから、彼女は忙しいのだ。
店の前に着き、扉に手をかける。さあ入ろうとしたら、娘に手を引かれた。
「あのね、お父さん」
「なんだい、黄色い生地はだめだよ」
「ゼノおじいちゃんじゃないんだから……ね、マダム・マルキンでローブを仕立ててもらって……お父さんに刺繍をしてほしいんだ」
お洒落な感じで、とオーダーされる。言われなくともそのつもりだった。実はとっくの昔にドラゴン革の手袋には刺繍をしてある。あまり目立たないようにしているけれども。
「承りました、僕のおチビさん」
「十一歳だもん!」
「はいはい、十一歳さん」
ちら、と娘を見やる。少々幼く見える娘。ホグワーツでやっていけるんだろうかと、じわじわと心配になってくる。きっと娘はレイブンクローになるだろうから安心、とはいかないのだ。妻だって、レイブンクローに入ったけれど、他人とは視点が違うところがあって、おそらく浮いていたわけだし。
「仕方がない。おチビさんにお詫びの品を差し上げましょう」
靴なんていかがでしょう、と続ける。ぴょん、と娘が飛び跳ねた。あー、ほんと、感情の表しかたが妻そっくり。
「ほんと? つくってくれるの?」
帰ったら測定するからね、と言って、さっさと扉を開けた「おやサフィヤ! ちょうどよかった今から雇いたいんだけど」とマダム・マルキンにすかさずとっ捕まった。「待って娘の学用品を買いに来ただけなんだけど」と言っても無視された。問答無用でマダム・マルキンの臨時店員になった。なぜだ。
けらけら笑う娘の採寸をすることになり、ついでに足のサイズもはかった。ちっちゃな足だったのにな……といささかしんみりしたのは内緒である。
九月一日、ホグワーツの制服を着てキングズ・クロスに行きたいという娘を宥め、問答無用で姿くらましした。娘はサフィヤがつくった靴を履いて、意気揚々とホグワーツ特急に乗り込んだ。
――よい靴はよいところに連れて行ってくれる
そんなことわざだか、言い伝えだかがあったはずだ。サフィヤは紅の特急を見送りながら切に願った。どうか娘が湖に落とされるようなことになりませんように、と。レイブンクローで友達ができますように、と。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
「君のその自信はどこから来るんだ」
のほほんと娘を見送った妻に問いかける。妻は銀の眼をぱちぱちさせ、首を傾げた。
「あたしとサフィヤの子だもン」
楽観的すぎると言えば「サフィヤは賢いのにバカだ」と返された。賢いのにバカはどっちだよ。呆れるくらい、妻は自信たっぷりだった。
「スリザリンでは真の友を得るんでしょ」
「どうかな。いや、ディーはレイブンクローだろう明らかに」
「あたしはスリザリンだと思うけどね」
ディーはパパっ子だから。
サフィヤは大笑いした。ないない。あの子がスリザリンはおそらくないだろう。ちなみに、サフィヤはスリザリンで親友なんてできなかった。別の寮の奇妙な変人女にとっ捕まっただけである。
「そんなに言うなら賭けようか」
他愛もないお遊びだった。強いてどの寮に行って欲しいというのもないのだ。健やかであればそれでよかったし、誰かをいびるような根性悪にならなければ十分であった。
「僕が勝ったら、ちょっと糸とか生地が足りないものがあるから買ってほしい。君が勝ったら……?」
画材かな、と妻は答える。細い手が、サフィヤの手を掴んで引いた。学生カップルでもあるまいし。もう三十代なんだぞ。しかし、振り払う気にもならず、二人でホームを歩き『表』のキングズ・クロスに出た。
「……漏れ鍋に寄ってから帰るか」
「いいね」
二人は急ぐことなく、キングズ・クロスを去った。
そして翌日。スラグホーンのお屋敷。
「……嘘だろ」
ふくろうが運んできた便りを開き、サフィヤは天を仰いだ。妻は得意げに口笛を吹いた。
「じゃあ画材のリストを渡しとくからね」
よろしく、と羊皮紙を渡され、サフィヤは頷いた。
もう一度、便りに眼を落とす。何度読んでも結果は変わらなかった。
あたしスリザリンになったの、という娘の誇らしげな文字が躍っていた。