揺れる車窓に収まる
大人になった俺は、その景色を手に取った。木の額縁に収められた水彩の町は、御伽噺のように可愛らしい。普段カウンターの横に飾ってあるためか、この喫茶店を訪れる人達の間で穂麓町は度々話題に上る。のどかで素敵な町。なぜか山の洋館に辿り着けないなんて話も聞いた。本当に魔女が住んでいるのかもしれない。
せっかく隣町に建っているのに、間に森が挟まるせいで、ここからではあの景色を直接見られない。だから、絵で空想を膨らませる。
すると、窓の外から「
見れば、ぶかぶかのトレンチコートの袖を派手に揺らして手を振る小柄な女。姉の
その隣には、彼女を微笑んで見守りつつ、控えめに手を振る細身の男。俺の親友であり、姉の彼氏である
俺は店の扉を開け、木漏れ日に照らされる二人のもとに駆け寄った。
「久しぶりだな、二人とも」
「店の準備中に、悪いな」
「いいよ、暇してたし。どうしたんだ?」
「その、ちょっと報告をね。それは?」
指された右手には絵。持ったまま来てしまった。
「いつも飾ってあるやつか」
「うん。爺ちゃんが描いた穂麓町。綺麗だから、見てた」
姉さんは目を輝かせた。
「わたしにも見せて」
姉さんは俺から絵を受け取ると、くるりと俺の方に向けた。
「なんと、この町に住むことになりましたー!」
穂麓町は響が住んでいる町だ。恋仲の二人で報告に来ているということは、つまり。
「同棲?」
二人揃って、眩しい笑顔で頷いた。
確かに、どっちも即行動派だ。付き合って一ヶ月で同棲を始めることに違和感は無い。ただ、不安はある。
昔から姉さんは感情の起伏が激しく、感情を制御できず人や物に当たることもしばしばあった。一方で、響は何があっても動じない。大学で酷い噂を流布された時も、学食で平然と大盛り牛丼を平らげていた。
正反対な性質の二人。衝突しないと良いのだが。
胸の奥に淀みは残るが、二人とも俺の大好きな人。その笑顔を崩すような真似はしたくない。
「なるほど。じゃあ、お祝いにコーヒーご馳走するよ」
姉さんは俺に絵を返すと、苦笑いをした。
「ごめん。今から荷物片付けなきゃで、ゆっくりしてる時間無いの」
「気持ちだけ受け取る」
「そうか。忙しいとこ来てくれてありがとう。お幸せにね」
「まだ結婚はしてない。そのうちするけど」
自分で言って、響は耳まで赤くした。照れている響は初めて見た。どこでプロポーズ一歩手前をしているんだ、こいつは。
「響くん! 嬉しい、絶対一生守るからね!」
子犬みたいに姉さんが飛びつくと、響はその頭を慈しむように撫でた。
「僕もだよ、弥宵」
相当懐いている。幸せそうな二人を見ていると、心が温まる。
ひとしきり響を堪能して満足したのか、姉さんはぱっと離れて俺に言う。
「隣町だし、また遊びに来るから!」
響は名残惜しそうに手を見つめてから、一拍遅れて「うん、またな」と言った。
そして二人は車に乗って去った。暗い車内で、姉さんの笑顔だけが日に照らされていた。
午後十一時、二階の自宅に帰った後。
なんとなく点けたニュースは、太陽が落ちたかのように全域が燃え盛る穂麓町を映していた。
バルコニーに飛び出すと、森の向こうの空が灰色に濁っていた。
鍵とカーテンを閉め、テレビを消した。
一晩中、無機質なコール音を聞いていた。
「昨晩の穂麓町の火災について、ですが」
土砂降りの雨の中、訪ねてきた男が言った。多分、警察か消防の人だった。
何かを訊かれて、何かを答えた。神経がぼうっとして、まるで内側からドッペルゲンガーを観測しているようだった。
ここまで聞き込みに来るなんて、相当な火事だったんだな。ぼんやりと他人事のように考えていた。
「おい、帰るぞ」
心臓を殴るような大声が、神経を叩き起こした。別の男が、泥を跳ねさせながら走ってきた。
「はぁ? まだ情報は不十分だろ」
二人目が耳打ちをすると、一人目は舌打ちをした。
「……全く、何考えてんだか」
俺に挨拶をして、二人は去っていった。
鍵を閉め、階段へ向かう途中、素敵な景色の絵が視界に入った。御伽噺の一幕だろうか。あんな町、現実には存在しない。
帰ってすぐ、ベッドに倒れ込んだ。そのまま、どこまでも沈んでいきそうだった。
沈んでいく意識が火の海に溺れる。それは模造品であり、呑まれていく人々もそうだ。彼らの姿。彼らの叫び。彼らの最期。疑いようも無く偽物だけれど、見つめるうちに本物のように思えてくる。真っ赤な炎に食べられて、俺も炭になる。熱い。本当に熱い。顔が、右頬が妙に熱い。
「――あっつ!」
「おや、起きたね。おはよ」
白い狐のお面を着けた女が、俺の頬からカップを離した。口しか見えないが、それだけでもわかる程に心底愉悦の笑みを浮かべている。
「こ、
「私だけとはいえ、まだ客が居る中で居眠りはいかがなものか」
狐葉さんはカウンター席に座り直した。
「すみません。昨晩も眠れなくて」
「……お姉さん達のこと?」
「いえ。火事の原因について、考えてました」
「ああ、ニュースで言ってたね。原因不明って」
原因不明の大火は、両手で数えられる程度の人間しか逃さなかった。山の中腹から下を、すべて炭に変えてしまった。翌朝の豪雨にかき消されるまでの、たった数時間のことだった。
「どうしても納得できないんです。あの規模で、一日の調査だけで終了って、変ですよ」
「確かにね。それを君は、悲しみが霞むくらい、ずっとずっと考えてるわけだ」
俺は頷いた。
ぽっかり空いた虚は、その輪郭に触れて蹲る間も無く、濁ったもので満たされてしまった。大切なものを闇の中へと切り捨てられた怒り、だろうか。
「映像を見たところ、中腹から下へ向かって燃えてるんです。洋館とか、怪しいですよ。詳しく調べる必要があると思いませんか? それなのに――」
「でも私達は素人で、判断したのは専門家。気持ちはわかるけど、一般人の私達にはどうしようもないよ」
俺はカウンターの影で、拳を握り締めた。
「わかってます」
どれだけ喚いたって、結局俺は脳内で、渡された積み木を組み替えることしかできない。覆われたものを暴こうにも、常識に邪魔をされ、足を踏み出せない。
けれど、俺は一般人だ。膨張する気持ちを抑え、常識の中で大人しくしている。これが正しい姿。
「本当に?」
「え?」
「わかってないでしょ。お腹、真っ黒だよ」
思わず自分の腹を見てしまった。エプロンは茶色だし、服も肌も白い方だ。怪しげなお面のせいで、本当に見えているのではないかと思えてくる。
「それを爆発させたいなら、協力するよ」
狐葉さんは掌をくるっと返す真似をした。
「不要だし、不可能です。さっき自分でどうしようもない、って言ったじゃないですか」
「一般人であるなら、の話だよ。自分で勝手に調べれば良い。隠された真実が知りたいのなら、法律とか気にしてる場合じゃないよ」
楽しそうだが、自分が何を言っているのかわかっているのだろうか。ほぼ犯罪教唆だ。
「犯人に辿り着いたらどうする? 殺すの?」
「殺しませんよ。殺人じゃないですか」
濁りを表出させるわけにはいかない。
「……でも、一生許しません、あんな大火事を起こした悪い奴。きっと今も自分がやったことなんて忘れて、のうのうと生きてるんだ」
狐葉さんは何も言わずコーヒーに口をつけた。
「まあ、そもそも犯人が居るとは限りませんけどね」
「居るよ」
残り僅かなコーヒーに目線を向けながら言う。
「ちゃんと犯人が存在する火災。これ以外は言えないけど、確かな情報」
狐葉さんはこちらを向き、人差し指で口止めのポーズをした。
彼女は適当や冗談を言うし、たまに嘘をつく。だけど、誰かを騙したり傷つけたりすることは決して言わない。意外と空気が読める人なのだ。
だから、恐らくこれは本当だ。
だとすると、なぜ知っている。そもそも何者なんだ。膨らみすぎた疑問は、つい口から溢れた。
「あの、狐葉さんってどんな――」
「マスター」
お面の奥の黒い目が、針を刺した。不埒な好奇心に穴が空いて、萎んでいく。
「……あ、失礼しました」
この『新月喫茶店』の理念は、はぐれ者の居場所であること。それ故に客もマスターも深入りは厳禁なのだ。俺は結構深入りされている気はするが。
残りを飲んで、狐葉さんは息をついた。
「そのままじゃ、真実には辿り着けない」
低い声に乾いた笑顔。昂揚した心臓から冷たいものが巡る。
「おかわりくださいな」
白々しく微笑みながら差し出されたカップに、俺は大人しくコーヒーを注いだ。仄かに苦い香りが鼻の奥に広がる。心臓の音がお利口になるが、濁りの滲出は止まらない。
ベルが鳴った。冷気に呼ばれて顔を上げると、推定十代前半の少女が立っていた。伸び放題の髪と汚れたワンピースの破れた裾を揺らし、傷だらけの裸足を一歩踏み出した。
「温まらせてください」
少女は凍りついた無の表情で言った。細く白い腕で、手足の長い黒猫のぬいぐるみを抱き締める。その腹には、大きな線が走っている。まるで縫合された傷のような――
俺が呆気にとられている一瞬のうちに、狐葉さんは少女に上着をかけて、最奥の席に座らせていた。
「マスター」
「え、あ、ホットミルク作ります」
火にかけた鍋で牛乳を混ぜる。優しい白がくるくる回る。濁りがぐるぐる広がる。
あのぬいぐるみを知っている。あれは姉の親友だ。腹を横断する縫い目は、姉がカッターで切り裂いた後に泣きながら直した傷痕。
「顔、怖いよ」
カウンター出入り口の真横に狐葉さんがいた。危うく口から心臓、カップからミルクが飛び出るところだった。
「お面のが怖いですよ」
「可愛いの。怖いなら君の顔で中和して」
狐というより、山猫だ。
俺は笑顔を作ろうとして、目元と口角を歪めた。鏡を見るまでもなく駄目な感触がしたので、普段の顔で挑むことにした。
「ホットミルクです」
少女の前に置くと、彼女はカップと俺の顔に目線を行き来させた。怪しんでいる。格好から考えれば、当然だ。
「だいじょーぶ。お金ならお姉さんが払うから」
向かいの席に座る狐葉さんが明るい笑顔で言った。
「取りませんよ。こちら、冷めないうちにどうぞ」
少女は恐る恐るカップを運び、ふぅふぅと息を吹いて、一口飲んだ。彼女の表情が、ほんの少しだけ溶けたように見えた。
「俺は福路夜絃。この喫茶店のマスターです。それで、この人は――」
「狐葉。人間だよ」
人間ってなんだ。お面も相まって、余計に怪しくなった。少女も妙な目で狐葉さんを見ている。
「ここにあなたの敵は居ません。好きなだけ、温まっていってくださいね」
「ありがとう、ございます」
狐葉さんは、稀に見る真剣な表情で言う。
「詳しい事情は話さなくて良い。けど、これだけは答えて。警察は必要?」
「いっ、要りません。呼ばないで」
少女は勢い良く立ち上がって言った。俺達が驚いているのを見ると、目線を落とし、「すみません」と椅子を戻して座り直した。
「わかった。呼ばない。ねぇ、私もここに居て良いかな?」
少女は小さく頷いた。
「ありがと。あ、マスター、コーヒー持ってきて」
いつもの狐葉さんに戻った。だが、先程までの会話のせいで、その笑顔が少しだけ不気味に見えた。
俺は冷めかけたコーヒーをカウンターから運んで置いた。
すると、少女はぬいぐるみを抱き締め、意を決したように「あの」と口を開いた。
「わたしは、ヤヨイと言います」
少女は、確かにそう名乗った。
名前だけなら、偶然だと片付けられたかもしれない。だが、あのぬいぐるみがある以上、無関係だとは判断できない。
少女は続けて言う。
「ミミを、守ってください」
彼女は傷ついた黒猫のぬいぐるみを抱き締めた。