長閑な春の陽気に山が笑い、かと思えば夜には
蘭は春が好きだ。
そしてそれは、冬が嫌いであることと地続きだった。
春休みに入る少し前、春分を意識し始める頃だった。
学校から帰るなり鞄を置いて友人達と出かけようとした蘭は、廊下を渡る刹那に、ふと足を止めた。
「そうか、もう、数日……」
居間から漏れ聞こえた父の
父は誰かと通話しているようだった。蘭を叱るときですら冷静であることが多い父の声が、明らかに動揺しているのが分かった。
「明朝……は無理だな。明日の夜にこちらを発つ。──ああ、分かっている。──蘭は……いや、そうだな。話は通す。──ああ、後でまた連絡する」
居間から廊下に視線を向けた父と目が合う。スマートフォンを置いて、蘭へと手招きをした。
「爺さんが危篤だそうだ。私は明日の夜には金沢へ向かうが、お前はどうする」
「危篤って、倒れたってこと?」
「そうだ。これが最期になるかもしれん」
「最期って……」
「春休みはいつからだ」
「えっと、26」
「そうか。……休んでも構わない。どうする」
「あたしも、行く」
打算と焦燥があった。学校を休める、という打算。祖父に会えるのが最後かもしれないという焦燥。
祖父は、特段に蘭を甘やかしてくれるわけではなかった。寧ろ蘭には厳しく、どちらかと言えば苦手な大人だった。親類はみんな「男の子が生まれなかったから」と言い、祖母は歯痒そうに微笑んだまま。
けれども蘭は覚えている。個展で祖父が蘭を抱き上げた時のこと。オムライスが食べたいと駄々をこねる蘭を喫茶店へ連れて行ってくれたこと。
シミができ、血管が浮かんだ皺だらけの手で
人が死ぬとはどういうことか。蘭はまだ実感したことがない。せいぜい、友人の親族の訃報を聞いたことがあるくらいだ。父が知人の葬式に出かけるのを見送ったこともある。それ以外には、布団の中で両親が亡くなる想像に怯えた幼日の記憶くらいのもの。
平穏な日常に黒い陰が落ちたような気配に、呼吸が浅くなる。
「では、学校には連絡しておく。今日中に泊まりの用意をしておきなさい」
「うん」
「それと、制服も持っていくように」
準備をしてくる、と自室へ向かった父の背中を見送ってから、蘭は深く息を吸った。背骨の辺りが震えているような気がする。
少し時間がかかってしまった。友人達はもう集合している頃だろう。財布とスマートフォンだけを手に家を出た。
下校路の急かされるような気配は既に立ち消え、遊びに出かけることへの後ろめたさが付き纏う。全くそんな気分ではなくなってしまっていた。
「あ、蘭! 遅かったね!」
なし崩しに集合場所になっている商店街の広場に足を踏み入れると、友人の一人、上原ひまりが大きく手を振った。四人とも既に揃っているらしい。ひときわ背が高い宇田川巴がよく目立つから、もし広場が混んでいても探すのに苦労はしなかっただろう。
「ごめん、今日、遊べなくなった」
「え、どうして?」
「明日から金沢に行くことになって……その用意とか」
「家の用事?」
「うん」
「そっか。じゃあ、しかたない」
祖父が倒れたらしくて、しばらく金沢に留まることになるかもしれない。そう言ってしまいたい欲を飲み込んだ。ただの家の用事で遊ぶ約束を放り出すわけじゃない、という言い訳がしたかっただけ。浅ましい思考を自覚させられる。
面識のない蘭の親族が倒れたところで、四人にはまったく関係のないことだろう。蘭自身、ショックを受けてはいるが傷ついてはいない。余計なことを言って心配されたくはなかった。
「……なんか嫌そうだね」
「べつに、嫌なわけじゃない。気分が良くなるものでもないけど」
「親戚の集まりってなーんかヤダよねぇ。あ、でも、
従姉妹、という言葉に顔を顰める。きっと、叔父の一家も来るだろう。となれば、蘭の7つ年下の従妹ももれなくついてくるはずだ。
子どもは嫌いではないが、接するのは苦手だ。男児はずけずけと面倒くさいし、女児には怖がられる。あまり良い思い出がない。
「あ、引き留めてごめんね」
「大丈夫。こっちこそ、ごめん」
「お土産待ってるね〜」
「モカってば、そういうとこだけ調子良いんだから……」
果たして、土産を買うような流れになるだろうか。
良い報せと共に持ち帰れれば良いが。どんな状況であっても父は配慮してくれるだろう。しかし、配慮
髪が耳にあたって煩わしい。出かける前に切っておくべきだろうか。
通っている美容室に電話をかけると、生憎今日の予約は埋まっていた。
切らない方が良い、と思うことにした。
祖父の最期に備えるということは、祖父の最期を望むのに似ている。両者の間には嶺が横たわっているけれども、近付けば乗り越えられる程度の、何かの拍子に崩れてしまいそうな高さでしかない。今は前者に流れる水が、いつか後者にさらわれることも。
気が
自分にできることは何かと探しては、何も見つからずに自分の無知を思い知る。
こういうときにどう動けば良いのか、蘭はまるでしらなかった。
家に帰ると、普段は気にしない静けさがやけに気にかかった。
自室に戻って、キャリーケースを開く。前回使った際に入れっぱなしにしていたビニール袋と、使い捨てカイロ、ポケットティッシュが出てきた。
私服と下着を3セット、寝巻きを詰めると残りスペースはわずかだ。外泊用の歯ブラシやら櫛やらを隙間に詰めると、あとはせいぜい化粧水や充電器を入れる程度のスペースしか残らない。
脳内シミュレーションを繰り返しても、これ以上準備すべきものが思い当たらなかった。
何かしなければと、手当り次第気味に宿題に手を付けた。明日提出のものはテキスト2p程で、30分もせずに終わってしまう。
じゃあ次は、と考えて、どうせ出す予定のない先の課題に手を付けるほど真面目にはなれなかった。
その日は結局、母が呼びに来るまでずっと、思考の海に沈んでいた。
♦
雨水の始まりを報せた庭の梅が、とうとう花を落としきろうとしていた。
花が散ることは、蘭の知る限りでは吉兆とは無縁である。散花は女性を揶揄する言葉として使われたり、あるいは仏教の供養方法のひとつとして蓮の花弁を散らす、というものもあったはずだ。
そして、散華。タイトルにつられて読んだ本の作者は、太宰治だった。国語で名前を習った程度の知識しかなかった蘭は、『走れメロス』のイメージのみを持ってその本を手に取った。薄っぺらな文庫本に『散華』とだけ主題が載せられた表紙を、蘭はどういうわけか鮮明に覚えている。
人が戦争で死ぬことを、
病で夭逝した友人や、
今そんなことを思い出すのは、おそらく、諦めるためだった。
現実は無情で、人の生き死には当然の摂理だ。かつては戦争で多くの人が亡くなったように、今だって身近な人間が亡くなることはそう珍しいことじゃない。そう、心に言い訳を作るため。
ごく自然な摂理に吉凶の兆しを見出そうとするのは、論理的な行いではないと思う。
花は咲けば散り、月も満ちれば欠ける。けれども花は次代に種を残す役割を全うしたから散るのであって、それを悪しき報せと受け取るのは、人間に都合の良い一側面だけの切り取りでしかない。
「蘭」
「お母さん。わざわざ迎えに来なくても……」
「早退するのだから、一応ね。その方がスムーズでしょ?」
「まあ、そうだけど」
「先生方だって、子どもが一人で帰るのに色々と気にかけてくださっているのだから、いらない気苦労をお掛けするわけにもいかないし。そのうち蘭もわかるわよ」
結局、午前中だけ授業を受けて早退することになった。
教室を抜け出すときの、あの注目を浴びる瞬間が嫌いだ。とはいえ根掘り葉掘り聞かれるわけでもないのだから、いささか過敏になっていることを自覚せざるを得なかった。
「お土産待ってるね」とわざとらしく念を押して送り出してくれた
「お母さんは行かないんでしょ?」
「ええ、家を空けるわけにもいかないでしょう。……それに、気を遣わせてしまうだろうから」
「父さんに?」
「いろいろな人に」
「そうなんだ」
「蘭は気にする必要ないのよ。お母さんも一度は顔を出そうと思っているし」
母が父方の親戚と不仲だという印象はなかった。むしろ、父の家業を支え盛り立てる姿勢を褒められていたはずだ。
蘭には、大人同士の人間関係の機微がよく分からなかった。自分が生まれる前から続いている人間関係が、綿密に重なり合って迷宮の様相を呈している。
蘭にとっては生まれた瞬間からの付き合いである親戚でも、両親にしてみれば付き合いの浅い外様であったり。
「お父さんの言うことをきちんと聞くのよ」
「わかってる」
「そんなに心配していないけど、念の為ね」
通学路を母と歩くことに違和感があった。
平日の昼、普段、蘭が目にする景色とほんの僅かに異なる下校路。小さい子供連れや、老人の割合がいつもより大きい商店街の脇道を通り抜けて帰宅する。
キャリーケースに充電器と化粧水、それから制服を詰めて、ファスナーを閉じる。ほとんど財布だけを入れたようなリュックとあわせて、それだけで支度は終わり。
「支度はできたか」
「うん」
父と二人でタクシーに乗り込む。
トランクに荷物を載せてもらって、後部座席に座った。ルームミラー越しにチラチラと目が合う運転手と、父がいくつか世間話をしていた。
「大荷物ですけど、旅行ですか」
「親戚の集まりでね、石川に行くんです」
「はぁ、石川。北陸は先週も雪が降ったとか。こっちはもう春も見えてるってのにねぇ」
「用事があるのは雪深いところでもありませんのでね。天気が悪いくらいで、こちらと差程変わらんとは思っていますが」
「まあ、まあ、そうでしょうな。私も昔は富山の方で運転手をやってましてね、冬は仕事を辞めたくなったもんです」
花咲川の駅まではすぐだ。
既に切符は予約済だったらしく、父は券売機からすぐに切符を取り出して、蘭に手渡した。
「給食は食べてきたのか」
「ううん。父さんは?」
「私もまだだ。駅弁を買うか、夕方に何か食べるか、どちらが良い」
「駅弁。お腹減ったし」
そうか、と言いながら、父は改札を通り抜けた。キャリーケースを引きながらついていく。エスカレーターに乗せるのに少し手間取って、段差の端でキャスターがガタリと足を踏み外した。
準快速に乗って二駅、降りた駅で「東京弁当」と名付けられた弁当を買った。父の背中を追いかけるままに新幹線に乗り込んで、息をつく。席の上に備え付けられた荷物置きにキャリーケースを上げて、蘭は窓側に座った。
ここから3時間弱、それなりの長旅だ。少なくとも、蘭にとっては。
正午を既に回っているからか、ひどく空腹だった。
早速弁当を開けて、箸を割る。
代わり映えのない都市部を抜けるまではすぐだった。川沿いに畑が広がったかと思えば、ゆっくりと箸を進めているうちに新幹線はトンネルと山間を交互に追い越してゆく。
嶺には白く雪が積もっていた。雪国の一節を思い出す。きちんと読んだことはないが、かの有名な一文くらいは知っていた。
「父さんにとって、お爺ちゃんはどんな人?」
トンネルを抜けると、──
一本道の暗がりをひたすら歩くような人生だと感じることがある。期待が重たく感じられたり、周りの同級生の自由さが羨ましくなったり、妬まれることを理不尽だと感じたり。蘭の人生には暗雲が立ち込めていて、けれども回り道さえ許されない、一本道であるように見える。
それでも、ふと、視界が眩く光って、周囲を見渡せることがある。視界が広がり、今まで見えなかったものが見えるようになる。
たとえば、父の個展を手伝った日。
父が和やかに談笑している相手は、みんな味方なのだと思っていた。
別の流派でも親しい人もいれば、同門でも関係が良くない人もいる。一見協力的に見えて、ビジネスの関係でしかない人もいる。
暗いトンネルを抜けた直後のような真新しい視界で、ふと、そんなことに気がついた。
世界は敵か味方かなんて単純な二極構造ではできていないなんてことも、小学生の蘭は理解していなかった。
「……随分、難しいことを訊く」
であれば、父にとっての祖父はどうなのだろう、と気にかかった。
蘭にとっての父は、今のところ全面的に味方だ。厳しいところはあるし、頑固だなと思うところも多いけれども、代わりに真っ直ぐだった。
蘭自身の「やりたいこと」と父が蘭に望むことが相反し、不満を抱くことはあれど、結局のところ蘭は父を尊敬している。
「自分を棚に上げて言えば、あまり好ましい父親ではなかったように思う。俺、……私にとっては、父というよりも師だった」
「厳しかったの?」
「そうだな。あの人は息子よりも華道の方が大事なのだろう、と思った。しかし、信念と技術は尊敬している」
どういう答えを望んでいたのか、蘭自身も分からなかったが、父の言葉は蘭の意表を突いた。
人間的に好ましくない、という意味の言葉を吐く父の姿を、蘭は想像だにしたことがなかったからである。
愚痴を吐かない人だった。頑固で理不尽な取引相手に対しても「難しい人だ」と言う程度。それが肉親に対してそれ以上の言葉を放つ衝撃は、筆舌に尽くし難い。
「……仲、悪いの」
思わず追加で投げた問いは、掠れていた。
「仲は良好だろう。私が飲み込むのに、幾つかの
「言い訳?」
「あの人は婿養子だ。
それは言い訳にはならない、と思ってしまうのは幼さだろうか。言うべきではない言葉が次々と浮かんできて、蘭はそれらを飲み込んだ。
「師として尊敬している。それ以上でも以下でもない」
「父さんは、寂しいと思わなかったの」
「さて、もう忘れてしまった。私も、できた跡取りではなかっただろう。お互い様というものだ」
父はペットボトルの緑茶に口を付けて、それから目を閉じて深く息を吐いた。
何か話を続けるときの癖だ。蘭にとっては、説教の折の仕草として認識が染み付いている。
「……寂しいのか」
「わかんない。習い事ばっかで友達と遊べないのは、嫌だけど」
「本当に嫌なら、幾つかを辞めても構わない。母さんを説得するのが前提だが」
「……必要だと思うから習わせてるんでしょ?」
「そうだ。しかし、親の押し付けでもある。今の私は幼少期の習い事に助けられてきたが、20年前の私は友人との時間を優先したかった」
「私がお前に示してやれるのは、少しだけ上手くやった場合の私の人生だ。そしてそれは、母さんも同じ。お前の意志でのみ、お前の人生に舵を切ることができる」
弱音とも取れる父の本心を、蘭は初めて聞いたような気がした。
どう言い繕おうとも、中学生の蘭は、未だ親の言葉を絶対的に正しいものだと捉えてしまいそうになる。
少しは遠くを見渡せるようになって、自分の両親が世間と比べてどんな傾向にあるのかをなんとなく察せられるようになっても、それは変わらない。
「……習い事は、まだ続ける。あたしが、その方が良いと思ってるから」
「そうか」
「守破離って、最初に教えてくれたよね。まだ守っておく」
次は長野、とアナウンスが流れた。
「私も、まだ守っているのかもしれんな。歴史をただ真っ直ぐに伸ばしても碌なことはない。幹を太く、枝はなるべく遠くへ伸ばさねばならん」
習い事が多いのは不満だ。放課後に友人たちと遊べる頻度も、他の4人と比べたら著しく少ないし、土日だってしばしば潰れる。
けれども、蘭にとっては種を撒き、水をやる行為である。水やりが面倒だからといって放り投げては何も実らない。不満はあれど、ただの愚痴でしかない。蘭にしてみれば、必要な犠牲を払っているだけだ。
美竹の長女に生まれた蘭は、比較的恵まれた境遇にある。故にこそ求められる
それが蘭の
金沢駅からタクシーで病院へ直行した。面会時間は17時までで、病院に到着したのが16時頃。
「起きているそうだ。面会もできる」
エレベーターに乗ろうとする折、ベッドに寝たきりの患者と、移動用のベッドで患者を運ぶ看護師の集団とすれ違った。会釈をして足早に去っていく後ろ姿を見送って、カゴに乗り込む。
病室に向かう道すがら、親類には会わなかった。
買い出しに出かけているとか。
「
「……こんにちは」
病室のベッドの脇に置かれた椅子に、祖母が腰掛けている。
上体を30度ほど起こしたベッドに、祖父が横たわっていた。鼻にチューブが入っていて、むき出しの左手には点滴の管が刺さっている。
「……体調は」
「今は少し楽になったみたい。みんなが来てくれたからかしらねぇ」
「来なくて良いというのに。……お前も、家を空けてどうする。蘭まで連れて来おって、学校はどうした」
「数日程度問題はなかろう。親父こそ、自覚しているのか」
「自分のことは自分が一番わかっている。……永くかかったな」
祖父の言葉ははっきりと明瞭だった。ともすれば、二年前に蘭と話した時よりもずっと。
「家は、柚月さんに任せてきたのか」
「任せるに足ると言ったはずだが」
「……もう認めている。……おい、少し二人にしてくれないか」
「……もう。喧嘩はしないでちょうだいよ」
「精算がしたいだけだ。荷物を減らしておかねば、川を渡して貰えぬかもしれん」
祖父の言葉に頷いて、祖母が立ち上がった。蘭へと手招きをして、病室のドアを開ける。父を見上げると頷いたので、蘭も付き従って廊下へ出た。
「驚いたでしょう? 蘭ちゃんの前では穏やかだったものねぇ」
「……うん、少しだけ」
「梗介が結婚するときにね、大喧嘩したのよ。あの人、ずっと気にしていてねぇ……」
父が頻繁に帰省しない理由はそれだったのだろうか。確かに、父の帰省に母が着いてくることはほとんどなかったし、父と蘭も盆の暮れに1泊2日がせいぜいだった。
対照的に、母方の実家には長く滞在することが多かった。母の気苦労を癒すためだったのだろうか、と想像してみる。
母は、華道とは無縁の人だったらしい。
それは母の実家に帰っても容易に想像ができる。
こじんまりとした美容室を営む祖父母は、母の帰省の度に蘭の髪を切ってくれた。
髪は女の命だ、という言葉がある。
花の命を鋏で切り取る華道と、女の命を鋏で切り取る美容師に、実はそれほど大きな違いなんてないんじゃないか、と蘭は思っていた。
切って、活かすのはどちらも同じだ。
「ね、蘭ちゃん。あの人、もう永くないそうなの。お医者様が言うには、あと数日かもしれないって」
「でも、元気そうだし……治ったりは」
「2人が来るまで、昏睡状態だったのよ? 私だってあの人には長生きして欲しいと思うけれど……どうしてかしらねぇ」
祖母は、ずっと穏やかな人だった。争い事が嫌いで、いつもにこにことしている。話すのもゆっくりで、所作も常に落ち着いている。そんな祖母が、こんな状況でも落ち着いているのが、蘭には不思議でならなかった。
祖父が危うい状態でも、平常心でいられるものだろうか。離れて暮らしている蘭はともかく、ずっと傍らに寄り添ってきた配偶者の死に目に、祖母はこうも凪いでいる。
「まったく確かなものではないのよ。でもねぇ、ずっと花を切ってきたからかしら。私もあの人にも、予感があるの。きっと、最後の力を振り絞って起きているのよ」
それ以来、蘭達は実に取り留めのない話をした。学校のこと。稽古のこと。家族のこと。金沢周辺のこと。美竹の歴史のこと。
病室からは、聞き取れないくらいに小さく、低い声が漏れ聞こえていた。あまりに淡々と、そして
「
「松は……分かるかな」
「なんでも難しく見る必要はないのよ。蘭ちゃんはとりわけ目が良いみたいだから、きっと大丈夫。それに、白加賀や寒桜も咲いている頃でしょう」
せっかく来たのだから兼六園にも行っておいで、と言われるがままに心の手帳に書き留める。そういえば、3年は行っていない。以前は花の美しさ程度しか分からなかったが、この3年で変われただろうか。
不意に足音がして、病室のドアが開いた。半身を廊下へ現した父が、蘭を見やる。
「爺さんが話したいそうだ」
「……話してあげて」
「うん」
父を見上げても、無表情の裏に滲むはずの感情は読み取れなかった。
引き戸を開けてレールを潜る。おそらく数年ぶりに、蘭は祖父と一対一で向き合った。
二年前よりもシワが増えた喉が、酸素を求めて鳴った。
少し、緊張していた。
祖父に稽古を受けたこともなければ、作品の品評を受けたこともない。だから祖父が蘭にどんな感情を抱いているのか、測りかねている。
「座りなさい」
先程まで父が腰掛けていただろう椅子に背中を預けた。
「……華道は好きか」
掠れた声で祖父がぽつりと言った。
「えっと、」
「悩むな。……死に目の老人に、隠しだてすることはない」
「……普通。楽しくはないけど嫌いでもない」
愛着はある。
華道だから、ではなく、家業だからだ。
生家が喫茶店でも花屋でも美容院でも書道の家元でも、バレエの家系でも、蘭は家業に対して同じことを思っただろう。
東京に生まれたからこその地元東京への愛憎があり、蘭が京都に生まれたとしても石川に生まれたとしても福岡に生まれたとしても、同様に地元への愛着と憎悪を覚えただろうことは想像に難くない。
「ふん。アイツも存外、鈍い」
「父さんが何か言ってたの?」
「お前は華道が嫌いだろうと言っていた」
それは、と口を開きかけた蘭を、咳払いが遮った。
「アイツが嫌いだったからだろう」
「父さんが?」
「華道などくだらん、と言っていたな。大学生までは、華道を厭う気配があった」
考えたことがなかった。父が華道を嫌がっていた時期があっただなんて。
つい最近まで、蘭にとっての両親は、絶対的な存在だった。二人がどのように出会って家族になったのかを聞き及んではいても、二人が傍にいるのが蘭が生まれた瞬間からの『いつも通り』だ。
華道に否定的な父を、蘭は想像できなかった。
「……さて。もう20分もない」
背後の時計を振り返った。面会時間が終わるまではあと18分だった。
祖父がベッドの傾斜を調節した。丁度、背もたれに身体を預けて座るような体勢になる。
「遺書は書いたが、あれは遺したいものを書くのではないな。事務手続きのようなものだ。……しかし、最期が孫になるとは」
祖父は、やはり活力で動いているように見えた。
危篤という言葉が似合わないほどに元気で、けれども燃え尽きる前の蝋燭を思わせる。
「後悔を置いていく。婿に入った俺は、とにかく美竹の門を守ろうとした。梗介にも厳しく修行をさせたし、相応しい妻を探すようなこともした。しかし、この世には身の丈という言葉がある。この歳になって、手に残ったものを数えていると思うのだ。己の為したことは価値があるものだったのか、と」
「だから、母さんと──」
「言ったろう、後悔だと。柚月さんは立派だ。お前を見てもよくわかる。梗介の手柄ではないだろう」
枯れ枝のような腕が、ベッドの手すりを掴んだ。力が込められるのに合わせて血管が浮かぶ。
「美竹は、手に残ったものには入らない?」
「……継いだものだ。この世に残していくものではあるが。いや、しかし、丁度いい。華道は好きかと訊いたな。この歳になって俺も、改めて考えた」
ふと、気がついた。この部屋には花がない。
「華道も、所詮は人の業だ。如何に野のものを、自然をと言い繕おうとも、現代の華道とはそういうものだ。人間に都合が良いように作られた花を、人間に都合が良いように殺し、生ける。野活けも例外ではない。花屋も、牛飼いも、政治家も、全ては等価値だ。高尚ぶっていても、実態はそんなもの」
「あたしも、そう思う。社会的な価値なんて話をしたら、それこそ。でも価値って、社会全体が決めるものじゃないし。あたしはこの家が好きだから、そう思うのかもしれないけど……」
蘭は、かねてから抱いていた疑問を改めて喚び起こした。つまり、華道とは自然に近いものとは言い難いのではないか、ということだった。
たとえば盆栽は、人間が都合の良いように成長を抑え、形を作っていくものだ。兼六園のような庭園も、あくまで人間が楽しむために植物を配置し、剪定する。
華道なんかは、さらに野蛮と言っても良い。植物を切り、都合の良いように活けて、『作品』に仕立てる。作品となった植物たちは、できるだけ永く保たれたあと、次代に種を残すこともできずに枯れゆくのみだ。
父も、祖父も、そのような矛盾には気が付いているはずだった。父は戒めのように庭で草花を育てているし、森林の再生なんかの事業の援助もしている。
蘭に反感を抱かせるのは、中途半端な外野だ。それも、父や祖父の自戒を無碍にするような、無理解な賛美だった。
社会的に、華道が有益であるかどうか。少なくともインフラには寄与しない。必要性、という観点で見るのなら、華道は一番最後になる。
所詮、華道とは芸である。
「ふん、やはり梗介には似なかったらしい。……分かっているならいい。蘭、お前が征きたいと思う道を選びなさい。種子は遠くまで飛ぶ方が良い」
話は終わりだ、とばかりに祖父がベッドを傾けた。
時計を見れば16時59分。
祖母が戻ってきて、蘭は病室のドアを開けた。
「また明日、来るから」
「ああ」
「あ、蘭ちゃん! おかえりなさい! いつ帰ってきたの?」
「昨日。……これ、お土産」
「わ、ありがとう!」
帰宅するなり、荷物を放り出したまま蘭は商店街へ向かった。羽沢珈琲店のドアを開けて、放課後、店の手伝いに入っていた幼馴染に会う。
父は葬儀後の後片付けで金沢に残ったまま、途中で合流した母と二人、花咲川に戻ってきた。
「1番上の……ドライフラワー?」
「あと、ジャムと棒茶」
「前も買ってきてくれたやつ?」
「ん。自分で飲んでも美味しかったし」
「ありがとう。あれ、ママがすっごく気に入ったみたいで」
案内されるままに奥まったボックス席に座ると、彼女──羽沢つぐみが向かいに腰を下ろした。
手渡した紙袋をテーブルの上に置いて、一つ一つ包装を並べていく。
「ドライフラワー……昔、あんまり好きじゃないって言ってなかったっけ」
「考えが変わったの。いとこと作る機会があったから、つぐみにどうかなと思って」
「とっても綺麗。ミモザとカスミソウ?」
「ん」
ドライフラワーが苦手だったのは、おそらく、生け花と相反する手段を講じた概念だからだ。
花を手折るのは同じでも、華道は花の完全な美しさを刹那的に表現するのに対して、ドライフラワーは色褪せた花を長期的に残そうという試みだ。
草花のミイラを眺めることに、蘭は心を揺さぶられなかった。
それは今でもそう変わらないが、永く残ることに価値を感じられるようにはなった。
「カフェオレ作ってくるね。ちょっとまってて」
「うん」
小さなブーケは、紙袋から顔を出したまま仄かに香った。
やがて、つぐみが持ってきたカップから漂う香りに上書きされたそれを、少しだけもどかしく思う。
思えば、ドライフラワーに確りと香りが残るなんて思いもよらなかった。蘭にとっての花の香りとは、文字通り匂い立つような生命の気配に満ち満ちた、生花にのみ許されたものだ。
「いつもより甘くなっちゃったかも」
「ありがと。甘い方が好き」
「ココアの方が良かった?」
「……ココアは喉が渇くから」
「前もおんなじこと言ってたよ。でも、たまに飲んでるよね」
「いつも後悔する」
角が取れた珈琲の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
電子レンジでホットココアを温めすぎて牛乳が膜を張った記憶が蘇る。
「ね、覚えてる? あたしが稽古から逃げ出して、ここに来たこと」
「えっと、七歳くらいのときのこと?」
「うん」
「習字から抜け出してきちゃったんだっけ」
「書道じゃなくて、父さんの稽古。なんか、あのときは無性に辛くてさ。冬だったからかも」
冬は嫌いだ。
見上げたオリオン座の美しさも、蘭には冷たさしか与えない。
「ここに来たら、つぐみがモカと遊んでた。なんだっけ、『硝子は液体なんだって〜』ってグラスを持ち上げて、モカがつぐみのお父さんに怒られてた」
「はしゃいでたのは私もだから、ちょっと気まずかったの覚えてるなぁ。モカちゃんも覚えてるかな?」
「都合が悪いことは忘れてるでしょ」
「モカちゃんはそういうの覚えてそう」
お冷のグラスをぐるりと一周傾ける。
檸檬が仄かに香る。蘭の指先に伝わってくるのは、流体がまとわりつく感覚と冷たさだった。ただし、流れ落ちるのは硝子ではなく結露である。
硝子が液体かどうかはさておいて、硝子に纏わる記憶が思い起こされたのにはきっと理由があった。
硝子とはつまり
硝子には、本当の蘭が映る。
グラスに跳ね返る蘭は歪んでいた。
自分を顧みるのに、鏡という道具を用いることは合理的に思われた。
人間の主観というものは実にいい加減で、見たいものしか見ないようにできている。
たとえば、蘭が幼い頃に描いた絵を見ると、花と母が極めて大きく描かれていて、父や実家、公園なんかは小さく描かれている。蘭が意図してそう描いたのではなく、きっと当時の蘭にはそのように見えていたのだ。好きな物こそが大きく見えていた。
父との稽古のひとつにも、自分の作品を写真に撮って品評する、というものがあった。自分で生けているときには、花の力強さに感覚が歪むのだ。
白百合のみずみずしい香りに釣られてしまえば、あとから振り返ると白百合が頼りなさげに佇んでいる作品になり。カスミソウの鮮やかさを過小評価してしまえば、カスミソウに埋もれて何がなにやら分からない作品になる。
故にこそ、蘭は身に染みて覚えていた。
人は、見たいものしか見えないようにできている。
「あの頃は、皆と遊べないのが嫌だった。……今でも稽古詰め込み過ぎだろ、と思うことはあるけど」
「うん、でも、」
「でも、仕方ない。皆が私の空いてる日を優先してくれるのに感謝してる。ただ、ちょっと悪いなって思うのが、これからもっと付き合いが悪くなるかもしれないってことで……」
「……それは、蘭ちゃんにやりたいことができたから?」
「うん」
「それじゃあ仕方ないね。寂しいけど、同じくらい嬉しい。蘭ちゃんのやりたいこととお
つぐみの言葉に、蘭は改めて目の前の親友のことを意識した。幼稚園児の頃からの幼なじみ。入り浸っている喫茶店の娘。ブラックコーヒーが飲めないことを悔しく思っているらしい生真面目。彼女の根底にある思想や本音を、思い返しても訊いたことがなかった。
「つぐみとそういう、家の話、したことなかったね」
「うぅん、やっぱり、蘭ちゃんの方が大きいものを抱えていると思うから、私の話っていうのも……」
「そんなに変わらないでしょ」
「変わるよ! 私は別に継がなくていいって言われてるし、外や親戚とのお付き合いとか、歴史があるわけじゃないもん」
「でも、継ぎたいんでしょ」
「……それは、うん。継ぐというか、パパとママと同じことがしたいし、助けになりたいかな。だから、蘭ちゃんのことも応援したい」
カフェオレの水面を覗き込んだ。僅かに波紋が浮かぶミルクブラウンの水鏡は、蘭の姿を映さなかった。
ドライフラワーのミニブーケをつぐみが動かした拍子に、ふたたびミモザが香る。
ふと、冗談めかした思考が蘭の脳裏をよぎった。
「あたしたち、とっても親孝行な娘じゃない?」
蘭がそう言うと、つぐみが鈴を転がしたような声で笑った。
歴史があるということは、それだけ多くの人間に受け継がれてきたということだ。若かりし日の祖父の我武者羅な努力も、晩年の祖父の苦渋と悟りも、すべて蘭の父に受け継がれた。それが祖父が
だとすれば、そんな歴史の枝末に、蘭も鋏を入れてみたいと思った。
父と母が継ぎ、育て上げた枝に、数十年後の蘭が鋏を入れる。
それは人生の夢足りえるだろうと思うのだ。