煤けた鏡   作:鳴桜ねむる

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第1話 潔白の仮面

 揺れる車窓に収まる穂麓町(ほろくちょう)は、まるで絵画のように綺麗だった。鮮やかな青空の手前には緑の山が置かれ、麓には色とりどりな屋根が並んでいた。中腹に建つ洋館には魔女が住んでいるという姉の空言にも胸を踊らせ、幼い俺は、思わず窓に向かって小さな手を伸ばした。

 

 大人になった俺は、その景色を手に取った。木の額縁に収められた水彩の町は、御伽噺のように可愛らしい。普段カウンターの横に飾ってあるためか、この喫茶店を訪れる人達の間で穂麓町は度々話題に上る。のどかで素敵な町。なぜか山の洋館に辿り着けないなんて話も聞いた。本当に魔女が住んでいるのかもしれない。

 

 せっかく隣町に建っているのに、間に森が挟まるせいで、ここからではあの景色を直接見られない。だから、絵で空想を膨らませる。

 

 すると、窓の外から「夜絃(よいと)ー!」と俺を呼ぶ無邪気な声がした。

 

 見れば、ぶかぶかのトレンチコートの袖を派手に揺らして手を振る小柄な女。姉の福路弥宵(ふくじ やよい)だ。

 

 その隣には、彼女を微笑んで見守りつつ、控えめに手を振る細身の男。俺の親友であり、姉の彼氏である緋室響(ひむろ きょう)

 

 俺は店の扉を開け、木漏れ日に照らされる二人のもとに駆け寄った。

 

「久しぶりだな、二人とも」

「店の準備中に、悪いな」

「いいよ、暇してたし。どうしたんだ?」

「その、ちょっと報告をね。それは?」

 

 指された右手には絵。持ったまま来てしまった。

 

「いつも飾ってあるやつか」

「うん。爺ちゃんが描いた穂麓町。綺麗だから、見てた」

 

 姉さんは目を輝かせた。

 

「わたしにも見せて」

 

 姉さんは俺から絵を受け取ると、くるりと俺の方に向けた。

 

「なんと、この町に住むことになりましたー!」

 

 穂麓町は響が住んでいる町だ。恋仲の二人で報告に来ているということは、つまり。

 

「同棲?」

 

 二人揃って、眩しい笑顔で頷いた。

 

 確かに、どっちも即行動派だ。付き合って一ヶ月で同棲を始めることに違和感は無い。ただ、不安はある。

 

 昔から姉さんは感情の起伏が激しく、感情を制御できず人や物に当たることもしばしばあった。一方で、響は何があっても動じない。大学で酷い噂を流布された時も、学食で平然と大盛り牛丼を平らげていた。

 

 正反対な性質の二人。衝突しないと良いのだが。

 

 胸の奥に淀みは残るが、二人とも俺の大好きな人。その笑顔を崩すような真似はしたくない。

 

「なるほど。じゃあ、お祝いにコーヒーご馳走するよ」

 

 姉さんは俺に絵を返すと、苦笑いをした。

 

「ごめん。今から荷物片付けなきゃで、ゆっくりしてる時間無いの」

「気持ちだけ受け取る」

「そうか。忙しいとこ来てくれてありがとう。お幸せにね」

「まだ結婚はしてない。そのうちするけど」

 

 自分で言って、響は耳まで赤くした。照れている響は初めて見た。どこでプロポーズ一歩手前をしているんだ、こいつは。

 

「響くん! 嬉しい、絶対一生守るからね!」

 

 子犬みたいに姉さんが飛びつくと、響はその頭を慈しむように撫でた。

 

「僕もだよ、弥宵」

 

 相当懐いている。幸せそうな二人を見ていると、心が温まる。

 

 ひとしきり響を堪能して満足したのか、姉さんはぱっと離れて俺に言う。

 

「隣町だし、また遊びに来るから!」

 

 響は名残惜しそうに手を見つめてから、一拍遅れて「うん、またな」と言った。

 

 そして二人は車に乗って去った。暗い車内で、姉さんの笑顔だけが日に照らされていた。

 

 午後十一時、二階の自宅に帰った後。

 

 なんとなく点けたニュースは、太陽が落ちたかのように全域が燃え盛る穂麓町を映していた。

 

 バルコニーに飛び出すと、森の向こうの空が灰色に濁っていた。

 

 鍵とカーテンを閉め、テレビを消した。

 

 一晩中、無機質なコール音を聞いていた。

 

 

 

「昨晩の穂麓町の火災について、ですが」

 

 土砂降りの雨の中、訪ねてきた男が言った。多分、警察か消防の人だった。

 

 何かを訊かれて、何かを答えた。神経がぼうっとして、まるで内側からドッペルゲンガーを観測しているようだった。

 

 ここまで聞き込みに来るなんて、相当な火事だったんだな。ぼんやりと他人事のように考えていた。

 

「おい、帰るぞ」

 

 心臓を殴るような大声が、神経を叩き起こした。別の男が、泥を跳ねさせながら走ってきた。

 

「はぁ? まだ情報は不十分だろ」

 

 二人目が耳打ちをすると、一人目は舌打ちをした。

 

「……全く、何考えてんだか」

 

 俺に挨拶をして、二人は去っていった。

 

 鍵を閉め、階段へ向かう途中、素敵な景色の絵が視界に入った。御伽噺の一幕だろうか。あんな町、現実には存在しない。

 

 帰ってすぐ、ベッドに倒れ込んだ。そのまま、どこまでも沈んでいきそうだった。

 

 

 

 沈んでいく意識が火の海に溺れる。それは模造品であり、呑まれていく人々もそうだ。彼らの姿。彼らの叫び。彼らの最期。疑いようも無く偽物だけれど、見つめるうちに本物のように思えてくる。真っ赤な炎に食べられて、俺も炭になる。熱い。本当に熱い。顔が、右頬が妙に熱い。

 

「――あっつ!」

「おや、起きたね。おはよ」

 

 白い狐のお面を着けた女が、俺の頬からカップを離した。口しか見えないが、それだけでもわかる程に心底愉悦の笑みを浮かべている。

 

「こ、狐葉(このは)さん」

「私だけとはいえ、まだ客が居る中で居眠りはいかがなものか」

 

 狐葉さんはカウンター席に座り直した。

 

「すみません。昨晩も眠れなくて」

「……お姉さん達のこと?」

「いえ。火事の原因について、考えてました」

「ああ、ニュースで言ってたね。原因不明って」

 

 原因不明の大火は、両手で数えられる程度の人間しか逃さなかった。山の中腹から下を、すべて炭に変えてしまった。翌朝の豪雨にかき消されるまでの、たった数時間のことだった。

 

「どうしても納得できないんです。あの規模で、一日の調査だけで終了って、変ですよ」

「確かにね。それを君は、悲しみが霞むくらい、ずっとずっと考えてるわけだ」

 

 俺は頷いた。

 

 ぽっかり空いた虚は、その輪郭に触れて蹲る間も無く、濁ったもので満たされてしまった。大切なものを闇の中へと切り捨てられた怒り、だろうか。

 

「映像を見たところ、中腹から下へ向かって燃えてるんです。洋館とか、怪しいですよ。詳しく調べる必要があると思いませんか? それなのに――」

「でも私達は素人で、判断したのは専門家。気持ちはわかるけど、一般人の私達にはどうしようもないよ」

 

 俺はカウンターの影で、拳を握り締めた。

 

「わかってます」

 

 どれだけ喚いたって、結局俺は脳内で、渡された積み木を組み替えることしかできない。覆われたものを暴こうにも、常識に邪魔をされ、足を踏み出せない。

 

 けれど、俺は一般人だ。膨張する気持ちを抑え、常識の中で大人しくしている。これが正しい姿。

 

「本当に?」

「え?」

「わかってないでしょ。お腹、真っ黒だよ」

 

 思わず自分の腹を見てしまった。エプロンは茶色だし、服も肌も白い方だ。怪しげなお面のせいで、本当に見えているのではないかと思えてくる。

 

「それを爆発させたいなら、協力するよ」

 

 狐葉さんは掌をくるっと返す真似をした。

 

「不要だし、不可能です。さっき自分でどうしようもない、って言ったじゃないですか」

「一般人であるなら、の話だよ。自分で勝手に調べれば良い。隠された真実が知りたいのなら、法律とか気にしてる場合じゃないよ」

 

 楽しそうだが、自分が何を言っているのかわかっているのだろうか。ほぼ犯罪教唆だ。

 

「犯人に辿り着いたらどうする? 殺すの?」

「殺しませんよ。殺人じゃないですか」

 

 濁りを表出させるわけにはいかない。

 

「……でも、一生許しません、あんな大火事を起こした悪い奴。きっと今も自分がやったことなんて忘れて、のうのうと生きてるんだ」

 

 狐葉さんは何も言わずコーヒーに口をつけた。

 

「まあ、そもそも犯人が居るとは限りませんけどね」

「居るよ」

 

 残り僅かなコーヒーに目線を向けながら言う。

 

「ちゃんと犯人が存在する火災。これ以外は言えないけど、確かな情報」

 

 狐葉さんはこちらを向き、人差し指で口止めのポーズをした。

 

 彼女は適当や冗談を言うし、たまに嘘をつく。だけど、誰かを騙したり傷つけたりすることは決して言わない。意外と空気が読める人なのだ。

 

 だから、恐らくこれは本当だ。

 

 だとすると、なぜ知っている。そもそも何者なんだ。膨らみすぎた疑問は、つい口から溢れた。

 

「あの、狐葉さんってどんな――」

「マスター」

 

 お面の奥の黒い目が、針を刺した。不埒な好奇心に穴が空いて、萎んでいく。

 

「……あ、失礼しました」

 

 この『新月喫茶店』の理念は、はぐれ者の居場所であること。それ故に客もマスターも深入りは厳禁なのだ。俺は結構深入りされている気はするが。

 

 残りを飲んで、狐葉さんは息をついた。

 

「そのままじゃ、真実には辿り着けない」

 

 低い声に乾いた笑顔。昂揚した心臓から冷たいものが巡る。

 

「おかわりくださいな」

 

 白々しく微笑みながら差し出されたカップに、俺は大人しくコーヒーを注いだ。仄かに苦い香りが鼻の奥に広がる。心臓の音がお利口になるが、濁りの滲出は止まらない。

 

 ベルが鳴った。冷気に呼ばれて顔を上げると、推定十代前半の少女が立っていた。伸び放題の髪と汚れたワンピースの破れた裾を揺らし、傷だらけの裸足を一歩踏み出した。

 

「温まらせてください」

 

 少女は凍りついた無の表情で言った。細く白い腕で、手足の長い黒猫のぬいぐるみを抱き締める。その腹には、大きな線が走っている。まるで縫合された傷のような――

 

 俺が呆気にとられている一瞬のうちに、狐葉さんは少女に上着をかけて、最奥の席に座らせていた。

 

「マスター」

「え、あ、ホットミルク作ります」

 

 火にかけた鍋で牛乳を混ぜる。優しい白がくるくる回る。濁りがぐるぐる広がる。

 

 あのぬいぐるみを知っている。あれは姉の親友だ。腹を横断する縫い目は、姉がカッターで切り裂いた後に泣きながら直した傷痕。

 

「顔、怖いよ」

 

 カウンター出入り口の真横に狐葉さんがいた。危うく口から心臓、カップからミルクが飛び出るところだった。

 

「お面のが怖いですよ」

「可愛いの。怖いなら君の顔で中和して」

 

 狐というより、山猫だ。

 

 俺は笑顔を作ろうとして、目元と口角を歪めた。鏡を見るまでもなく駄目な感触がしたので、普段の顔で挑むことにした。

 

「ホットミルクです」

 

 少女の前に置くと、彼女はカップと俺の顔に目線を行き来させた。怪しんでいる。格好から考えれば、当然だ。

 

「だいじょーぶ。お金ならお姉さんが払うから」

 

 向かいの席に座る狐葉さんが明るい笑顔で言った。

 

「取りませんよ。こちら、冷めないうちにどうぞ」

 

 少女は恐る恐るカップを運び、ふぅふぅと息を吹いて、一口飲んだ。彼女の表情が、ほんの少しだけ溶けたように見えた。

 

「俺は福路夜絃。この喫茶店のマスターです。それで、この人は――」

「狐葉。人間だよ」

 

 人間ってなんだ。お面も相まって、余計に怪しくなった。少女も妙な目で狐葉さんを見ている。

 

「ここにあなたの敵は居ません。好きなだけ、温まっていってくださいね」

「ありがとう、ございます」

 

 狐葉さんは、稀に見る真剣な表情で言う。

 

「詳しい事情は話さなくて良い。けど、これだけは答えて。警察は必要?」

「いっ、要りません。呼ばないで」

 

 少女は勢い良く立ち上がって言った。俺達が驚いているのを見ると、目線を落とし、「すみません」と椅子を戻して座り直した。

 

「わかった。呼ばない。ねぇ、私もここに居て良いかな?」

 

 少女は小さく頷いた。

 

「ありがと。あ、マスター、コーヒー持ってきて」

 

 いつもの狐葉さんに戻った。だが、先程までの会話のせいで、その笑顔が少しだけ不気味に見えた。

 

 俺は冷めかけたコーヒーをカウンターから運んで置いた。

 

 すると、少女はぬいぐるみを抱き締め、意を決したように「あの」と口を開いた。

 

「わたしは、ヤヨイと言います」

 

 少女は、確かにそう名乗った。

 

 名前だけなら、偶然だと片付けられたかもしれない。だが、あのぬいぐるみがある以上、無関係だとは判断できない。

 

 少女は続けて言う。

 

「ミミを、守ってください」

 

 彼女は傷ついた黒猫のぬいぐるみを抱き締めた。

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